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オークショット「政治教育」(15)【最終】歴史教育の必要

これらおよび他の政治的思考様式を越えて、我々の経験全体の地図の上で、政治的活動自体の位置を考察する、というような反省の仕方がある。この種の反省は、政治的意識をもち知的活力をもったいかなる社会においても、これまで遂行されてきたものである。そして、ヨーロッパの社会に関するかぎり、そのような探究によって、各世代が各様に定式化し、それぞれ自分が活用し得る技術的手段を用いて取りくんできた知的諸問題が、明らかになっている。また政治哲学は、確固たる結論を積み上げたり、さらなる研究が安んじて依拠し得る諸結論に到達したりすることによって「進歩する」科学とは、見なし得るものではないから、その歴史は、とりわけ重要なものとなる。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 153)  政治には、最終到達点はない。初期の目標に達成したら終わりというようなものではない。が、中には、「平等社会」などという到達目標が予め設定され、これに向けて歩を進めるのが政治であるかのような空想も存在する。  20世紀は共産主義国家樹立に向けて壮大なる実験が行われた世紀であった。が、「平等社会」などというものは、観念の世界だけで成立するものであって、現実社会においてこのような考え方が機能しないことが実験の失敗によって明らかとなったのである。にもかかわらず、未だに「平等社会」を実現することが正義だと考える人達が社会を掻き乱し続けている。  我々が学んだのは、たとえ観念の世界で可能であったとしても、それを現実の世界に落とし込むことは言うほど簡単ではない、否、出来ないということではなかったか。我々に出来ることは、「革命」を起こして一足飛びに理想を追求することではなく、現実を踏まえ、歴史を参照し、加えるべき修正を加え続けるという地道な作業ではないのだろうか。 実際ある意味では、それは歴史以外の何物でもないのであり、それも、諸々の教説や体系の歴史ではなく、哲学者が、一般の思考法の中に見出した不整合や、彼らが提案したその解決法などからなる、1つの歴史なのである。この歴史の研究は、政治教育の中で重要な位置を占めると考えねばならないし、また現代における反省がそれに与えた展開を理解しようとすることは、なおいっそう重要である。(同)  言うまでもなく、<歴史>は「玉石混交」であるから、しっかりとした「歴史眼」を養い...

オークショット「政治教育」(14)「真理は細部に宿る」

他の人々の政治の研究は、我々自身の政治の研究と同様、行動の伝統についての生態的研究でなければならず、機械的装置の解剖学的研究とか、イデオロギーの研究ではない。そして、我々の研究がこのようなものである場合にのみ、我々は他の人々のやり方から有益な刺激を受けながらも、幻惑されないような道を見出すことであろう。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 152 )  <イデオロギー>は、抽象的なものであるから、或る意味、世界のどこにでも、そして、いつの時代にも応用することが可能である。が、政治とは、本来的に優れて環境に依存するものであるから、地域性、国民性、時代状況といったものを具体的に勘案することが必要となる。 他人の実践や目的から、「最善のもの」を手あたりしだい選び出すために世界をあさることは(折衷主義者ゼウクシスは、へレネよりもさらに美しい顔を造形しようとして、それぞれに完璧さで際立った部分部分をはり合わせた、と言われるが、それと同様に)堕落した企てと言わねばならない。それは、人の政治的平衡感覚を失わせる最も確実な方法の1つである。だが他方、他の人々がその整序化に務める仕事に関する具体的な在り方を探究するならば、さもなくばかくれたままになっている、我々自身の伝統の中のいくつかの重要な筋道を明らかにしてくれるであろう。(同、 pp. 152-153 )  政治的成功例を搔き集めて貼り合わせたところで上手くいく保証はどこにもない。かつてどこかで上手く行ったことであっても、「時・処・位」が異なれば、同じように上手く行くとは限らない。過去の成功例から読み取らねばならないことは、成功という表層的なことではなく、どのような状況において、どのような手段を講じたことがどのような結果へとつながったのかという具体的な中身である。 政治的活動についての反省は、様々の水準でおこなわれ得る。即ち例えば、ある情況に対処するために、我々の政治的伝統はどんな手段を提供するのか、を考察したり、あるいは、我々の政治的経験を1つの教義に縮約して、それを、ちょうど科学者が仮説を使うように、その暗示的意味を探るために使用することもできる。(同、 p. 153 )  <伝統>は、我々の「後ろ盾」であり、活動の原動力である。が、<伝統>は、大きな流れであって、具体的状況に対して答えてくれ...

オークショット「政治教育」(13)prejudice(先入見)

what is equally important is not what happened, here or there, but what people have thought and said about what happened: the history, not of political ideas, but of the manner of our political thinking. -- Michael Oakeshott,  Political Education : FIVE (等しく重要なのは、あちらこちらで起こったことではなく、起こったことについて人々がどう考え、何と言ったのかということ、すなわち、政治思想ではなく我々の政治的思考方法の歴史である)  政治において重要なのは、出来事をどう解釈し、どう対処するのかということである。したがって、先人が出来事についてどう考え、何と言ったのか、そしてどのような結果に至ったのかを研究することは、経験値を高めるという意味でも大切である。 Every society, by the underlinings it makes in the book of its history, constructs a legend of its own fortunes which it keeps up to date and in which is hidden its own understanding of its politics; and the historical investigation of this legend -- not to expose its errors but to understand its prejudices -- must be a pre-eminent part of a political education. – Ibid (あらゆる社会が、自らの歴史書に下線を引くことによって、絶えず最新の状態にし、自らの政治についての独自の理解が隠されている自分たち自身の運命の伝説を作成する。そして、この伝説の歴史的調査――自らの誤りを暴くためではなく、自らの先入見を理解するために――は、政治教育の傑出した部分であるに違いない)  preju...

オークショット「政治教育」(12)伝統理解と会話術の習得

政治教育は、単に伝統を理解するに至るということだけでなく、どのようにして会話というものに参加すべきか、を習得することを含んでいる。つまりそれは、我々が生涯不動産権をもつ遺産の伝授であると同時に、その暗示的意味の探究でもある。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)  政治には、伝統理解と会話術が必要であり、政治教育とはこの2つを身に付けるためのものでなければならないということだ。 政治教育は、伝統を享受し、我々の先輩たちの行動を観察し、模倣することにはじまる。我々が目をあけた時、我々の前にひろがる世界の中で、このことに寄与しないものは、ほとんどあるいはまったく存在しない。我々は、現在を意識するや否や、過去と未来を意識する。我々は、政治についての本に興味をもつ年頃よりもずっと以前から、我々の政治的伝統に関する、かの複雑・錯綜した知識を獲得しつつあり、それなくしては、いつか本を開いてみても、それを理解することなどできないであろう。(同、 p. 150 )  教育は<模倣>に始まる。よく「学ぶ(まなぶ)」とは、「まねぶ」、すなわち、「まねる」ということに由来すると言われる。詰まり、教師・師匠を真似て教養や技術などを身に付けるということである。 我々が理解することを学ばなければならないものは、政治的伝統であり、行動の具体的様態なのだ、ということを考慮することである。そしてそれ故、学問的な水準では、政治の研究は、1つの歴史研究たるべきであり、――それもなによりまず第1に、それが過去に関わるベきだから、という理由からではなく、我々が具体的な細部を問題にせねばならない、という理由からである。(同、 pp. 150-151 )  政治は、伝統に棹差すことが必要である。が、しっかり伝統が理解出来ていなければ、自分では伝統に棹差しているつもりでも、ただ流されてしまっているだけということにもなりかねない。だから、伝統の源たる歴史を研究することが欠かせないのである。 たしかに、深くその根を過去の中におろしていないようなものは何も、政治的活動の伝統の現在の表層にも現われはしないし、それが存在するに至るのを十分に観察しなければ、その重要性への手がかりをしばしば見落すことになるだろう。だからこそ、本格的な歴史研究は、政治教育の不可欠の部分をなすのである。(...

オークショット「政治教育」(11) 伝統もまた不易不変ではない

 いかなる詩人も、またいかなる芸術家も、それだけで完全な意味をもつものはない。その意義、その評価は、過去の詩人や芸術家たちに対する関係の評価にほかならない。その人単独ではこれを評価するわけにゆかない。比較、対照するために、これを死者のなかにおいてみなければならない。わたしはこれを審美的な批評の一原理としていっているので、ただたんに歴史的批評の原理としてのみいっているのではない。このように、ひとりの詩人や芸術家が過去に順応し一致しなければならないといっても、それは一方的なものではない。(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」:『エリオット全集』(中央公論社)第5巻 深瀬基寛訳、pp. 7-8)  T・S・エリオットのこの論説は、詩人と伝統との関係について書かれたものであるが、この詩人を政治行動と置き換えて考えれば、政治行動と伝統の関係について考えることが出来る。政治行動の意味は、過去の政治的業績との比較対照の中で評価されねばならない。 ひとつの新しい芸術作品が創造されると、それに先立つあらゆる芸術作品にも同時におこるようななにごとかが起る。現存のさまざまなすぐれた芸術作品は、それだけで相互にひとつの理想的な秩序を形成しているが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が入ってくることにより、この秩序に、ある変更が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでにできあがっているわけであり、新しいものが加わったのちにもなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の全体がたとえわずかでも変えられなければならないのである。こうして個々の作品それぞれの全体に対する関係、釣合い、価値などが再調整されてくることになるのだが、これこそ古いものと新しいものとのあいだの順応ということなのである。(同、 pp. 7-8 ) 政治行動がこれまでの政治的業績に順化し、その1つとなることによって旧秩序にどのような変化が生じ、新秩序が構築されたのかを判断し評価しなければならないということである。 伝統の内のどんなものも、長い間まったく変化を受けないままでいるわけではない。すべては推移するが、どれも恣意(しい)的に変るわけではない。すべては、そのとなりに偶然あるものとの比較によってではなく、全体との比較によって現われてくる。そして行動の伝統は、本質と偶有性の区別の余地を残さ...

オークショット「政治教育」(10) 伝統の原理

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伝統の原理とは、連続性の原理である。権威は、過去と現在と未来、古いものと新しいものと、やがて現われるものとの間に分散されている。それが安定しているのは、それがいつも変化しているにもかかわらず、決して全面的に動揺することがないためである。それはまた、静寂ではありつつも、決して完全には休止することはない。伝統に属するかぎり、どんなものも完全に失なわれはしない。我々はいつでも、英気をやしなうために過去をふり返り、伝統の中でも最も遠くへだったた要素からさえ、何か時局に適ったものを得るのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)  <伝統>とは、現在を経て未来へと時と共に流れて行く過去からの「送り物」である。が、ここで注意すべきは、<伝統>は、必ずしも正しいものであるわけではないし、美しいものであるとも限らない。中には時代にそぐわなくなった伝統もあるだろう。そのことを理解せず、ただ<伝統>を旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)するだけでは、やがてその<伝統>は形骸化し、命脈を保てなくなってしまうに違いない。 もし伝統ということの、つまり伝えのこすということの、唯一の形式が、われわれのすぐまえの世代の収めた成果を墨守して、盲目的にもしくはおずおずとその行きかたに追従するというところにあるのなら、「伝統」とは、はっきりと否定すべきものであろう。われわれは、このような単純な流れが、たちまちにして砂中に埋もれてゆくさまを、たびたびまのあたりにしてきたのである。それに新奇は反復にまさるものである。伝統とはこれよりはるかに広い意義をもつことがらである。それは相続するなどというわけにゆかないもので、もしそれを望むなら、ひじょうな努力をはらって手に入れなければならない。 伝統には、なによりもまず、歴史的感覚ということが含まれる。これは25歳をすぎてなお詩人たらんとする人には、ほとんど欠くべからざるものといっていい感覚である。そしてこの歴史的感覚には、過去がすぎ去ったというばかりでなくそれが現在するということの知覚が含まれるのであり、またこの感覚をもつ人は、じぶんの世代を骨髄のなかに感ずるのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体が――またそのうちに含まれる自国の文学の全体が――ひとつの同時的存在をもち、ひとつの同時的な秩序を構成しているという感じをもって筆をと...

オークショット「政治教育」(9)政治活動の伝統

political crisis (even when it seems to be imposed upon a society by changes beyond its control) always appears within a tradition of political activity; and 'salvation' comes from the unimpaired resources of the tradition itself. Those societies which retain, in changing circumstances, a lively sense of their own identity and continuity (which are without that hatred of their own experience which makes them desire to efface it) are to be counted fortunate, not because they possess what others lack, but because they have already mobilized what none is without and all, in fact, rely upon. -- Michael Oakeshott,  Political Education : FOUR (政治的危機は(たとえそれが制御できない変化によって社会に出来(しゅったい)したように思われる場合でさえ)常に政治活動の伝統の中に現れるのであり、「救い」は伝統それ自体の損なわれていない資源から齎(もたら)されるのである。変化する状況の中で、自分自身のアイデンティティと連続性についての生き生きとした感覚を保持する(自分自身の経験を消し去ろうとする嫌悪感を持たない)社会は、幸運と見做(みな)される。それは、他の社会に欠けているものを所有しているからではなく、どこにも無くはなく、実際、すべてが依存するものをすでに動員しているからである)  <政治的危機>は、政治活動の伝統の中に生じ、その救済もまた政治活動の伝統の中から得られる。にもかかわらず、政治活動の伝統を否定してしまっては、適...

オークショット「政治教育」(8)行動の伝統とは共感の流れ

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行動の伝統とは、固定的な、融通のきかない行動様式ではない。それは共感の流れである。それは、時として外国からの影響が侵入して、中断するかもしれない。またそれは、向きを変えたり、制限されたり、押しとどめられたり、また枯渇したりすることもある。また、そこにあまりに深く矛盾が根をはっていることが明らかになって(たとえ外国の助けがなくても)危機が出来(しゅったい)することもあろう。もしこれらの危機に対処するために、何らかの確固たる不変の、独立した指導原理が存在し、社会がそれに訴えることができるのならもちろんそれは結構なことであろう。しかしそんなものは存在しない。危機が、手をつけずそのままに残しておいた、我々の行動の伝統の断片とか、遺物とか、なごりといったものの外に、我々はいかなる手立てももたないのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 146)  <行動の伝統>とは<共感の流れ>である。伝統は、目には見えねど止め処(とめど)なく、時と共に流れている。 《傳統(でんとう)とは過去の文化の遺產が、現在に傳へられ、現在によみがへるからこそ傳統なのである。過去の文化の遺產が、どういふ性質のものであったかを理解するといふ事は、傳統の問題の半面に過ぎず、それが現在によみがへるといふ處(ところ)を考へなければ、問題は片付かぬ。 而(しか)も、この現在によみがへるといふ事は、よみがへる處を僕等が觀察出來るといふ樣な筋合ひのものではない、よみがへるかよみがへらぬかは、偏(ひとえ)に僕等の努力とか行ひとかにかゝつてゐるといふ性質のものなのであります。傳統はさういふ僕等の行爲のなかにだけ生きてゐるものであるから、過去の遺產を、現在によみがへらせようと努力しない人にとつては、傳統といふ樣なものは、決して見付け出す事は出來ない、と言つてよいのである。 誰でも傳統の流れのうちにゐる、知ると知らざるを閏はず、傳統の流れのうちに暮してゐる、從つて傳統を知るといふ樣な事に何んの努力が要るわけではない、さういふ安易な考へ方を、僕は好みませぬ。恐らくさういふ考へには、非常に閒違つた處がある。僕等が意識しないでも、過去からの連績した流れのうちに身を浸してゐる、さういふ流れは、傳統の流れといふより寧(むし)ろ習慣の流れであると僕は考へたい。 傳統と習慣とはよく似てをります。倂(しか...

オークショット「政治教育」(7)イデオロギーという縮約

A total ideology is an all-inclusive system of comprehensive reality, it is a set of beliefs, infused with passion, and seeks to transform the whole of a way of life. This commitment to ideology—the yearning for a ‘cause,’ or the satisfaction of deep moral feelings—is not necessarily the reflection of interests in the shape of ideas. Ideology, in this sense, and in the sense that we use it here, is a secular religion. – Daniel Bell, The End of Ideology (イデオロギー全体が、広汎な現実の包括的体系であり、それは情熱を注ぎ込んだ一連の信念であり、生活様式の全体を変えようとする。このイデオロギーへの傾倒――「大義」への憧れ、あるいは、深い道徳的感情の充足――は、必ずしも利害の反映を思想の形にしたものではない。イデオロギーは、この意味で、そして我々がここで使っている意味で、世俗的な宗教なのである) -- ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉』 ★ ★ ★ 政治的伝統の暗示的意味を探究するための、1つの技巧として縮約を利用すること、即ちそれを、あたかも科学者が仮説を使用するように使用することと、政治的活動自体を、社会の整序化があるイデオロギーの予見に合致するように修正する行動として理解することは、まったく別のことであり、後者はまったく不通切なものである。なぜならその場合、まったく支持しがたい性格づけが、イデオロギーに対してなされることになり、実際我々はまったくまちがった、誤解を生じやすい手引きに引きずられていることになるからである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 145 )  ここで、<縮約>( abridgment )には2つあることを確認しておくべきだろう。政治的伝統の暗示的意味を探究するた...

オークショット「政治教育」(6)政治とは伝統に暗示されたことの追求

政治という活動は、その時々の欲求からも一般原理からも、自動的に発生するものではなく、存在している行動の伝統自体から発するものである。また政治活動が取る形とは、多くの伝統の中で暗示されたことを探究し、追求するによって、すでに存在している秩序に手を加えるということである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 143)  政治とは、既存の秩序に手を加え、新たな秩序を構築する活動のことである。秩序は、独り明示的規則だけで成り立っているわけではない。伝統や慣習という形で過去より伝わる暗示的な部分にも十分目配りしなければ、十全たる活動は望めない。 政治的活動を為し得る社会を構成している整序化は、それらが習慣であれ、制度であれ、あるいは法や外交的決定であれ、整合的であると同時に、不整合的でもあるものである。それらは、あるパターンをなしているが、同時にそれらは、完全には現われていないものに対する、ある共感を暗示してもいるのである。政治的活動とは、この共感を探究する試みである。だから、意味のある政治的推論とは、存在はしていてもまだ十分には把握されていないある共感を、説得的なやり方で呈示することであり、今こそそれを認知すべき絶好の時であることを、説得的に証明することであろう。(同、 pp. 143-144 )  政治活動は、明示的なものだけではなく、暗示的なものにも目を向けて、これに<共感>することが必要なのだ。伝統に棹差すことによって<共感>したことを説得的に明示し、探究の中身を深く掘り下げることが大事だということである。 政治においては、いかなる企てもある帰結としての企てであり、夢や一般原理の追求ではなく、暗示された意味の追求である(同、 p. 144 )  現実から乖離(かいり)し観念的世界に遊ぶのではなく、現実を追求することによって「なすべきこと」を見出す。問題の手懸りは、必ずや過去にある。 もし我々が、政治とはそもそも暗示的意味の追求以上の何ものかである、という幻想から逃れることができれば、理解の誤ることは少なくなろうし、また致命的なものでもなくなるだろう。それは、論議によって結着するのではなく、会話によって追求するのである。(同、 pp. 144-145 )  「なすべきこと」は、議論に勝つか負けるかによって決まるのではない。まして、多...

オークショット「政治教育」(5) イデオロギー

我々が「イデオロギー」と呼ぶ抽象観念の体系は、ある種の具体的活動からの抽象であることになる。ほとんどの政治的イデオロギー、そしてとりわけその中で最も有用なもの(というのは、イデオロギーは疑いもなく、有用性をもっているのだから)は、ある社会の政治的伝統からの抽象である。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、pp. 140-141)  具体的活動を素直に観念の世界へと取り込められたら問題はない。が、我々は往々にして斜に構え、現実を歪(ゆが)んで取り込みがちである。だから、「理念」も歪んでしまうのである。 しかし時には、政治的経験からの抽象ではなく他の何らかの活動様態――例えば戦争とか、宗教とか、産業の経営など――から抽象された、政治への指導原理そしてイデオロギーが提供される場合がある。そしてこの場合、我々に示されるモデルは、単に抽象的であるのみならず、それが抽出されたもとの活動が的はずれなものであることになる。私の意見では、これはマルクス主義のイデオロギーが提供するモデルの欠点の1つである。しかしいずれにせよ重要なことは、イデオロギーはせいぜいのところ、具体的活動のある様態からの縮約にすぎないという点である。(同、p. 141)  具体的活動から帰納的に得られた政治思想ではなく、偏見と妄想を体系化した「イデオロギー」ほど迷惑なものはないだろう。世の中に「ルサンチマン」(怨恨)が広がるだけでも問題なのに、曲がりなりにもそれに「お墨付き」を与えることになってしまうのであるから大変なのである。 政治を、独立に考案されたイデオロギーの導きの下に、社会の整序化に関わる活動と理解することは、それを純粋に経験的な活動と理解するのと同じくらい、誤解であるということになろう。政治が他のどこにはじまるものであろうと、それはイデオロギー活動にはじまるものではあり得ないのだ。  地に足の着かぬ<イデオロギー>など「虚偽の意識」(エンゲルス)に過ぎないということである。 科学の仮説が、既に存在している科学的探究の伝統の中にでなければ、現われることも機能することもまったく不可能であるのと同様に、政治的活動の諸目的の体系も、我々の整序化へいかに関わるべきかという既存の伝統の中にのみ現われ、またそれに結びつけられる場合にのみ、評価し得るものとなるのである。政治においては、見...

オークショット「政治教育」(4)「平等主義」の行き着く先

The cult of the proletariat, of the common man, by insisting on the equality of social rights common to all, has confirmed the emphasis, already implicit in modern techniques of production, on similarity and standardization. It treats society as a conglomeration of undifferentiated individuals, just as science treats matter as a conglomeration of undifferentiated atoms. The social unit displays a growing determination to "condition" the individuals composing it in uniform ways and for uniform purposes and a growing ability to make this determination effective. The view that the exclusive or primary aim of education is to make the individual think for himself is outmoded; few people any longer contest the thesis that the child should be educated "in" the official ideology of his country. – E. H. Carr (1947), The Soviet Impact On The Western World (プロレタリアート、平民の崇拝は、万人に共通する社会的権利の平等を主張することによって、近代の生産技術にすでに潜在していた、類似性と標準化の強調を確認した。それは、科学が物質を未分化な原子の集合体として扱うように、社会を未分化な個人の集合体...

オークショット「政治教育」(3) 予め考案されてしまっている価値

とはいえ普通は、単一の観念よりも、関連する諸観念の複合した、1つの図式の必要が認められるものであり、そのような観念体系の例を示せば、「1789年の諸原則」とか「リベラリズム」「民主主義」「マルクス主義」「大西洋憲章」といったものである。これらの諸原理は、(しばしばそう考えられるように)絶対的なものとか、確固不壊のものと見なされる必要はない。ただそれらの価値は、あらかじめ考案されてしまっているということにある。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、pp. 134-135)  実際の活動に先んじて、活動の意味が予言されているかのように、既存のイデオロギーに照らし合わせ、何か齟齬(そご)があればそれを補正し修正を施(ほどこ)して整合性を図ろうとする。それが政治活動だというのは<誤解>ではないかということである。 何を追求すべきかということを、いかに追求すべきかということから独立に、それらは理解させることができなければならない。政治的イデオロギーは、「自由」とか「民主主義」とか「正義」が何であるかという知識を、前もって与えると自認し、このようにして、経験主義が実際機能し得るようになる前提を作り上げるのである。(同、 p. 135 )  例えば、予(あらかじ)め<自由>とは何かについて抽象的概念が植え付けられ、その概念の枠組みの中で自らの活動が自由に与(くみ)するものなのか、抑圧的なものなのかを把握するわけである。言い換えれば、<自由>とはいかなるものかという固定観念に縛られた状態で、活動するということである。 経験主義が機能し得るのは(そして、具体的な自己運動的活動様態が現われるのは)経験主義に、この種の先導が付け加わった場合、即ち欲求に加えて、欲求だけからは生じ得ない何かがそこにある場合、というものである。(同)  詰まり、経験主義はイデオロギーの枠組みの中で意味をもつのである。 政治的活動がこのように理解される時…第1に要求されるものは、選ばれた政治イデオロギーについての知識――追求されるべき諸目的の知識、我々がなそうと欲することの知識などである。もちろん、我々がこれらの目的を成功裏に追求し得るためには、他の種類の知識もまた必要とするだろう。例えば、経済や心理についての知識など。しかし、求められる知識全ての種類に共通した特徴は、それらが、社会...

オークショット「政治教育」(2)政治的イデオロギー

純経験的活動として政治を理解することは、そもそも具体的な活動様態を、把(とら)えそこなっているゆえに、十全なものではない。それにそれは、往々にして不幸な結果をまねくような、あるスタイルでの社会の整序化への関与を追求するように、無思慮な人を導くという、附随的な欠点ももっている。もともと不可能なことをしようとするのは、破産的な企てと決っている(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 133)  政治とは、単なる<経験的活動>ではない。にもかかわらず、政治を<純経験的活動>だと思い込んでしまえば、その活動を価値付けるための何らかの<スタイル>が必要となる。 この政治理解に欠けているものとは、経験主義を実際に働かせるようにできるもの、科学においてちょうど個々の仮説にあたるようなもの、単なるその場その場の欲望よりも広い射程をもつような追求目標に他ならないことが、知られるだろう。またこれは、単に経験主義のよき相棒にとどまるものではなく、それなくしては、経験主義がまったく機能し得なくなるものであることが、見て取られるはずである。(同、 p. 134 )  経験主義的活動が<混沌>に陥らぬためには、諸々の活動を秩序付けなければならない。その枠組みの1つが「イデオロギー」と呼ばれるものである。 政治が自己運動的な活動様式として現象するのは、経験主義にイデオロギー的活動が先行し、それによって先導される場合である…私はただ、政治的イデオロギーが、経験主義(やりたいことをなすこと)にとって不可欠な要素として加えられた時、はじめて自己運動的な活動様式が現われ、従って、これこそ原理的に十全な政治活動の理解と見なされ得るのだ、という主張を問題にするだけである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 134 )  様々な具体的活動が寄り集まって社会が変化し、秩序が更新されるというのではなく、秩序体系は予(あらかじ)め決められており、これに合わせて具体的活動が意味付けられ、制約される。これではおかしくはないかということである。 政治的イデオロギーとは、ある抽象的な原理または諸原理の関連せる組合せを意味し、あらかじめ個々の経験から独立に考案されたものである。それは、社会を整序することに関わる行動に先んじて、追求されるべき目的を...

オークショット「政治教育」(1) 経験的活動として政治

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いかなる世代でも、その最も革命的な世代においてすら、成立している秩序は意識されるべきものをいつもはるかに越えているのであり、とってかわり得る新秩序などは、手直しを受けて維持されるものと比べて、わずかしかないのだ。新しいものは、全体の内のとるに足らぬ割合しか占めていない(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 130)  革命だなどと大仰(おおぎょう)に言ったところで、意識的に変更できるものなど限られている。社会の秩序は、意識出来るものを遥かに超えた要因が複雑に絡み合って成り立っているのであって、革命と言っても社会の上辺を変更するにとどまり、根本は変えられない。  ある人々の理解では、政治とはある経験的な活動と呼ばれるものである。社会の整序化に関わることは、毎朝目をさまし、「私は何をしたいのか?」とか「誰か他の者(私が喜ばせようと望む人)は、何をされたいか?」と自問し、ただそれをすることである。政治的活動についてのこの理解は、政策なき政治と言い得るかもしれない。(同、 p. 132 )  <経験的>( empirical )とは「刹那的」ということである。詰まり、そこには未来に対する展望もなければ、過去に対する省察もない。ただ、日常的な問題に対し場当たり的に「反応」しているだけである。 ごく簡単な考察だけでも、それは具体化の難しい政治の概念であることが明らかになろう。それは、そもそも可能な活動様式とも見えないのである。しかし、これに似たアプローチは、おそらくよく知られた東洋の専制君主の政治や、あるいは落書き屋や買収屋の政治になら、見出すことができる。しかし、その結果は、気まぐれに取り入る以外には何も一貫したことのない、混沌(こんとん)でしかないと思われる。(同)  活動の視点が「今」にしかない。そこには「時間」の観念がない。だから物事が時間軸によって整序されない。過去からの積み重ねもなければ、未来への応用発展もない。だから<混沌>状態に陥ってしまうのである。 純粋に経験的な行動として政治を理解することは、それを誤解することである、なぜなら、経験主義はそれ自身、そもそも何ら具体的な活動様式ではなく、それが具体的活動様式での手助けになり得るのは、それが他の何かと――例えば科学でなら仮説と――結合される場合だ...