バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

騎士道は、欧州における戦闘を通して、経験的に導かれた「行動規範」である。

騎士道:中世ヨーロッパにおける騎士の精神的支柱をなした気風・道徳。忠誠・武勇に加えて、神への奉仕・廉恥・名誉、婦人への奉仕などを重んじた。(デジタル大辞泉)

 マックス・ウェーバーは言う。

《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件(くだん)の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねはならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する》(ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)脇圭平訳、p. 83


 この例からも、騎士道精神は、欧州において、独り騎士だけのものではなく、広く一般的なものだということが分かるだろう。

《恋の鞘(さや)当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである》(同)

 大東亜・太平洋戦争における戦勝国がそうである。極東国際軍事法廷(東京裁判)は、まさに戦勝国の独善のなせる業(わざ)であった。文明社会にあるまじき「事後法」によって「A級戦犯」をでっち上げ、処刑した蛮行は、決して許されるべきものではない。

《あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦(えんせん)気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである》(同)

 騎士道精神は、倫理観に繋がるものである。

《同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。

これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根(かこん)を残す。国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる》(同、pp. 83f

 70年以上閲(けみ)しているにもかかわらず、未だに日本に難癖を付け続ける品位品格無き国家、それがシナと朝鮮であることはもはや言うまでもあるまい。

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