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ハイエク『隷属への道』(13) 法の支配

 個人が各自の判断によって生産的活動を遂行できるような、変動のない法の枠組みを創ることと経済活動を中央集権的に統制することとの間に存在する、これまで述べてきたような違いは、結局のところ、「法の支配」と恣意(しい)的政治との違いという、もっと一般的な差異の一つの特殊例なのである。「法の支配」においては、政府の活動は、諸資源が活用される際の条件を規定したルールを定めることに限定され、その資源が使われる目的に関しては、個人の決定に任される。これに対し、恣意的政治においては、生産手段をどういう特定の目的に使用するかを、政府が指令するのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 92-93)  <自由>と<法の支配>は一体のものである。<法の支配>が徹底されていればこそ個人は<自由>に振る舞える。ただし、ここで言うところの<法>とは「自生的秩序」における「法則」( law )を意味するということに注意が必要である。<自由>の獲得の歴史と共に整序されてきた秩序を維持発展することが自由社会には不可欠だということである。 「法の支配」におけるルールは、前もって制定することができ、特定の人々の欲望や必要の充足を問題とするものではない「形式上のルール」となりうる性質のものである。つまり、人々が多様な目的を追求していくための、単なる道具であるようになっている。また、それらのルールは、長期的な規定であるため、いったいどういう人々がそれによって利益を得るかが、決してわからないようなものであり、またそうあらねばならない。ルールを制定することは、特定の必要を満たすための活動なのではなく、むしろルールはそれ自体、一種の生産のための道具そのものである。というのも、それによって人々は、生産活動をしていく上で関わりを持たざるをえない他者が、どのように行動するかを予測できるように助けられるからである。(同、 p. 93 )  <法の支配>は、機会の平等を確保するための「決まり」であり、機会の平等を確保するために予(あらかじ)め示される「共通基盤」である。  集産主義的な経済計画は、当然これとはまったく逆のことを意味する。計画当局は、誰でもいい人々に、どう活用してもいいような機会を与える、というわけにはいかない。当局は、恣意的な活動を禁ずる一般的・形式的なルールに、前もって

ハイエク『隷属への道』(12) 自由は自由社会の基盤

アクトン卿は言う。 「自由はより高い政治目的のための手段ではない。自由はそれ自体、至高の政治目的である。自由が必要とされるのは、よい行政を実現するためではなく、市民社会、そして個人的生活が、至高の目標を追求していくことを保証するためである」(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 87)  <自由>は、自由社会における「基盤」であり、<自由>がなければ自由社会は成り立たない。自由社会とは個人の自由な選好の総体として成り立つものであるから、<自由>がなければ個人が抑圧され社会の活力が失われてしまうだろう。だから自由社会を維持するためには、自由を確保し続けることが至上命令となるのである。 民主主義は、本質的に手段であり、国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない。民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。そしてまた、これまでの歴史において、いくつかの民主主義体制のもとでよりも、独裁的な支配のもとでのほうが、しばしば文化的・精神的自由が実現されてきたということを忘れてはならない。また、きわめて同質的な、そして空論ばかり振り回す多数派の支配のもとでは、民主主義政府は最悪の独裁体制と同様に圧政的なものとなることは、少なくとも可能性としては考えられる。(同、 p. 88 )  デモクラシーは<手段>であり<功利的制度>でしかないということはしっかり確認しておくべきだ。デモクラシーはその主体たる民衆の良し悪しによって良いものにも悪いものにも成り得る。そして民衆の良し悪しは、民衆を指導する政治家、知識人、マスコミの良し悪しによる。 民主主義的手続きによって与えられているかぎり、権力は恣意(しい)的なものにはなりえない、という信念は、どんな正当な根拠も持っていない。この主張が述べている対比は、まったくの誤りである。権力が恣意的にならないようにさせるのは、それがどこから来ているかという源泉ではなく、権力に対する制限なのだ。(同、 p. 89 )  ナチス・ドイツは、デモクラシーが蹂躙(じゅうりん)されたから生まれたのではなく、デモクラシーに則った手続きを経て生まれたのである。このことが分からなければデモクラシーの危険性を理解することが出来ないであろう。 民主主義的な統制は、権力が恣意的になるのを防ぐかもしれない。だが、

ハイエク『隷属への道』(11) 全体主義への危惧

もちろん、共産主義、ファシズム、そしてその他の様々な種類の集産主義は、社会の活動を振り向ける目標がどんな性質のものであるかについては、それぞれ意見を異にしている。だが、これらすべては、社会全体とその全資源を単一の目的へ向けて組織することを欲し、個人それぞれの目的が至高とされる自主独立的分野の存在を否定することにおいて、等しく自由主義や個人主義と一線を画している。簡単に言えば、すべての集産主義は、最近生まれた「全体主義」という言葉の真の意味において、全体主義的なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 70 )  個人の自由を抑え平等という檻に閉じ込める共産主義、ファシズムなどの終着点は、同じ<全体主義>だということである。 単一の計画によって全経済活動を統制しょうとする試みは、ある一つの道徳的ルールがあって初めて解決できるような、数限りない問題を発生させる。それらの問題に、既存の倫理は答えるすべを知らず、何がなされるべきかについての一致した見解もまったく存在していない。(同、 pp. 72-73 )  計画主義は、1つの計画に基づいて政治経済を独裁的に行おうとするものでしかなく、社会の倫理や道徳は眼中にない。自由主義では、社会生活を円滑に行うための相互了解としての倫理や道徳の存在が重要となるが、計画主義では「法の支配」に基づく自由は認められないのであるから、あるのは計画者の胸三寸と強制だけということになる。  誰も、すべてを包括する価値尺度は持つことができない、つまり、入手可能な資源を競って求めようとしている、人々の無限なまでに多様なニーズを、完全に把握し、それぞれに価値づけを与えることは、どんな人間にもできない(同、 p. 73 ) 人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎない…価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえず、しばしば衝突しあうものとなる…個人主義者は、ある範囲内で個人は、他者のではなく自分自身の価値観や好みに従うことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきでない、と結論する…各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者である…各

ハイエク『隷属への道』(10) 多様性と選択の自由

目先の利益を犠牲にすることによって、われわれは、将来の進歩を促進する重要な刺激を保持していくのである。短期的に見れば、多様性と選択の自由のために払う代償は、時に高くつくかもしれないが、長期的に見れば、物質的な進歩でさえも、この多様性に支えられている。というのも、多様なあり方が可能な財やサービスの供給形態のうち、どれがいっそうよいものを生み出すかを、われわれは決して予測することができないからである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 63)  <多様性>という言葉には少し注意が必要である。昨今<多様性>という言葉をよく耳にし目にするが、そのほとんどが政治的意味合いが強いように思われる。<多様性>という言葉が日本文化を破壊するための鍵言葉のようになってしまっているということである。ハイエクの言う<多様性>とは、将来何が当たるかわからないから選択肢を広げておこうということである。が、<多様性>を確保するにはそれ相応の費用が必要である。これを無駄と見るのか必要と見るのかが判断の分かれ目となる。無駄だとして費用をケチれば将来の芽を摘んでしまうことになりかねない。 もちろん、自由の維持のために、現在の物質的な安楽をさらに増加させてくれる何かを犠牲にすることが、どんな場合でも必ずむくわれるとは限らない。だが、そういう予測できない発展が、自由に実現されていく余地を残しておくべきだ、ということこそ、自由擁護論の眼目なのである。われわれには予測は不可能であるからこそ、現在の知識から判断して、強制的手段が利益しかもたらさないと思えても、また、その特定の分野ではその時点でどんな害も及ぼさないとしても、この原則は守られるべきなのである。(同)  種を蒔けば必ず実を結ぶとは限らない。特に、基礎的研究分野においてはほとんどが日の目を見ないだろうことも経験上分かっている。が、無駄だと思われるものの中から優れた成果が突如として現れてきたこともまた事実なのである。我々は過去の人達が種を蒔いてくれたおかげでその実を有難くも頂戴し暮らしている。そのことに感謝するのだとすれば、我々もまた子孫のために種を蒔くことを怠ってはならないだろう。それは今を生きる者たちの義務でもある。 それはまた、別の面から見れば、限られた人が現在という限られた時点で持っている知識が、未来の発展を左右し

ハイエク『隷属への道』(9) 価格機構

一見不可能に思われるこのような機能、他のどんなシステムも請け合うことのできぬこの働きを、まったく見事に果たしているのが、競争体制における「価格機構」なのである。この価格機構のおかげで、企業家は、需給に影響をおよぼす変動要素より数としてははるかに少ない、いくつかの価格の動きを見守るだけで――ちょうどエンジニアがいくつかのダイヤルのメーターを見るだけでいいのと同様に――自分の活動と他者の活動を調整することができるのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 60 )  すなわち「見えざる手」である。 It is to no purpose, that the proud and unfeeling landlord views his extensive fields, and without a thought for the wants of his brethren, in imagination consumes himself the whole harvest that grows upon them. The homely and vulgar proverb, that the eye is larger than the belly, never was more fully verified than with regard to him. The capacity of his stomach bears no proportion to the immensity of his desires, and will receive no more than that of the meanest peasant. The rest he is obliged to distribute among those, who prepare, in the nicest manner, that little which he himself makes use of, among those who fit up the palace in which this little is to be consumed, among those who provide and keep in order all the differe

ハイエク『隷属への道』(8) 唯一の調整手段

競争は、比較的単純な条件で効力を発揮するのではなく、まったく逆であり、現代の分業社会が複雑であればあるだけ、競争こそが、唯一、そういった調整を適切に実現する手段となるのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 59 )  言い換えれば、複雑化し分業化の進んだ現代社会を調整する手段は<競争>以外に見当たらないということである。  状況が単純であるなら、1人の人間あるいは1つの委員会が、関連するすべての事実を効率的に把握し、有効な統制や計画を行なうことは簡単だろう。しかし、考慮せねばならぬ要因があまりにも多くなり、おおまかな見取図さえ描けなくなった状況では、分権化は避けえない。そうして、分権化が進められると、それぞれをいかにして調整していくかという問題が起こる。つまり、分権化されたそれぞれの当事者が、彼らだけが知りうる事実に従って独自に行動するに任せ、なお、それぞれの計画が相互に調和するような調整は、いかにしたら可能かという問題である。(同)  複雑化した現代社会の全体像を把握し調整することはもはや不可能と言ってよい。にもかかわらず、政府が市場に介入すればどうなるか。ある1つの問題を解決しようとしたら、また別の問題が浮かび上がるといった「モグラ叩き」にしかならないだろう。否、世の中には目に見えない問題もたくさんあるのであるから、眼前の問題だけに目を奪われていては全体的な判断と対応を誤ることにもなりかねない。  きわめて多くの個人が行なう決定が、それぞれどれくらいの重要性を持っているかを判断することは、誰にもできないことであるからこそ、分権化は必要となる。そう考えてみれば、個々の決定の総合的調整が「意図的な統制」でできるはずもないことは明らかだ。(同)  余りにも複雑化し分断化されてしまった社会の全体を把握し適切公正に決定を下すことなど出来やしない。無理にでもやるというなら、有無を言わせぬ強制しか道はない。 調整が唯一可能になるのはある機構が、それぞれの決定者に、自分の決定と他人の決定とがどうやったらうまく折り合うかという情報を伝えることによってである。ところが、どんな単一のセンターも、様々な商品の需要・供給状態に常に影響を与える諸々の変化を、細部に到るまですべて把握したり、それらの情報を即座に収集し広範に伝達したりすることは、

ハイエク『隷属への道』(7) 競争か統制か

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これまで、競争体制についての研究は、もっぱらそのマイナス点をめぐるものに終始していて、どのようにすればそれがより十分な働きをするのかという積極的な研究はあまりなされてこなかった。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 44)  現状に対する批判があってはじめて保守は口を開く。つまり、保守の発言は遅れてやってくるということである。だから<競争>に対する批判が先んずるのは、ある意味、仕方がないことである。  保守論客・福田恆存(ふくだ・つねあり)は言う。 《先に自己を意識し「敵」を發見した方が、自分と對象との関係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社會から閉めだされた自分を辯解(べんかい)し、眞理は自分の側にあることを證明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の發生を見るのである。保守渡は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがって、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる。それは本來、消極的、反動的であるべきものであって、積極的にその先廻りをすべきではない》(「私の保守主義觀」:『福田恆存全集』(文藝春秋)第 5 巻、 p. 437 ) 競争がその機能を十分に発揮していくためには、通貨とか市場とか情報伝達網とかといった、特定の制度――そのうちのいくつかは、民間企業によっては決して十分に提供されえないものである――を適切に組織化していく必要があるだけでなく、とりわけ、適切な法律制度、すなわち競争を維持し、できるだけ効果的に働かせるように考えられた法律制度が、樹立されていなければならない。(ハイエク、同)  <競争>を通して公正な社会を築くためには法の整備が欠かせない。私的独占の禁止や公正取引の確保のための「独占禁止法」といったものも「機会の平等」には必要だ。 われわれがそれへ向かって急速に歩んでいるのは、実はいまだに大半の人々が、「原子論的」な競争体制と中央集権的統制の間に「中庸の道」があると信じていることが大きな原因となっているのである

ハイエク『隷属への道』(6) 自由競争

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競争以外の方法がなぜ劣っていると言えるのか。それは単に、競争はほとんどの状況で、われわれが知っている最も効率的な方法…競争こそ、政治権力の恣意(しい)的な介入や強制なしに諸個人の活動の相互調整が可能になる唯一の方法だ…競争擁護論の主要点は、競争こそ、意図的な社会統制を必要としない、ということであり、また競争こそが諸個人に職業選択の機会を与えるということ、つまり、特定の職業の将来性が、それを選ぶことによって起こる不利益や危険を補ってあまりあるかどうか決断できる機会を与える、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 42)  国家が個人の職業を決めるのではなく、個人が自らの判断で職業を決め、それに就くということである。憲法に言うところの「職業選択の自由」である。 日本国憲法 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。  ここで確認しておくべきは、「職業選択の自由」とは、個人の職業を国家が規制することを禁じるということであって、個人が自分の好きな職業に自由に就けることを保証するわけではないということである。 《職業選択の自由とは,自己の従事する職業を決定し遂行(すいこう)するにつき,国家から強制を受けないことをいう》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)全訂第 3 版、 p. 209 )  詳しくは稿を改めたいと思うが、「職業選択の自由」は、職業選択に関しての自己責任を伴うものであるから、自由がかえって重荷となりかねない。(参照:楽天ブログ:職業選択の自由について(1)欧州産の思想: https://plaza.rakuten.co.jp/ikeuchild/diary/202112040000/ ) 《いったい人は、「自由」という思想にほんとうに耐えられるほどに靭(つよ)い存在なのであろうか。  人間は「自由」でない方がある点で安定しているし、気楽でもある。「自由」であることは、厳密に考えると、悲劇的である。自分で自分を律して、つまり自分で自分の「自由」の負担をきちんと処理して、どんな場合にも倒れないで立派に立っていられるようにせよということは、ひょっとすると、人間に神になれと要求していることにも近い》(西尾幹二『自由の悲劇』(講談社現代新書)、 pp. 234-2

ハイエク『隷属への道』(5) 競争

真に問題なのは…目的を実現するためには、各個人の知識やイニシャチブがいかんなく発揮され、それぞれがもっとも効果的な計画が立てられるような条件を作り出すということだけに、政府権力は自らを限定すべきなのか、それとも、われわれの諸資源を合理的に活用するためには、意識的に設計された「青写真」に基づいて、人々のあらゆる活動が中央集権的に統制・組織されることが必要なのか、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 40-41)  前者が「小さな政府」、後者が「大きな政府」ということになる。「小さな政府」は、慣習や慣例を重んじ、出来る限り政府による規制を少なくしようという立場に立つ。一方、「大きな政府」は、計画目標に向けて個人の活動を政府が規制し統制する。が、計画目標はある特定の人達には喜ばしいものなのかもしれないが、他の多くの人々には必ずしも望むべきものではなかろう。否、ソ連邦の失敗を持ち出すまでもなく、そのような計画はそもそも実現可能なのかという問題もある。 自由主義者の主張は、諸個人の活動を調和的に働かせる手段として、競争というものが持つ諸力を最大限に活用すべきだということであって、既存のものをただそのまま放っておけばいい、ということではない。自由主義の主張は、どんな分野であれ、有効な競争が作り出されることが可能であるなら、それはどんなやり方にもまして、諸個人の活動をうまく発展させていくのだという、確信に基づいている。(同、 p. 41 )  <競争>を通して個々の競争者の能力が引き出される、このことを大切にすべきだということである。例えば、日本人のパン作りやラーメン作りのこだわり、創意工夫、飽くなき探究心は感動ものである。そこには日本人の美意識というものが反映されている。おいしいだけではない。見た目も大事だし、健康への配慮も欠かせない。ただ<競争>と聞くと、強者が力に物を言わせてねじ伏せるという心象を抱き勝ちであるが、<美>を巡る競い合いはもっと高次元の競争なのである。  次なる問題は、<競争>の前提条件である。 この競争が有利に働くためには、十分に考え抜かれた法的な枠組みを必要とすること、そしてこの点に鑑みれば、現在の、あるいは過去の法的ルールは、重大な欠陥を持っているということを、自由主義者は否定しないし、それどころかむ

ハイエク『隷属への道』(4) 社会主義の暗黒

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米国ジャーナリストのウォルター・リップマンは言う。 The generation to which we belong is now learning from experience what happens when men retreat into a coercive organization of their affairs. Though they promise themselves a more abundant life, they must in practice renounce it; as the organized direction increases, the variety of ends must give way to uniformity. This is the nemesis of a planned society and of the authoritative principle in human affairs. – Walter Lippmann, An Inquiry into the Principles of The Good Society : III THE GOVERNMENT OF POSTERITY: 5. THE NEMESIS OF AUTHORITATIVE CONTROL (私達が属する世代は今、自分の問題を強制的な組織に退避させるとどうなるかを経験から学びつつある。より豊かな生活を約束しても、実際にはそれを放棄しなければならない。組織化された方向性が増すにつれ、多様な目的は画一に取って代わられるに違いない。これは、計画された社会の因果であり、人間の問題における権威的原理の応報なのである)  オーストリア経営学者のピーター・ドラッカーも言う。 The complete collapse of the belief in the attainability of freedom and equality through Marxism has forced Russia to travel the same road toward a totalitarian, purely negative, non-economic society of unfreedom and ine

ハイエク『隷属への道』(3) 「機会の平等」と「結果の平等」

われわれが実際着手し始めていることは、期待をはるかに上回る偉大な成果を生み出してきたそれらの「自生的」諸力に頼ることをやめ、非個人的で匿名なシステムである「市場」を廃止し、これに代えて、熟慮の上で定めた目標へと向けて、社会に存在する様々な諸力を、集産主義的で「意識的な」やり方で管理・統制していくシステムを創り出すことである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 19)  一般に<熟慮>は良い事なのだけれど、社会を自分たちが考えた通りに設計し差配出来るなどと大それたことを考えるのだとすれば「短慮」と言うべきだろう。  フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、デモクラシーと社会主義の違いを次のように説明する。 (仏語) La démocratie étend la sphère de l’indépendance individuelle, le socialisme la resserre. La démocratie donne toute sa valeur possible à chaque homme, le socialisme fait de chaque homme un agent, un instrument, un chiffre. La démocratie et le socialisme ne se tiennent que par un mot, l’égalité ; mais remarquez la différence : la démocratie veut l’égalité dans la liberté, et le socialisme veut l’égalité dans la gêne et dans la servitude. ―― Oeuvres complètes d'Alexis de Tocqueville, vol. IX: Étude économiques, politiques et littéraires, p. 546 (英語) Democracy extends the sphere of individual freedom, socialism restricts it. Democracy attaches all possible valu

ハイエク『隷属への道』(2) 自由主義

自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけでもない。ここで最も基本となる原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということであり、この原理は、実際の適用に際してはほとんど無限のやり方がある。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 14)  ハイエクは紛(まが)うかたなき自由主義者である。特筆すべきは、<自生的な力>を最大限に活用すべきだとしている点である。これを見れば、ハイエクの思想が保守のものと重なり合う部分が少なくないことが分かるだろう。 自由主義の政策の進歩は、社会が持っている力とは何か、そしてそれらが望ましい仕方で発揮されるにはどのような条件が必要かを、どれだけ深く理解できるかにかかっていた。真の自由主義者の政策が目指すところは、社会の諸力がうまく動いていくのを助け、必要とあらばそれを補完していくことであり、そのために第一にしなければならないことは、その力自体を理解することであった。言ってみれば、真の自由主義者の社会に対する態度は、園芸師が植物に向かう時のそれに似ている。植物の成長に最高の条件を作るために、園芸師は植物の体質やその機能を、できるかぎり知っておかなければならない。それと同じことが自由主義者にも要求されるのである。(同、 pp. 15-16 )  自由主義者は、社会が円滑に回るようお膳立てはするが、社会自体を自分の思い通りに動かそうなどと大それたことは考えない。 19世紀末にかけて、自由主義の基本的な教義に対する人々の信頼は、どんどんと棄て去られていくという事態になった。自由にまって達成されたものは、確実で消え去ることのない所有物のように見なされ、いったん獲得してしまえばもう放っておいてもいいものだと思われるようになった。人々の目は新しい要求にばかり向けられ、自由主義という古臭い原理に固執することは、それらの新しい要求を速やかに達成する上で障害になるとしか思えなくなった。 自由社会の一般的な枠組みは、かつては進歩を可能にしたとはいえ、そのレールに従って進んでももはや一層の発展は望むことがで

ハイエク『隷属への道』(1) 個人主義

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今回は、自由主義経済学の泰斗(たいと)フリードリッヒ・フォン・ハイエクの『隷属への道』を取り上げる。 本書が発表されたのが第2次大戦真っ只中の1944年。ハイエクは、社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムは同根の集産主義であると批判した。ハイエクが拠って立つのが「個人主義」と「自由主義」である。ハイエクの言う「個人主義」および「自由主義」がいかなるものか、そして「全体主義」がいかなる問題を孕(はら)んでいるのかを見ていきたいと思う。 ★ ★ ★ 個人主義とは、「人間としての個人」への尊敬を意味しており、それは、一人一人の考え方や嗜好(しこう)を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である。それはまた、人はそれぞれに与えられた天性や性向を発展させることが望ましいとする信念でもある。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 10 )  <個人主義>という言葉は多義的であるので少し揉み解(ほぐ)しておこう。 《今日では、人権の根拠は「個人の尊厳」という思想に求められている。それは、社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段とみる個人主義の思想である。個人主義に対立するのは、価値の根源を集団に置き、個人は集団の一部として、集団に貢献する限りにおいてしか価値をもたないとする全体主義であるが、「個人の尊厳」を表明した日本国憲法( 24 条参照)は、全体主義を否定し個人主義の立場に立つことを宣言したのである》(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣)第 3 版、 p. 72 )  個人主義の対義語は全体主義ではなく集団主義と言うべきであろう。全体主義は集団主義の過剰であり鬼子である。したがって、個人主義の対義語を全体主義とし、これを否定して個人主義を選択するというのは結論先にありきの議論でしかない。あるべき議論は、個人主義か集団主義かの選択ということになるが、これも二者択一と考えるべきではない。軸足を個人の側に置くのか集団の側に置くのかという比重の問題とすべきである。個人の側に重心があっても集団が否定されるべくもない。逆に、集団の側に重心があっても個人が否定されやしない。重心の置き方は国や文化それぞれであり

オルテガ『大衆の反逆』(28) 未来への幻想

人間は不可避的に未来主義的構造をもっている。つまり、何よりもまず未来に生き未来によって生きているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 268)  <未来主義>という言葉が引っ掛かる。「人間は未来に向かって生きる」と言うのならまだしも、それを<主義>とまで言うのはやはり言い過ぎであろう。今だけに気を取られていては方向を誤りかねない。一方、未来だけ見ていては、地に足が着いていなくても気が付かない。重要なのは、今と未来との平衡(へいこう)である。 ところでわたしは、古代人とヨーロッパ人を対置して、古代人は未来に対して比較的封鎖的でありヨーロッパ人は比較的開放的であるといった。ここには一見矛盾があるように見えるだろう。しかしそれが矛盾とみえるのは、人間が複層をもった存在であることを忘れている場合である。つまり、一方においては、人間は現にかくあるものであるが、他方においては、人間は自己の真の現実と多少とも一致している自己自身に対する観念をもっているものである。われわれの観念や好みや願望がわれわれの真の存在を無効にすることができないのはもちろんだが、しかし混乱させたり変形させたりすることはできる。古代人もヨーロッパ人も実は同じように未来に関心はもっているが、しかし古代人は未来を過去の規範に服せしめているのに対し、われわれヨーロッパ人は来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える点が違っているのである。こうした在り方そのものの相違ではなく好みの相違が、ヨーロッパ人を未来主義者とみなし、古代人を懐古主義者とみなす立場を正当化する(同、 pp. 268-269 )  欧州大陸は保守性が希薄なのであろう。保守は過去の積み重ねの延長線上に未来を見る。過去の経緯を無視した未来など「絵に描いた餅」に過ぎないからである。にもかかわらず、オルテガは<来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える>と言っている。が、<来るべきもの>とは一体何か。来たるべきか否かは何を根拠としているのであろうか。判断の根拠は過去にある。さもなくば単なる思い付きである。ただ過去に拘泥(こうでい)するのであれば「懐古趣味」と言われても致し方なかろうが、弓矢も後ろに強く引いて射るように、過去を参照せずに理想を語ったところで現実に打ちのめされるだけであろ

オルテガ『大衆の反逆』(27) ナショナリズムか国民国家主義か

ナショナリズムはすべて袋小路(ふくろこうじ)なのだ。試みにナショナリズムを未来に向けて投影してみていただきたい。たちまちその限界が感得されるだろう。その道はどこにも通じていない。ナショナリズムとはつねに国民国家形成の原理に逆行する衝動である。ナショナリズムは排他的であるのに対して国民国家主義は包含的なのだ。しかしナショナリズムも基礎固めの時代には積極的な価値をもっており、1つの高度な規範たりうる。だがヨーロッパにおいては、すべては十分過ぎるほど固まっているので、ナショナリズムは単なるマニアであり、創意の義務と大事業への義務をまぬがれようとする口実にすぎないのである。ナショナリズムが用いている単純きわまる手段とそれが賞揚している人間のタイプを見れば、ナショナリズムが歴史的創造とはまったく逆のものであることが十分すぎるほど明らかとなろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 262)  <国民国家形成の原理>を一旦ここでは「国民国家主義」( nation-statism )と称するとすると、問題は、ナショナリズムか国民国家主義かの二者択一ではないということである。オルテガはナショナリズムを旧套(きゅうとう)として攻撃するが、国民国家を形成するにしても民族( nation )自体が無くなるわけではない。民族が連帯して国民国家が出来るのである。民族のような中間組織は国民国家統合の邪魔になると考え、民族を紐帯(ちゅうたい)なき個人へとバラバラにしようとするのであれば、それは「全体主義」になってしまうだろう。 このまま年月がたち、ヨーロッパ人が現在営んでいる低次の生に慣れてしまう危険、世界を支配しないことにも自己自身を支配しないことにも慣れてしまう危険があるからである。そうなった場合には、ヨーロッパ人の高度の美徳も能力もすべて雲散霧消してしまうだろう。  しかしヨーロッパの統合には、国民国家形成の過程においてつねにそうであったように、保守的な階級が反対している。こうした保守主義者の態度は、彼ら自身の破局を招きかねない。というのは、ヨーロッパが決定的に遺徳的堕落に陥りその歴史的エネルギーのすべてを喪失してしまうにいたるという普遍的な危険の上に、さらにもう1つきわめて具体的で切迫した危険を加えることになるからである。(同、 p. 263 )  

オルテガ『大衆の反逆』(26) 生の原理

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生というものは、われわれがその生の行為を不可避的に自然的な行為と感じうる時に初めて真なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 260 )  手元に別訳が2つある。 ある行為が偽りないものと言えるのは、われわれがその行為を不可避的に必要なものと感じるときだけである。(『オルテガ著作集 2』(白水社)桑名一博訳、 p. 243 ) われわれが、なんらかの生の行為がどうしようもないほど必要であると感ずるとき、はじめて生存のなかに真実がある。(『世界の名著 68』(中央公論社)寺田和夫訳、 p. 568 )  今回は最も手頃ということで「ちくま学術文庫」版を底本としたが、見ての通り訳は三者三様である。よって、あまり訳文やその用語自体に拘(こだ)っても仕方がないわけであるが、ここでオルテガが言いたいことは、「偽りのない行為とは、まさに必然と感じられる行為だけだ」ということであろう。だから、 今日、自己の政治的行為を不可避的な行為と感じている政治家は一人もいないし、彼の身振りが極端であればあるほど彼の自覚は薄く、より軽薄で、運命に要求されている度合いが少ない。不可避的な場面から成り立っている生以外に、自己の根をもった生、つまり真正な生はない。それ以外のものは、すなわちわれわれが手に取ったり、捨てたり、あるいは他のものと取りかえたりしうるものは、虚構の生以外のなにものでもない(オルテガ、同) ということになるわけである。  すべての人々が、新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかし―このような危機の時代にはつねに見られることだが―ある人々は、すでに失効してしまった原理を、過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日われわれが目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。もう一度繰り返していうが、いつの時代にもこうであったのである。最後の炎は最も長く、最後の溜息(ためいき)は、最も深いものだ。消滅寸前にあって国境―軍事的国境と経済的国境―は、極端に過敏になっている。(同、 pp. 261-262 )  今まさに<生の原理>の転換期にあり、従来の原理が「断末魔」を迎えているという認識なのであろう。オルテガは、この危機的状況について別著で次のように述べている。

オルテガ『大衆の反逆』(25) 重苦しい世の中

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世界は今日、重大な道徳的頽廃(たいはい)に陥っている。そしてこの頚廃はもろもろの兆候の中でも特にどはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており、その起源はヨーロッパの遺徳的頑廃にある。ヨーロッパの頑廃には数多くの原因があるが、その主要なものの1つが、かつてヨーロッパ大陸が自己およびその他の世界のうえに行使していた権力が移動したことである。つまり、ヨーロッパは自分が支配しているかどうかに確信がもてず、その他の世界も自分が支配されているかどうかに確信がもてないでいる。すなわち、歴史的至上権が分散してしまっているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 258-259)  かつて欧州は世界の最先端を走っていた。だから世界標準は欧州発であった。欧州が基準を作り、他の国々がその基準に従う。その意味で、欧州が支配者であり、その他の国々が被支配者であった。が、『大衆の反逆』が出版された1930年は2つの大戦の間にあたり、非常に不安定な時期であった。誰が支配者なのか、指導者なのかが見えない時であった。  もはや「頂点の時代」はない。なぜならばそのためには、19世紀がそうであったように、1つの明確で、あらかじめ設置された疑う余地のない未来が前提となっていなければならないからである。19世紀の人々は明日何が起こるかを知っていると信じていたのだ。ところが今日地平線はふたたび新しい未知の世界に向かって開かれているのである。なぜならば、誰が支配するのか、そして権力はいかなる形で地球上を覆うのかが分からないからである。誰が支配するかというのは、つまり、いかなる民族、あるいはいかなる諸民族の集団、したがって、いかなるイデオロギー、いかなる傾向、規範、生命衝動の体系が支配するかということである。(同、 p. 259 )  オランダの歴史家・ヨハン・ホイジンガは1935年の著作で、欧州の重苦しい雰囲気を次のように著(あらわ)した。 《わたしたちは憑(つ)かれた世界に生きている。そのことをよく承知している。予期せぬものとてなかろう、やがては狂気が爆発する、あわれなヨーロッパの人びとは、呆然(ぼうぜん)自失のうちにとりのこされる、モーターはなおまわりつづける、旗は風にひるがえる、だが精神はどこへいったのか。  わたしたちは、いま生きているこの社会の仕組が

オルテガ『大衆の反逆』(24) 欧州という共通の背景

国民国家の深奥にひそむ本質…それは次の2つの要素からなっている。第1は共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に対する人々の支持である。この全員による支持こそ、国民国家をそれ以前のすべての国家から区別するあの内的強固さを生み出すものなのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 251)  <生の計画>を人々が支持すればこその<国民国家>なのだ。人々の支持がなければ<国民国家>は成り立たない。物理的紐帯(ちゅうたい)を乗り越えた連帯には人々の支持が欠かせない。 フランス人の魂、イギリス人の魂、スペイン人の魂は確かに大いに違っていたし、今日も違っているし、今後も違ったままであろう。しかし彼らは、まったく同一の心理的な結構というか構造をもっており、なかんずく共通の内容をもちつつあるということである。宗教、科学、法律、芸術、社会的価値、愛の価値などは共通のものとなりつつある。ところで、実はこれらこそ、人間が因(よ)って生きるところのものである。したがってこの場合の等質性の方が同一の型にはめられた魂の場合よりも大きいという結果になるのである。(同、 p. 257 )  が、オルテガに楯突くようだが、<宗教>ばかりは共通のものとはならないように思われる。そんな簡単に<宗教>が共通のものとなるのであれば、どうして欧州で苛烈な宗教戦争が繰り返されてきたのか。カトリックとプロテスタントがどうして折り合いを付けられるのか分からない。一体キリスト教、イスラム教、仏教の共通性はどこに見出せるというのだろうか。共通性が見出されるのだとすれば、それは脱宗教ということだろう。つまり、唯物論が社会を席巻するということである。こんな恐ろしい話はない。  今日もしわれわれが、われわれの精神内容―意見、規範、願望、仮定―のバランスシートを作成したとすれば、その大部分がフランス人の場合には彼のフランスからもたらされたものでもなく、スペイン人の場合にも彼のスペインからもたらされたものでもなく、ともに共通の背景であるヨーロッパに負うものであることに気づくであろう。今日確かに、われわれ一人一人のうちには、フランス人、スペイン人等々というように他国人と相達する部分よりもヨーロッパ人としての部分の方が大きな場所を占めているのである。(同)  <宗

オルテガ『大衆の反逆』(23) 共通性の創造

共通の血、言語および過去は静的で、宿命的で、硬化した無気力な原理であり、牢獄である。もし国民国家がそれらのみに存するとすれば、国民国家とはわれわれの背後にあるものであって、われわれとしてはなすべきことは何もないだろう。つまり、国民国家とはかくあるものであって、かく形成するものではなくなってしまうだろう。さらに国民国家が誰かに攻撃されたとしても、それを守ることすら無意味になってしまうであろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 247)  国家の基礎となるのは<共通の血>であり<共通の言語>であり<共通の過去>であることは論を俟(ま)たないだろう。が、大事業をなさんとすれば、より多くの人々、地域、国家が連帯せねばならない。それが物理的紐帯(ちゅうたい)を超越した、オルテガ言うところの<国民国家>なのだと思われる。  もし国家が過去と現在とからのみ成り立っているのであるなら、それが攻撃を受けても誰も防衛しようとはしないだろう。このことに反対する人は偽善者かさもなければ愚者である。国家の過去は、未来に夢―それが正夢であろうと逆夢であろうと―を投影するのである。われわれには、われわれの国家がその中で存続するような未来が望ましく思えるのだ。だからこそ、われわれは祖国の防衛に立ち上がるのであって、血を守るためでも、言語を守るためでも、共通の過去を守るためでもない。国家を守ることによってわれわれが守衛するのは、われわれの明日であってわれわれの昨日ではない(同、 pp. 247-248 )  私にはオルテガの論理が今一つ分からない。例えば、明日は未だ来ないものであるから備えることは出来ても具体的に差配することは出来ない。だから、良き未来を手に入れるためには現在において最善を尽くすのみである。換言すれば、現在の努力の積み重ねが良き未来へと繋がっているということである。過去は過ぎ去ったものであるから変えられないというのは「事実」ではあっても「真実」ではない。どの角度、どの距離で過去を見るかによって「史実」は変わらなくとも「解釈」は変わる。「事実は1つであっても、真実は複数ある」と言われる所以(ゆえん)である。だから過去を守るということもまた現在の大切な仕事なのである。 国民国家は、成員に共通した1つの過去をもつ前に、その共通性を創造しなければなら

オルテガ『大衆の反逆』(22) 国民国家

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国民国家(ナショナル・ステート)の秘密は、国民国家を国民国家たらしめている独自の原動力、つまりその政治そのものに探し求めるべきであり、生物学的もしくは地理学的な性格をもった他の無縁の原理に求めるべきでない(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 242)  欧州の<国民国家>は複雑である。海に囲まれ、大陸から隔離された日本とは随分心象が異なるだろう。国家とは1つの言語、1つの宗教、1つの文化といった感覚が日本人には強い。が、欧州の<国民国家>は、複数の言語・宗教・文化が入り混じっている。つまり、これらの要素で国境を線引きすることが困難なのである。よってオルテガは<政治>そのものに境界を求めるべきだと主張するのである。 国民国家とは―この言葉が1世紀以前も前から西欧において示している意味においては―社会的権力とそれによって支配されている集団との「原質的一致」を意味するのである。  国家とはその形態がどういうものであろうと―原始的、古代的、中世的、近代的を問わず―つねに、ある人間集団がある事業を共同で行なうために他の人間集団に対して行なう招請である。この事業は、その中間的な手続きがいかなるものであっても、最終的には、ある種の共同生活の型を創り出すことにある。(同、 p. 243 )  戦前の日本も<共同事業>を遂行しようと朝鮮を併合した時代があった。この事業は日本が大東亜・太平洋戦争に敗北したことにより終わりを迎えたが、文化や言語の異なる人達が目標を掲げ1つとなり協働することの難しさが嫌と言うほど分かった事例であった。米国に対抗する1つの極を作るべく創設されたEU(欧州連合)も今、艱難辛苦(かんなんしんく)に喘(あえ)いでいる。 《過去においては共有すべき栄光と悔悟の遺産、未来に向けては実現すべき同一のプログラム。ともに苦しみ、喜び、望んだこと、これこそ、共通の税関や戦略的観念に合致した境界線以上に価値あるものです。これこそ、種族と言語の多様性にもかかわらず、人々が理解することです。いま私は、「ともに苦しみ」と申しました。そうです、共通の苦悩は歓喜以上に人々を結びつけます。国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値のあるものです。というのも、哀悼は義務を課し、共通の努力を命ずるのですから。  国民とは、したがって、人々が過去にお

オルテガ『大衆の反逆』(21) 世論の支持

支配とは権威の正常な行使である。それはつねに世論に支えられているものであり、この事実は今日も1万年前も、イギリス人の場合もブッシュマンの場合も変わりないのである。いまだかつて、世論以外のものに支えられて支配を行なった者は地球上には1人もいないのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 181-182)  <支配>とは、他者を自分の権力下に置くということである。が、それは必ずしも有無を言わさずとか無理矢理とかということを意味するわけではない。それどころか、<支配>は<世論>に支えられてはじめて成り立つのである。 創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは次のような2つの状況下においてのみ可能である。すなわち、自ら支配するか、あるいは、われわれが完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、つまり、命令するか服従するかのいずれかである。しかし服従するということはけっして忍従することではなく―忍従は堕落である―その逆に、命ずる者を尊敬してその命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に情熱をもって集まることなのである。(同、 p. 208 )  命令者の支配下に自ら入るのか、入らされるのかで意味合いは大きく異なる。命令者に自ら進んで参与すればこそ<創造的な生>を生きることが出来る。嫌々支配下に組み込まれるようでは<生>のエネルギーは解放されることはない。 今日の議会の権威失墜は、議会の有する明白な欠点とはなんの関係もない。それは、政治的道具としての議会とはまったく無関係な別の世界の理由からきているのである。つまり、ヨーロッパ人が、その道具を何に使うかを知らないこと、伝統的な社会的な生の諸目的を尊重しなくなっていること、一言でいえば、ヨーロッパ人が自分が登録され閉じこめられている国民国家に希望を抱かなくなっていることに由来しているのである。(同、 p. 213 )  <議会>は今や、国民間の問題を調整し、国民国家を前進させるための「アリーナ」(討議の場)ではなくなり、<大衆>の意見を形式的に追認する場(トポス)と化している。そこに<権威>などあろうはずがない。 かくも有名な議会軽視を少し注意深く分析してみれば、大部分の国において

オルテガ『大衆の反逆』(20) 全体主義への道

革命によって市民階級は社会的権力を掌握した。そして、彼らは彼らのもっている否定しえない美徳を国家に応用し、わずか一世代足らずで強力な国家をつくりあげ、一連の革命の息の根をとめてしまったのである。1848年以後、つまり、市民階級による支配の2世代目が始まってからというもの、ヨーロッパには真の意味での革命は起こっていない。それは革命のための動機がなかったからというのではなく、その手段がなかったからである。社会的権力と社会の力とが均衡した。革命は永遠に姿を消したのである。ヨーロッパに起こりうるのはもはや革命とは逆のもの、つまり、クーデターのみとなった。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 168)  デモクラシーが広がるにつれ、政治体制の抜本的転換を図ろうとする革命熱は冷めていった。また、社会主義国家建設が画餅(がべい)に帰し、イデオロギーの転換を求める<革命>ももはや時代錯誤となった感がある。残ったのは政権奪取を図る<クーデター>だけだということである。 今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。大衆がなんらかの不運を感じるか、あるいは単に激しい欲求を感じる場合、彼らにとっての大きな誘惑は、ただ一つのボタンを押して強力な機械を動かすだけで、自分ではなんの努力も苦闘もせず、懐疑も抱かなければ危険も感じずにすべてのものを達成しうるという恒久不変の可能性をもつことである。(同、 pp. 169-170 )  国家に権力を集中させ、それを用いて個人の自由を制限し抑圧しようとするのは、「全体主義」そのものである。また、<大衆>以外の存在を認めない不寛容な姿勢も「全体主義」に通ずるものがあると言ってよいだろう。つまり、大衆社会は「全体主義」的傾向をもつということである。我々はそのことに十分注意しなければならない。 ヨーロッパ文明は…自動的に大衆の反逆を生み出した。そして、この大衆の反逆は、表面から見れば、楽観的な様相を呈している。すなわち…大衆の反逆とは、人間の生がわれわれの時代にいたって経験した驚異的な成長そのものに他ならない…しかしその裏側は実に恐ろしい様相を呈している。

オルテガ『大衆の反逆』(19) 分を弁えぬ自惚れ屋

彼(=専門家)は、政治、芸術、社会慣習あるいは自分の専門以外の学問に関して、未開人の態度、完全に無知なる者の態度をとるだろうが、そうした態度を強くしかも完壁に貫くために―ここが矛盾したところだが―他のそれぞれの分野の専門家を受け容れようとはしない。文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである。しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてることとなろう。かくして、特別な資質をもった最高の実例―専門家―、したがって、大衆人とはまったく逆であるはずのこの実例においてすら、彼は生のあらゆる分野において、なんの資格ももたずに大衆人のごとくふるまうという結果になるのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 160)  <専門家>は、専門分野においては秀でているが、専門外については他と変わらぬ凡人である。にもかかわらず、専門外のことまで自信満々に弁舌(べんぜつ)を振るう。それだけなら只の厚顔無恥で済まされるのかもしれないが、大衆化した<専門家>は、他者の意見に対し聞く耳を持たない。専門家の意見であっても聞き入れない。<専門家>は、専門外のことに関しては知識がないために、好きか嫌いかで判断してしまう。だから他者の意見を聞き入れる余地がない。 今日、政治、芸術、宗教および生と世界の一般的な問題に関して、「科学者」が、そしてもちろん彼らに続いて医者、技術者、財政家、教師等々が、いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、誰でも観察しうるところである。わたしが大衆人の特性として繰り返し述べてきた「人の言葉に耳を貸さない」、より高度の審判にも従わないという傾向は、まさにこの部分的資質をもった人間においてその極に達するのである。今日の大衆支配の象徴であるとともに、その大部分を構成しているのが彼らなのである。(同、 pp. 160-161 )  <科学者>は、自分の専門内においては科学者足り得るが、専門外においては一般人と何ら変わるところがない。科学は客観的なものでなければならないはずだが、専門外における<科学者>の発言は、科学者の仮面を被(かぶ)ってただ自分の主観を巻き散らしているだけである。専門内における「自信」が専門外にも応用

オルテガ『大衆の反逆』(18) 犬儒主義者

紀元前3世紀ごろ、地中海文明がその絶頂点に達するとすぐに、犬儒(けんじゅ)主義者が現われた。ディオゲネスは泥まみれのサンダルをはいてアリスティブスの絨毯(じゅうたん)の上を歩いた。犬儒主義者はどの街角にもどの階層にもいるという人物像になってしまった。ところで、彼らがやったことは、当時の文明をサボタージュすることに他ならなかったのである。彼らはヘレニズムの虚無主義者だったのだ。彼らは、何も創造しもしなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊であった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。文明の寄食(きしょく)者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 148-149) ※「犬儒」:kynikos(「犬のような」の意)の訳語。 古代ギリシアの哲学者シノペのディオゲネスがみすぼらしい身なりで町をさまよい歩き、樽を住居として「犬のような生活」を送ったことからいう(『精選版 日本国語大辞典』)  <大衆>は、謂(い)わば犬儒主義者、虚無主義者、文明の寄食者のような存在ではないかということだ。 文明世界は平均人の能力に比較して、過剰、過度の豊かさ、余剰の様相を示すにいたったのである。そのほんの一例をあげれば、進歩―すなわち生にとっての便益の不断の増大―が約束するかに見えた安全さは、平均人に偽りの、したがって怠惰に誘(いざな)う悪弊のある自信を与える結果となり、平均人を堕落させてしまった(同、 p. 150 )  <大衆>の堕落は二義的な問題である。看過(かんか)できないのは、<大衆>が社会の真ん中にしゃしゃり出てきたことである。 専門家は自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく「識(し)っている」が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである。(同、 p. 159 ) かつては、人間は単純に、知識のある者と無知なるもの、多少とも知識がある者とどちらかといえば無知なるものの二種類に分けることができた。ところが、この専門家なるものは、そのいずれの範疇(はんちゅう)にも属しえないのである。彼は、自分の専門領域に属さないことはいっさいま

オルテガ『大衆の反逆』(17) 運命

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運命というものは、われわれが好んでこうしたいということにあるのではなく、むしろ、したくないことをしなければならないというわれわれの自覚において、その厳しい横顔をはっきりと現わすものなのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 146)  <運命>を考えるにあたっては、したいかしたくないかという好悪の問題としてではなく、しなければならないという義務・責務の問題として考えるべきであろう。東洋思想の大家・安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は、<運命>について次のような解説をなされている。 《我々の存在、我々の人生というものは一つの命(めい)である。その命は、宇宙の本質たる限りなき創造変化、すなわち動いてやまざるものであるがゆえに「運命」というのであります。「運」というのは「動く」という字であり、ダイナミックを意味します。ところが普通は、「運命」ということをそう正しく学問的に解釈しないで、きわめて通俗的にこれを誤解して、運命を我々の決まりきった人生の予定コースと解している。何年になったら病気をする、何年何月何日には火事に遭う、来年の正月には親が亡くなる、あなたは四月になったら転任するだろうと、というようなことを運命だと思っているが、そういうものは運命ではなくて「宿命」である。宿はヤドであるから泊まる、すなわち固定的・機械的な意味を持つ。運命は運命であって、どこまでもダイナミックなものであって、決して宿命ではない、またメカニカルなものではない》(安岡正篤『運命を創る』(プレジデント社)、 p. 123 ) 《命というものは絶対的な働きであるけれども、その中には複雑きわまりない因果関係がある。その因果律を探って、それによってその因果の関係を動かして新しく運命を創造変化させていく、これが「道」というものであります。あるいは、命という字を使えばそれを「立命」という。この複雑な数(すう)を知ることは「知命」であります。命を知って、これによって我々が自分というものをリクリエートしていくのが立命であります。  だから、我々の運命というものは、本質的に見ればこれは絶対であり、これを主体的に考察すれば自由である。客観的には絶対であり、主体的には自由である》(同、 p. 125 ) ★ ★ ★ 今日は「風潮」の時代であり「漂流者」の時代である。芸

オルテガ『大衆の反逆』(16) 歴史に学ばぬ人達

ポルシェヴィズムとファシズムも、この本質的な後退の明瞭な2つの例である。わたしがそれらを本質的な後退というのは、彼らの教義の内容を指していっているのではない。その内容をそれなりにとりあげてみれば、当然ながら一片の真理をもっているのである―この宇宙には、いささかの真理ももたぬものなど存在しない。むしろ、彼らが自分たちの正当性を取り扱う場合の、反歴史的、時代錯誤的な方法を指しているのである。大衆人の運動の常として、凡庸(ぼんよう)で、時代に則しておらず、古い記憶もなければ「歴史意識」もない人間に指導された典型的な大衆人の運動は、初めからあたかもすでに過去であるかのごとく、つまり、今起こりつつありながらあたかも昔の人類に属しているかのようなふるまい方をする(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 130)  しばしば「歴史は繰り返す」と言うけれども、歴史に学ばぬ人達は、過去と同じ過ちを犯しがちである。例えば、なぜヒトラーが登場し暴走することになったのかについて省察を加えなければ再び「独裁者」が現れることとなりかねない。 いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵(ぞう)することこそ、いっさいの過去を超克(ちょうこく)するための不可避的な条件である。過去と戦う場合、われわれはとっ組み合いをすることはできない。未来が過去に勝つのは、未来が過去を呑み込むからである。過去のうちの何かを呑み込みえないままで残すとなれば、それは未来の敗北である。(同、 p. 132 )  歴史に宿す英知に学ぶことは、過去を超克するための必須条件であろう。過去に学ばぬ人間が考えることなど高が知れている。 19世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼

オルテガ『大衆の反逆』(15) 垂直的侵略者

最も怖るべき事実は、平均人が科学から受ける恩恵と、平均人が科学に対して抱く―いや抱かないというべきであろう―感謝の念の不調和なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 120 )  <大衆>は手に入れるばかりで与えることをしないから社会の帳尻が合わない。<大衆>は社会の「搾取者」なのである。 今やヨーロッパにおいて支配的な地位に登り始めた人間は―これがわたしの仮説である―彼がその中に生まれ出た複雑な文明と対比すれば、原始人であり、舞台の迫出(せりだし)から突如姿を現わした野蛮人、「垂直的侵略者」なのである。(同)  自分が作ったものであれば思い入れもあろうが、自分が生まれた時には既に文明が存在していたのであるから、そこに有難みがあろうはずもない。在って当たり前のものに過ぎないのである。 文明とはそこにあるというものではないし、自立自存もしえないものである。文明とは技巧的なものであり、芸術家もしくは職人を必要とするものである。もしあなたが文明の使役を利用したいと希望しながら、文明を維持することに関心を示さないなら、……あなたは失望する結果に終わるだろう。たちまちのうちに、あなたは文明を失うだろう。(同、 pp. 124-125 )  もし自分が生きている間に文明が失われるというのであれば、少しは危機感を持つかもしれないが、<大衆>は恐らくそう思わない。文明を維持発展するために自らも努力しなければ文明は失われてしまうと警鐘を鳴らしたとしても、馬耳東風でしかないだろう。  大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって( ipso facto )原始人になってしまっているのである。文明は彼にとっては原生林のように見えるのだ。(同、 p. 126 )  文明というものは、進めば進むほど、いっそう複雑でむずかしいものになってゆく。今日の文明が提起している問題は極端に錯綜(さくそう)したものである。そして、それらの問題を理解しうる頭をもった人間の数は日ごとに少なくなっていっている。(同、 p. 127 )  文明の発展に伴って「専門分化」が進み、同時に、これらを統合し総合することが難しくなってしまった。全体像を

オルテガ『大衆の反逆』(14) 大衆は穀潰し

ほとんどすべての国において、同質的大衆が社会的権力の上にのしかかり、反対派をことごとく圧迫し、抹殺している。大衆は―その密度とおびただしい数とを見れば誰にも明らかなことであろうが―大衆でないものとの共存を望まない。いや大衆でないものに対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いている(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 108)  <大衆>は自ら高みを目指して努力することをしない。努力する必要を感じないし、努力するにしても億劫(おっくう)だ。そもそも<大衆>を抜け出てしまえば攻撃の対象とさえなってしまう。だから、<大衆>は大衆でない人達を攻撃することだけに精を出し、社会の実権をほしいままにする。 世界は文明開化しているが、しかしその住民は未開なのである。彼らは自分たちの世界の中に文明をさえ見ずに、ただ文明をそれがあたかも自然物であるかのように使っているだけである。(同、 p. 114 )  <大衆>は、文明を利用はするが、文明を維持発展するために努力はしない。 科学は、その純粋そのままの姿に対する、つまり科学そのものに対する興味がなくなれば科学ではなくなるのである。しかも、人々が文化の一般的原理に対する情熱を失ってしまえば、かかる興味も起こりえないのである。この情熱が衰えれば―今やそうなりつつあるように思われるが―技術はほんのしばらくの間、つまり、技術を生んだ文化的衝動の惰性が続く間だけ生きのびるにすぎないであろう。人は技術を用いて生きてはいるが、技術によって生きているのではない。技術は自らを養うこともしなければ自ら呼吸することもない。技術は自己原因( causa sui )ではなく、あり余った非実用的な関心が生み出した有用で実用的な沈澱物なのである。(同、 pp. 115-116 )  大衆社会の何が問題かと言えば、文明の存続が危ういということにある。文明の維持発展にはそのために努力する人間が必要である。が、<大衆>はそのような努力はしない。敢えて言うなら「穀潰(ごくつぶ)し」的存在だとでも言えるのではなかろうか。 ★ ★ ★ 哲学者は大衆の擁護も必要としなければ好意も同情も必要としない。哲学は自己を完全に無益なものに見せかけ、そうすることによって平均人に対するいっさいの屈従から自己を解放しているのである。哲学は