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ハイエク『隷属への道』(44) 個人を超えた非人格的な力

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 過去において文明の発展が可能になったのは、市場における「個人を超えた非人格的な諸力」に、人々が身を任せてきたからであり、このことなしに、今日のような高度な文明が発展することは決してありえなかった。言い換えると、われわれの中の誰一人として十分に理解することができないより偉大な何事かを築き上げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、という考え方を人々が受け入れてきたからこそ、このように偉大な文明も初めて可能となったのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 279)  T・S・エリオットも同様の指摘をする。 《詩人は過去についての意識を展開しもしくは把握したうえ、生涯を通じてこの意識を絶えずひろげてゆかねばならない…このようにして詩人は現在あるがままの自己を自分より価値の高いものにいつもまかせきってゆくことが可能になるのだ。芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしてゆくこと、絶えず個性を滅却してゆくことである》(「伝統と個人の才能」:『文芸批評論』(岩波文庫)矢本貞幹訳、 p. 13 ) 過去の人々がそのような考えを受け入れてきたのは、一部の人が今日では迷信とみなしているなんらかの信仰が基礎となっているのか、それとも宗教的な謙遜の精神によるものか、あるいは初期の経済学者たちによる原始的な教えを過大に尊敬したからであったのか、というようなことはここでは問うまい。決定的に大切なことは、細かい働きが誰にも理解できないような諸力に身を任せなければならないということを、合理的に理解することはきわめて困難だということである。それよりはむしろ宗教や経済的教義への尊敬から生まれる、謙虚な畏敬の念に従うことはずっとたやすいものである。(ハイエク、同)  社会の流れに棹差せば助力が得られるのに対し、合理的でないからと社会の流れに逆らえば、「労多くして功少なし」という結果に終わってしまうだろう。  必然性が理解できないようなことが多くあるということこそ、文明の基本的性質なのである。もしも、誰もがすべての必然性を知的に理解しなければならないのであれば、現代の複雑な文明を少なくとも維持していくには、現在いかなる人が持っているよりとてつもなく大きな知性が、すべての人に与えられなければならないだろう。(同、 pp. 279-280 )  <必然性>を理

ハイエク『隷属への道』(43) 自由主義と社会主義の二者択一

Is it just or reasonable, that most voices against the main end of government should enslave the less number that would be free? more just it is, doubtless, if it come to force, that a less number compel a greater to retain, which can be no wrong to them, their liberty, than that a greater number, for the pleasure of their baseness, compel a less most injuriously to be their fellow-slaves. They who seek nothing but their own just liberty, have always right to win it and to keep it, whenever they have power, be the voices never so numerous that oppose it. -- JOHN MILTON, The Ready and Easy Way to Establish a Free Commonwealth (政府の主要な目的に反対する大部分の声が、自由であるはずの少数派を隷属させることは、正当なのだろうか。強制することになるとしたら、少数派が、多数派に彼らの自由を、何の間違いでもないかもしれないが、保持することを強制することの方が、多数派が、自分たちの卑しさの喜びのために、少数派に最も不当なやり方で自分たちの仲間の奴隷になることを強制することよりも、疑いなく公正である。自分自身の正当な自由しか求めない人々には、それに反対する声が決して多くはなくとも、権力を持つときはいつでも、それを獲得し維持する権利がある)―― ジョン・ミルトン ★ ★ ★ 市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序を選ぶか、それとも少数の個人たちの意志によって支配される道を選ぶか、この二者択一以外のどのような可能性もわれわれ

ハイエク『隷属への道』(42) シュンペーター「新結合」

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独占がわれわれにとって危険なものとなってきたのは、少数の利益団体としての資本家たちの努力によってではなく、彼らが独占利潤の分け前を与えることで他の人々から獲得してきた支持や、独占を後援することがより正義にかない秩序立った社会を創り出すのを助けるのだと説得された人々の支持を通じて、独占が強化されてきたという事情による(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 271)  「大き過ぎて潰せない」( too big to fail )などと言って政府が市場介入するようなことがあれば、市場から退場すべき斜陽産業が温存されかねず、市場の新陳代謝を阻害することにもなりかねない。  経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは「新結合」という言葉を用いて市場の新陳代謝について説明した。 《新結合の遂行者が、この新結合によって凌駕排除される旧い慣行的結合において商品の生産過程や商業過程を支配していた人々と同一人である場合もありうるけれども、しかしそれは事物の本質に属するものではない。むしろ、新結合、とくにそれを具現する企業や生産工場などは、その観念からいってもまた原則からいっても、単に旧いものにとって代わるのではなく、一応これと並んで現れるのである。なぜなら旧いものは概して自分自身の中から新しい大躍進をおこなう力をもたないからである》(シュンペーター『経済発展の理論(上)』(岩波文庫)、 pp.183-184 ]  詰まり、 《通常新しいものは旧いものの中から発生するのではなく、むしろ旧いものと並んで登場し、これを.打ち負かし、あらゆる関係を変化させ、その結果、ひとつの特殊な「秩序化の過程」が必要になる》(シュンペーター『経済発展の理論(下)』(岩波文庫)、 p. 192 ) のである。 最近の独占の成長は、組織化された資本と組織化された労働との間における、意図的な共同の結果である面が大きい。そしてこのような共同のもとで、労働の側に属する特権的な各種のグループが、独占企業の利潤を企業側と分かち合うことによって、われわれの共同体一般を犠牲にしてきたのであり、その中でもとりわけ最貧困な人々、すなわちあまり組織化されていない産業で雇用されている人々や、失業してしまった人々を犠牲にしてきたのである。(同)  まさに企業や労働組合の庇護の下(もと)にない、詰まり

ハイエク『隷属への道』(41) 全体主義への橋渡し「独占」

 独占を志向する資本家たちは他の人々に対し、自分たちが手にしている独占利潤の分け前にあずからせたり、あるいは、おそらくもっと多くの場合、独占の形成は公共の利益となるのだと説得することによって、ある程度まで支持を得るのに成功してきた。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 267)  「競争」を阻害するものに「独占」がある。この「独占」が固定化され、体制化されていくことが問題の始まりである。 このような発展を立法や司法を通じて推進するのに際して、最も重要な役割を果たしてきたのは世論の変化である。この変化が発生したのは、左翼が展開してきた、競争を攻撃する宣伝活動の結果以外の何ものでもない。(同)  最も<世論>に影響を与えるのが新聞やテレビ報道などの「マスコミ」である。一般に「マスコミ」は権力批判を旨とする。そのため左傾化しがちである。「マスコミ」が左傾化し、「競争」を攻撃することで「独占」体制が強化される。 また、きわめてしばしば見られたことであるが、独占を抑制したり排除したりすることを目的として採用された様々な政策が、現実には独占の力を強化することのために役立っているにすぎないことも多い。政府当局による独占の利益の吸い上げは、たとえそれが他のなんらかのグループの利益や国全体の利益を目的としたものであっても、常に新しい既得権益を創り出す傾向を有しており、結果的に独占をいっそう強化することに終わってしまう。(同)  政府が市場に介入し、独占を抑制したり排除したりするために独占の利益を吸い上げる体制もまた新たな<既得権益>を生み出してしまうということである。 そういう点では、独占から得られる利潤が、巨大な特権グループに再配分されるような体制は、独占企業家たちの手にしか利潤が入らない体制に比べて、政治的にはるかに危険なものである可能性が高く、もっと強力なものとなることは確実である。(同、 pp. 267-268 )  政府による再分配政策は社会主義そのものであり自由競争を阻害する。「独占」を嫌って政府が市場介入し、利益の再分配を行えば、かえって独占を体制化し固定化することになりかねない。  国家による独占とは、独占を制御し管理すべき立場にある国家権力が、披管理体である独占体を逆に保護し守っていくようになってしまうということを意味す

ハイエク『隷属への道』(40) 人は自分が望むものを進んで信じるものだ

The sterility of the peace settlement of 1919 was due to the failure of those who made it to understand the contemporary revolution. – E. H. Carr, Conditions of Peace , Chapter I War and Revolution (1919年の和平調停が不毛だったのは、それを行った人々が現代の革命が理解できなかったからだった)――E・H・カー『平和の条件』 とカー教授は言う。 In retrospect, it is not difficult to see that the increasing strains of competitive capitalism were one of the most important underlying causes of the catastrophe of 1914. To multiply the number of competing units in the name of the ideals of die French Revolution was as sure and as mad a way as could well have been found of aggravating the crisis and of ensuring a repetition of the outbreak. The paradox which continues to puzzle students of the period between the two wars is that the victorious Allies "lost the peace". – Ibid. (振り返ってみれば、競争資本主義の歪(ひず)みの増大が、1914年の破局の最も重要な根本原因の1つであったことは分かり難くはない。フランス革命の理想の名の下に競争部隊の数を増やすことは、危機を悪化させ、必ずその発生を繰り返す、これ以上ないほど確実で狂気の方法であった。2つの戦争の間の期間を研究する者を困惑させ続けている逆理は、戦勝国たる連合国が「

ハイエク『隷属への道』(39) 全体主義へと続く道

ドイツやその他の国々において全体主義というイデオロギーの台頭を準備した諸理念はもとより、全体主義そのものの諸原理の多くでさえ、いまやますます人々の心を魅惑して、多くの自由主義国でも実施されるようになってきている。わが国(=英国)では、全体主義の総体を喜んでそのまま鵜呑みにする人は、いるとしてもおそらくまだきわめて少数だろうが、全体主義の部分的な理念は、多くの人がわれわれも真似すべきだとしているのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 250-251)  今の日本の状況も、この第2次大戦当時の英国の状況と似通っている。社会問題の克服を個人の自由ではなく政府の政策に求める傾向が日増しに強くなってきているように私には思われるのである。  今日の英国の政治的文献の多くが、かつてのドイツで西欧文明に対する信頼を破壊し、ナチズムが成功を収めることのできるような心の状態を創り出すことになったあの諸々の著作・論文の類とどれほど似ているかは、一般的な表現を用いてどんな描写をしてみたところで十分には伝えられまい。両者の相似性は、そこで用いられている独特な議論の仕方といった面よりは、むしろ様々な問題に向かっていく時の人々の気質といった面での相似性なのである。もう少し具体的に言えば、過去との文化的なつながりをすべて切り離してしまい、ある特定の実験が成功することにすべてを賭けようとする気持ちの持ち方の面での相似性である。(同、 p. 251 )  問題の解答を直ぐ海外に求め、それが移植されれば社会にどのような変化をもたらすのかについては基本的に無関心であり、したがって、無責任である。  英国で全体主義的発展への道を準備している著書の大半は、ドイツでもそうであったのと同様に、誠実な理想家たちや、しばしばきわめて知的に優れた人々によって書かれてきた。(同)  戦後日本においても、マルクス主義への傾倒は著しいものがあった。多くの人々が、共産主義社会への移行は<理想>ではなく現実なのだという「夢」を見続けていた。 It is true that when a prominent National Socialist asserted that " anything that benefits the German people is right

ハイエク『隷属への道』(38) 全体主義の前触れ

保守党による前政権下において、保守党の一般党員たちの中でも「最も有能な人々は……心の底では全員が社会主義者であった」…フェビアン主義時代と同様に、いまでは多くの社会主義者たちが、自由主義者たちよりも保守主義者たちに対して、より大きく共鳴するようになっている(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 247)  私は、今の自民党を見ているとこれと同じように感じるのである。岸田文雄総理をはじめ、社会主義を信奉する自民党議員が少なくない、それどころか、大勢を占めている可能性すら彼らの発言を聞いていると否定できないように思われるのである。 国家に対するますます増大する畏敬の念、権力に対する崇拝、「大きいことはよいことだ」とする称讃、あらゆることを「組織化」(これをいまや「計画化」と呼ぶようになっている)したいという熱意(同) が今や社会に蔓延してしまっている。自らが努力するよりも先に、「お上」に助けを求めようとする。そして国家が誰を、何を贔屓(ひいき)するのか次第の「不平等」が発生する。そこでは如何に国家を自分たちの見方に付けるのかが問われることになる。個人の頑張りだけではどうしようもなく、徒党を組んで自分たちの利益になるように政府に圧力を掛けるという仕儀となる。  英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズが次のような文を書いている。 "even in peace industrial life must remain mobilised. This is what he means by speaking of the 'militarisation of our industrial life' [the title of the work reviewed]. Individualism must come to an end absolutely. A system of regulations must be set up, the object of which is not the greater happiness of the individual (Professor Jaffe is not ashamed to say this in so many words), but the streng

ハイエク『隷属への道』(37) 民主主義国に見られる全体主義への兆候

シュペングラーの引用の続きである。 《ただ単にドイツのためだけでなく、世界の全体にとっても決定的であり、しかも世界全体のためにドイツによってこそ解決されなけばならない問題は、「将来、商業が国家を支配するべきか、それとも国家が商業を支配するべきか」という問題である》(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 240 )  詰まり、<商業が国家を支配する>自由主義は終わりにし、これからは<国家が商業を支配する>社会主義へと移行すべき時が来ているのではないかとシュペングラーは言いたいのだろう。 《しかもこのように問題が提起されると、プロイセン主義と「社会主義」とは同一のものとなる。……つまり、プロイセン主義と社会主義とが、ドイツの国土それ自体の内部において英国的な考え方と闘争している、ということを意味する》(同)  詰まり、英国とドイツの争いは、自由主義と社会主義の闘いだという認識なのである。だからこそ、ヴァン・デン・ブルックは 「ドイツは西欧との戦いに敗れたが、その時『社会主義』は、『自由主義』との戦いに敗れたのだ」(同、 p. 241 ) と言ったのである。 《今日ドイツには、自由主義者は一人もいない》(同)  何と極端な言い回しであろうか。このような誇張が見られるのは理念が現実より先走ってしまっている証左であろう。 《この国には、若き革命家もいるし、若き保守主義者もいる。しかし、誰がこの国で、依然として自由主義者であり続けたいと欲するだろうか。……「自由主義」は、いまではドイツの若者たちが吐き気を催したり、怒りやきわめて特殊な軽蔑感をもって顔をそむけてしまう、生活哲学でしかない。というのも、今日のドイツの若者たちが信奉している哲学にとって、「自由主義」ほど異質で、反感を感じさせ、敵対的である教義は、まったくないからだ。いまやドイツの若者たちは、自由主義者を最大の怨敵(おんてき)とみなすようになっている》(同)  が、シュペングラーがこのように言うのにもそれなりの土壌があるのだろう。ドイツ民族のエートス(慣習)には、英国流の<自由>と相容れない何かがあるのではないかということである。おそらくその1つが<連帯>意識の強さというものなのではないか。 今日の民主主義諸国の状況は、現状のドイツではなく、20年ないし30年前

ハイエク『隷属への道』(36) ナチスドイツが生まれた必然

ハイエクは、ドイツ哲学者オスヴァルト・シュペングラーの言を引く。 《西欧の3国〔英・仏・独〕は、有名な「自由」「平等」「共同体」という標語の3つの形態をそれぞれ達成しようとしてきた。その結果、これらの標語は、自由な「議会主義」、社会主義的「民主主義」、独裁主義的社会主義、という3つの異なった政治的形態となって、実現してくることになった》(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 239 ) Die drei spätesten Völker des Abendlandes haben hier drei ideale Formen des Daseins angestrebt. Berühmte Schlagworte kennzeichnen sie: Freiheit, Gleichheit, Gemeinsamkeit. Sie erscheinen in den politischen Fassungen des liberalen Parlamentarismus, der gesellschaftlichen Demokratie, des autoritativen Sozialismus -- Oswald Spengler,  Preußentum und Sozialismus  英国の自由( Freiheit )、仏国の平等( Gleichheit )はいいとして、独国の Gemeinsamkeit をどう訳すのかが難しい。訳者西山氏は「共同体」としているが、「共同」や「連帯」といったところだろうか。後も、「自由主義的議会主義」( des liberalen Parlamentarismus )、「社会主義的民主主義」(der gesellschaftlichen Demokratie)、「権威主義的社会主義」(des autoritativen Sozialismus)ぐらいであろうか。いずれにせよ、シュペングラーは、ドイツを「連帯」の国と見、「権威主義的社会主義」という政治形態を生み育てたと考えたということである。 《ドイツ人、もっと正確にはプロイセン人の、本能といってもいい考え方は、「権力は全体に所属する」というものである。……〔このような体制下では、〕あらゆる人が例外なしに「ところを得しめられていて」、ある人は

ハイエク『隷属への道』(35) 知的進歩の原動力

The really frightening thing about totalitarianism is not that it commits ‘atrocities’ but that it attacks the concept of objective truth; it claims to control the past as well as the future. — George Orwell, As I Please (全体主義について本当に恐ろしいことは、全体主義が「残虐行為」を行うということではなく、それが客観的真実の概念を攻撃するということである。全体主義は、未来は言うに及ばず過去をも支配することを要求するのである ― ジョージ・オーウェル) ★ ★ ★ 知的自由が、人類が知的に進歩するための始源的な原動力となるのは、人類の誰でもが例外なしに思考することができたり著述することができたりすることが必要だという点にあるのでは決してなく、どのような考えや理想であっても、人類の誰かがこれを主張できるという点にあるのである。反対意見が抑圧されないかぎり、同じ時代の人々を支配している考え方に対して疑いを表明する誰かが必ず出てくるだろうし、また、新しい考え方を議論や宣伝による検証の対象として提出する人が、常に生まれてくるだろう、ということこそ重要なのだ。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 218 )  前提条件が変われば見方も変わる。反対意見は、物事の別の見方を示してくれるから有難い。我々は神ではないから、しばしば間違える。だからいかなることであっても懐疑的視座は欠かせないのである。つまり、物事は色々な角度から見てみることが大切だということである。  異なる知識や見解を持っている個人たちの間における相互作用こそが、思想の生命というものを成り立たせている。人類の理性の成長とは、個人間にこのような相違が存在していることに基礎を置いている社会的な過程なのである。この人類の理性の成長にとって本質的なことは、その成長の結果がどういうものになるかは前もって予測することができず、どのような見解がこの成長を促進したり逆に阻害したりするかということも、われわれは決して知ることができない、という点である。簡単に言うならば、人類がそれぞれ

ハイエク『隷属への道』(34) 過去を捨てた社会

統制経済によって平等を達成しようとする努力は、実は政府によって強制された不平等――新しい階層化秩序のもとで個人の地位が専制政治的に決定されること――という結果しかもたらさない。そして、人間の生命、弱者、あるいは個人一般への尊重の念といった、自由主義社会の道徳が保有している人道主義的な要素の大半が、全体主義社会の道徳規範のもとでは消滅してしまうだろう、ということである(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 202)  自由主義経済によって生じた格差を人工的に均(なら)すことは、誰かを優遇し、誰かを冷遇することに他ならない。自由主義社会の道徳は価値を失い、人道主義思想は意味を無くす。 全体主義宣伝活動は、あらゆる道徳の基礎の一端をになっている、あの「真実」というものに対する感覚や尊敬の念を、その根底から侵食していくことによって、ついにはあらゆる道徳を破壊してしまう(同)  物事を見、判断する枠組み( paradigm )が転換されるため、これまでの価値観は一掃される。何が真実なのかという判断も個人が行うものではなくなってしまう。経験は何の役にも立たない。上がどう判断するのかだけが<真実>の基準である。  人々が奉仕させられる特定の価値観に妥当性があるということを人々に認めさせる最も有効な方法は、それらの価値観が、人々ないし少なくとも最良の人たちが、これまで信奉してきたものと実のところは同一で、ただこれまでは適切に理解されていなかったり、はっきりと認識されていなかっただけのことだと、人々を説得することである。つまり「新しい神々」は、実際には人々の健全な直観が常にその心に語りかけていたあの「神々」と同一のもので、ただこれまではぼんやりとしか認識されていなかった「神々」なのだ、と口実をつけて、人々の忠誠心を「古い神々」から「新しい神々」へと移し変えさせればよいわけだ。そして、この目的を最も有効に達成できる技術といえば、昔からの言葉はそのまま使用しておいて、意味内容だけを変えてしまうことである。その結果として、新しい体制の理念を表現するために、言語は完全にねじまげられ、言葉の意味も変えられてしまう。(同、 p. 207 )  <言葉>は過去からやって来る。が、過去が否定されれば、<言葉>の中身は空(から)になる。そこに新たな中身を注ぎ込む。そうや

ハイエク『隷属への道』(33) 目的のためには手段を選ばず

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集産主義者の目には…達成される偉大な目的しか見えないのであり、その目的によってすべては正当化されるのである。なぜなら、社会の共通目的の追求にとっては、個人の権利や価値に基づく制限は存在しないのだから。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 194-195)  社会主義の<偉大な目的>とは、「平等社会」の実現ということになるのであろう。が、それは表向きの<目的>であって、裏に隠されたある意味で真の<目的>とは、資本主義に勝利するということなのではないか。言い換えれば、資本主義は間違っていた、自分たちの考えの方がやはり正しかった、ということを証明することにあるのだと思われる。が、社会主義はこの戦いに敗れた。  全体主義国家の大衆は、ある理想――われわれには嫌悪感しか抱かせないものであるにせよ――に対して非利己的な献身をしているのであり、その理想こそが今述べたような行為を容認したり、あるいは自ら実行したりするよう大衆をしむけるのである。それゆえ、彼らにはある種の弁護の余地もあろうが、全体主義政策を現実に進めている者たちにはそのことはあてはまらない。 そもそも、全体主義国家を運営していく側に立ってその有用なアシスタントとなるためには、ただ単に、種々の不道徳な行為を正当化する理屈を受け入れる覚悟があるというだけでは十分ではない。むしろ、与えられた目的を達成するために必要だと思われるなら、これまで知っていたあらゆる道徳的規範をも積極的に破っていく覚悟がなくてはならないのである。 目的を決定するのは最高指導者のみであるから、その道具となって働く人々は、個人の道徳的信念を持つことは許されない。何にもまして要求されるのは、指導者個人に無条件に全存在をゆだねることであり、その次にくることは、どんな原則も持たず、文字通りすべてを実行する用意をしておくということである。自分が実現したいと思う理想も、指導者の意図を妨害するような善悪の考えも、持ってはならない。(同、 p. 195 )  まさに「目的のためには手段を選ばず」ということである。 マキャヴェリは言う。 《たとえその行為が非難されるようなものでも、もたらした結果さえよければ、それでいいのだ》(マキャヴェリ『政略論』第 1 巻9:『世界の名著16』(中央公論社)永井三明訳、 p. 201 )  が、こ

ハイエク『隷属への道』(32) 富は悪なのか

《本国アメリカでは選挙民の反対に遭い、とうてい実現できない社会主義的政策が占領日本では思う存分に実行できる。そこで、彼らは農地改革や財閥解体、あるいは労働運動の奨励などという一連の「民主化政策」を実現化させた。だが、その本質は民主化などではなく、私有財産権の否定であり、富への攻撃だったわけである。  にもかかわらず、GHQはそれを「日本の民主化」として宣伝し、私有財産を軽視するのが正義であるかのように日本人に教えこんだ。戦後の日本で「富は悪である」という思想が広まった背景には、こうしたGHQの影響も大きかったのである》(渡部昇一『何が日本をおかしくしたのか』(講談社)、 p. 135 )  「富は悪である」などという箍(たが)をはめた平等は、平等は平等でも「貧しさの中での平等」にしかならない。宗教的に自ら富を忌避するのは勝手だが、この考えを社会全体に求めるのは間違っている。 《第2次大戦直後には、アメリカ人の中にも左翼的な思想に染まっていた人間は多かった。しかし、東西冷戦が始まるとアメリカでは共産主義者の摘発が行われ(政府高官の中にも少なからずいた)、徹底したレッド・パージの結果、私有財産を否定する思想は力を失っていった。  一方、日本の場合はそうならなかった…国家社会主義的思想の持ち主が官僚の中に生き残っていたし、大マスコミにおいては左翼の社会主義者が力を持っていた。加えて、教育界では社会主義を奉ずる日教組が日本人の子どもの頭脳を社会主義的に洗脳しつづけていたからである。そのため戦後の日本は、かつてのイギリスと同様、「自由主義陣営の中の社会主義国」になったのである》(同、 pp. 135-136 )  戦後日本において、大手を振って歩いていた社会主義思想は、1989年にベルリンの壁が崩壊し、潮が引くように消えてしまった。が、憲法をはじめとする戦後体制自体は変わっていないので、日本は未だ社会主義的傾向が色濃く残っているのである。 《およそ欧米先進国の中で、今日の日本ほど私有財産を持っている人が暮らしにくい国はないであろう。高額所得者ともなれば、年収の50パーセントは国税と地方税で“没収 ” される。また、子どもたちに財産を遺そうとしても、相続税によって最大七割が国庫に “没収 ” となる。しかも、外国のように合法的に逃れる道が閉ざされている。

ハイエク『隷属への道』(31) 私有財産を悪と考える誤想

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 すべてを制圧する1つの共通目的の前には、一般的な道徳や規範は存在の余地すらない。われわれも、戦時にはある程度までは似たことを経験する。幸いなことに、これまで英国では、戦争や最大級の危機においてすら、全体主義への接近はきわめて抑制されていたし、1つの目的のために他の価値が犠牲にされることもほとんどなかった。しかしそれは幸運な例であって、一般には、数少ない特定の目的だけが社会全体を支配するようになると、時には残酷なことが義務になることも避けられなくなる。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 194)  まさに戦中の日本がその状態にあったわけである。戦争するのであるから個人の自由がどうのこうのと言っておられるわけがない。勝利という共通の目的に向けて統制が厳しくなるのは仕方のないことである。が、問題は戦時中の統制が未だに生き残っていることである。 《戦後の日本では…マルクス主義のしっぽをつけた社会主義が温存され、私有財産を悪と考える思想が生き残った》(渡部昇一『何が日本をおかしくしたのか』(講談社)、 p. 133 )  何故か。 《理由はいくつもあるが、第1には戦時中の官僚制度が完全に解体されず、社会主義的思想が霞が関から払拭されなかったこと、第2にはGHQの一連の占領政策が、私有財産を攻撃する左翼的なものであったこと、が大きい。さらに付け加えれば、戦後のマスコミや教育界が左翼勢力によって牛耳られていたために、私有財産を「悪」とするマインド・コントロールが行われていたせいでもある》(同、 p. 134 )  私も基本的に渡部氏の見立てに同意する。この手枷足枷(てかせあしかせ)を嵌(は)められた「戦後体制」から如何に脱却するのかが日本発展の鍵だと言えるだろう。 《GHQの行った一連の「改革」の中で、大きな目玉になったのが農地改革である。この改革の基本にあったのが、私有財産を軽視する思想にはかならなかった。先祖代々受け継いできた土地を一片の法令によって奪い取り、小作人に分配する、それが農地改革の眼目であった。これは紛うことなく、私有財産権の否定であり、社会主義的な発想に基づく政策であった。  農地改革を策定し、実行したのは言うまでもなくGHQである。GHQのスタッフはアメリカ人であり、社会主義とは無縁のように思われるが、そうではない

ハイエク『隷属への道』(30) <高次の目的>の胡散臭さ

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集産主義者の立場に立てば、反対意見の存在を許さずそれをむりやり圧殺することとか、個人個人の生活や幸福を完全に無視することとかは、高次の目的の達成という基本命題がもたらす、当然で不可欠な帰結にすぎない。集産主義者は自らこれを認めるだろうし、むしろ自分たちの体制は、個人の「利己的な」利益が社会の目的の十全な実現を妨げることを許しているような体制より、はるかに優れているとさえ主張するだろう。こういった考えの源を作り出したドイツの哲学者たちも同様で、彼らは繰り返し、個人的な幸福に向けて努力すること自体が不道徳であり、課せられた義務を遂行することのみが称讃に値すると述べてきたが、たとえそういった考えが異なった伝統のもとに育った者にはどれほど理解しがたいとしても、彼らはまったく心底からそう思っていたのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 193-194)  私は、この<高次の目的>の胡散(うさん)臭さが気に懸かる。<高次の目的>とは言い換えれば「理想」である。が、「理想」はあくまでも空想の世界のものでしかない。 《共產主義社會のより高い段階において、すなわち分業の下における個々人の奴隸的依存、それとともにまた精神的勞働と肉體的勞働との對立(たいりつ)が消滅した後、勞働が單に生活手段でなくて、第一の生活の必要にさへなつた後、個々人の全面的發展とともにまた生產力が成長して協同組合的富のすべての源泉が溢流(いつりゅう)するに至つた後――その時はじめて狭隘(きょうあい)なブルジョア的權利の地平線は全く踏み越えられ、そして社會はその旗にかう書きつけるであろう、各人はその能力に應じて、各人にはその必要に應じて!》(カール・マルクス『ゴータ綱領批判』(岩波書店)西雅雄訳、 p. 29 )  「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことが<高次の目的>とされた共産主義国樹立という壮大な社会実験は見事に失敗した。理想と現実を履き違えたことが失敗の最大の原因だと言えようが、そもそもこの理想は只の妄想ではなかったのかという疑いもある。<平等>に固執するあまり<自由>が制限され社会の活力が失われてしまった。平等は平等でも「貧しい平等」では意味がない。共産主義思想はそのことに関して余りにも頓着が無さ過ぎた。「頑張ってみんなで貧乏になりましょう」というのが<高次の目的

ハイエク『隷属への道』(29) 社会が変われば倫理も変わる

個人主義的倫理による支配は、多くの側面で厳密さを欠くかもしれないが、普遍的・絶対的である。すなわち、それはある一般的な形の行為がどうあるべきか、どうあってはならないかを規制するが、その際その行為が究極的にめざしている目的が善か悪かは一切問わないのである。詐欺、窃盗、暴行、背信といったことは、それによって実害があったかどうかに一切関わりなく、悪とされる。たとえそれが誰にも害を及ぼさなくとも、あるいは崇高な目的のために行なわれたにしても、それらが悪であるという事実に変わりはない。われわれは時に、いくつかの悪の中からどれかを選択せざるをえない事態に立たされることがあるにしても、そこで選択したものがやはり悪であることは変えられない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 190 )  こんな当たり前のことを確認しなければならないのは、集産主義社会ではこの当たり前が通用しないからである。 「目的は手段を正当化する」という原則は、個人主義的倫理では、あらゆる道徳の否定と見なされる。ところが、これに対し、集産主義の倫理では、この原則こそ最高の倫理規範となるのである。首尾一貫した集産主義者にとっては、「全体のための善」に奉仕することであれば、あえてしてはならない行為は何もない。というのも、「全体のための善」こそが、何がなされるべきかの唯一の判断基準であるからだ。(同)  社会が変われば倫理も変わる。このことを前提としない異国の人達との外交など有り得ない。また、社会が異なるだけで人々の価値観は変わらないなどと考えることも甘いと言わざるを得ない。集産主義国の人達の判断基準は「全体のための善」でしかなく、嘘を吐(つ)くことや約束を守らないことが悪い事だと考えない人達がいるということを分かった上で交際すべきなのである。 集産主義の倫理が最も明白に表現されている概念に、「国家理由」という概念があるが、それはまさしく、望ましい目的にとってその行為が適しているか、つまりは都合のいいものかどうかという観点以外に、どんな制約も存在しない、という典型例である。この「国家理由」、つまり国家の利益を最優先するという考え方は、国と国との関係においては当然の原則であるものだが、それが集産主義国家内では個人と個人の関係に対しても同様に適用されるのである。そこでは、その共同体が自ら定

ハイエク『隷属への道』(28) 権力は腐敗するもの

アクトン卿は「権力は腐敗する」という有名な言葉を遺(のこ)している。 I cannot accept your canon that we are to judge Pope and King unlike other men, with a favourable presumption that they did no wrong. If there is any presumption it is the other way against holders of power, increasing as the power increases. Historic responsibility [that is, the later judgment of historians] has to make up for the want of legal responsibility [that is, legal consequences during the rulers' lifetimes]. Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely.  Great men are almost always bad men, even when they exercise influence and not authority: still more when you superadd the tendency or the certainty of corruption by authority. There is no worse heresy than that the office sanctifies the holder of it. That is the point at which … the end learns to justify the means. You would hang a man of no position, … but if what one hears is true, then Elizabeth asked the gaoler to murder Mary, and William III ordered his Scots mi

ハイエク『隷属への道』(27) 権力掌握を目論む集団主義

おそらく最も重要な要素は、このようにして結集力の強い同質な支持母体を作るために、熟練した煽動家が採用する計略的な手段に関してのものである。人々が、積極的な意義を持つ事柄よりも、敵を憎むとか自分たちより裕福な暮らしをしている人々を羨(うらや)むとかいった、否定的な政治綱領のほうにはるかに容易に合意しやすいことは、人間性に関する一つの法則とさえ言えるように思われる。 「われわれ」と「彼ら」をはっきりと対照させたり、グループ以外の人々に対して共に闘っていくといったことは、1つのグループを共同の活動へと強固に団結させていくどんな政治的教義にとっても、不可欠な要素であると言えよう。そのためこのようなやり方は、政策への支持のみならず、巨大な大衆の無条件な忠誠をも獲得しようとする人々によって、常に使われている。さらにそれは、彼らの観点からすれば、具体的な政治綱領を提示するより、もっと自由に活動できる余地があるため、はるかに有利なやり方なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 pp. 180-181 )  外部に「敵」を作って内部を固めるお馴染みの手法である。小泉純一郎元首相は、郵政民営化をはじめとする「聖域なき構造改革」に反対する人達を「抵抗勢力」と批判し国民の大きな支持を得た。また、橋下徹元大阪府知事は、「二重行政」をはじめとする古い体質にどっぷり浸かってきた既得権益にメスを入れ喝采を浴びた。  ハイエクは、米国の自由主義神学者 R ・二―バーの言を引く。 There is an increasing tendency among modern men to imagine themselves ethical because they have delegated their vices to larger and larger groups. (現代人は、どんどん大きな集団に自分たちの悪徳を委ねているので、自分たちが倫理的だと思い違いをする傾向が強くなっている)  アクトン卿やヤコブ・ブルクハルトといった19世紀の偉大な個人主義社会哲学者たちはもちろんのこと、その自由主義的伝統を受け継いだ、バートランド・ラッセルのような現代の社会主義者たちにとっても、権力はそれ自体、常に根源的な悪と見なされてきた。だが、真の集産主義者たちにとって、権力

ハイエク『隷属への道』(26) 平等は野蛮化・低俗化

 第1に、一般に教育や知性の水準が高くなっていけばいくほど、人々の考え方や趣味嗜好は多様になっていき、ある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない。このことから推論すれば、もし人々の間に高度の一様性や相似性を見出したいのであれば、より道徳的・知性的でないレベル、より原始的で「共通」の本能がむき出しになる部分へと、視点を降ろしていかなくてはならないことになる。断わっておくが、このことは人々の大半が低い道徳的基準しか持っていないことを意味するのではない。同じような価値観を持った人々によって構成される最大のグループは、低い道徳的・知性的水準を持った人々の集まりである、ということを意味しているにすぎないのである。言ってみれば、最大の人々を一致させられるのは一番低い分母である、ということである。つまり、ある人生観・価値観を他者に押しつけることができるほどに強力な、多人数のグループが必要とされるのであれば、それは決して、高度にバラエティに富んで洗練された趣味時好を持った人々から構成されるのではなく、悪い意味での「大衆」に属する人々、最も非独創的・非独立的で、自分たちの理想を数の力でごり押しすることも辞さないような人々によって構成されるだろう、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 179-180)  平等とは、「野蛮化」ないしは「低俗化」である。我々は、日々努力を積み重ね文明社会を築いてきた。が、平等を主張すれば、洗練さや高尚さは差別的要因として封印しなければならなくなる。例えば、100点満点のテストで最低点が20点だったとしよう。このテストに<結果の平等>を求めれば、到達度評価的に20点以上はすべてA判定のようなこととなるだろう。詰まり、頑張って日々勉強を怠らず、テスト勉強もしっかりやった生徒も、日々の勉強から逃げ、一夜漬けさえせずにテストに望んだ怠慢な生徒も平等に扱おうということである。「下方平均化」こそが<平等>なるものの本質である。 独裁をめざす者は、従順な、だまされやすい人々を根こそぎ支持者に抱き込むことができるだろう。これらの人々は、自分自身の確固とした信念を持っておらず、その耳に大声で何度も何度も吹き込まれれば、どんなお仕着せの価値観であろうが受け入れてしまう。こういった、物事をぼ

ハイエク『隷属への道』(25) 全体主義は独裁者と民衆の合作

民主主義的諸制度の抑圧と全体主義体制の創設に先立ってどのような状況が存在したか…その段階で支配的であった政治的要素は、迅速で決意ある行動を政府に求める広汎な要求であった。つまり、ある行動を起こすために様々な行動が要求されるという、遅々として厄介な過程を要する民主主義的手続きへの不満が、支配的であった(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 177 )  全体主義は、独り独裁者が登場することによって生まれるのではない。地道な変革の積み重ねよりも一気に変革を進めたがる、堪え性の無い民衆が独裁者を呼び込むことなしに全体主義は生まれはしない。そして全体主義が生まれる前兆が遅々として煮え切らぬ政治に対する民衆の不満なのである。 人々の多くを魅了するようになったのは、「事を処理する」のに十分強力で断固とした指導者ないし政党が必要だという考えであった。ここで言う「強力」とは、単なる数字上の多数派を意味しない。そもそも国会の多数派がまったく役立たないことこそ、人々が不満に思っていたのである。人々が求めていたのは、強固な支持を結集して、意図したことを何でも実現できてしまうような信頼のおける人物の出現であった。まさにこういう状況によって、新しいタイプの、軍隊的な組織を持った政党が登場してきたのであった。(同)  ハイエクはナチスドイツを念頭に置きこのように書いたに違いない。一方、私には大阪維新がある。 全国民に全体主義体制を押しつけることができるためには、指導者がまず最初に、自分のまわりに全体主義的原理に進んで従う意志のある人々を結集できなければならない。そしてこの人々が、力ずくでその原理を、他の人たちに押しつけていくのである。(同、 p. 178 )  これは雪だるまの作り方と同じであろう。まず、中心となる雪玉を作り、これを転がしながら雪玉を大きくしていくのである。大事なのは、中心部分の重厚さによって生まれる「求心力」である。  社会主義は、大半の社会主義者が決して容認しないような方法によってしか実現されえないということは、言うまでもなく、過去の多くの社会改革家が学んできた教訓である。古いタイプの社会主義政党は、彼ら自身が持っていた民主主義的な理念によって抑制されていたし、自らの任務を実現するのに必要な冷酷さを持ち合わせてもいなかった。(中略)

ハイエク『隷属への道』(24) 経済的保障と自由

名誉や地位はほとんど国家の俸給(ほうきゅう)下僕(げぼく)になることでしか得られないようになったら、また、割り当てられた義務を果たすことの方が、自分が役立つような分野を自ら選択することよりも称讃に値するものとされるようになったら、また、国家の階級制度の中に組み込まれない職業や、固定的な所得への権利を伴わない職業は、地位の低い、むしろみっともないものと見なされるようになったら、そこでも多くの人が経済的保障より自由を選び続けるだろうと期待するのは、虫がよすぎる話である。従属的な地位で保障を得ること以外の選択の道が、この上なく不安定な職業でしかなく、そこで成功しようが失敗しょうが等しく軽蔑されるだけだとしたら、自由を犠牲にして保障を選ぶ誘惑に打ち勝てる人は、まずわずかしかいないだろう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 170 )  計画主義とは、当局の指示に従うことで<経済的保障>が平等に得られる体制である。が、それは当然<自由>を放棄することを意味する。<自由>を放棄しなければ<経済的保障>は得られない。否、それどころか、社会で生きていくことも難しくなってしまうだろう。 状況がそこまで進んでしまえば、自由はまったくのところ嘲笑(ちょうしょう)の的でしかなくなるだろう。というのも、そこでは自由は、この世におけるほとんどのよいものを犠牲にすることでしか、獲得できないものとなってしまうだろうからだ。そのような状況になれば、ますます多くの人が、経済的保障ぬきには自由は「持つに値しない」と感じるようになり、保障のために自由を喜んで犠牲にするようになったとしても、ほとんど驚くべきことではない。(同、 pp. 170-171 )  ベンジャミン・フランクリンは言った。 Those who would give up essential Liberty, to purchase a little temporary Safety, deserve neither Liberty nor Safety. -- Pennsylvania Assembly: Reply to the Governor , 11 November 1755 (一時的な安全を少し獲得するために、本質的な自由を手放すような人々は、自由であれ安全であれ受くるに値しない)

ハイエク『隷属への道』(23) 無用の用

そうなると報酬は、人が何をすべきであったか、何を予測すべきであったか、意図がどれほどよかったか悪かったか、ということを判断した当局者の見解によって、決定されるものとなるだろう。このような決定は、必然的にきわめて恣意(しい)的にならざるをえない。その原則を実施すれば、たとえばまったく同じ仕事をしている人でも違う報酬を与えられる、というようなことが当然起こってしまう。また、報酬の違いは、社会が求めている変化に向かって人々が動いていくようにさせる、サインとしての役割をもはや失ってしまう。そしてある変化を前にした人が、それに対応しようとして起こす行動がはたして見返りのあるものかどうかを判断することも、もはやできなくなってしまう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 160)  未来の可能性は万人にとって平等である。誰もが成功することもあれば失敗することもある。が、このことは市場が<自由>である場合に限られる。市場に当局が恣意的に介入するようなことになれば、成功するも失敗するも当局次第ということになってしまい、<機会の平等>は失われてしまうだろう。  話は変わる。ハイエクは米国の工学専門家D・C・コイルの一節を引く。 《工学的な仕事を達成するためには、その仕事のまわりに、計画の対象とされない経済活動分野が比較的大きな規模において、存在していなければならない。必要とあれば働く人々を引き出すことができ、逆に働いている人が解雇され、その名前が給料簿からも消えてなくなる時はそこに戻って行けるという場所がなくてはならないのだ。このような貯水池的なものがない場合、規律を維持していくことは、奴隷労働と同様、肉体的処罰によってしか不可能となる》(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 162 )  <職業選択の自由>を考える場合、自分に合った仕事を自由に選べるということだけではなく、自分が合わなくなった職場を自由に撤退できる環境も必要だ。その際、自分の経歴が生かせる職場、詰まり、コイル言うところの<貯水池>のような受け皿がなければならないということである。  が、かつての民主党政権の「事業仕分け」のように、こういった周辺部分は無駄なものとされ、切り捨てられ勝ちである。「無用の用」というものが分かっていないのである。 一目之羅、不可以得鳥【淮南

ハイエク『隷属への道』(22) 政府の恣意的市場介入

 予測も操作も不可能な諸般の条件の変化によって、自らの有用性が減少させられてしまった人々が、その「不当な」損失をこうむらないように保護されたり、逆に、同じような事情で有用性の増大した人々が、「ふさわしくない」所得増加の恩恵に与れないようにされたりするなら、報酬はその途端に、現実の有用性となんらの関係も持たなくなってしまう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 160)  これは「所得の再分配」であり、社会主義政策である。このような<結果の平等>は、悪平等となり個人のやる気を殺ぐ。  かつて麻生太郎政権時代に「エコカー減税」「家電ポイント」という政策があった。これは、自動車および家電産業への特別優遇措置である。日本の労働者の多くが従事しているこれらの産業が万一傾くようなことがあれば大量の失業者が出る可能性がある。だからこれらの産業を支援すべきだという理屈である。  が、支援しなければならないということはこれらの産業は既に斜陽化が始まっていたということを意味する。簡単に言えば、円高という時代の流れから外れてしまっていたのである。斜陽産業は時代によって淘汰(とうた)される。それが自由経済の鉄則である。にもかかわらず、こういった産業を支援し温存してしまっては、円高時代に相応(ふさわ)しい新たな産業の出る幕が無くなってしまう。  「アベノミクス」はもっと問題であった。円高不況に喘(あえ)ぐ日本経済を回復させるということで安倍政権は「異次元の金融緩和」を実施した。為替レートは、 1 ドル80円から120円へと円安に大きく振れた。このことによって円高不況はふっとんだ。株価も上昇し、斜陽産業は息を吹き返した。  急激な為替変動に対して金融政策を講じることは場合によって必要となることもあろう。が、不況対策として金融政策を行うことは計画経済的であって、自由主義に反する。否、そもそも日本は自由主義国なのか、むしろ世界に冠たる社会主義国と言うべきではないのかという議論はある。詳しくは稿を改めねばならないが、この「金融緩和」によって円高基調の構造改革は水の泡となった。為替レートという経済活動の基礎を政府が恣意的に変えてしまうなどということは自由主義経済にあってはならないことである。こんなことが許されては、経営戦略を立てようがない。  政府の恣意(しい)的

ハイエク『隷属への道』(21) ミルトン・フリードマンのケインズ理論批判

《ニューディール政策がとられて以来、連邦政府は公共事業を拡大するたびに、失業を減らすためには政府が金を出すしかないのだと言い続けている。ただし、理由付けは長い間にだいぶ変わってきた。最初は「呼び水」として公共投資が必要だとされた。とりあえず政府が予算を投じれば経済を活性化できるから、そうなったら手を引けばよいというのである。  しかしこれで失業を減らすことはできず、1937~38年には景気が急速に冷え込む》(M・フリードマン『資本主義と自由』(日経BPクラシックス)村井章子訳、 p. 153 )  詰まり、公共投資は景気回復の「呼び水」とはならなかったのである。 《すると今度は「長期停滞論」なるものが浮上し、政府が恒常的に多額の公共投資をすることが正当化された。長期停滞論によると、経済は成熟期に入ったのだという。めぼしい投資案件はあらかた開発され、今後新しい機会はなかなか出てきそうにない。しかも個人は相変わらず投資より貯蓄を好む。となれば政府が投資して赤字を垂れ流すしかない。赤字を埋め合わせるために国債を発行すれば、個人にとっては蓄財の手段となるだろうし、政府支出のおかげで雇用は創出されるだろう、云々。 この主張が信用できないことは理論分析によっても明らかだし、事実からも確かめられている。たとえば、長期停滞論者が想像もしなかったようなまったく新しい民間投資が行われるようになった。にもかかわらず、長期停滞論の遣物はいまだに残っている。もはやこの説を信じている人はほとんどいないというのに、このときに開始された公共事業も、また呼び水として始められた事業の一部も、依然として続けられているのだ。そして政府支出が膨張し続ける原因となっている》(同、 pp. 153-154 )  一度やり始めた政策は既得権益化するだろうし、万一公共投資を打ち切って景気が悪化すれば失政だと非難されかねないから止めるに止められないのである。 《最近では…総支出を安定させるためだという理由付けがされるようになった。何かのきっかけで民間支出が落ち込んだら、政府が支出を増やす。逆に民間支出が増えたら政府は手控えるという具合にして、総支出ひいては経済の安定化を図るべきだという》(同、 p. 154 )  今の財政政策はこの考え方に基づいている。が、フリードマンは反論する。 《景気

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

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経済活動の一般的な変動と、それに伴って繰り返し発生する大規模な失業の波に対処していくという、この上なく重要な問題が存在する。これこそが、われわれの時代にとっては最も重大で最も緊急を要する問題の1つであることは、いまさら言うまでもない。これを解決するにはいい意味での計画化を大幅に必要とするが、だからといって、計画主義者が市場に取って替えるべきだと主張しているような、特別な計画化が要求されるわけではない。少なくともそのような手段は不可欠ではまったくない。実のところ、多くの経済学者は、その究極的な治療策は、金融政策の分野で発見されるだろうと考え、しかもその対策は19世紀の自由主義とさえあらゆる点で両立できるようなものだろうと、希望的な判断を下している。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 156-157)  米国のノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマンは、 《私自身は、過去の例を広く調査した結果…経済安定性の差は金融制度の違いに起因すると考えるようになった。過去の事例から判断する限り、第1次世界大戦中と終戦直後に起きた物価騰貴は、その3分の1は連邦準備制度に原因がある。以前の銀行制度がそのまま維持されていたら、あれほどの物価騰貴は発生しなかっただろう。また1920~21年、1929~33年、1937~38年の3度にわたる不況があそこまで深刻化したのは、連邦準備制度がやるべきことをやらず、やるべきでないことをしたからで、以前の通貨・銀行制度下ではああはならなかったはずだ。景気後退という程度のものであれば、あの時期にも別の時期にも発生したであろう。だがあれほど深刻な不況にまで進行した可能性は、きわめて低い》(M・フリードマン『資本主義と自由』(日経BPクラシックス)村井章子訳、 p. 103 ) と言う。 《もちろん、経済学者の中には、この間題は、政府の大規模な公共事業がきわめて巧みなタイミングで実施されることによって、初めて本当の解決が期待できるのだと信じている人々もいる。だが、このような解決策は、自由競争の領域にはるかに深刻な制限をもたらすかもしれない。この方向へ向けての実験がなされると、すべての経済活動が、政府統制と財政支出の増減に、より大きく依存していくことになる可能性があり、それを回避したいのであれば、その一つ一つの政策ごとにきわめて慎

ハイエク『隷属への道』(19) 「富の再分配」政策

森戸辰男は言う。 《今日私どもの當面(とうめん)している事態のもとでは、個人の力で銘々が自分の生活を保障していくことが困難である、ということが明らかになつておりますし、同時にまた、彼等が個人の責任によつてかような狀態におかれたのではない、ということも疑う餘地(よち)が存しないのであります。すなわち國家的、社會(しゃかい)的の運命がこれらの人をかような事態に陷れたのであります。そこで、今日の時代に新しい憲法をつくるということであれば、憲法は單に形式上・政治上・法律上の自由を國民に保障するだけではなく、これらの國民の生活の基礎を確立していくことが、新しい憲法の重要な觀鮎(かんてん)でなければなりません。いいかえますれば、國民に生活權を保障する意味の宣言をなすことが、この場合、憲法の重要な任務である、と私どもは考えております。そうしてかような主張を私どもは强調し、これに應する憲法の修正を望んだのでありますが、幸いに、この點(てん)については、ついに私どもの要求が容れられまして、第25條に  「すべて國民は、健康で文化的な最低生活を營(いとな)む權利を有する。」 という一條が加えられたのであります。  ここに生活權と述べられておるのは、單に人閒が動物的な意味での命を繋ぐということでなく、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する、となつておりまして、人間に値する生活が國民に保障されなければならぬ、ということを明らかにしたのであります。私は、日本の國の政治の上で、國の根本の掟である憲法が、國民に生活の最小限を認めるに至つたということは、一大變革(へんかく)であると思うのであります。主權の問題について、日本のこの度の憲法が大きな革命を含んでおるということは、既(すで)に皆さんのお聽(き)きの通りであります。けれども、同時に經濟生活の上において、國の政治が國民の生活の最小限を國民に保障しなければならぬ、ということを明らかにしたということは、私は政治上の民主革命と並ぶ、また働く國民大衆にとっては、場合によつてはそれよりも意義の大きい、憲法の一條であると存じております。しかしながら、これが規定されただけでは、日本の政治の方向が示されたに止まりまして、これが現實に行われるということが、さらに重要なのであります。これについては、績いて  「國は、すべての生活部面につい

ハイエク『隷属への道』(18) 2つの保障

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 ここで2つの異なった種類の「保障」をはっきりと区別しておくことは必要だろう。1つは「限定的保障」で、社会の全員のために実現することが可能であり、決して特権ではなく、人々が実現を欲して当然なものである。もう1つは「絶対的保障」で、自由社会では全員に実現することが不可能であり、特権として与えられることも許されないもの――ただし完全な独立性を持つことが至上の重要性を持つ、裁判官の場合のような、数少ない例外はあるが――である。 第1番目の保障は、深刻な物質的窮乏に対する保障であり、社会の全員がいかなる場合もある最低眼度の生計を保ちうるという保証である。第2の保障は、ある特定の生活水準の安定に対する保障であり、言い換えれば、ある個人ないし集団が享受している地位が様々な地位の序列の中で占めている位置を変えないという保証である。もっと手短かに言うなら、第1のものは「最低所得の保障」、第2のものは、ある人が自分にふさわしいと思う「特定所得の保障」である。 これから見ることになるが、この区別は、市場システムの外部から、そして市場システムを補完するものとして、社会の全員に供与されうる保障と、市場の統制ないし廃止を通してのみ、ある人々だけに供与されうる保障との区別に、おおむね合致するものである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 154)  第1のものは自由主義体制下での例えば生活保護といった社会保障がこれに当たるだろう。第 2 のものは社会主義、共産主義体制の「必要に応じた分配」と言われたものがこれに該当するのだろう。日本は自由主義国であるから前者となるが、気になるのが日本国憲法第25条の規定である。 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。  が、日本国憲法の元となったGHQ案には<健康で文化的な最低限度の生活>なる文言はなかった。この文言を入れるよう進言したのが文部大臣も務めた森戸辰男であった。森戸は言う。 《資本主義がその純粹の原則から離れてきますと、生存權と勞働權は資本主義の缺陷(けっかん)を埋めながら、社會主義に至る萠芽をそこに宿すことのできるものと私どもは考えておるのであります。  かような立場に立ちまして、新しい憲法の制定に當(あた)りまして、この資本主義的な性格を根本に崩すということができない事態の下において、

ハイエク『隷属への道』(17) 服従せざる者は食うべからず

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政治的自由は経済的自由なしでは意味がない、とよく言われる。このことはまったく正しい―ただし、計画主義者たちが言っているのとはまったく逆の意味でのことである。経済的自由は、他のどんな自由にも先立つ前提条件であるが、社会主義者が約束するような「経済的心配からの自由」とはまったく異なっている。後者の自由とは、個人を欠乏から遠ざけると同時に選択の権利からも遠ざけることによって初めて獲得しうるものである。そうではなく、経済的自由とは、経済活動の自由でなければならない。もちろんそれは、選択の権利をもたらすとともに、それにともなう危険や損失、そして責任を、個人に課してくるのだが。(同、 pp. 127-128 )  計画主義者が言うところの「経済的心配からの自由」は、「結果の平等」を通して得られるものである。が、これは、結果が平等になれば自由競争による格差がなくなって競争の敗者となる心配がなくなるという、ただそれだけの話である。確かに、自由競争がなくなれば格差も生じなければ敗者も生まれない。が、同時に勝者も豊かさも生まれない。結果、「結果の平等」は貧しい社会の中での平等にしかならない。成程、平等が正義だとしても、社会が貧しくなり、自分たちの生活が苦しくなってしまっては元も子もない。 誰が誰を計画化し、誰が誰を統制・支配し、誰が人々の人生の位置を決め、誰が他からの割り当てをもらうに値するか。これらの問題が、最高権力のみが解決すべき中心的な問題として、必然的に生まれてきた(同、 p. 128 )  「結果の平等」は人工的なものである。したがって、誰かが結果を平等にするための指図をしなければならない。「結果の平等」は、結局、独裁者を生み出すだけである。  J・S・ミルは言う。 A fixed rule, like that of equality, might be acquiesced in, and so might chance, or an external necessity; but that a handful of human beings should weigh everybody in the balance, and give more to one and less to another at their sole pleasure and