オークショット「保守的であるということ」(2)反「青い鳥症候群」

保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完壁なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。

得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 200)

 ともすれば、人は「青い鳥症候群」に陥(おちい)りがちである。現実を受け入れられず、幸せの青い鳥探しに出掛けてしまう。が、どこを探しても見付からない。落胆し帰宅すると、目の前に青い鳥が居るではないか。その青い鳥を捕まえようとすると、青い鳥は飛んで行ってしまう。

 幸せは目の前にある。が、そのことに気が付かない。現実を否定し、理想を追い掛けても幸せは得られない。結局、現実を受け入れるしかないということに気が付いた頃には、時遅しである。

嵐が茂みを吹き払ってお気に入りの眺めを一変させてしまう、友人が死亡する、友情が終焉を迎える、慣習的な振舞い方がすたれる、お気に入りの道化役者が引退する、亡命を余儀なくされる、不運な事が起こる、持っていた能力が失われて他のものがそれに取って代わる――これらは変化であり、いずれもその埋め合わせがないわけではないかも知れないが、それでも、保守的な気質の人はこれらを残念な事と思わずにはいられないのである。

しかし、彼がそれらの変化をなかなか受け容れられない理由は、彼がそこで失ったものが、他のいかなる可能性よりもそれ自体として良いとか改良の余地のない最高のものであったとかいうことではなく、またそれに取って代わろうとするものが、本来そこに楽しみを見出すことの不可能なものであるということでもない。本当の理由は、彼の失ったものが、彼が実際そこに楽しみを見出し、その楽しみ方を身につけていたものであるということであり、そしてまた、それに取って代わろうとするものが、彼が何の愛着も覚えたことのないものであるということなのである。

従って彼は、急速で大きな変化よりも緩やかで小さな変化の方が耐えやすいと思うであろうし、継続性の現れはいかなるものでも高く評価するであろう。確かに、何の困難ももたらさないような変化もないわけではないだろうが、ここでもその理由は、それが進歩であることが明白だからというのではなく、単にそれが適応の容易なものだからなのである。(同、p. 201

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