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オークショット「保守的であるということ」(18)【最終】秩序を乱さぬ範囲内の自由

秩序は課すが各人の企てについては指図することのないような規則が、つまり義務を集約することによって各人が喜びを追求する余地を残しておくような規則が、価値あるものだ(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 233)  秩序を乱さぬ範囲内の自由ということである。互いの自由と自由が衝突するのを避けるために、あるいは、強者が力付くで弱者の自由を奪うなどというようなことがないように、最低限の<規制>があるのである。 政治とは若者には適していない活動であり、その理由は、彼らの欠点にあるのではなく、私が少くとも彼らの美点だと考えているものにある、ということである。  こうした政治の様式において必要とされる、中立性を保とうとする気持ちについては、それを獲得ないし維持するのが容易であるかのように見せかける着は、誰もいない。自分自身の信条や欲求を抑えること、物事の現在ある姿を認めること、自分の手の中にある物の釣り合いを取ること、嫌なことに対して寛容であること、犯罪と倫理的な罪とを区別すること、誤りへと導かれそうに見える時でさえ形式性を重んずること、これらのことは成し遂げるのが困難であり、またそれらは、若者の中に成し遂げられているのを見出すことができないものなのである。(同、 pp. 234-235 )  血気盛んな若者は、自由を謳歌することに夢中で、自由を制御して秩序を乱さぬようにしようなどというところにまで気が回らない。 若い時期というのは誰の場合でも、1つの夢であり、喜びに満ちた狂気、甘美な唯我論である。そこでは、形状とか価格とかが固定されてしまったものは1つもなく、あらゆるものが可能性の中にあり、そして我々は信用貸しを受けて幸福に暮らしている。守るべき義務は何もなく、貸し借りを清算する必要もない。予め特定されているものは何もなく、あらゆるものはどのようにでもすることができる。 世界とは、我々がそこに自分自身の欲求を映し出そうとする鏡である。激烈な感情の魅力には、逆らうことができない。我々は若い時は、世界に対して譲歩しようとしない傾向があり、自分の手の中にある物の釣り合いを――それがクリケットのバットでなければ――決して取ることはない。我々は、自分の単なる好みと好意的な評価とを区別しようとはせず、切迫性を重要度の基準としているし、また我々は...

オークショット「保守的であるということ」(17)統治者は価値中立的審判員

規則に従って試合を進行させることをしないような審判員には、あるいはまたえこひいきをしたり、自分自身の試合をしてしまったり、いつも笛を鳴らして試合を止めたりするような審判員には、用がない。結局のところ大事なのは試合なのであり、そして試合で競技する際には、我々は保守的である必要はないし、現在のところそういう傾向にもないのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 231)  自由主義の統治者は競技の審判員のような存在である。競技の外側から、競技者が規則を守って競技しているかどうかを監視し、違反があれば、指摘指導する。 この種の統治は、我々の戦いの熱気の中に、諸々の信念の激しい衝突の中に、また、隣人達ないし全人類の魂を救済しようとする我々の熱狂の中に、次のような諸要素を注入する。即ちそれは、理性の要素ではなくて(一体どのようにして我々はそれを期待すればよいのか?)、悪徳をもう一つの悪徳によって中和しようとする皮肉の要素であり、また、それ自体は賢明さを標榜せずに行き過ぎをくじく揶揄(やゆ)の要素、緊張を散逸させる嘲笑の要素、そして不活性の要素と懐疑の要素である。(同、 p. 232 )  揶揄嘲笑、諧謔(かいぎゃく)滑稽を交え、熱狂を冷まさせる。まさに「毒を以て毒を制す」かの如(ごと)しである。 活動が冒険的な企てへと傾いているところでは、それに対応するものとして、抑制の方に傾いたもう一つの種類の活動が不可欠である。(同)  例えば、冒険的な企てには保守的な企てによって<中和>を図り、社会秩序の平衡を保とうとするということである。 「審判員」が同時に競技者の1人でもあれば、それは全く審判員などではないし、「規則」に対して我々が保守的性向を有していないのであれば、それは規則ではなく、無秩序への誘因である。夢を見ることと統治することを連結すると、それは圧政を生むのである。(同、 p. 233 )  競技から中立的であるからこその審判なのであって、審判自身が競技に参加してしまっては、中立は保てない。競技に参加する審判は、自分達に都合の良い判定を下すようになり、競技の自由は圧殺されてしまうだろう。 統治に関して保守的性向を有するのがきわめて適合的だと思われる人々とは、まさに自分の責任において行ったり考えたりする事柄があり、技...

オークショット「保守的であるということ」(16) 節度

 或る人達にとっては、「政府」とは権力の貯蔵所として現れてくるものであり、彼らはそれに刺激されて、それをどのように利用することができるだろうかと、夢を見るのである。彼らは、様々な要素を含んだお気に入りの企てを持っており、それが人類の利益に適ったものであるということを、心から信じている。そして、人を統治するという冒険として彼らが理解していることとは、権力のこの源泉を獲得し、必要であればそれを増大させ、そして、彼らのお気に入りの企てを仲間達に押し付けるのに、それを利用するということである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 229)  1つ疑問がある。果たしてこの人達は、自分達の考える<企て>が<人類の利益に適ったもの>と思っているのだろうか、ということである。私は、オークショットの見解とは違い、この人達は政治を権力闘争と捉える傾向があり、権力を奪取した暁には、自分達が望む社会に誘導しようと考えているだけではないかと思うのである。自由主義は、自分と考え方が異なる人達の自由も法に従う限り認めるものであるが、社会主義は、世の中を画一化するものであり、個人に自由はない。 このように彼らは、統治というものを情念の手段として認識する傾向があり、政治の技術とは、欲求に火をつけ、それを監督することにあるとされる。要するに統治とは、他のいかなる活動とも――或る銘柄の石鹸を作って売ることとも、或る地域の資源を開発することとも、あるいは住宅団地を開発することとも――少しも異なるものではないと理解されており、ただ、統治の場合には、権力が(ほとんどの場合)すでにかき集められている、というだけのことであり、統治という企てが目立つ理由は単に、それが独占を狙っており、ひとたび権力の源泉を獲得してしまえばその成功が約束されている、という点にあるにすぎないとされるのである。(同、 pp. 229-230 )  自由主義における政治とは、人々が自由公正に活動できるようにするための場作り、環境整備である。一方、社会主義における政治とは、為政者のイデオロギーを画一的に遵守させる強制活動である。 統治者の仕事とは、情念に火をつけ、そしてそれが糧(かて)とすべき物を新たに与えてやるということではなく、既にあまりにも情熱的になっている人々が行う諸活動の中に、節度を保つという...

オークショット「保守的であるということ」(15)理想と現実の綱引き

規則の修正は、それに服する者達の諸々の活動や信条における変化を常に反映したものでなければならず、決してそうした変化を押し付けることがあってはならない。またそれは、決していかなる場合でも、全体の調和を破壊してしまうほどに大がかりなものであってはならない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 228)  規制の変更は、社会秩序の乱れを是正するために行うものであり、社会を一定の方向に向けさせるために行うものではない。また、変更が大き過ぎては、かえって秩序を乱しかねないから、変更は「微調整」に留めることが肝要である。 保守主義者は…新たな規則を考え出すことよりも、既に手にしている規則を守らせることの方を選ぶだろう。彼は、規制の修正は、それが反映しようとしている状況の変化が、いくらか固まってきたということが明白になるまでは、始めないでおくのが適切だと考えるだろう。(同)  社会秩序の乱れは、独り<規則>が時代に適合しなくなったとだけ考えるのは早計であり、人々が法令遵守(じゅんしゅ)を怠っていることによるかもしれない。この見極めが大事である。後者の場合、緩んだ規律に合わせ、安易に<規則>を変更するのではなく、規律を引き締めることの方が優先されるべきだろう。 彼は、状況の要求するものを超えた変化の提案には、疑いの目を向けるだろうし、為政者が大きな変化をもたらすために尋常ならざる権力を要求し、その発言が「公共の福祉」とか「社会正義」とかといった一般的な事柄に結びついている場合や、よろいをまとった社会の救済者が、退治すべきドラゴンを捜している場合にも、それに疑いの目を向けるであろう。彼は、変革を行うべき時機について注意深い考慮を払うことが、妥当だと考えるだろう。(同、 pp. 228-229 )  社会秩序の乱れを修正しようとするのか、社会体制を根本的に変更しようとするのかをしっかり見極めることが大切である。後者の場合、変化は大きなものとなり、社会秩序は大きく乱れるだろう。地に足の着かぬ一足飛びの社会変革は、うまくいくかどうかはやってみなければ分からない危険を伴うものであり、逆に、変革によって破壊され、確実に多くのものが失われる。要は、割の合わぬ「博打(ばくち)」でしかない。 要するに彼は、政治というものを、価値ある道具を新しく永遠に備え...

オークショット「保守的であるということ」(14)「政府」の役割

自己の信条と企てに関して情熱的な人々によって行われる自律的統治は、それが最も必要とされる時に失敗に終わりがちである。解決すべき利益の衝突が比較的小規模のものであれば、そうした自律的統治でも充分なことが多いのであるが、これを超えたものについては、それはあてにできないのである。我々の生き方から生じがちな大規模な衝突を解決し、我々が脱け出せなくなりがちな大きな挫折から我々を救い出すためには、そう簡単には本来の姿が損なわれないような、もっと精緻な儀式が必要となる。この儀式を保護する者が「政府」であり、その者によって課される規則が「法」である。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 225-226)  規模の小さな原始的な社会においてであれば、<自律的統治>も可能かもしれないが、現代のように規模が大きく複雑化した社会においては「政府」という組織が不可欠となる。 統治することとは…目的追求をくじく利益衝突という結果に至る可能性が、当該の環境において最も低いような行動様式を支えるために、法的な制約を提供することであり、また、他人がこれに反した振舞い方をしたので被害を受けたという人のために、補償やら埋め合わせの手段やらを提供すること、規則におかまいなく自分自身の利益を追求する者に対して、時には罰を加えること、そして勿論、この種の仲裁者としての権威を充分に維持できるだけの力を、提供することである。(同、 pp. 226-227 )  人々の自由な活動の結果として生じる利害衝突を最小限に抑えるために設定されるのが「法」であり、この「法」を実行あらしめるのが「政府」の役割である。 統治は特殊で限定的な活動として認識されるのである。それは、それ自体が1つの企ての遂行なのではなく、自分で選択した、それぞれにきわめて多様な企てに携わっている人々の、活動の枠組となる規則を維持することなのである。統治が関わりを持つのは、具体的な人間ではなく諸々の活動であり、しかもその関わりは、それらが相互に衝突する傾向を持つという点のみにおけるものである。 統治は道徳的善悪とは関係がないのであり、人々を善きものにしようという目的で行われるものではないし、人々を比較的善いものにしようという目的ですら行われるものではない。 統治が欠くことのできないものである理由は、「人...

オークショット「保守的であるということ」(13)統治者の職務

Something much smaller and less pretentious will do: the observation that this condition of human circumstance is, in fact, current, and that we have learned to enjoy it and how to manage it; that we are not children in statu pupillari but adults who do not consider themselves under any obligation to justify their preference for making their own choices; and that it is beyond human experience to suppose that those who rule are endowed with a superior wisdom which discloses to them a better range of beliefs and activities and which gives them authority to impose upon their subjects a quite different manner of life. -- Michael Oakeshott, On being conservative : THREE (何かずっと小さな、大袈裟でないものが役に立つだろう。つまり、このような人間環境の状態は実際、進行中であり、私達はそれを楽しみ、管理する方法を学んできたという見解。私達は後見人の下にある子供ではなく、自分自身で選択する方を選ぶことを正当化する義務を負わない大人であるということ。支配する者たちが、優れた知恵に恵まれ、より幅広い信念や活動を開示し、全く異なる生活様式を臣下に押し付ける権限を与えられているとは、人間の経験から、思われないということ)  今、目の前で進行しているのが「現実」なのであり、これを否定して夢の世界に逃げ込んだところで何も得られない。現実を受け止め、最善を尽くす。その方が、現実を受け入れられず、空想にただ耽(ふけ)って...

オークショット「保守的であるということ」(12)「足るを知る」こと

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保守的性向――の源泉は、人間の環境の現在の状況を受容するという態度の中に見出すことができる。その状況とは…我々には自分自身で選択を行い、かつそうすることに幸福を見出そうとする傾向があるということ、各人は情熱をもって多様な企てを追求しており、また各人は多様な信条を、それだけが正しいとの確信とともに抱いているということである。そこでは、創意工夫がなされ、絶えず変化が起こり、いかなる大がかりな計画も存在せず、過剰、活動の行きすぎ、そして形式にとらわれない妥協があった。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 223)  現状を受け容(い)れること、それこそがまさに保守的性向である。勿論、これは現状が申し分ないということを意味しない。不十分な点、不満な部分がないわけではない。が、不平不満を膨らませていては、自分が不幸になるだけだ。 《禍(わざわい)は足るを知らざるより大は莫(な)く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第46章) (災禍(わざわい)は君主の飽くなき欲望が最大で、咎(つみ)は物欲ほど大きなものはない。だから結論を言えばこうだ。足ることを知ることの豊かさは、いかなる時も常に満ち足りている、と) 統治者の職務とは、それに服する人々に対してそれぞれの抱いている信条やそれぞれの行っている活動とは別のものを押し付けることではないし、彼らを教育したり育成したりすることでも、他のやり方で彼らをもっと良くしたり、もっと幸福にしたりすることでもないし、また彼らに指図することでも、彼らを行動へと駆り立てることでも、いかなる衝突の場面も生じないようにと彼らを指導したり、彼らの諸活動を整序したりすることでもない。(オークショット、同)  ここで否定されているのは、社会主義における統治者のものである。社会主義には、唯一の「正解」がある。統治者はその「正解」を人々に強要し、教育を通して刷り込むのである。 統治者の職務とは、単に、規則を維持するだけのことなのである。この活動は特殊で限定的なものであり、他の活動と結合させられるや、それが何であろうとすぐに自らの本来の姿を損なってしまうものであり、しかも、我々の環境においては不可欠のものである。規則を維持する者の典型は、試合に...

オークショット「保守的であるということ」(11)「革命」へと至る単純思考

その情景は、自動車レースと似た興奮をもたらすが、そこには、何らかの仕事上の企てを見事に遂行したときに得られる満足は、少しもないのである。このように思った人達は、現在の乱雑さを大げさに捉えがちになる。彼らにとっては、計画の欠如があまりにも著しいので、混沌(こんとん)を抑制するには微調整では足りないし、それどころかもっと大がかりなしくみですら役に立たないと思われている。彼らは乱雑さを不便なこととしか感じず、そこに温もりを感じることはない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 221)  自由主義とは個人の自由を尊重するということであり、結果として、個々バラバラな個人が混在することとなる。これを<自由>と見る人もいれば、<乱雑>と見る人もいるだろう。後者の人達は、社会に統制が取れていないことの表れと見、それは<計画の欠如>の問題と考える人もいるだろう。この<混沌>を解消するためには社会を抜本的に変えなければならない。すなわち、「革命」が必要だということになる。 彼らの観察能力に限界があるということは、重大ではない。重大なのは、彼らの思考の転回である。彼らの感ずるところによれば、この所謂(いわゆる)混沌を秩序へと変えるために行うべきことがあるはずであり、それというのも、合理的な人間は決してこのようにして人生を送っていくべきではないからである。 彼らは、まるで、ダフネの首のあたりに垂れた髪が乱れているのを見たときのアポロンのように、ため息をつき、「もしそれがきちんと整っていたとしたら、どんなだろう」と一人言を言う。そのうえ彼らの言うところによれば、彼らは夢の中で、衝突が生じないという、全人類にふさわしい栄えある生き方を、目にしたことがあり、彼らの理解によれば、現在の我々の生き方を特徴づけている多様性とか衝突の生ずる場面とかを、除去しょうとすることが、この夢によって正当とされる。 勿論、彼らの見た夢のすべてが全く同様なものというわけではないが、次の点は共通している。即ちどの夢に現れた光景を見ても、そこでは、人間の環境は衝突の生ずる場面が取り除かれた状況になっており、人間の活動は協調的で、単一の方向へ進むようにさせられており、またどの資源も充分に利用されているのである。 このように考えるのだから当然のことながら、そうした人達の理解によれば...

オークショット「保守的であるということ」(10)微調整

我々は他人の道を横切る形で自分の道を進んでおり、皆が同種の行為を是認しているわけではない。しかし我々は、時には譲歩し、時にはしっかりと自分の道を固守し、時には妥協することによって、概して互いにうまくやっているのである。我々の行為を構成している活動は、他者の活動と同化するように調整されており、しかもその調整は微小なもので、かつその大部分は、控え目で目に留まりにくいものなのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 220-221)  保守とは、ただ旧套(きゅうとう)を墨守(ぼくしゅ)することではない。時代の変化に合わせ、大きな齟齬(そご)が生じないように「微調整」を怠らない、それが保守の真髄だと言えるのではないだろうか。  こうしたことすべてが何故そういうものなのか、という点は重要ではない。それは、必然的にそうなっているわけではない。人間の環境が異なった状況にある場合も容易に想像できるし、また、時代や場所によっては、活動がはるかに多様性や変化に乏しく、見解もはるかに多様性に乏しくて衝突を生じにくいという状況にもなる、あるいはそうであったこともあるということを、我々は知ってもいる。しかし、概して我々は、これを我々の状況だと認めているのである。その状況は、誰もそれを企図したとか、他のすべてのものに優先してそれを特に選択したとかいうわけではないが、それにもかかわらず人間が獲得したものである。それは、自分自身で選択を行うということへの愛を身につけた人間が、それに衝き動かされて生み出したものであって、「人間の本性」が解き放たれてできたものではない。(同、 p. 221 )  伝統や慣習といったものは、誰かが意図して作成したものではない。社会を構成する人々が賛成し、あるいは、反対せず受け継いできた「集大成」なのである。  この情景を見渡して、或る人々は、秩序と統一の欠如がその顕著な特徴であるかのように思い、そのことに刺激されてしまう。つまりそれは、その無駄の多さ、その失敗、それによる人間の精力の浪費であり、さらに、目的地が予め計画されていないというだけでなく、いかなる進行方向も識別すらできないということである。(同、 p. 221 )  世の中には物事を否定的に見てしまう性向の人達がいる。こういった人達は、往々にして社会が暗黒にしか...

オークショット「保守的であるということ」(9)使い慣れた道具

保守的性向が他のいかなるものよりも常に適合的になる場合とは、進歩よりも安定性の方が有益なとき、憶測よりも確実性の方が価値のあるとき、完璧なものよりも慣れ親しんだものの方が望ましいとき、真理であるかも知れないがそのことが論争の的になっているものよりも、誤謬(ごびゅう)だということで意見が一致しているものの方が優っているとき、治療よりも病気の方が耐えやすいとき、期待そのものの「正当性」なるものよりも期待を満足させることの方が重要なとき、そして、規則が全くなくなるおそれがあるよりは、何らかの種類の規則のある方がよいとき、であろう。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 212)  このオークショットの指摘は、<保守的性向>とは何かを考えるに当たって、非常に有益な具体的事例だと言えよう。要は、現状がたとえ不十分だと思われても、あるいは、現状がいかに不満であっても、現状のすべてが駄目なわけではないのであるから、これらをすべてチャラにして、ただ頭の中だけで成り立っている世界に飛び込むというのがどれほど危険であり、馬鹿げたことであるかということである。  一般に、諸々の道具に関する我々の性向は、諸目的に対する我々の態度よりも保守的であり、それは両者の区別にふさわしいものだと言うことができる。言い換えれば、道具は目的よりも変革を受けにくいのであり、その理由は、道具とは、稀(まれ)な場合を除けば、まず特定の目的に合わせて作られ、しかるのちはほったらかしにされる、というものではなく、諸目的全体に合うように作られたものである、ということにある。そしてこのことが理解されるのは、ほとんどの道具にはそれを使う腕前が必要とされ、その腕前とは、その道具を実際に使うことやその道具に慣れることから切り離すことができないものだからである。良い腕前を持っている人とは、水夫であれ調理師であれ、会計士であれ、手持ちのいくつかの道具を使い慣れた人のことである。実際、大工は、大工達の間で広く使われている種類の道具であっても、自分のものでないものを使うよりは自分自身の道具を使った方が、普通は腕が揮(ふる)えるし、弁護士は、ポロックの『組合法』にせよ、ジャーマンの『遺言法』にせよ、(書き込みを入れた)自分自身の蔵書の方が、他のどれよりも容易に使いこなすことができる。道具の使用の本質は使い...

オークショット「保守的であるということ」(8)保守的性向

友人という関係は、劇のようなものであり、功利的なものではない。その結びつきは親しみによるものであって、有用性に基づいたものではない。そこで発揮されている性向は保守的なものであり、「進歩志向的」なものではない。そして、我々の経験する物事の中にはこの他にも――例えば愛国心や会話のように――、そこから楽しみを得るための条件としてそれぞれに保守的性向の必要とされるものがありそれらに対しては、友情について当てはまったことが、全く同様に当てはまるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 210)  <友情>、<愛国心>、<会話>といったものには、低次から高次への<進歩>の観念がない。今日の<友情>より明日の<友情>の方がより高尚であり、それは<完成>へ向けて歩を進めるものだ、などという意識はない。 人間の諸関係を伴わないような活動の中にも、見返りのためにではなく、それが生み出す楽しみのために人が携わることのあるようなものがあり、そして、それに唯一適合的な性向は保守的性向なのである。(同、 p. 211 )  保守が現状の肯定にあるのに対し、進歩は現状の否定である。保守は現状に愛着があるのに対し、進歩は現状に不満がある。保守にとって未来は現在の延長線上にあるが、進歩にとって未来は現在から切り離された「空想」の中にある。 釣りを考えてみよ。釣りという活動は、獲物という利益を求めてではなく、人がそれ自体のために携わることがあるものなのであり、従って釣り人は夕方手ぶらで家に帰って行く時でも、魚の獲れた場合と比べて少しも不満足ではないこともある。このような場合には、その活動は儀式のようになっており、保守的性向が適合的である。もしあなたが釣れるかどうかを気にかけないのなら、何故、最高の道具のことで思い悩んだりするのか。大切なのは、腕前を発揮するという(あるいはもしかすると、単に時間を過ごすというだけの)楽しみなのであり、これを得るために必要な道具は、ばかばかしいほどに不適合なものでない限り、慣れ親しんだものであればどのようなものでもよいのである。(同)  <釣り>とは、本来魚を釣る行為である。が、趣味としての<釣り>は、必ずしも魚を釣ることが目的とは言えない。魚が餌に喰い付く「アタリ」を待つ静寂な時間をただ楽しむということもある。むしろ、日...

オークショット「保守的であるということ」(7)<見返り>を求めない人間関係

人間の諸関係の中には、保守的性向が特に適合的だというわけではないものも、数多く存在する。つまりそこでは、差し出されたものそれ自体の中にのみ楽しみを見出そうとする性向は、特に適合的だというわけではない…ここでは、当事者はそれぞれ、何らかの利便の提供または提供された利便への何らかの見返りを求めている。(中略) しかし、人間の関係にはもう1つの種類があり、そこでは、当事者達はいかなる成果も追求せず、その関係にそれ自体として携(たずさわ)っている。この関係は、それがもたらすもののゆえにではなく、それ自体として楽しみを与えているのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 209-210)  人間関係には、<見返り>を求めるものと、<見返り>を求めないものがあるということだ。例えば、 主人と使用人、地主と管理人、買い手と売り手、本人と代理人、といった関係(同、 p. 209 ) は、<見返り>を求めるものの例である。逆に、<見返り>を求めないものとしてオークショットは<友情>を例に挙げている。 友情…ここでは、親しみが何となく伝わることによって愛着が生まれ、相互の人格的交流によってそれが維持されている。好みの肉が手に入るまで肉屋を次々と変えていくとか、要求されたことを行うようになるまで代理人を指導し続けるとかの行動は、それぞれの関係にふさわしからざるものではないが、友人が期待通りに振る舞わず、また要求に適うように指導されることも拒んでいる、との理由でその人との関係を断つという行動は、友情というものの性格を完全に誤解した者のすることである。友人達が互いに関心を持っている点とは、相手をどうすることができるかということではなく、ただ相手の中に楽しみを見出すということだけなのであり、この楽しみを可能にする条件は、あるがままのものを喜んで受け容れ、それを変えたり改良したりしようとする願望を一切抱かない、ということである。(同、 p. 210 )  <友情>は、<見返り>を求めるようなものではない。友と共に時を過ごし、心を通い合わせること自体に<愛着>があるのである。 友人とは、或る振る舞い方をすると信頼された人のことではないし、何か求めているものを与えてくれる人、役に立つ或る能力を持っている人、その美点が単に或る感じの良いものであ...

オークショット「保守的であるということ」(6)「改新=改善」とは限らない

我々の世界では、何もかもが止むことなく進歩させられており、生ずべき進歩によって消滅させられるおそれのないものは1つもなく、人間自身を除けばすべてのものがその寿命を絶えず縮めている。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 207)  歩を進めるという一般的な意味ではなく、あるべき「完成像」に近付くという意味の<進歩>の観念「進歩史観」に我々は囚(とら)われてしまっているのだ。「進歩史観」は、変化は良き事、すなわち<進歩>なのであって、過去は価値無き低劣なるものとして消去される。 敬虔(けいけん)さははかないものであり、忠実さも束の間のものである。また変化の速さは、我々が何に対してもあまり深く愛着を抱かないよう警告している。(同)  <愛着>は、変化に対する制動であり、<進歩>の妨げである。<進歩>にあっては、現状は否定されるべきものである。だから、今在る何かに<愛着>があっては、先へ進めなくなってしまうのである。 我々は何事でも、その帰結が何であろうと一度は進んで試みようとする。個々の行動様式は競って「最新の」ものであろうとし、まるで自動車やテレビのように、道徳的信念や信仰が棄てられている。我々の目は、常に最新型のものへと向けられているのである。ものを見るということは、即ち、今あるものの場所にこの先何が来ることになるのだろうか、と想像することであるし、ものに触れるということは、即ち、その形を変えることである。この世界が今持っている形状や性質は、いかなるものであれ、我々の望むほどには長続きしない。また、先頭を進んで行く者達の持つ進取の気性や活力は、後ろの者達にも伝わっていく。「我々はみな、同じ一つのところへ追いたてられていく」のであり、足が軽やかさを失ってしまった時でも、その集団の中に自分自身のいるべき場所を見出すのである。(同)  が、何であれ「新しいものは良いものだ」と考えるのは軽率である。改新が必ずしも「改善」、「改良」、「改正」となるとは限らない。場合によっては「改悪」だということも有り得るのである。 保守性とは、人間の行動の全領域を包含することのできる「進歩志向的」な態度に対して、偏見にとらわれた敵意を示すものではなく、広範で重要な領域における人間の活動に対して、唯一適合的な性向なのだということである。また、この性...

オークショット「保守的であるということ」(5)保守の真骨頂

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もし人間の抱く選好の中に保守的な要素が多く含まれていなかったならば、間違いなく人間の環境は現在のそれとは非常に異なったものとなっていたであろう。未開の諸民族は変化を嫌い、慣れ親しんだものを手放さないと言われているし、古代の神話は変革を行うことに対する警告に満ちている。我々の生き方に関する民間伝承や諺の名句にも、保守的な格言が多い。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 205) というのがオークショットの見立てであるが、私も同様の印象を持つ。勿論、革新派は、そんなことはない、そうとは言い切れないと言うだろう。が、急進的変革は変革による新たな問題を招来するだろうし、変革熱が冷めれば、結局元の鞘に収まるということに成り勝ちだ。 我々は、大きな変革が行われているのでない限り、何も重大な事は生じていないのだと考えがちであり、また、進歩の過程にないものは後退しているに相違ないと考えがちである。我々は、まだ試みられたことのないものを良いものと思い込んでいる。我々は、変化とはすべて何かしら良い方向へのものだ、と信じてしまいやすいし、我々が変革を行ったために生じた帰結はすべて、それ自体が進歩となっているか、あるいは少なくとも我々の望んだものを手に入れるために支払わねばならないだけの適切な代価なのだ、とあっさり納得してしまう。(同、 p. 206 ) 《難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易より作り、天下の大事は、必ず細より作る》 (困難な仕事は容易なうちに手をつけ、大きな仕事は小さなうちに片づけてゆく。世のなかの難事は、いつでも容易なところから生じ、世のなかの大事は、いつでも些細なところから起こる》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第63章)  事が大事となって、大きな変革が必要となる前、小事のうちに芽を摘んでおく。これが保守の真骨頂なのである。  進歩主義者は、変化は進歩と考える。変化には退歩も有り得るなどという考え方には与(くみ)しない。変化が急過ぎたり、大き過ぎて混乱が生じたとしても、それは進歩に向けての必要経費だと考える。実に、勝手である。 我々は貪欲と言ってもよいほど欲張りであり、未来という鏡の中に拡大されて映っている骨が欲しくて、今くわえている骨を落としてしまいがちである。(同、 p. 207 ) ...

オークショット「保守的であるということ」(4)保守的性向

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Thirdly, he thinks that an innovation which is a response to some specific defect, one designed to redress some specific disequilibrium, is more desirable than one which springs from a notion of a generally improved condition of human circumstances, and is far more desirable than one generated by a vision of perfection. Consequently, he prefers small and limited innovations to large and indefinite. -- Michael Oakeshott, On being conservative : ONE (第3に、何か具体的欠陥への対応としての革新、何か具体的不均衡を是正するため考案された革新の方が、人間環境の一般的改善条件の概念から生まれる革新より望ましく、ある完成像から生まれる革新より遥かに望ましいと彼は思う。結果、彼は、大きくて無限の革新よりも、小さくて限定的な革新の方を好むのである)  革新が<小さくて限定的>であれば、実行するのが楽だし、変化も小さくて限定的であるから、たとえ何か問題が生じたとしても大惨事にはならない。安楽、安心だということである。 第4に、彼は、変化の速度は急速なものよりも緩やかなものの方が良い、とする。そして彼は、目下のところ何が帰結として生じているのかを、立ち止まって観察し、適切に順応していく。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、 p. 204 )  変化が漸進(ぜんしん)的であれば、足下を確かめながら歩を進めることが出来るので、安全だということである。 最後に彼は、変革の行われる時機が重要だと考える。彼が変革にとって最も都合が良いと考える時機は、計画されている変化が意図された範囲に限って実現される可能性が最も高く、望んでいない制御不可能な帰結によってそれが汚染される可能性が最も低い、という時である。(同) ...

オークショット「保守的であるということ」(3)進歩主義者の誤解

すべての進歩には変化が伴うのだから、我々はその必然的帰結としての混乱を、期待される利益と常に突き合わせなければならない。しかもこの点について納得した後も、考慮されるべき点がまだ残っているであろう。変革とは常に、端的な評価が下しにくい企てなのである。つまりそこでは、利益と(慣れ親しんだものを失うということを除外しても、なお残る)損失とが非常に緊密に織り合わされており、そのため、最終的な成果を予想することは極めて困難である。但し書きなしの進歩などというものは、存在しないのである。なぜなら、変革という活動は、追求されている「進歩」なるものばかりでなく、新たに複合的状況をも生み出すのであり、「進歩」なるものはその構成要素の1つにすぎないからである。 変化の総体は意図された変化よりも常に広範なものであり、帰結として生ずる事柄をすべて予測することも、その範囲を画定することも不可能である。そういうわけで、変革が行われる場合はいつも、意図されたものよりも大きな変化が生まれてくることは確実であるし、利益とともに損失も生じ、影響を受ける人々の間で、その損失と利益とが平等に分配されはしないであろうということも、また確実である。そして、得られる利益が意図されたものを上回る可能性もあるが、悪化した分によってそれが帳消しにされてしまう危険も、あるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、 p. 203 )  進歩主義者は、変革によって得られる(と目される)利益しか眼中にはない。変革によって失われるもの、変革によって生まれる不利益には気にも留めない。変革の算盤勘定が合うかどうかも眼中にない。そこには、変革が進歩であるという思い込みがあるだけだ。変革には、進歩も有れば退歩もあるということが分かっていない。否、分かろうとしない。だから、変革には、混乱が付き物なのである。  これらすべてのことから、保守的な気質の人はいくつかの適切な結論を導く。 第1に、変革による利益と損失は、後者が確実に生ずるものであるのに対し、前者はその可能性があるにすぎない、従って、提案されている変化が全体として有益なものと期待してよい、ということを示す挙証責任は、変革を唱えようとする者の側にある。 第2に、変革が自然な成長に一層似ていればいるだけ、(即ち単にそれが状況に対して押し付け...

オークショット「保守的であるということ」(2)反「青い鳥症候群」

保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完壁なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。 得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 200)  ともすれば、人は「青い鳥症候群」に陥(おちい)りがちである。現実を受け入れられず、幸せの青い鳥探しに出掛けてしまう。が、どこを探しても見付からない。落胆し帰宅すると、目の前に青い鳥が居るではないか。その青い鳥を捕まえようとすると、青い鳥は飛んで行ってしまう。  幸せは目の前にある。が、そのことに気が付かない。現実を否定し、理想を追い掛けても幸せは得られない。結局、現実を受け入れるしかないということに気が付いた頃には、時遅しである。 嵐が茂みを吹き払ってお気に入りの眺めを一変させてしまう、友人が死亡する、友情が終焉を迎える、慣習的な振舞い方がすたれる、お気に入りの道化役者が引退する、亡命を余儀なくされる、不運な事が起こる、持っていた能力が失われて他のものがそれに取って代わる――これらは変化であり、いずれもその埋め合わせがないわけではないかも知れないが、それでも、保守的な気質の人はこれらを残念な事と思わずにはいられないのである。 しかし、彼がそれらの変化をなかなか受け容れられない理由は、彼がそこで失ったものが、他のいかなる可能性よりもそれ自体として良いとか改良の余地のない最高のものであったとかいうことではなく、またそれに取って代わろうとするものが、本来そこに楽しみを見出すことの不可能なものであるということでもない。本当の理由は、...

オークショット「保守的であるということ」(1)保守人は輿

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保守的であるということは、思考や行動が或る様式を持つ傾向にあるということであり、或る種の行動様式や人間をとりまく環境の或る状態を他よりも好むということ、或る種の選択を行う傾向にあるということである。(中略)その中核をなすのは、何か手もとにないものを望んで捜し求めるのではなく、手にすることができる限りのものを利用して楽しみを得ようとする傾向、かつてあったものや将来あるかも知れないものではなく、現にあるものから喜びを得ようとする傾向である。 もしかすると、現にあるものに対して感謝することがふさわしく、従って、過去からの贈り物ないし遺産に対する感謝の念もふさわしい、ということが反省によって明らかにできるかも知れないが、そこには過ぎ去った昔のものへの盲目的崇拝は少しもない。大切にされているのは現在なのであり、そしてそれが大切にされる理由は、遠い古代とのつながりがあるということでも、他の可能な選択肢よりも賞賛に値すると認められているということでもなく、それに親しんでいるということにあるのである(オークショット「保守的であるということ」:『政治における合理主義』(勁草書房)石山文彦訳、p. 199)  保守とは、何か実際に存在するものを保ち守ることである。言い換えれば、実在しない理想よりも実在する現実をより大切にしようとする考え方である。  もし現在が貧弱なもので、利用して楽しみが得られるものをわずかしか、ないしは少しも提供しないならば、この性向は弱いものであるか、存在しないであろう。現在が著しく不安定ならば、それはもっと堅固な足場を求め、それゆえ、過去に頼り過去の中を探って歩く姿をとって現れるだろう。しかし、そこに楽しみを見出すことのできるものが豊富な時は、それは自らの特徴を充分に示すし、さらに、明らかな喪失の危険がこのものと結びついている時、それは最も強くなるだろう。(同)  私は少し見方が異なる。楽しみが見出せるかどうかは、心の持ち様(よう)である。足るを知る人にとっては、世の中は驚異に満ち溢れている。他方、自意識が肥大化してしまった人にとっては、世の中は詰まらぬものの集合のようにしか見えないだろう。  保守的な人とは、先人から引き受けた文化や伝統を、遺漏無く後人に引き渡す「輿(こし)」( vehicle )である。 この性向が適合的な人間とは、簡単に言え...