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オークショット「保守的であるということ」(5)保守の真骨頂

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もし人間の抱く選好の中に保守的な要素が多く含まれていなかったならば、間違いなく人間の環境は現在のそれとは非常に異なったものとなっていたであろう。未開の諸民族は変化を嫌い、慣れ親しんだものを手放さないと言われているし、古代の神話は変革を行うことに対する警告に満ちている。我々の生き方に関する民間伝承や諺の名句にも、保守的な格言が多い。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 205) というのがオークショットの見立てであるが、私も同様の印象を持つ。勿論、革新派は、そんなことはない、そうとは言い切れないと言うだろう。が、急進的変革は変革による新たな問題を招来するだろうし、変革熱が冷めれば、結局元の鞘に収まるということに成り勝ちだ。 我々は、大きな変革が行われているのでない限り、何も重大な事は生じていないのだと考えがちであり、また、進歩の過程にないものは後退しているに相違ないと考えがちである。我々は、まだ試みられたことのないものを良いものと思い込んでいる。我々は、変化とはすべて何かしら良い方向へのものだ、と信じてしまいやすいし、我々が変革を行ったために生じた帰結はすべて、それ自体が進歩となっているか、あるいは少なくとも我々の望んだものを手に入れるために支払わねばならないだけの適切な代価なのだ、とあっさり納得してしまう。(同、 p. 206 ) 《難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易より作り、天下の大事は、必ず細より作る》 (困難な仕事は容易なうちに手をつけ、大きな仕事は小さなうちに片づけてゆく。世のなかの難事は、いつでも容易なところから生じ、世のなかの大事は、いつでも些細なところから起こる》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第63章)  事が大事となって、大きな変革が必要となる前、小事のうちに芽を摘んでおく。これが保守の真骨頂なのである。  進歩主義者は、変化は進歩と考える。変化には退歩も有り得るなどという考え方には与(くみ)しない。変化が急過ぎたり、大き過ぎて混乱が生じたとしても、それは進歩に向けての必要経費だと考える。実に、勝手である。 我々は貪欲と言ってもよいほど欲張りであり、未来という鏡の中に拡大されて映っている骨が欲しくて、今くわえている骨を落としてしまいがちである。(同、 p. 207 ) ...