オルテガ『大衆の反逆』(14) 大衆は穀潰し

ほとんどすべての国において、同質的大衆が社会的権力の上にのしかかり、反対派をことごとく圧迫し、抹殺している。大衆は―その密度とおびただしい数とを見れば誰にも明らかなことであろうが―大衆でないものとの共存を望まない。いや大衆でないものに対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いている(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 108)

 <大衆>は自ら高みを目指して努力することをしない。努力する必要を感じないし、努力するにしても億劫(おっくう)だ。そもそも<大衆>を抜け出てしまえば攻撃の対象とさえなってしまう。だから、<大衆>は大衆でない人達を攻撃することだけに精を出し、社会の実権をほしいままにする。

世界は文明開化しているが、しかしその住民は未開なのである。彼らは自分たちの世界の中に文明をさえ見ずに、ただ文明をそれがあたかも自然物であるかのように使っているだけである。(同、p. 114

 <大衆>は、文明を利用はするが、文明を維持発展するために努力はしない。

科学は、その純粋そのままの姿に対する、つまり科学そのものに対する興味がなくなれば科学ではなくなるのである。しかも、人々が文化の一般的原理に対する情熱を失ってしまえば、かかる興味も起こりえないのである。この情熱が衰えれば―今やそうなりつつあるように思われるが―技術はほんのしばらくの間、つまり、技術を生んだ文化的衝動の惰性が続く間だけ生きのびるにすぎないであろう。人は技術を用いて生きてはいるが、技術によって生きているのではない。技術は自らを養うこともしなければ自ら呼吸することもない。技術は自己原因(causa sui)ではなく、あり余った非実用的な関心が生み出した有用で実用的な沈澱物なのである。(同、pp. 115-116

 大衆社会の何が問題かと言えば、文明の存続が危ういということにある。文明の維持発展にはそのために努力する人間が必要である。が、<大衆>はそのような努力はしない。敢えて言うなら「穀潰(ごくつぶ)し」的存在だとでも言えるのではなかろうか。

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哲学者は大衆の擁護も必要としなければ好意も同情も必要としない。哲学は自己を完全に無益なものに見せかけ、そうすることによって平均人に対するいっさいの屈従から自己を解放しているのである。哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、またそれを目指しても期待してもいない。哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろうか。(同、p. 119

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