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ハイエク『隷属への道』(53)【最終回】「国際連邦」が必要だ

国際的な権力を創設する上で障害になっているのは、国際的な権力は、現代の国家が保持している、事実上無制限な権力のすべてを掌握する必要があるという考え方である。しかし、連邦制度のもとでは権力が分割されるから、この種の無制限な国際的権力はまったく必要ない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 322)  連邦制であれば、権力が分散される。したがって、国際機関を創る際は、ハイエクの言うように連邦制を採用すべきであった。が、実際は、 United Nations (連合国)という名の戦勝国が世界を牛耳る権力体が創られ現在に至っている。 民衆一般や将来の指導者たちのために、政治的訓練をしてくれる学校を提供するのが地方自治である。この地方自治という偉大な手段に依存せずに、民主主義がうまく運用されたためしはどこにもない。(同、 p. 324 )  このことはジェームズ・ブライスの言葉として有名である。 it is enough to observe that the countries in which democratic government has most attracted the interest of the people and drawn talent from their ranks have been Switzerland and the United States, especially those northern and western States in which rural local government has been most developed. These examples justify the maxim that the best school of democracy, and the best guarantee for its success, is the practice of local self-government. Viscount James Bryce, Modern Democracies , vol. 1: CHAPTER XII: local self-government (民主政治が最も人々の関心を集め、その中から才能ある人材を引き出してきたのは、スイスと合衆国、...

ハイエク『隷属への道』(52) UNは国際連合に非(あら)ず

国際的な当局というものは、諸国民が自らの生活を発展させていけるような、秩序の維持と環境条件の創設をなすのみにとどまるならば、正義にもとることもなく、経済の繁栄に大きく貢献するものとなろう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 314)  <国際的な当局>と言えば、ほとんどの日本人が「国際連合」を思い浮かべるに違いない。が、「国際連合」は日本語における誤訳であって、実態は第2次大戦の戦勝国連合でしかない。だから名前もThe United Nations(UN)となっているのである。UNが戦勝国連合である証拠は、常任理事国が米英仏露中の5カ国(P5)で構成されており、「拒否権」という特権を独占していることからも分かる。したがって、公正な国際機関を創るためには、現UNを一旦解散することが必要となるのではないかと思われる。戦後日本には、しばしば国連至上主義のような幻想が見られるが、実態をよく見極めることが必要であろう。 われわれが必要とし、またその実現が可能だと希望を持つこともできるのは、経済的利害関係を抑制できる能力を持ち、自らは各国間の経済的ゲームに巻き込まれていないので、各国間に経済的な利害の衝突が起きればこれを真に公平に裁定できる能力を持っていて、しかも各国より強力な政治的権力である。 ここで必要とされているのは、各国の国民に対して何をなすべきかを命じることのできる権力は持っていないが、ある国の国民が他国の国民に被害を与える行為をしないように抑制できる権力は持っていなければならない、1つの国際的な政治当局である。このような国際的当局へ譲渡しなければならない権力は、近来、諸国の政府によって行使されてきた新しい種類の権力ではなくて、平和な国際関係を維持するために絶対不可欠な最低限の権力、すなわち本質的にみて、極端に自由主義的な「自由放任」国家が持っている権力と同じものである。 そして、一国の分野においてよりもさらにいっそう不可欠だとさえ言わなければならないことは、国際的当局が持つことになるこれらの諸権力が、「法の支配」によって巌格に制限されなければならない、という点である。(同、 p. 320 )  UNはP5の恣意的統治下に置かれてしまっている。だからUNは解散し、「法の支配」下に置かれた新たな国際機関を創設する必要があるのである。  厳...

ハイエク『隷属への道』(51) 集産主義国は国際社会の不穏分子

様々な国がそれぞれの国家的規模によって独自に行なう多様な経済計画化は、それらが複合された時の結果から見ると、純粋に経済的な観点から見ても、有害なものとならざるをえず、しかもそれに加えて、深刻な国際的摩擦を発生させざるをえないということである。 今さらとりたてて強調するまでもないが、それぞれの国が、自国の直接的な利益にとって望ましいと思われる政策なら、他の国にどんな被害を与えようが、何であれ実行してもかまわないということになれば、国際的秩序や持続的な平和が達成される望みはほとんどなくなってしまうことは明らかだ。 だが、多くの種類の経済計画化は、計画当局がうまく外からの影響というものを遮断できた時に、初めて実現可能なものであることもまた言うまでもない。したがって、そういった計画化が行なわれていけば、国境を越えた人や物の移動がますます制限されるようになってしまうことは必然なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 pp. 304-305 )  統制経済が成立するためには、対外的な経済関係を絶ち自国内のみで行うか、周辺国も巻き込んで統制経済化するしかない。  より潜在的ではあるが、現実性が少ないわけではない国際平和への危険が存在する。それは、たとえばある国で国民全員を経済的に平準化するような政策が行なわれたり、国家規模での計画化により利益が衝突するいくつかの経済ブロックが作られたりすることによって、生まれてくるものである。前者の点に関して見れば、国境を明確な境として人々の生活水準がはっきりと異なってしまったり、ある国の国民となることで他の国民となった場合とはまったく異なる富の配分を得られるというようなことは、必要なことでも、望ましいことでもない。後者に関して言えば、ある国の資源が全部その国の独占的所有とされ、国際的な経済交流は個人間の流通でなく国家を交易主体とした流通へと統制されていくようになれば、それは必ず国家間の摩擦や他の国への羨望を引き起こす原因となる。(同、 p. 305 )  集産主義国は排他的であるので、他国と同じ決まりで経済交流を図ることは基本的に無理である。つまり、 集産主義国は、 国際社会にとっての「不穏分子」 でしかないということである。 力に訴えることなく解決できる諸個人間の競合関係であったものを、上位の法に従う...

ハイエク『隷属への道』(50) 自由主義社会における美徳の衰退

こうした(=集産主義)体制のもとでは、時折民衆の代表を選ぶための選挙が実施されても、各候補を道徳的基準に従って選出することは、ますます少なくなっていく傾向がある。選挙はもはや、各候補者にとって、道徳が試される機会でもなければ、自分の道徳体系がどんなものかを選挙民に絶え間なく繰り返し説明したり、高い価値のために低い価値を進んで犠牲にすることで自己の政治信条がどれだけ真剣なものであるかを証明したりしなければならない機会でも、なくなってしまっている(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 292)  集産主義では、自由主義のような<選挙>は意味をなさない。判断の自由がない個人の意見を集めても無意味だからである。自由主義の指示命令系統は、「上意下達」と「下意上達」の二方向であるのに対し、集産主義には「上意下達」の一方向しかない。下位の者から意見を汲み上げる手段の1つが<選挙>というものであろうが、集産主義ではこのような方式は機能しない。  選挙は、選挙人および被選挙人の両者が人格を磨く場である。被選挙人つまり候補者は、自らの思想信条を明らかにし、投票を呼び掛ける。政治が扱う事項は複雑多岐に渡り、1つひとつの問題の賛否を聞いても仕方ない。問われるのは、候補者の道徳観である。  様々な行動規範というものは諸個人によって生み出され、進化させられてくるものであり、それこそが、社会集団の政治的行動がどのような道徳的基準を持つかを決定していく(同)  集団の規範は、過去からの慣習や慣例に負うところが大きい。これらも先人たち個人によって生み出され、進化させられてくるものの積み重ねと言えるだろう。懸念されるのは、 個人の自主独立性や自立の精神、あるいは個人的なイニシアティヴやそれぞれの地域社会への責任感、様々な問題をうまく解決しうる個人の自発的な活動に対する信頼、隣人に対する不干渉、普通と異なっていたり風変わりな人々に対する寛容、習慣や伝統に対する尊敬、権力や政府当局への健全な猜疑心(同、 pp. 295-296 ) といった自由主義社会の「美徳」が集産主義の広まりと共に薄れつつあることである。 ☆ ☆ ☆ Of all checks on democracy, federalism has been the most efficacious an...

ハイエク『隷属への道』(49) 自由社会と道徳

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 物的な諸条件が人々に対してなんらかの選択を余儀なくさせるような分野で、人々が自分の行動を秩序立てていける自由が存在していること、そして、人々は、自らの良心に従って自分自身の生活を整えることに対する責任を保有していること。これこそ、道徳的感覚が発達していくことのできる唯一の環境であり、このような環境のもとで、それぞれの個人が自由な決定を下していくことによって、道徳的観念が日々新たにされていく。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 290-291)  <自由>と<責任>は表裏一体のものである。<責任>あればこそ自制心も生まれる。そして<自由>と<自制>の葛藤の中で人は磨かれ、道徳心を涵養していくのである。 自分より上位の人に対してでなく、自分自身の良心に対して責任を負うこと、強制されるからではなくて、自発的に行なうべき自分の義務を自覚していること、自分が貴重だと考えている様々な事柄のうち、どれを犠牲にするかを決定しなければならないという必要性、自分の下した決定の結果がどのようであっても、それに対して自分で責任を持つこと、といったことが、道徳という名前にふさわしい事柄のまさに本質なのである。(同、 p. 291 )  何かを選択するということは、それ以外の選択肢を捨てるということである。何かを選ぶとは何かを犠牲にすることによって成り立っている。だから<責任>がある。 本来の道徳は、各人が自分自身でこれが正しいと考えることは、たとえ自分の欲望を犠牲にしてもこれを行ない、また、たとえそのような行動を敵視する世論が存在していても、敢然として断行する用意があることを要求する。(同、 p. 292 )  「正義」や「勇気」といった道徳心は、時として<自己犠牲>を求めることもある。危険を顧みず難題に立ち向かう態度は称賛に値する。  個人の自主独立や自助、個人の責任で進んで危険を冒していく意志、そして、世間の大半の人々の意見と異なっていても自分の信念を貫き通す用意とか、隣人たちと自発的に喜んで協力していく意欲などといった美徳(同) これらは成熟した社会にこそ見られる「徳目」である。 《徳はわれわれのうちに生まれる善への傾向とは別のもので、それよりも高尚なものであるように思われる。生れつき正しく気高い心の人は、有徳の人と同じ道を行き、その...

ハイエク『隷属への道』(48) 選択の自由と道徳

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道徳は必然的に個人的な行動にかかわる現象である…各個人が自分自身で決定する自由を持っていて、しかも道徳的な規範を遵守(じゅんしゅ)するため、個人的な利益を自発的に犠牲にすることを求められる分野においてだけ、道徳は存在できる(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 290)  個人の側に選択の余地があり、どれを選択するのかについての自由があればこそ「道徳」は存在する。逆に言えば、個人に選択権のない全体主義社会には、そもそも「道徳」なるものは存在しない。 個人の責任が問われないところでは、善も悪もなく、道徳的真価を試される機会も、正しいと思うことのために欲望を犠牲にすることで自らの信念を証(あか)すチャンスもない。人々が自分の利益に責任を持っていて、それを犠牲にする自由があるところにおいてだけ、人々が下す決定は道徳上の価値を持つことができるのである。(同)  全体主義社会では、個人に自由はなく、したがって、責任もない。自由がないから責任もないという意味で全体主義は平等社会なのである。 われわれは、自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることなど許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的にふるまったからといって、どんな価値があるものでもない。また、善行を行なうようにあらゆる面で強制されている社会の人々は、称讃されるべきどんな資格も持っていない。(同)  <博愛>には、どこか胡散(うさん)臭いところがある。 Philanthropist , n. a rich (and usually bald) old gentleman who has trained himself to grin while his conscience is picking his pocket. – Ambrose Bierce, The Enlarged Devil’s Dictionary ( 博愛主義者、慈善家 (名詞)自らの良心がスリを働いている間、ニヤニヤする訓練を積んできた金持ちの(そして大抵はハゲた)老紳士)―A・ビアス『悪魔の辞典』  自由社会では、自由と自制の平衡を如何に保つのかが人として問われるのに対し、統制社会には自由がないから、自制する必要もない。唯(ただ)、上からの支持に従うだけである。自由社会には、自制...

ハイエク『隷属への道』(47) 反「労働の再分配」

短期的に見れば、「可能な最大限の雇用」というものは、すべての人々に対して臨時的であれ雇用を与えたり、貨幣供給の拡大を行なうことによって、いつでも作り出すことができるだろう。だが、このような最大限の雇用は、累進的に加速されていくインフレ的な拡大政策によってだけ可能になるものでしかなく、それがもたらす結果といえば、諸条件が変化していくことによって必要とされるようになる、諸産業間における労働の再分配を妨害することである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 285 )  ケインズ理論は、不況となって失業者が増加するのは偏(ひとえ)に国内の需要が不足しているからだとして、政府が公共投資を行うことを求めるわけであるが、ハイエクは、このような施策は労働市場の自由を損なうものだと言うのである。 しかも、実のところは、このような再分配は、働く人々が自由に自分たちの仕事を選択することができるかぎり、ある程度の時間の遅れののちに(したがってその間にある程度の失業は生じさせるものの)、必ず達成することのできる種類の再分配なのである。(同)  一時的に失業者が増えたとしても、少し経てば失業者はまた新たな職業に就くわけだから、政府が焦って就職を斡旋(あっせん)するには及ばないということである。 それゆえ、金融政策という手段によって最大限の雇用の達成を常に図ろうとすることは、究極的には「完全雇用」という目的それ自体や、これにかかわる他の諸目的の達成を、確実に不可能とさせてしまう政策でしかない。しかもこの政策は、労働の生産性を低下させていく傾向を持っており、その結果、つじつま合わせ的な政策手段を採用しないかぎり、現在の賃金水準において雇用され続けることができる労働人口の比率は、常に減少していくのである。(同)  失業者を減らすために「公共投資」を行い続ければ、それが既得権益化してしまうだろう。詰まり、一旦「公共投資」をやり始めれば、止(や)められなくなってしまう。よって、この「先行投資」は永遠に回収されなくなってしまい、借金だけが積み上がるという構図になる。 重要なことは、貧困の問題を経済成長によってではなく、「所得の再分配」という近視眼的な方法によって解決しようとして、様々な階級の手取り所得を広汎に減少させてしまい、その結果として、それらの人々を既存の政...

ハイエク『隷属への道』(46) 対ケインズ

個人的自由と、単一の目的が至高のものとされ、社会全体が完全にそして恒久的にそれに従属させられねばならないということとは、両立できない…自由な社会はどんな単一の目的に対しても従属させられることがあってはならない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 281)  「個人的自由」か「社会的統制」かは二者択一のものであって、政治がこの 2 項の間にある平衡点を探るというようなものではない。 この規範の唯一の例外は戦争であり、またその他の一時的な災害だけである。こうした事態のもとでは、緊急で直接的な必要に対して、ほとんどすべてのことが従属させられなければならないが、これは、長期的な観点で自由を維持し続けるために、われわれが支払わなければならない代償である。(同)  戦時下や災害などで一時的に自由を放棄しなければならない状態に追い込まれることもある。戦前の日本が軍国主義体制となったのがこれに当たるし、東日本大震災後、自由が制限されたことも思い起こされるところである。  平和の時代には、単一の目的が、他のすべての目的に対して絶対的に優先される立場に立つようなことは、決して許されるべきではない。このことは、失業の克服という、いまや最も重要な地位を占める問題になったとすべての人々が意見の一致をみているテーマに関してさえ当てはまる。(同、 p. 282 )  この発言は、政府が積極的に市場に介入し失業対策を行うべきだとするケインズ理論を念頭に置いてのものだろう。 Unemployment develops, that is to say, because people want the moon; -- men cannot be employed when the object of desire (i.e. money) is something which cannot be produced and the demand for which cannot be readily choked off. There is no remedy but to persuade the public that green cheese is practically the same thing and to have a green cheese f...

ハイエク『隷属への道』(45) 合理主義を語る傲慢

自分たちには理解できない諸力や、誰か知的な人の意図的な決定に基づいていると認められない諸力に対して、身を任せるのを拒否するという態度は、不完全で、したがって誤った合理主義の産物である。なぜ不完全かといえば、複雑な社会で様々な個人的な努力を相互に調整させていくためには、どんな個人であっても完全には調べ上げることのできない多くの事実の存在を考慮に入れなくてはならないのに、その点をこの合理主義は理解できずにいるからである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 280)  <誤った合理主義の産物>と言うよりも、合理主義を語る傲慢とでも呼ぶべきものであろう。自分が歴史の高みに立っているかのごとくに思い込み、慣習や道徳といった過去からの流れに逆らうのである。 われわれの複雑な社会が崩壊してしまわないようにするためには、2つの道しかなく、1つは、市場における個人を超えた非人格的な、非合理にさえ思われる諸力に身を任せる道で、もう1つの道は、これと等しく人々にとっては制御不可能で、したがって悪意的なものにすぎない権力を、他の人々が振るうことに対して身を任せる道でしかない、ということである。現代の人々は、うんざりするほどの様々な制約からなんとかして逃れたいと熱望しているために、これに代えてもう1つの道を選んだ場合、計画的に自分たちに課される新しい権威主義的な諸制約が、実はもっと苦痛の多いものにさえなるであろうことに、気づくことができないでいる。(同)  現在の軛(くびき)が無くなれば自由になれると考えるのは大間違いである。自由主義社会であれ、社会主義社会であれ、どのような社会であっても「拘束」は無くならない。全体主義社会なら全体主義社会なりの不自由さがあるということである。それどころか、かつてのソ連邦や今のシナを見ても分かるように、自由主義社会以上の抑圧が待ち受けているだろうことは想像に難くないのである。  自然の諸力に対する支配の方法については、人類は驚くべき高い程度にまで学び取ったというのに、社会的な相互の共同の可能性を活用するという面では、悲しいことに立ち後れていると主張している人々は、この主張それ自体に関する限りではまったく正しい。だが、この2つの事柄の問における対比をさらにいっそう進めて、人類が自然の諸力を支配することを学び取ったのと同じやり方で...

ハイエク『隷属への道』(44) 個人を超えた非人格的な力

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 過去において文明の発展が可能になったのは、市場における「個人を超えた非人格的な諸力」に、人々が身を任せてきたからであり、このことなしに、今日のような高度な文明が発展することは決してありえなかった。言い換えると、われわれの中の誰一人として十分に理解することができないより偉大な何事かを築き上げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、という考え方を人々が受け入れてきたからこそ、このように偉大な文明も初めて可能となったのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 279)  T・S・エリオットも同様の指摘をする。 《詩人は過去についての意識を展開しもしくは把握したうえ、生涯を通じてこの意識を絶えずひろげてゆかねばならない…このようにして詩人は現在あるがままの自己を自分より価値の高いものにいつもまかせきってゆくことが可能になるのだ。芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしてゆくこと、絶えず個性を滅却してゆくことである》(「伝統と個人の才能」:『文芸批評論』(岩波文庫)矢本貞幹訳、 p. 13 ) 過去の人々がそのような考えを受け入れてきたのは、一部の人が今日では迷信とみなしているなんらかの信仰が基礎となっているのか、それとも宗教的な謙遜の精神によるものか、あるいは初期の経済学者たちによる原始的な教えを過大に尊敬したからであったのか、というようなことはここでは問うまい。決定的に大切なことは、細かい働きが誰にも理解できないような諸力に身を任せなければならないということを、合理的に理解することはきわめて困難だということである。それよりはむしろ宗教や経済的教義への尊敬から生まれる、謙虚な畏敬の念に従うことはずっとたやすいものである。(ハイエク、同)  社会の流れに棹差せば助力が得られるのに対し、合理的でないからと社会の流れに逆らえば、「労多くして功少なし」という結果に終わってしまうだろう。  必然性が理解できないようなことが多くあるということこそ、文明の基本的性質なのである。もしも、誰もがすべての必然性を知的に理解しなければならないのであれば、現代の複雑な文明を少なくとも維持していくには、現在いかなる人が持っているよりとてつもなく大きな知性が、すべての人に与えられなければならないだろう。(同、 pp. 279-280 )  <必然性>を理...

ハイエク『隷属への道』(43) 自由主義と社会主義の二者択一

Is it just or reasonable, that most voices against the main end of government should enslave the less number that would be free? more just it is, doubtless, if it come to force, that a less number compel a greater to retain, which can be no wrong to them, their liberty, than that a greater number, for the pleasure of their baseness, compel a less most injuriously to be their fellow-slaves. They who seek nothing but their own just liberty, have always right to win it and to keep it, whenever they have power, be the voices never so numerous that oppose it. -- JOHN MILTON, The Ready and Easy Way to Establish a Free Commonwealth (政府の主要な目的に反対する大部分の声が、自由であるはずの少数派を隷属させることは、正当なのだろうか。強制することになるとしたら、少数派が、多数派に彼らの自由を、何の間違いでもないかもしれないが、保持することを強制することの方が、多数派が、自分たちの卑しさの喜びのために、少数派に最も不当なやり方で自分たちの仲間の奴隷になることを強制することよりも、疑いなく公正である。自分自身の正当な自由しか求めない人々には、それに反対する声が決して多くはなくとも、権力を持つときはいつでも、それを獲得し維持する権利がある)―― ジョン・ミルトン ★ ★ ★ 市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序を選ぶか、それとも少数の個人たちの意志によって支配される道を選ぶか、この二者択一以外のどのような可能性もわれわれ...

ハイエク『隷属への道』(42) シュンペーター「新結合」

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独占がわれわれにとって危険なものとなってきたのは、少数の利益団体としての資本家たちの努力によってではなく、彼らが独占利潤の分け前を与えることで他の人々から獲得してきた支持や、独占を後援することがより正義にかない秩序立った社会を創り出すのを助けるのだと説得された人々の支持を通じて、独占が強化されてきたという事情による(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 271)  「大き過ぎて潰せない」( too big to fail )などと言って政府が市場介入するようなことがあれば、市場から退場すべき斜陽産業が温存されかねず、市場の新陳代謝を阻害することにもなりかねない。  経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは「新結合」という言葉を用いて市場の新陳代謝について説明した。 《新結合の遂行者が、この新結合によって凌駕排除される旧い慣行的結合において商品の生産過程や商業過程を支配していた人々と同一人である場合もありうるけれども、しかしそれは事物の本質に属するものではない。むしろ、新結合、とくにそれを具現する企業や生産工場などは、その観念からいってもまた原則からいっても、単に旧いものにとって代わるのではなく、一応これと並んで現れるのである。なぜなら旧いものは概して自分自身の中から新しい大躍進をおこなう力をもたないからである》(シュンペーター『経済発展の理論(上)』(岩波文庫)、 pp.183-184 ]  詰まり、 《通常新しいものは旧いものの中から発生するのではなく、むしろ旧いものと並んで登場し、これを.打ち負かし、あらゆる関係を変化させ、その結果、ひとつの特殊な「秩序化の過程」が必要になる》(シュンペーター『経済発展の理論(下)』(岩波文庫)、 p. 192 ) のである。 最近の独占の成長は、組織化された資本と組織化された労働との間における、意図的な共同の結果である面が大きい。そしてこのような共同のもとで、労働の側に属する特権的な各種のグループが、独占企業の利潤を企業側と分かち合うことによって、われわれの共同体一般を犠牲にしてきたのであり、その中でもとりわけ最貧困な人々、すなわちあまり組織化されていない産業で雇用されている人々や、失業してしまった人々を犠牲にしてきたのである。(同)  まさに企業や労働組合の庇護の下(もと)にない、詰まり...

ハイエク『隷属への道』(41) 全体主義への橋渡し「独占」

 独占を志向する資本家たちは他の人々に対し、自分たちが手にしている独占利潤の分け前にあずからせたり、あるいは、おそらくもっと多くの場合、独占の形成は公共の利益となるのだと説得することによって、ある程度まで支持を得るのに成功してきた。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 267)  「競争」を阻害するものに「独占」がある。この「独占」が固定化され、体制化されていくことが問題の始まりである。 このような発展を立法や司法を通じて推進するのに際して、最も重要な役割を果たしてきたのは世論の変化である。この変化が発生したのは、左翼が展開してきた、競争を攻撃する宣伝活動の結果以外の何ものでもない。(同)  最も<世論>に影響を与えるのが新聞やテレビ報道などの「マスコミ」である。一般に「マスコミ」は権力批判を旨とする。そのため左傾化しがちである。「マスコミ」が左傾化し、「競争」を攻撃することで「独占」体制が強化される。 また、きわめてしばしば見られたことであるが、独占を抑制したり排除したりすることを目的として採用された様々な政策が、現実には独占の力を強化することのために役立っているにすぎないことも多い。政府当局による独占の利益の吸い上げは、たとえそれが他のなんらかのグループの利益や国全体の利益を目的としたものであっても、常に新しい既得権益を創り出す傾向を有しており、結果的に独占をいっそう強化することに終わってしまう。(同)  政府が市場に介入し、独占を抑制したり排除したりするために独占の利益を吸い上げる体制もまた新たな<既得権益>を生み出してしまうということである。 そういう点では、独占から得られる利潤が、巨大な特権グループに再配分されるような体制は、独占企業家たちの手にしか利潤が入らない体制に比べて、政治的にはるかに危険なものである可能性が高く、もっと強力なものとなることは確実である。(同、 pp. 267-268 )  政府による再分配政策は社会主義そのものであり自由競争を阻害する。「独占」を嫌って政府が市場介入し、利益の再分配を行えば、かえって独占を体制化し固定化することになりかねない。  国家による独占とは、独占を制御し管理すべき立場にある国家権力が、披管理体である独占体を逆に保護し守っていくようになってしまうということを意味す...

ハイエク『隷属への道』(40) 人は自分が望むものを進んで信じるものだ

The sterility of the peace settlement of 1919 was due to the failure of those who made it to understand the contemporary revolution. – E. H. Carr, Conditions of Peace , Chapter I War and Revolution (1919年の和平調停が不毛だったのは、それを行った人々が現代の革命が理解できなかったからだった)――E・H・カー『平和の条件』 とカー教授は言う。 In retrospect, it is not difficult to see that the increasing strains of competitive capitalism were one of the most important underlying causes of the catastrophe of 1914. To multiply the number of competing units in the name of the ideals of die French Revolution was as sure and as mad a way as could well have been found of aggravating the crisis and of ensuring a repetition of the outbreak. The paradox which continues to puzzle students of the period between the two wars is that the victorious Allies "lost the peace". – Ibid. (振り返ってみれば、競争資本主義の歪(ひず)みの増大が、1914年の破局の最も重要な根本原因の1つであったことは分かり難くはない。フランス革命の理想の名の下に競争部隊の数を増やすことは、危機を悪化させ、必ずその発生を繰り返す、これ以上ないほど確実で狂気の方法であった。2つの戦争の間の期間を研究する者を困惑させ続けている逆理は、戦勝国たる連合国が「...

ハイエク『隷属への道』(39) 全体主義へと続く道

ドイツやその他の国々において全体主義というイデオロギーの台頭を準備した諸理念はもとより、全体主義そのものの諸原理の多くでさえ、いまやますます人々の心を魅惑して、多くの自由主義国でも実施されるようになってきている。わが国(=英国)では、全体主義の総体を喜んでそのまま鵜呑みにする人は、いるとしてもおそらくまだきわめて少数だろうが、全体主義の部分的な理念は、多くの人がわれわれも真似すべきだとしているのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 250-251)  今の日本の状況も、この第2次大戦当時の英国の状況と似通っている。社会問題の克服を個人の自由ではなく政府の政策に求める傾向が日増しに強くなってきているように私には思われるのである。  今日の英国の政治的文献の多くが、かつてのドイツで西欧文明に対する信頼を破壊し、ナチズムが成功を収めることのできるような心の状態を創り出すことになったあの諸々の著作・論文の類とどれほど似ているかは、一般的な表現を用いてどんな描写をしてみたところで十分には伝えられまい。両者の相似性は、そこで用いられている独特な議論の仕方といった面よりは、むしろ様々な問題に向かっていく時の人々の気質といった面での相似性なのである。もう少し具体的に言えば、過去との文化的なつながりをすべて切り離してしまい、ある特定の実験が成功することにすべてを賭けようとする気持ちの持ち方の面での相似性である。(同、 p. 251 )  問題の解答を直ぐ海外に求め、それが移植されれば社会にどのような変化をもたらすのかについては基本的に無関心であり、したがって、無責任である。  英国で全体主義的発展への道を準備している著書の大半は、ドイツでもそうであったのと同様に、誠実な理想家たちや、しばしばきわめて知的に優れた人々によって書かれてきた。(同)  戦後日本においても、マルクス主義への傾倒は著しいものがあった。多くの人々が、共産主義社会への移行は<理想>ではなく現実なのだという「夢」を見続けていた。 It is true that when a prominent National Socialist asserted that " anything that benefits the German people is right...

ハイエク『隷属への道』(38) 全体主義の前触れ

保守党による前政権下において、保守党の一般党員たちの中でも「最も有能な人々は……心の底では全員が社会主義者であった」…フェビアン主義時代と同様に、いまでは多くの社会主義者たちが、自由主義者たちよりも保守主義者たちに対して、より大きく共鳴するようになっている(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 247)  私は、今の自民党を見ているとこれと同じように感じるのである。岸田文雄総理をはじめ、社会主義を信奉する自民党議員が少なくない、それどころか、大勢を占めている可能性すら彼らの発言を聞いていると否定できないように思われるのである。 国家に対するますます増大する畏敬の念、権力に対する崇拝、「大きいことはよいことだ」とする称讃、あらゆることを「組織化」(これをいまや「計画化」と呼ぶようになっている)したいという熱意(同) が今や社会に蔓延してしまっている。自らが努力するよりも先に、「お上」に助けを求めようとする。そして国家が誰を、何を贔屓(ひいき)するのか次第の「不平等」が発生する。そこでは如何に国家を自分たちの見方に付けるのかが問われることになる。個人の頑張りだけではどうしようもなく、徒党を組んで自分たちの利益になるように政府に圧力を掛けるという仕儀となる。  英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズが次のような文を書いている。 "even in peace industrial life must remain mobilised. This is what he means by speaking of the 'militarisation of our industrial life' [the title of the work reviewed]. Individualism must come to an end absolutely. A system of regulations must be set up, the object of which is not the greater happiness of the individual (Professor Jaffe is not ashamed to say this in so many words), but the streng...

ハイエク『隷属への道』(37) 民主主義国に見られる全体主義への兆候

シュペングラーの引用の続きである。 《ただ単にドイツのためだけでなく、世界の全体にとっても決定的であり、しかも世界全体のためにドイツによってこそ解決されなけばならない問題は、「将来、商業が国家を支配するべきか、それとも国家が商業を支配するべきか」という問題である》(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 240 )  詰まり、<商業が国家を支配する>自由主義は終わりにし、これからは<国家が商業を支配する>社会主義へと移行すべき時が来ているのではないかとシュペングラーは言いたいのだろう。 《しかもこのように問題が提起されると、プロイセン主義と「社会主義」とは同一のものとなる。……つまり、プロイセン主義と社会主義とが、ドイツの国土それ自体の内部において英国的な考え方と闘争している、ということを意味する》(同)  詰まり、英国とドイツの争いは、自由主義と社会主義の闘いだという認識なのである。だからこそ、ヴァン・デン・ブルックは 「ドイツは西欧との戦いに敗れたが、その時『社会主義』は、『自由主義』との戦いに敗れたのだ」(同、 p. 241 ) と言ったのである。 《今日ドイツには、自由主義者は一人もいない》(同)  何と極端な言い回しであろうか。このような誇張が見られるのは理念が現実より先走ってしまっている証左であろう。 《この国には、若き革命家もいるし、若き保守主義者もいる。しかし、誰がこの国で、依然として自由主義者であり続けたいと欲するだろうか。……「自由主義」は、いまではドイツの若者たちが吐き気を催したり、怒りやきわめて特殊な軽蔑感をもって顔をそむけてしまう、生活哲学でしかない。というのも、今日のドイツの若者たちが信奉している哲学にとって、「自由主義」ほど異質で、反感を感じさせ、敵対的である教義は、まったくないからだ。いまやドイツの若者たちは、自由主義者を最大の怨敵(おんてき)とみなすようになっている》(同)  が、シュペングラーがこのように言うのにもそれなりの土壌があるのだろう。ドイツ民族のエートス(慣習)には、英国流の<自由>と相容れない何かがあるのではないかということである。おそらくその1つが<連帯>意識の強さというものなのではないか。 今日の民主主義諸国の状況は、現状のドイツではなく、20年ないし30年前...

ハイエク『隷属への道』(36) ナチスドイツが生まれた必然

ハイエクは、ドイツ哲学者オスヴァルト・シュペングラーの言を引く。 《西欧の3国〔英・仏・独〕は、有名な「自由」「平等」「共同体」という標語の3つの形態をそれぞれ達成しようとしてきた。その結果、これらの標語は、自由な「議会主義」、社会主義的「民主主義」、独裁主義的社会主義、という3つの異なった政治的形態となって、実現してくることになった》(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 239 ) Die drei spätesten Völker des Abendlandes haben hier drei ideale Formen des Daseins angestrebt. Berühmte Schlagworte kennzeichnen sie: Freiheit, Gleichheit, Gemeinsamkeit. Sie erscheinen in den politischen Fassungen des liberalen Parlamentarismus, der gesellschaftlichen Demokratie, des autoritativen Sozialismus -- Oswald Spengler,  Preußentum und Sozialismus  英国の自由( Freiheit )、仏国の平等( Gleichheit )はいいとして、独国の Gemeinsamkeit をどう訳すのかが難しい。訳者西山氏は「共同体」としているが、「共同」や「連帯」といったところだろうか。後も、「自由主義的議会主義」( des liberalen Parlamentarismus )、「社会主義的民主主義」(der gesellschaftlichen Demokratie)、「権威主義的社会主義」(des autoritativen Sozialismus)ぐらいであろうか。いずれにせよ、シュペングラーは、ドイツを「連帯」の国と見、「権威主義的社会主義」という政治形態を生み育てたと考えたということである。 《ドイツ人、もっと正確にはプロイセン人の、本能といってもいい考え方は、「権力は全体に所属する」というものである。……〔このような体制下では、〕あらゆる人が例外なしに「ところを得しめられ...

ハイエク『隷属への道』(35) 知的進歩の原動力

The really frightening thing about totalitarianism is not that it commits ‘atrocities’ but that it attacks the concept of objective truth; it claims to control the past as well as the future. — George Orwell, As I Please (全体主義について本当に恐ろしいことは、全体主義が「残虐行為」を行うということではなく、それが客観的真実の概念を攻撃するということである。全体主義は、未来は言うに及ばず過去をも支配することを要求するのである ― ジョージ・オーウェル) ★ ★ ★ 知的自由が、人類が知的に進歩するための始源的な原動力となるのは、人類の誰でもが例外なしに思考することができたり著述することができたりすることが必要だという点にあるのでは決してなく、どのような考えや理想であっても、人類の誰かがこれを主張できるという点にあるのである。反対意見が抑圧されないかぎり、同じ時代の人々を支配している考え方に対して疑いを表明する誰かが必ず出てくるだろうし、また、新しい考え方を議論や宣伝による検証の対象として提出する人が、常に生まれてくるだろう、ということこそ重要なのだ。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 218 )  前提条件が変われば見方も変わる。反対意見は、物事の別の見方を示してくれるから有難い。我々は神ではないから、しばしば間違える。だからいかなることであっても懐疑的視座は欠かせないのである。つまり、物事は色々な角度から見てみることが大切だということである。  異なる知識や見解を持っている個人たちの間における相互作用こそが、思想の生命というものを成り立たせている。人類の理性の成長とは、個人間にこのような相違が存在していることに基礎を置いている社会的な過程なのである。この人類の理性の成長にとって本質的なことは、その成長の結果がどういうものになるかは前もって予測することができず、どのような見解がこの成長を促進したり逆に阻害したりするかということも、われわれは決して知ることができない、という点である。簡単に言うならば、人類がそれぞれ...

ハイエク『隷属への道』(34) 過去を捨てた社会

統制経済によって平等を達成しようとする努力は、実は政府によって強制された不平等――新しい階層化秩序のもとで個人の地位が専制政治的に決定されること――という結果しかもたらさない。そして、人間の生命、弱者、あるいは個人一般への尊重の念といった、自由主義社会の道徳が保有している人道主義的な要素の大半が、全体主義社会の道徳規範のもとでは消滅してしまうだろう、ということである(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 202)  自由主義経済によって生じた格差を人工的に均(なら)すことは、誰かを優遇し、誰かを冷遇することに他ならない。自由主義社会の道徳は価値を失い、人道主義思想は意味を無くす。 全体主義宣伝活動は、あらゆる道徳の基礎の一端をになっている、あの「真実」というものに対する感覚や尊敬の念を、その根底から侵食していくことによって、ついにはあらゆる道徳を破壊してしまう(同)  物事を見、判断する枠組み( paradigm )が転換されるため、これまでの価値観は一掃される。何が真実なのかという判断も個人が行うものではなくなってしまう。経験は何の役にも立たない。上がどう判断するのかだけが<真実>の基準である。  人々が奉仕させられる特定の価値観に妥当性があるということを人々に認めさせる最も有効な方法は、それらの価値観が、人々ないし少なくとも最良の人たちが、これまで信奉してきたものと実のところは同一で、ただこれまでは適切に理解されていなかったり、はっきりと認識されていなかっただけのことだと、人々を説得することである。つまり「新しい神々」は、実際には人々の健全な直観が常にその心に語りかけていたあの「神々」と同一のもので、ただこれまではぼんやりとしか認識されていなかった「神々」なのだ、と口実をつけて、人々の忠誠心を「古い神々」から「新しい神々」へと移し変えさせればよいわけだ。そして、この目的を最も有効に達成できる技術といえば、昔からの言葉はそのまま使用しておいて、意味内容だけを変えてしまうことである。その結果として、新しい体制の理念を表現するために、言語は完全にねじまげられ、言葉の意味も変えられてしまう。(同、 p. 207 )  <言葉>は過去からやって来る。が、過去が否定されれば、<言葉>の中身は空(から)になる。そこに新たな中身を注ぎ込む。そうや...