ハイエク『隷属への道』(39) 全体主義へと続く道

ドイツやその他の国々において全体主義というイデオロギーの台頭を準備した諸理念はもとより、全体主義そのものの諸原理の多くでさえ、いまやますます人々の心を魅惑して、多くの自由主義国でも実施されるようになってきている。わが国(=英国)では、全体主義の総体を喜んでそのまま鵜呑みにする人は、いるとしてもおそらくまだきわめて少数だろうが、全体主義の部分的な理念は、多くの人がわれわれも真似すべきだとしているのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 250-251)

 今の日本の状況も、この第2次大戦当時の英国の状況と似通っている。社会問題の克服を個人の自由ではなく政府の政策に求める傾向が日増しに強くなってきているように私には思われるのである。

 今日の英国の政治的文献の多くが、かつてのドイツで西欧文明に対する信頼を破壊し、ナチズムが成功を収めることのできるような心の状態を創り出すことになったあの諸々の著作・論文の類とどれほど似ているかは、一般的な表現を用いてどんな描写をしてみたところで十分には伝えられまい。両者の相似性は、そこで用いられている独特な議論の仕方といった面よりは、むしろ様々な問題に向かっていく時の人々の気質といった面での相似性なのである。もう少し具体的に言えば、過去との文化的なつながりをすべて切り離してしまい、ある特定の実験が成功することにすべてを賭けようとする気持ちの持ち方の面での相似性である。(同、p. 251

 問題の解答を直ぐ海外に求め、それが移植されれば社会にどのような変化をもたらすのかについては基本的に無関心であり、したがって、無責任である。

 英国で全体主義的発展への道を準備している著書の大半は、ドイツでもそうであったのと同様に、誠実な理想家たちや、しばしばきわめて知的に優れた人々によって書かれてきた。(同)

 戦後日本においても、マルクス主義への傾倒は著しいものがあった。多くの人々が、共産主義社会への移行は<理想>ではなく現実なのだという「夢」を見続けていた。

It is true that when a prominent National Socialist asserted that " anything that benefits the German people is right, anything that harms the German people is wrong", he was merely propounding the same identification of national interest with universal right which had already been established for Englishspeaking countries by Wilson, Professor Toynbee, Lord Cecil and many others. But when the claim is translated into a foreign language, the note seems forced, and the identification unconvincing, even to the peoples concerned.

Two explanations are commonly given of this curious discrepancy. The first explanation, which is popular in English-speaking countries, is that the policies of the English-speaking nations are in fact more virtuous and disinterested than those of Continental states, so that Wilson and Professor Toynbee and Lord Cecil are, broadly speaking, right when they identify the American and British national interests with the interest of mankind. The second explanation, which is popular in Continental countries, is that the English-speaking peoples are past masters in the art of concealing their selfish national interests in the guise of the general good, and that this kind of hypocrisy is a special and characteristic peculiarity of the Anglo-Saxon mind. ―― E. H. KarrTwenty Years’ Crisis: PART TWO THE INTERNATIONAL CRISIS: 5. THE REALIST CRITIQUE

(確かに、ある著名な国家社会主義者が「ドイツ国民の利益になることはすべて正しく、ドイツ国民を害することはすべて間違っている」と主張したのは、ウィルソン、トインビー教授、セシル卿、その他多くの人々がすでに英語圏の国々に確立した、国益と普遍的権利の同一性を提唱したにすぎなかった。しかし、この主張が外国語に翻訳されると、その注釈は強引なものに思われて、関係者にとってさえ、その同一視は納得のいかないように思われてしまうのである。

この不思議な食い違いについては、2つの解釈が一般になされている。第1の解釈は、英語圏でよく見られるのだが、英語圏国家の政策は、実際には、大陸国家の政策よりも徳が高く、利害関係がないので、ウィルソンやトインビー教授やセシル卿が、米国や英国の国益を人類の利益と同一視するのは、広く言えば正しいことである、というものだ。第2の解釈は、大陸の国々によく見られるのだが、英語圏の人々は、自分たちの利己的な国益を一般善に見せかけて隠す術(すべ)に長けており、この種の偽善はアングロサクソン精神に特有の特徴的特性なのだ、というものである)


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