投稿

10月, 2021の投稿を表示しています

ヘミングウェイ『老人と海』について(6) 全6回

《私は、「地獄篇」の第一章を最初に読む時に、そこに出て来る豹(ひょう)や、獅子や、牝の狼の意味を気に掛ける必要はないと思う。初めは、そんなことは考えない方がいいのである。我々は、詩に出て来る影像の意味を問題にするよりも、逆に、或ることを言おうとする人間がそれを影像で表現するという、その精神的な過程に就(つい)て考えて見なければならない。それは、性格的にだけでなくて、習慣によっても、表現に寓意を用いるのはどういう型の精神の持主かということであり、そして有能な詩人には、寓意ははっきりした視覚的な影像を提供するものである。又、はっきりした視覚的な影像は、それが何かの意味を持つことでずっと烈しいものになるのであり、―我々はその意味が何であるか知らなくても、その影像に打たれることで、それが或る意味を持っていることにも気付かずにはいられない。寓意は詩人が用いる方法の一つに過ぎないが、それは非常に特色がある方法なのである。  ダンテの想像力は視覚的な性質のものだった。併(しか)しそれは、静物画を書く今日の画家の想像力が視覚的であるのとは違った意味なので、ダンテが、まだ人間が幻想に見舞われる時代に生きていたということなのである。そしてこの、幻想に見舞われるというのは一つの心理的な習慣だったので、我々はそれをもう忘れてしまったが、現在、我々の習慣のどれか一つでもそれに優るものがある訳ではない。我々は夢を見るだけでー幻想に見舞われるということが、―それが今では、精神異常のものや、無学なものにしか起らないことになっているが、―嘗(かつ)てはもっと内容もあり、興味もある、訓練された一種の夢の見方だったことは考えずにいる。我々は、夢は我々の世界の下部から生じるものと決めていて、我々が見る夢の質がその為に低下しているということだってあるに違いない》(『エリオット全集 4 詩人論』(中央公論社)吉田健一訳、 p. 341 )  ヘミングウェイを語るにあたってしばしば言及されるものに『氷山の理論』( Iceberg Theory )というものがある。 If a writer of prose knows enough about what he is writing about, he may omit things that he knows and the reader, if t

ヘミングウェイ『老人と海』について(5) 全6回

『老人と海』には「ライオン」が繰り返し登場する。 (1) "When I was your age I was before the mast on a square rigged ship that ran to Africa and I have seen lions on the beaches in the evening." (お前の年齢の頃、アフリカに向かう横帆船(おうはんせん)のマストの前にいて、夕方になると浜辺にライオンがいるのを見たことがある」) (2) He no longer dreamed of storms, nor of women, nor of great occurrences, nor of great fish, nor fights, nor contests of strength, nor of his wife. He only dreamed of places now and of the lions on the beach. They played like young cats in the dusk and he loved them as he loved the boy. He never dreamed about the boy. (老人はもはや嵐の夢も、女の夢も、大事件の夢も、大魚の夢も、戦いの夢も、力比べの夢も、妻の夢も見なくなった。老人は今では場所の夢と浜辺のライオンの夢しか見ない。ライオンたちは夕暮れに子猫のように遊び、老人は少年を愛するのと同様にライオンたちを愛していた。彼は少年の夢を見ることは決してなかった) (3) I wish he'd sleep and I could sleep and dream about the lions, he thought. Why are the lions the main thing that is left? Don't think, old man, he said to himself. Rest gently now against the wood and think of nothing. He is working. Work as little as you can.

ヘミングウェイ『老人と海』について(4) 全6回

元々老人は若い漁師と違って海に対して宥和(ゆうわ)的であった。   He always thought of the sea as la mar which is what people call her in Spanish when they love her. Sometimes those who love her say bad things of her but they are always said as though she were a woman. Some of the younger fishermen, those who used buoys as floats for their lines and had motorboats, bought when the shark livers had brought much money, spoke of her as el mar which is masculine. They spoke of her as a contestant or a place or even an enemy. But the old man always thought of her as feminine and as something that gave or withheld great favours, and if she did wild or wicked things it was because she could not help them. The moon affects her as it does a woman, he thought. (老人は海を、海を愛している人がスペイン語で呼ぶところの「ラ・マル」だといつも思っていた。時には海を愛する人たちも海の悪口を言うことがあるが、いつも海を女性として悪口を言うのである。若い漁師の中には、ブイを釣り糸の浮きとして使い、サメの肝臓が大金をもたらしたときにモーターボートを買ってもらったものもいたが、海のことを男性的に「エル・マール」と呼んでいた。彼らは海のことを、競争相手や場、あるいは敵とさえ呼んだ。しかし、老人はいつも海を女性的で、大きな恵みを与えたり、与えなかったりするものと考えていたし、もし海が乱暴なことや邪悪なことを

ヘミングウェイ『老人と海』について(3) 全6回

『老人と海』の訳者・福田恆存氏は、後書きでフランスの歴史家ベルナール・ファイ氏の一節を引いている。 《アメリカには、たんに空間があるだけだ。  ヨーロッパの諸国は時間のうえに築かれている。時間の累積が、イギリスやフランスやスペインやドイツやイタリーに、その政治的な枠を構え、その領土を定め、さらにその性格をつくることを可能ならしめた。またその市民におたがいに許しあい、愛しあい、助けあって、真にそれぞれの国民を形成することを教えたのである。  が、あらゆる人種、あらゆる宗教、あらゆる文明に属する人間が、あのきびしいアメリカの処女地に再会したとき、かれらはその結合の紐帯(ちゅうたい)として、かつてヨーロッパ諸国を相互に結びあわせていたあの根ぶかい思いでや頑固な習慣を、どこにも見いだせなかった。かれらを調練して、今日ひとつの国民たらしめた力は、かれらの過去ではなく、それはかれらの未来である。  そこでは、空間が時間のかわりをし、未来が過去のかわりをした。  ヨーロッパはその熱情とその安定した文明の成功そのもののために窒息しそうに感じていた。ヨーロッパは空間を必要としていた。そしてアメリカを発見したのである》(『アメリカ文明論』:『老人と海』(新潮文庫)福田恆存訳、 pp. 150-151 )  ヨーロッパには<罪>とは何かを考えた時間の累積がある。が、アメリカにはそれがない。 <アメリカの文明は、過去と現在とをつなぐ時間から解放されて、はてしなく横にひろがる現在という空間のうえにうちたてられたもの>(同、 p. 151 ) なのである。 he kept on thinking about sin. … You loved him when he was alive and you loved him after. If you love him, it is not a sin to kill him. Or is it more? (老人は罪について考え続けた。… お前は魚が生きているときその魚を愛していたし、その後もその魚を愛していた。愛しているなら、魚を殺(あや)めても罪ではない。それともそれ以上なのか)  相手を愛しているかどうかが問題なのだ。愛している相手は殺しても<罪>ではない。無論、こんな勝手な理屈はない。が、そう考えるし

ヘミングウェイ『老人と海』について(2) 全6回

老人は言う。   "I am not religious," he said. "But I will say ten Our Fathers and ten Hail Marys that I should catch this fish, and I promise to make a pilgrimage to the Virgen de Cobre if I catch him. That is a promise."   He commenced to say his prayers mechanically. Sometimes he would be so tired that he could not remember the prayer and then he would say them fast so that they would come automatically. Hail Marys are easier to say than Our Fathers, he thought.    "Hail Mary full of Grace the Lord is with thee. Blessed art thou among women and blessed is the fruit of thy womb, Jesus. Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners now and at the hour of our death. Amen." Then he added, "Blessed Virgin, pray for the death of this fish. Wonderful though he is." (「自分には宗教心がない」と老人は言った。「しかしこの魚を捕えられるなら、『我らの父』を10回、そして『アベマリア』を10回言おう。もし捕えられたら、コブレの教会に巡礼することを約束する。それは約束だ」   老人は機械的に祈りを言い始めた。時には、疲れて祈りを思い出せないこともあったが、その時は、祈りが自動的に出てくるように早口で言ったものだった。『我らの父』よりよりも『アベマリ

ヘミングウェイ『老人と海』について(1) 全6回

10月放送のNHKEテレ『100分de名著』でアーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』(The Old Man and the Sea)が取り上げられた。が、番組内での都甲幸治(とこう・こうじ)早稲田大学教授の解説を聞いて、どれくらいの人がこの小説をなるほど<名著>だと確認できたであろうか。疑問に思ったのは、『老人と海』の「主題」(theme)が何か説明されなかったことである。これでは『老人と海』がなぜ<名著>と称されるのかについて分かるべくもない。ともすれば、ノーベル賞作家ヘミングウェイの作品であるから<名著>なのだろうなどという話にもなりかねない。そこで今回『老人と海』の<名著>たる所以(ゆえん)を私なりに探りたいと思った次第である。 ★ ★ ★ 『老人と海』は3段構成になっている。「中段」が老人とカジキマグロとの闘いであり、その前後が「前段」と「後段」ということになる。そして「中段」に次の「最高潮」(climax)の場面がある。 It is silly not to hope, he thought. Besides I believe it is a sin. Do not think about sin, he thought. There are enough problems now without sin. Also I have no understanding of it.   I have no understanding of it and I am not sure that I believe in it. Perhaps it was a sin to kill the fish. I suppose it was even though I did it to keep me alive and feed many people. But then everything is a sin. Do not think about sin. It is much too late for that and there are people who are paid to do it. Let them think about it. (希望を持たないなんて馬鹿だ、と老人は思った。それにそれは罪だと思う。罪について考えるな、

「進歩主義」の虚妄(6) 全6回

小林  未来学というのは、そういうアイディアからきてるんでしょう。おかしなものだね。 江藤  おかしなものですね、畏(おそ)れがないです。 小林  未来という言葉は、「未だ来たらず」という意味ですね。だけど、いまの未来学というものには、そういう意味なんか全然ないでしょう。 江藤  「未だ来たらず」じゃなくて、「未だ来たらざる」はずのものを、もうすでに、持っているという気持になりたいわけでしょう。 小林  ベルグソンは、「予言」というものは実は現在のことだと言っている。たとえば何年後の何月何日に月蝕があるという、これを予言だと人はみんないっているけれども、ちっとも予言じゃない。現在の計算にすぎない。時間が脱落しているからだ、というわけですね。 江藤  未来学をやる人は不確定ということを非常に嫌うわけですね。すべて確定していると思おうとするのでしょう。 小林  そうそう。だから、未来、未来といったって「未来」じゃないんだよ。ここに現代人の性格がよく出ている。 江藤  未来学者の人がしゃべっているのをききますと、人情味などというものはあまり感じられませんね。人間らしくないというか、ロボットがしゃべっているみたいなんです。とにかく数字の掴み出し方は的確です。つまり、世の中は当然こういうふうに進んでいく。時間は不可逆的である。不可逆的な時間の未来は、かくかく予測できる。なぜかといえば、コンピューターがそのように計測しているからだ、というように。  ですから、その話を聞いていると、枝葉末節では、へえ、そういうものかというふうに納得できるところもあります。しかし、根本的には、未来はこうなるにきまっている、未来をつくるものは、自分たちのようなテクノクラート、技術文明の専門家であり、それをつくらせる力は、大資本、大企業であると割り切っているところが気にかかります。面白いのは進歩的というか左翼的な学者の人たちも、そのこと自体に対しては反対しないわけですね。そうではなくて、コンピューターが集めてくる情報を、企業とか、政府が独占しているのはけしからんから、自分たちにもよこせというような形で反対するわけですね。ですからそのストラクチャーというんでしょうか、そういうふうに世界のコースがほとんど確定していてすでに来つつあると思えるもののほうに向かっているのだと考え

「進歩主義」の虚妄(5) 全6回

残念ながら私には<人間の本質が二律背反にある>ということを十分に咀嚼(そしゃく)し解説することが出来ない。よって自分なりの解説を試みたいと思う。例えば、自由と平等は二律背反(antinomy)である。自由を重んじれば格差を生じる。格差を無くそうとすれば自由を制限しなければならない。ここで問題となるのは、どのような価値観の「物差し」を用いるのかということである。自由主義では、自由が善で平等が悪となる。逆に、平等主義では、平等が善で自由が悪となる。が、この2つの物差しの優劣を決めるような「物差し」はない。であれば実験してみるより他はない。ということで20世紀、マルクス主義の壮大なる実験がソ連邦をはじめとして行われ、散々な結果となったのであった。  自由も平等も「物差し」次第で善にもなれば悪にもなる。自らの考えだけが善であるなどと考えるのは独り善がりである。世の中には様々な「物差し」がある。したがって、何が善であるのかも様々である。勿論、これらの善にも優劣は存在するに違いない。が、その判断は主観を免れた「歴史」に委ねるしかない。 《彼等は一人の例外もなく不寬容である。自分だけが人間の幸福な在り方を知つてをり、自分だけが日本の、世界の未來を見とほしてをり、萬人が自分についてくるべきだと確信してゐる。そこには一滴のユーモア(諧謔(かいぎゃく))もない。ユーモアとは相手の、そして同時に自分の中のどうしやうもないユーモア(氣質)を眺める餘裕(よゆう)のことだ。感情も知性と同じ資格と權利とを有することを、私たちの生全體(ぜんたい)をもって容認することだ。過去も未來と同樣の生存權を有し、未來も過去と同樣に無であることを、私たちの現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寬容であり、文化感覺といふものではないか》(『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、p. 177)  「多様性」という観点からLGBT(性的少数者)を認めよと主張する人達は、LGBTを認めない「多様性」は否定する。他者には自分に対する「寛容」を求め、自らの説に異を唱える者には「不寛容」な態度を示す。自らは「自由」の恩恵に与(あずか)って余りあるが、他者には自ら考える正義への「画一」を迫るのである。 《進歩的文化人らの頭の構造を解剖すると、革命・ユートピア幻想に裏打ちされた、完全な二

「進歩主義」の虚妄(4) 全6回

《あらゆることについて「自由」を主張する彼等であるが、進步主義の前でだけは、彼等は自由になりえない。進步主義に手を解れることだけは許されない。といふことは、進步主義は現代の文明國に殘存する唯一のタブーだといふことを意味する。  それはそれ自身において唯一最高の債値だからである。人々の問ひや疑ひはその一步手前まで、それ以外のあらゆるものに及んでゐるのだが、そこに達したとき、あたかもまじなひにかかつたかのやうに停止する。その先へは及ばない。なぜなら、進步主義について問ふことは進步的でなくなりはしないかといふ畏怖があるからだ。この感情にはなんの根據(こんきょ)もありはしない。人とは現實や歷史の逆行を恐れてゐるのであらうか。社會の進步が阻碍(そがい)されることを恐れてゐるのであらうか。さうではない。ただ自分が進步主義的でなくなりはしないかといふことだけを恐れてゐるのである。それは感情であり、面子であって、論理とはなんの關(かかは)りもない。問題は、今の知識階級が自分の内部にあるその感情だけを大事にしてゐるといふことにある。  他のあらゆる感情にたいしては、それを單なる感情だと言つて卻(しりぞ)ける。それは單なる感情でしかないといふ、それだけの理由で彼等はそれらを蔑(さげす)み顧慮する必要のないものと思ひこんでゐる。感情的にさう思ひこんでゐるだけなのだが、それにもかかはらず、進步主義といふ感情だけは、蔑まぬどころか、それが感情に過ぎないといふことにすら氣づいてゐない》(『福田恆存全集 第 5 巻』(文藝春秋)、 pp. 175-176 )  自由は万人に認められるべきものであって、自分にだけ認められると考えるとすれば、それは傲岸不遜(ごうがんふそん)というものだ。が、進歩主義者は、進歩主義の考えを広める「言論の自由」を自ら行使しても、「公共の福祉」に反するとしてこれを否定する他者の「言論の自由」は認めない。これでは「自由」と言うよりも「得手(えて)勝手」と言うべきである。 《日本の進步主義者は、進步主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も惡質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の惡がひそんでゐることを自覺してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがつて、彼等は例外なく正義派である。愛國の士であり、階級の

「進歩主義」の虚妄(3) 全6回

《戰前から戰後への轉換(てんかん)には連續(れんぞく)はない。連續がない以上、それは進步ではない。進步主義の立場からは、それを革命と呼びたいであらう。が、事實は征服があつただけだ。征服を革命とすりかへ、そこに進步を認めたことに、進步主義者の獨りよがりと甘さがある》(『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、p. 174)  進歩主義とは言いながら歩を前へ進めるわけではない。兎(と)にも角(かく)にも軌道を変えるために歩を横へ進めねばはじまらない。資本主義の流れを堰(せき)止め、社会主義、共産主義に乗り換えるのが進歩主義には不可欠なのである。資本主義は実態のある「現実の流れ」であるが、社会主義、共産主義はマルクスが考えた「架空の流れ」に過ぎない。うまく流れるか流れないかは実際にやってみなければ分からない。だからやってみた。が、うまく流れなかった。流そうとすれば無理を重ねる必要があった。人々を弾圧し情報を統制しなければならなかった。そのことは今の中共や北朝鮮をみても分かるだろう。 《彼等が愛するのは事實としての進步ではなく、價値としての進步である。進步の實質ではなく、進步の象徵である。彼等にとつて大事なのは進步の過程を步むことそのことではなく、一氣に進步の終鮎そのものに行きつくことである》(同)  進歩主義とは進歩の名を借りた独善である。進歩だというのはマルクス主義者の詭弁(きべん)に過ぎない。実際起こったことは「弾圧」の歩を進めただけであった。まさに「地獄への道は善意で舗装されている」のである。 《いはば戰後の日本の特殊性があるのだ。つまり、日本の進步主義者は觀念において急進主義者でありながら、しかも居心地よく生きられる、さういふ氣分が一般にあるといふことである。そのため、進步を阻止するものよりも、進步主義的氣分を害するもの、いや、將來その可能性を含むものにたいして敏感に反應しやすい》(同)  進歩の実(じつ)を得ようとすれば努力しなければならない。否、努力といった生易しいことでは済まされない。世の流れをマルクス主義に移そうとすれば、歴史の断絶たる「革命」が必要となる。が、身の回りは「革命」を起こさねばならないほど悲劇的状況にはない。切迫感もない。それどころか、マルクス主義の空想に微睡(まどろ)んでいられるほど世間は平穏である。が、このマルクス主義者の

「進歩主義」の虚妄(2) 全6回

《わが国には進歩的文化人という独特の人種が存在して、現実の推移などお構いなく、森羅万象を恣意(しい)的に解釈したばかりか、大胆にもその手法で未来の予測まで敢えてした。彼等の現状解釈や未来予測は片っ端から現実に裏切られたが、彼等は恬(てん)として恥じることなく、同じ過ちを繰り返した》(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫)、p. 522)  1991年にソ連邦が瓦解(がかい)し、共産主義国家建設の実験が失敗に終わったことで、マルクスの威を借りた「似非(えせ)梟(フクロウ)」の声は消えていった。彼らに見られたのは人間社会に対する「軽信」であった。現在は最終目標へ向けての発展過程と見做(な)す歴史観「進歩史観」が戦後日本を大手を振って歩いていた。が、それは結局マルクスの妄想に過ぎなかった。  戦後日本は、マルクスの予言に楯突くことなど許されない空気に満ちていた。楯突けば「保守反動」などと罵声を浴びせられた。が、順風満帆の「進歩主義」に抗(あら)った人達もいないわけではなかった。その一人が保守論客の福田恆存(ふくだ・つねあり)氏であった。 《進步主義といふ言葉を平たく解繹(かいしゃく)すれば、社會を進步させようとする思想的態度といふことになる。だが、その實情(じつじょう)を見れば、むしろかう定義したはうがよい。つまり、それは社會を進步させまいとする方策を阻止しようとする思想的態度であると言つたはうが、より適切のやうに思はれる。  その結果、當然(とうぜん)のこととして、それは行動であるよりは批評の形をとる。言論においてのみならず、行動においても批評的行動になる。またそれは監視人、警告者としての否定的、消極的な性格をもち、主義においては前向きでありながら、現實においては後向きの姿勢をとりやすい》(「進歩主義の自己欺瞞」:『福田恆存全集 第 5 巻』(文藝春秋)、 p. 172 )  社会は、必然として、資本主義から社会主義を経て共産主義へと向かう。これがマルクスの予言である。が、予言はいつまで経っても実現しない。資本主義の矛盾は資本主義自身が解消し、無理をして社会主義に軌道変更する必要はなかったのである。  「マルクスの予言を邪魔する者たちがいる。だからいつまで経っても予言は実現しない」などと考えたのだとすれば、それは只の妄想である。邪魔者がいれば

「進歩主義」の虚妄(1) 全6回

小林秀雄  僕ら、どうも古いことばかり読んだり、考えたりしているものの目からみると、なんだか知らないけど、誰もかれも未来のほうを向いているような気がするなァ。未来を基として計画を立てているでしょう。文化がそういうふうになっちゃったね。 江藤淳  計画を立てて、計画通りにつくるわけですから、未来というのはすでに未来じゃなくて、既知項に入ってしまっている。ですから、たとえば三年目にどういう姿になるかというのが、わかると考えるのですね。 ―『小林秀雄対談集 歴史について』(文藝春秋)、 p. 10  自分たちが夢見る「未来」をバラ色に盛り、現在の暗黒面を強調する。それが未来派の遣り口である。が、言うまでもなく現在はすべて暗黒に染まっているわけではないし、どんなバラ色の未来も現在から見れば只の空想でしかない。未来に期待することが悪いとまでは言わないが、期待し過ぎるのはあまり褒められたことではないとだけは言えるだろう。地に足の着かぬ空想は只の「妄想」である。 《そもそも哲学はつねに到来が遅すぎるのである。現実がその形成過程をおえ、みずからを完成させてしまったあとになって、はじめて、哲学が世界についての思想として時間のなかに現れるのである。このことは概念が教えるところであるが、また必ず歴史が示すところでもあって、現実が成熱するなかで、はじめて理念的なものが実在的なものに対峠するかたちで現れ、そして、この理念的なものがこの世界を実体において把握し、これを知性の王国の形態へと形成するのである。哲学がみずからの灰色を灰色で描くとき、生の形態はすっかり古びたものになってしまっているのであり、灰色に灰色を重ねてみてもその形態は若返らず、単に認識されるにすぎない。ミネルヴァの梟(フクロウ)は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめるのである》(ヘーゲル『法の哲学』(岩波文庫)、 p. 40 ) ※智慧(ちえ)の女神アテナ(ミネルヴァ)はゼウスの娘で、ゼウスの頭から、全身に鎧(よろい)を着たままで飛び出したといい傳(つた)えられてあります。男女の技術の守護神で、男の方では農業と航海術、女では絲(いと)をつむぐこと、機織(はたお)り、裁縫なぞをつかさどっていました。(ブルフィンチ作『ギリシャ・ローマ神話 上』(岩波文庫)野上弥生子訳、 p. 136 )  哲学は現実を