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オークショット「人類の会話における詩の言葉」(19)詩的イメージは虚構の世界に属するもの

どんな「真実」を詩的イメージが表現していようとも、それは実践的、科学的、歴史的な真理ではない(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 275) 実践的に不可能であったり、科学的誤りや歴史的時代錯誤を含むような詩的イメージを非難することは、どろぼうのとがで盗品を非難するように、物事の本性にはずれている(同) 「真」とは命題に関わるものである。そして、実践的言明も、科学的あるいは歴史的言明が常にそうであるように、命題を構成することができるのに対して、詩的イメージは、決してかかる性格をもたない(同) 詩的想像が見ぬくのは、知覚が欲求や評価や好奇心や探究などの先行関心によって曇らされていない場合に物事がそう見えるような姿なのだ(同、 p. 277 )  詩的イメージを様々な<先行関心>という色眼鏡を通して見てしまっては、<観想>することが出来ず、それ自体から<歓び>は得られない。 詩人は「物事」についてそもそも何も言うわけではないのだ(つまり、詩の言説以外の言説空間に属するイメージについて、何も語りはしない)。詩人が語るのは、「これこそ、これらの人物や対象や出来事(例えば、オデュッセウスの帰還、ドン・ジョヴァンニ、ナイルの夕日、ヴィーナスの誕生、ミミーの死、現代の愛、麦畑( Traherne )、フランス革命など)が、実際にそうあった、または今そうある姿である」ということではなく、「観想の中で、私がこれらのイメージを生み出し、彼ら自身の性格の中にそれを読み、その中にただ歓びだけを求めたのだ」ということである。つまり、もし事物が本当にどのようであるかということがわかっているならば、まったく詩などは作り得ないだろうということである。(同)  詩的イメージは、虚構の世界に属するものであって、実在するものではない。したがって、ここに<事実>に関する情報を持ち込むのはお門違いである。そもそも虚構なのだから事実がどうのこうのという話ではない。そのようなことに気を取られていては、観想の世界を楽しむことは出来なくなってしまう。 ワーズワースの説明によれば、観想されるものは「想像された情念」である。また、シドニ-は、何らかのやり方でまったく情熱ではない情熱――感じられないで「見透される」情熱について語っている(同、 p. 279 )  

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(18)詩的イメージへの誤解

写真は(もし事件の記録をねらっているなら)「ウソをつく」こともあるけれども、詩的イメージは、何をも主張するものでないから、「ウソをつく」ことはあり得ない。形、情景、運動、性格、言語構成――これらのイメージは、「事実」と「非事実」を区別することができるような言語空間に属してはいない。それらは虚構なのだ。また、絵画や言葉や石や舞踏の動きの中の、これらの物語や記述は、虚構の出来事や情景の物語である。それらは寓話なのだ。そしてこの点についてもまた、それらは幻想でもなければ見せかけのイメージでもない。またそれらは装う行動によって作られたイメージでもないのだ。なぜなら、幻想とか、見せかけとか、装いということはすべて、「事実」への言及がなくては不可能であるから。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 273)  <詩的イメージ>は、<虚構>の世界に属するものである。<詩的イメージ>の物語は<寓話>であるから、当然、<事実>かどうかが問われるようなものではない。 実践的、科学的、歴史的イメージにふさわしい諸研究は、詩的イメージにはふさわしいものではない(中略) 詩的イメージは、ある意味で「真」であるか「真理」の表現であることが示され得ないかぎり、理解不能であると考える人々がいる。そしてこのような要求が直面する明らかな困難は、「詩的真実」とか、他の「真理」の表現よりも深遠だとふつう考えられるような、特別製の「真理」の概念をもち込むことによって、避けられるというわけである。そればかりか詩的想像を、その中で物事の真の姿が見られる(他の活動に抜きん出た)活動と理解し、詩人をこの点で、他の人々にはない特別の才能をもつものと考える、そういう傾向が存在するのである。(同、 pp. 274-275 )  詩というものに対する誤信がしばしば見られるということである。 詩的想像とは、詩人が体験し、他の人々にもそれを分かち与えようと願う経験の「表現」「伝達」「再現」以外の何物でもあり得ないと、固く信じて疑わない人々がいる。そしてこの「経験」なるものは、もっぱら「情念」とか「感情」と考えられているのである。(同、 p. 275 )  経験や体験を言葉にして伝えるのは、何程か<事実>の伝達ということになるから、詩的活動とは言えない。 詩的想像はすべて、「

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(17)<観照>は<幸福>を生み出す源

生きているところの神から「行為する」ということが、いわんや「制作する」ということが取り除かれるならば、そこには、観照の働き以外の何が残るであろうか。してみれば、至福な活動たることにおいて何よりもまさるところの神の活動は、観照的な性質のものでなくてはならない。したがってまた、人間のもろもろの活動のうちでも、やはり最もこれに近親的なものが最も幸福的な活動だということになる。  また、人間以外の諸動物はかような性質の活動を完全に欠如しているがゆえに幸福にあずからない、ということも1つの証左となる。つまり、神々にあってはその全生活が至福であるし、また人間にあっては神のかかる活動の何らかの似姿がそこに存しているかぎりにおいて至福なのであるが、人間以外の諸動物はいずれも全然観照的な活動に参与しないがゆえに幸福を有しない。かくして、観照の働きの及ぶ範囲に幸福もまた及ぶわけであり、しかも「観照する」ということがより多く見出だされるほど、「幸福である」こともまた著しい。付帯的にではなく、観照の働きそれ自身に即して――。(観照は即日的に尊貴な働きなのであるから。)してみれば、幸福とは何らかの観照の働きでなくてはならない。(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第 10 巻 第 7 章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、 pp. 226-227 )  <観照>は、<幸福>を生み出す源だということである。 実践の活動とは、欲求し獲得することであり、また科学の活動が、探究し理解することであるのと同様に、詩は観想であり、観想の歓びである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 269 )  実践的活動や科学的活動とは異なり、詩的イメージを伴う活動は、観想(観照)的であり、この観想的活動を通して<歓び>が得られるのである。 詩が現われるのは、想像が観想的想像である時であり、つまりもろもろのイメージが、「事実」または「非事実」として認められない場合、それらが倫理的是認も否認も呼び起さない場合、それが記号として、また原因・結果として、あるいは窮極目的のための手段として読まれないで、作り出され、作り変えられ、観察され、振り返られ、楽しまれ、瞑想され、歓ばれる場合であり、イメージがただより複雑なイメージであるような、より大きなパタンへと構成され

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(16)理性の活動

もろもろの卓越性に即しての働きのうち、政治的および軍事的なそれは、たとえうるわしさや規模の大きさにおいて優越してはいても、非閑暇的であり或る目的を希求していてそれ自身のゆえに望ましくあるのではないに反して、理性の活動は――純観照的なるがゆえに――その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外のいかなる目的をも追求せず、その固有の快楽を内蔵しているものと考えられ(この快楽がまたその活動を増進する)、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的、その他およそ至福なるひとに配されるところのあらゆる条件がこの活動に具備されているものなることが明らかなのであってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、この活動でなくてはならないであろう。この活動は、だから、生涯の究極的な永さに及ぶことを要する。けだし、幸福を構成するいかなる条件も非究極的であってはならないからである。(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 224)  このように自足的・閑暇的・無疲労的な理性の活動、すなわち、観照的活動が、人間の究極的な幸福だとアリストテレスは言う。 かような生活は人間の水準を超えた生活ではあろう。なぜなら、ひとがかかる生活を営みうるのは、彼が人間であるかぎりにおいてではなく、かえって神的な或るものが彼のうちに存するかぎりにおいてなのであって、この神的なものが複合的なる人間にまきっているその程度に準じて、この活動もまた他の卓越性に即しての活動にまさっている。したがって、理性は、人間に対比して神的なものであるとするならば、理性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、「人間的な生活」に対比して「神的な生活」でなくてはならない。ひとは、しかし、「人なれば人のことを、死すべきものなれば死すべきもののことを思慮せよ」という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、「自己のうちに存する最高の部分」に即して生きるべく、あらゆる努力を怠ってはならない。(同)  世俗に塗(まみ)れた状況では、観照的活動は行えない。観照的活動には、俗世の喧騒(けんそう)と距離を置くことが必要であり、人間的な生き方から離反することも必要となろう。詰まり、観照的活動は、「神的な装い」を醸し出す活動ということになる。勿論、神になりたいわ

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(15)スコレー(閑暇)

《だが、智を求める営みよりも、智を働かせる営みのほうが一層快適であるのが至当であろう。また、いわゆる自足性の最も多分に存するのは観照的な性質の活動に関してでなくてはならない。勿論(もちろん)生に必須なもろもろの事物は智あるひとも正しいひとも爾余(じよ=それ以外)のいかなるひとびともこれを要することは事実である。だがこのような事物に事欠かない場合、正しいひとならば、やはり、正しい行為をなすべき相手のひとびとやそれを共にすべきひとびとを要するし、節制的なひととか勇敢なひととかその他それぞれもこれと同様であるのに反して、智あるひとは、たとえ自分だけでいても、観照的な活動を行なうことができるのであり、智あるひとであればあるほど、ますます然(しか)りである。その働きを共にするひとびとを有しているならばおもうに一層いいであろうが、それでもやはり、かかる活動を行なっているひとは、最も自足的たることを失わない。また、この活動のみはそれ自身のゆえに愛されると考えられるであろう。 まことに、この活動からは観照を行なうという活動それ自身以外の何ものも生じないが、これに反して、実践的な諸活動からは、われわれは多かれ少なかれその活動それ自身以外に得るところがあるのである》(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第 10 巻 第 7 章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、 p. 223 )  観照的活動は、誰の手も借りずに、ただ自分一人だけで行うことが出来る。また、自足的である。 《幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑暇(かんか)を持たんがために閑暇なく忙殺されるのであり、平和ならんがために戦争を行なう。いったい、実践的なもろもろの卓越性の活動は政事とか軍事とかの領域において行なわれるものだと考えられるが、これらの領域についてのわれわれの働きは、そういった非閑暇的な性質を有しているのであって、殊(こと)に軍事的なもろもろの働きのごときは全然そうである。(何びとといえども、戦争することのために戦争することを選ぶとか戦争を挑発するとかは、しないのである。実際、もし戦闘や殺戮(さつりく)の行なわれることを目的に、親しきひとたちを敵にまわすようなひとがあるならば、これは全くの吸血鬼だと考えられるに相違ない。) 政治家の行為も非閑暇的な性質を有して

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(14)「知を愛する」(フィロソフィア)

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《この(=観照)活動はわれわれの最高の活動である。理性はわれわれのうちに存するもののうち最高のものであり、理性のかかわるところのものは知識されるものの最高のものなのであるから――。さらにまた、それは最も連続的でありうる。すなわち、観照的な働きはいかなることがらをなすよりも連続的に行なうことが可能である。 また、幸福には快楽の混在が必要であると思われている。しかるに、卓越性に即してのもろもろの活動のうちでも、最も快適なのは、誰しも同意するごとく、智(ソフィア)に即しての活動なのである。現に哲学(フィロソフィアー = 愛智)は純粋性と不動性とにおける驚嘆すべき快楽を含んでいると考えられている》(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第 10 巻 第 7 章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、 p. 223 ) 「知を愛する」者は、このような説明がしっくりくるのかもしれない。が、そうでない者にとっては、どうして哲学することが<快楽>をもたらすのかよく分からないに違いない。であれば、例えば、哲学は「道楽」だと考えれば、どうだろう。 《哲學者とか科學者といふものは直接世間の實生活に關係の遠い方面をのみ硏究してゐるのだから、世の中に氣に入ろうとしたつて氣に入れる譯でもなし、世の中でも是等の人の態度如何で其硏究を買つたり買わなかつたりする事も極めて少ないには違(ちがい)ないけれども、あゝ云ふ種類の人が物好きに實驗室へ入つて朝から晚まで仕事をしたり、又は書齋に閉ぢ籠こもつて深い考(かんがえ)に沈んだりして萬事を等閑に附している有樣を見ると、世の中にあれ程己の爲にして居るものはないだらうと思はずにはゐられない位です。 それから藝術家もさうです。かうもしたらもつと評判が好くなるだらう、ああもしたらまだ活計向(くらしむき)の助けになるだらうと傍(はた)の者から見れば色々忠吿のしたい所もあるが、本人は決してそんな作略はない、たゞ自分の好な時に好なものを描いたり作つたりするだけである。尤(もっと)も當人(とうにん)が既(すで)に人間であつて相應(そうおう)に物質的嗜欲(しよく)のあるのは無論だから多少世間と折合つて步調を改める事がないでもないが、まあ大體(たいだい)から云ふと自我中心で、極(ご)く卑近の意味の道德から云へば是れ程我儘(わがまま)のものはない、是れ程道樂

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(13)観想とは何か

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幸福とは、卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動でなくてはならぬ。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれのうちにおける最善の部分」の卓越性でなくてはならない。それゆえ、これが或いは理性(ヌース)と呼ばれるにせよ、或いは何らか他の名称で呼ばれるにせよ、いずれにしても「その本性上支配指導する位置にあり、うるわしき神的なことがらについて思念しうる――それ自身が神的であることによってにしても、またはわれわれのうちに存する最も神的なるものであることによってにしても――と考えられるところのもの」――このものの、その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な幸福でなくてはならない。それが観照(テオーリア)という活動である(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 223)  ここに言う「観照」は、「観想」と同じものである。アリストテレスは、幸福とは卓越性に即しての活動であり、最高の卓越性に即する活動を<観照>と呼んだ。 観想とは、実践的ならびに科学的想像とは異なった、ある特定の想像様式であり、イメージの間を立ちまわる様式である。それは、単なるイメージを製作し享受する活動なのだ。実践でも科学でも、「活動」は否定されるべくもない。一方には、満たされるべき必要、いやされるべき渇きがあり、飽満の後にはいつも欲望がやってくる。消耗はあっても安息はない。また他方にあってはそれ固有の用語法にかなった、同じようなたゆみなさがある。完全に知解可能なイメージ世界を眺望する、すべての探究成果は、新たな活動への序曲にすぎないのだ。 しかし、観想には、現われないものの調査もなければ、現存しないものへの欲求もないので、それはしばしば非活動性とまちがえられてきた。しかし(アリストテレスがそう呼んだように)それを非労働的活動と呼ぶ方が適切である。即ち、それが遊戯的で職業的でないゆえに、また論理的必然と実用的要請から解放され、心配からも自由なために、非活動性の性格に与(あずか)るように見えるような活動である。にもかかわらず、閑暇つぶし(σχολή)というこの見かけは、決して無気力のしるしではない。それは、その活動に参加する各人が享受する自足性に由来するのであり、その活動があらかじめ定められたような外的

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(12)観想におけるイメージ

 観想(contemplation)におけるイメージは、実践的および科学的活動の相関者であるイメージとは、性格を異にしているので、これらのイメージの組織化もまた異なることになろう。実践的世界のイメージ相互(それは、快適と苦痛、是認と否認、「事実」と「非事実」、期待されると期待されない、選択されると拒絶される、のような区別によって組織されているが)の整合性の大本(おおもと)は、それらが欲求の産物であることにある。また、科学的イメージの世界は、相互に理解可能であることをその秩序原理としている。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 265)  <観想>のイメージは、実践的活動のイメージや科学的活動のイメージとは異なるものだということである。  観想の中で自己が眼ざめる世界は、うす暗く、そのイメージはぼんやりしたものかもしれない。またその活動が無関心と隣接しているかぎり、現われてくるものは、1つ1つゆるい連合でつながった、ただのイメージの連鎖で、そのそれぞれが現われる瞬間ごとに固有の歓びをもつが、どれも保持されたり探究されたりしないようなものであろう。(同)  <観想>のイメージは、最初は朧(おぼろ)げなものであり、イメージとイメージの間の必然的な連鎖もない。 しかしながら、これは観想の最下底をなすもので、あるイメージが(それの提供する優越した歓びのために)注意の焦点となり、またそこから増殖がはじまる活動の核となる時、観想的自己が立ち現われるのは、そこからである。核となったイメージは、他のイメージを呼び寄せ、互いに結んで、さらに大きな複雑な構成を取るに至る。しかしこの構成でもって最後というわけではない。それは、同じ種類のもう1つのイメージにすぎない。(同)  が、一旦<観想>のイメージが活動の核となると、イメージは活性化し、他のイメージを引き寄せて大きな構成体を形成する。 この過程で、諸々のイメージはつぎつぎと生れ、互いに変形し、融合し合うが、それはいずれもあらかじめ定められた計画が遂行されるものではない。ここでの活動は明らかに推論的なものでも論争的なものでもない。そもそも解かれるべき問題とか、調査されるべき仮定とか、克服されるべき欲求とか、かちとられねばならない是認など存在しないのだから、「こうだからああ」といったものは

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(11)<学知>なるもの

学知( scientia )を特徴づける解放は、ある教義(dogma)からの解放なのではない。それはむしろ、実践的想像作用の権威からの解放である。実践的想像作用の諸イメージをせいぜい最も経済的に取りまとめたものにすぎないと考えるのは、科学的知識についての誤った理論である。それは、概念の経済という考えが科学理論にとっては具合が悪いからではなく、その諸イメージが、実践の世界のイメージではないからである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 258-259)  <学知>とは、言い換えれば、主観からの解放である。よって、実践的想像作用とは相容れることはない。 ひっきょう(畢竟=つまるところ)、科学者であるしるしは、現在の科学理論を自由に駆使し得る力量(これが彼の出発点だから)、その不合理性を呈示するようなあいまいさや不整合性を見落さない能力、有効な前進の見込める方向に狙いをつけ予測を立てる力、重要なことと項末(さまつ)なことを区別し、有意味で明確な帰結を生み出せるように彼の推測をおし進める能力である。そしてこの点に関していえば、科学的探究のあらゆる細部は、より大規模な、またより一般的な科学理論の場合に、探究と解明がおし進められたやり方のミクロコスモス(縮図)なのである。(同、 p. 259 )  科学的探究は、全体のみならず細部に至っても合理的であり、整合的だということである。科学者には、科学理論に精通しこれを自在に駆使できるだけでなく、科学的探究において妥協を許さない厳格さが求められる。 学知は本質的に協同的な企てである。普遍的な合意をめざして概念的イメージからなるこの合理的世界の構成に参加する人はすべて、あたかも1人の人間であるかのようであり、彼らの間には、意志疎通の厳密さが必須である。実際科学とは、このイメージの世界の構成に参加するすべを心得た人々が、相互に享受する理解のことに他ならない、と言うこともできよう。(同)  <学知>は、単純にして明快な原理や法則という頂点を目指す登山のようなものである。複数の人間が、時に協力し、時に競合し、同じ頂点を目指すのである。 科学者たちは、世界について我々に知識を与えるべく、ますます最善をつくしているけれども、学知というのはそれ自体活動であって、知識であるわけではない。そしてこ

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(10)scientia:知識から探究へ変容

かくて、学知( scientia )は、驚くべき発見の配列とか、世界についての確定した教えとして理解されるのではなく、言説の世界として、想像するやり方ならびにイメージの間を動きまわるやり方として、目下の成果によってよりもそれが導かれる仕方によって特徴づけられるような活動、探究として理解されることになった。またその言語は(はじめに我々が考えていたような)百科全書の教師風の言葉ではなく会話可能な言語であり、それ固有の用語法で語られはするが、会話の中へ参加することもできるものである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 257)  ラテン語 scientia は「知識」全般を指す言葉であった。それが事実の<探究>を意味するように変容したのである。<探究>にあたって用いられる言語は、主観を排した普遍的なものであるから、時として専門語(jargon)が混じるかもしれないが、意思疎通は可能である。  科学的探究、科学者であるという活動は、関係する諸概念から合理的世界を構成し、研究することから生じる知的満足を求める存在ということである。(中略)科学的探究の推進力は、それが与える快とか、それが喚起する倫理的是認とかのために望ましいイメージをもつ世界を作り上げることではなく、因果的にならべられた概念的イメージの合理的世界を作ることにある。(同)  実践的活動とは違い、科学的探究は、<合理的世界>を作ることによって得られる<知的満足>こそが推進力だということである。 学知( scientia )とは、我々が合理的理解を求めるこの衝動に身をまかせる時に起るものである。即ちそれが存在するのは、ただこの衝動が、それ自身のために開発され、権力や繁栄への欲求の介入によって妨害をされないところでだけである。(同、 p. 258 )  <学知>は、合理的世界に属し、政治的権力や経済的繁栄といった主観的活動とは相容れないものである。  科学的活動において、自己がはじめから十分考えぬかれた目的とか、既存の探究方法とか、一群の与えられた問題をもっていると考えるべきではない。いわゆる科学的探究の「方法」なるものは、活動の過程の中で現われてくるものであり、それは科学的探究に付属するすべてを説明するものではない。また科学的思考に先んじて、何か科学的諸問題が存在

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(9)科学の世界

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言語記号について、ソシュールは次のように解説している。 言語記号は…2面を有する心的実在体であって,図示すれば: この2つの要素はかたくあい結ばれ,あい呼応する.ララン語のarborの意味を求めるにせよ,ラテン語が「樹」という概念を示すのに用いる語を求めるにせよ,言語が認めた照合のみが真相にかなうものと思われることは明らかであって,このほかに随意の照合を想像しえようが,われわれはそれらをすべて斥(しりぞ)けるのである.  以上の定義は重要な用語問題を提起する.われわれは概念と聴覚映像との結合を記号(signe)とよぶ.しかし一般の慣用では,この名称は聴覚映像のみを示す,たとえば語(arbor etc.)を.ひとは, arbor が記号とよばれるとすれば,それが「樹」という概念をになうものとしてにほかならぬことを忘れている,そのけっか,感覚的部分の観念が全体のそれを包含してしまうのだ.  このあいまいは,当面の3個の概念を,あい対立しながらあい呼応する名前をもって示したならば,消え失せるであろう.われわれは,記号という語を,ぜんたいを示すために保存し,概念( concept )と聴覚映像( image acoustique )をそれぞれ所記( signifié )と能記( signifiant )にかえることを,提唱する;このあとの2つの術語は,両者間の対立をしるすにも,それらが部分をなす全体との対立をしるすにも,有利である.記号は,それで満足するとすれば,それにかわるものを知らぬからである;日用語には適当なものが見当らないのだ.(ソシュール『一般言語学講義』(岩波書店)小林英雄訳、 pp. 96-97 ) 学知( scientia )「事実」と「非事実」の認知には、既に我々はなじんでいるが、今までのところそれは scientia propter potentiam (力のための学) ―― いかに欲しいものを手に入れるかの知識、是認され、快を与えるイメージの世界をいかにくふうするか――ということにとどまっていた。他方それとは異なる種類の学知( scientia )が問題であるように見える。 即(すなわ)ち、我々の希望や欲求、選好や野心とは独立した観点で理解される世界、全く異なる素性をもち、異なる欲求をもって、どこか宇宙の違う場所に住んでいる

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(8)倫理的活動と奴隷道徳

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一般に倫理的活動は、それぞれ目的であって他の者の欲求の単なる奴隷ではないと、他者によって承認された欲求する自己達の、さまざまの要求の間で適当な平衡を保つことであると、言えるだろう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 253-254) 《すべての貴族道德は勝ち誇つた自己肯定から生ずるのに反して、奴隸道德は「外のもの」・「他のもの」・「自己でないもの」を頭から否定する。さうしてこの否定が即(すなわ)ち奴隸道德の創造的行爲なのである。評價眼のこの逆倒――自己自身へ歸(かえ)る代わりに外へ向ふこの必然的な方向――これこそはまさしく《反感》(ルサンチマン)の本性である。奴隸道德が成立するためには、常に先ず1つの對境(たいきょう)、1つの外界を必要とする。生理學的に言へば、それは一般に行動を起すための外的刺激を必要とするのである――從つて奴隸道德の行動は根本的に反動である》(ニーチェ『道徳の系譜』(岩波文庫)木場深定訳、 p. 37 ) とニーチェは言った。が、オークショットの言う<倫理的活動>は、二-チェが言う<奴隷道徳>ではなく、社会秩序を維持するための平衡感覚のようなものではないかと思われる。 しかしこの一般的性格は、常にある特定の平衡として現われるのであり、ある「倫理性」は他の倫理性とこの平衡が成り立つ水準という点で、また平衡の質という点で、異なるのが常である。例えば「ピューリタン」の倫理では、自己の自立性の水準と平衡の質は、ともすれば非難をかうほどであり、定められた平衡からほんのわずかはずれることも拒否し、共感の領域を少しでも拡大することを許容するようないかなる傾向をも排除するように見える。(オークショット、同、 p. 254 )  <倫理性>は、固定的なものではない。社会を構成する<倫理性>が異なれば、自ずと平衡の中身は違ってくる。  実践的生活に関わる仕事を遂行する言語は、記号的言語である。その言葉と表現は、多くの同意にもとづく記号であり、比較的固定的な厳密な用法をもつがゆえに、また共鳴的でないがゆえに、信頼できる意志疎通の手段として役立つのである。模倣によって学ばれねばならないものが、その言語である。(同、 p. 254 ) 《(言語記号)はなによりも、記号表現と記号内容との結びつきとして捉(とら)えられた

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(7)両次元の認識を持つわけではない実践的活動は抽象的

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これら両次元の認識を欠いた実践的活動は、なお抽象的なものにとどまっている。実際、他人の活動の中にこれらの倫理的カテゴリーの働きを知覚することはできても、それらを自分の欲求の充足のためにこれらの自己たちから期待できる手助けや妨害への手引きとしか見なさないような人を想定できよう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 252)  詰まり、具体的な実践的活動には、「欲求―反発」のイメージだけではなく、「是認―否認」のイメージも必要であるということである。 それ(=両次元の認識を欠いた実践的活動)はあくまで単なるイメージにとどまり「事実」としての資格は欠いている。時には、是認は欲求の活動と合致するように見える。例えば、オーウェン瀑布(ばくふ=滝)の観察者は(何もそれについて言ってはいないが)明らかに、彼の欲求のイメージの性質についていかなる疑問もいだいてはいない。他のいろいろな場合でも、是認と否認は、欲求や反発の批判者として現われる場合が多く、第2の現実の中で( in an actus secundus )働く。(同、 pp. 252-253 ) ※ 現実態は、「形相」としての第1現実態( actus primus )と「働き」としての第2現実態( actus secundus )に区分される。 しかし、たとえどう現われようとも是認または否認された欲求や反発というイメージは、ただ是認したり否認する活動の中でのみ知られるのに変りない。そして、是認と否認という次元が認められるなら実践的想像という活動とは、欲求されかつ是認されたイメージでもって我々の世界を満たすことを目標にするものと言えよう。(同、 p. 253 )  ホッブズは、 《他の人々の行為と自分自身のそれとを比較考量し、もしも前者があまりに重いように思えたならば、前者を秤(はかり)の反対側にかけ直し、自分自身の行為を前者の代わりにかける。そして、自分自身の情念や自己愛がまったく秤にかからないようにする》(ホッブズ「リヴァイアサン」第15章:『世界の名著 23 』(中央公論社)永井道夫・宗片邦義共訳、 p. 184 ) と言う。これをオークショットは、次のように言い換えている。 倫理的行動における自己は、諸々の自己が構成する共同体の平等な構成員なのであり、是認と否

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(6)是認と欲求は別

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実践的活動の世界は、単に意欲の相の下での世界であるのみならず、規範の相の下での世界でもある。即ち、それは単に欲求と反発のイメージから成るのみならず、是認と否認のイメージからも構成されている。  是認とは欲求するのと同じ活動ではない、また否認も反発と同一視され得ない。例えば、死はすべての反発の象徴であるが、すべての否認の象徴であるわけではない。即ち、我々は常に、我々自身の死を忌避するが、我々がそれを否認せず、それに従って行為するかもしれないような情況が存在するのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 252 )  死刑を宣告されたソクラテスは、彼を助け出そうとするクリトンに次のように言い、従容(しょうよう)として死を受け入れた。 《もしわたしたちが、正しいと信ずる理由があって、お前を死に導こうとするならば、お前もまた、これに対して、わたしたち国法と祖国とを、お前のカの及ぶかぎりにおいて、破滅に導くことを企て、しかもこの行為は正しい行為であると主張することになるのだろうか、本当に徳に心がけている人だというお前が。それとも、お前は賢すぎて、忘れてしまったのではないかね。母よりも、父よりも、その他の祖先のすべてよりも、祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものだということを。それは神々の許にあっても、心ある人々の間においても、他にまさって大きな比重を与えられているのだということを。 だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしている時には、父親がそうしている時よりも、もっとよく機嫌を取って、これに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところのものを何なりとも行なうのでなければならないのである。またもし何かを受けることが指令されたなら、静かにそれを受けなければならないのだ。打たれることであれ、縛られることであれ、戦争につれて行かれて、傷ついたり、死んだりするかも知れないこと′であっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとは、この場合、そういうことなのだ》(「クリトン」田中美知太郎訳:『プラトン全集 I 』(岩波書店): 50-50B )  ソクラテスの例は、極端なのかもしれない。が、「欲求―反発」の次元では、「死」は受け入れられなくとも、「是認―否認」の次元では、「死

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(5)実践的自己

実践的活動においては、すべてのイメージが、自分の世界を構成し自らに快を与えるようなやり方で世界を再構成しつづけるのに関わる、欲求する自己の反映なのだ。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 250)  自らが快(快楽)を得るために世の中に働きかける活動、それが実践的(ないしは政治的)活動である。 実践的に活動するということは、様々の自己(人間の存在)の中の1つの自己としてのあり方である。にもかかわらず、諸々の自己が他の諸自己として認知されるイメージに対する関係は、当面は、「物」として認知されるイメージに対する関係と異なっているわけではない(その方がより扱いにくいとはいえ)。他の自己(他我)は、私が生産したものの消費者として、また私が消費するものの生産者として、あるいは私の企画におけるいろいろな形の手助けをする者、また私の快楽への奉仕者として、知られる。(同、 pp. 250-251 )  <実践的活動>を哲学的に分析すれば、少し取っ付き難いが、このように表現できる。 欲求する自己は、他の自己(他我)の存在する「事実」は認めるが、それを複数の自己としては承認せず、それらの主体性も認知しようとしないのである。即ち、その活動は、それをどう利用しようかという観点でのみ認識される。各自己は自分自身の世界に住み、イメージの世界はその自己固有の諸欲求に関係している。この活動の中では、他の自己をまさに他我として認めることが各自己にできないという意味での孤独は、まったく本有的なものであって、単なる偶然ではないのである。かかる自己たちの間の関係はまさに不可避に、「万人の万人に対する闘い」にならざるを得ない。(同、 p. 251 )  自己というものが、例えば、神のような客観的視座ではなく、私という主観的視座で捉えられる限り、「万人の万人に対する闘い」ということに成らざるを得ないということである。  欲求と反発ということにおける技巧とは、いかにして実践的自己を解体から守るのかを知ることであり、その技術によってこそ、適当な水準で「事実」が認知され、幻想からのがれ、苦より快を経験することができるのである。そして最少のエネルギー消費でもってその目的を達成しようとすることが、この技巧に属している。 このような意味で経済的であるということは、それ自

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(4)「事実」であると認められた快のイメージ

欲求することの中でめざされているものは、単に快のイメージではなく、「事実」であると認められた快のイメージである。そして、このことは、「事実」と「非事実」との間の区別を前提しているのだ。架空のイメージの世界ですら、この区別を前提しているというのは、架空性とは、「非事実」であると認められるものに、それにもかかわらず「事実」の性格を付着することであり、それは、この観念的な付着が与える喜びを享受するためである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 249)  「事実」でないものに対し<快のイメージ>を抱くことなど出来ない。だから、「事実」であるかどうかが重要なのである。それは現実世界のものに留まらない。架空世界のものにおいても、「事実」であると架空しなければ、<快のイメージ>は得られない。 また「非事実」は幻想と同一視するわけにはいかない。幻想とは「事実」を「非事実」と誤って受け取ったり、「非事実」を「事実」と受け取ってしまうことである。(同)  詰まり、「事実」と「非事実」とを取り違えたものが<幻想>であり、<幻想>と「非事実」は同じものではないということである。 「事実」と「非事実」との区別は、異なる種類のイメージ同士の間の区別であり、イメージではない何物かと、単なるイメージとの問の区別なのではない。そしてそれ故、我々には時にはあるイメージを「事実」と認めるべきか否かはっきりしないことがあり、それが疑わしい時には、我々は結論に至るために、ある一連の問いを自問してみるのが常である。にもかかわらず、この種の反省による決定がいつも必要なわけではない。実際もし「事実」と「非事実」とが既に認定されてしまったようなイメージの世界に精通しているのでなければ、そんなことは不可能であろう。  「事実」か「非事実」かの区別が難しい時、反省により決定するわけだが、もし「事実」と「非事実」とが既に認定されてしまっている場合、その<イメージの世界>に精通しているのでなければ、区別することは出来ないだろうということである。 自己は、無規定のイメージの世界に目覚め、しかる後それらのあるものを「事実」として弁別しはじめるというわけではない。「事実」の認定は、一般により原初的なイメージ生成活動の上に随伴するような活動ではない。それは、何ら特別のはじまり

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(3)自己はイメージを描き、その間を動き回る

自己は、イメージ(image)を作り、それを認め、またそれらの間を、それらの性格にかなったようなやり方で、また多様な能力をもって動きまわるのである。かくて、感覚、知覚、感情、欲求、思考、確信、瞑想、想定、知識、選好、評価、笑い、泣き、踊り、愛し、歌い、草を干したり、数学の証明をしたりなどなど、これらそれぞれが、想像することと、一定の種類のイメージ群の間を適切に動きまわることとの、それぞれ特定し得る様態であり、あるいはそこに生起するものである。 (中略) 自己とは活動そのものなのである。イメージは作られる。にもかかわらず、自己と非自己、想像することと想像されるイメージは、それぞれ原因と結果であるのでもなければ、意識と意識内容であるのでもない。つまり、自己とは、イメージを作り、イメージの間を動く活動の中で、構成されるものなのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 pp. 246-247 )  まさに哲学的文章なので言葉以上に難解である。自己(つまり、「自分」ないしは「私」)は、五感や頭・心を使って「イメージ」を描く。そして、イメージとイメージの間を縦横無尽に動き回る。それが「活動」ということになる。 実践的想像作用の中で、まず第一に我々の注意を引く側面は、欲求と反発としてのその性格である。実践の世界は、意欲の相の下での( sub species voluntatis )世界であり、それを構成するのは、快と苦のイメージである。(同、 p. 248 ) ※the world sub species voluntatis = the world under the guise of will(意思という名の下の世界) もちろん、欲求することは、今まで非活動的である自己の中に活動をよび起す原因なのではない。我々ははじめに、休止の状態から一つの運動へと移行させるような「欲求を持っている」わけではないのだ。つまり、欲求するということは、ただある特定の仕方で活動的であるということなのであり、例えば手をのばして花にふれてみるとか、ポケットの中に銅貨をさぐるとか、ということなのである。 また我々は、最初に欲求をもって、それからそれを溝足させるための手段をさがすというわけでもない。我々の種々の欲求は、ただ欲求するという活動の中でのみ知

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(2)政治と科学に占拠された会話

もともと教育とは、この会話の技術や参加資格への入門のことであり、そこで我々は様々の言語を認識し、発話の適切な機会を弁別することを学び、またそこで我々は会話にとってふさわしい知的ならびに倫理的な習慣を獲得するのである。そして、すべての人間の活動と発話に、最終的に場所と役割をふりあてるものは、この会話である。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 240)  さて、教育の主たる目的の1つは、「会話術」を身に付けることである。先ず言葉を話し聞くために必要な言語力を身に付け、次に会話に必要な礼儀作法を身に付ける。さらに、会話に関する倫理、道徳といった社会規範を身に付ける、といった具合である。  ここ数世紀の内に、公の場でも我々自身の中においても、会話というものがだんだん退屈なものになってしまっているのは、それが、実践的活動の言語と「科学」の言語という2通りの言語にだけ没頭してきたためである。つまり、認識することと発明することが、我々の他を圧する関心事とされているのである。(中略)いろんな機会にしょっちゅう耳にするのは、科学の言語が、実践的活動の変異態、即ち我々が「政治」と呼ぶものの言語とくつわをならべて、ただ声高に論じあう声である。(同、 p. 243 )  会話が退屈に感じられるのだとすれば、それは、本来話題が複雑多岐に渡るはずの会話が単純単調なものになってしまったからであろう。オークショット曰(いわ)く、会話の場が、<政治>と<科学>に占拠されてしまったということである。しかも、その<科学>は、<政治>的色合いが濃いとくる。残念ながら、会話は、今や「権力闘争」の場と化してしまった。これでは会話そのものを楽しもうにも楽しむことはできない。だから、退屈なのである。  会話を、それがはまり込んでしまったぬかるみから救い出し、会話に、失われていた自由な運動を回復させるためには、私は何よりもある深い哲学を提供しなければならない…私が提案するのは、詩の言語を考察しなおすということであり、それを会話において語られるものとして考察するということである。(同、 pp. 243-244 ) 今日必要なことは、これまであまりに長きにわたって政治と科学に専有されてきた会話の単調さから、いくぱくか自由になることであるとするなら、詩の言語の特質と重要性

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(1)会話とは何か

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会話は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。会話においても、賭ごとの場合と同様、勝ったりすったりすることにその意味があるのではなく、かけること自体に意味があるのである。適切に言うなら、話言葉の多様性がなければ会話は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」:『政治における合理主義』(勁草書房)田島正樹訳、p. 239)  「会話」( conversation )は、優れて保守的なものである。会話は、言葉を駆使する行為である。言葉は過去からやって来るものであるから、言葉を用いることは、すなわち、過去を継承することであり、過去を現在に蘇らせることだと言えるだろう。さらに、言葉遣いには「礼儀」や「作法」といったものも必要となるが、これも過去からの受け継がれてきたものに違いない。 我々が文明化された人間であるのは、自分自身と世界についての研究や蓄積された知識の相続人であることによるのではない。むしろ、原初の森の中ではじまり、いく世紀もかかって拡張され、徐々に分節化されていった会話という伝統の相続人であることによるのである。会話こそ、公共の場でも、我々各人の中においても、なおも存続しているものなのだ。(同)  <自分自身と世界についての研究や蓄積された知識>とは、観念的であり、抽象的なものであり、掴み所のないものである。一方、会話は、実践的、具体的なものである。会話という場において、伝統や慣習が具体的に実践されることによって、我々は自らが<文明化された人間>であることを確認できるのである。 人間を動物から分かち、文明人を野蛮人から分かつものは、この会話に参加する能力であって、正しく推論したり、世界についての様々な発見をしたり、よりよい世界を考案するといった能力にあるのではない。実際、人間の祖先がかつて猿の類であった頃、あまりに長々とすわり込んで話をしたので、ついにはその尻尾がすり切れてしまったというように、我々人間が現在あるような姿になったのが、この会話(話が結

オークショット「保守的であるということ」(18)【最終】秩序を乱さぬ範囲内の自由

秩序は課すが各人の企てについては指図することのないような規則が、つまり義務を集約することによって各人が喜びを追求する余地を残しておくような規則が、価値あるものだ(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 233)  秩序を乱さぬ範囲内の自由ということである。互いの自由と自由が衝突するのを避けるために、あるいは、強者が力付くで弱者の自由を奪うなどというようなことがないように、最低限の<規制>があるのである。 政治とは若者には適していない活動であり、その理由は、彼らの欠点にあるのではなく、私が少くとも彼らの美点だと考えているものにある、ということである。  こうした政治の様式において必要とされる、中立性を保とうとする気持ちについては、それを獲得ないし維持するのが容易であるかのように見せかける着は、誰もいない。自分自身の信条や欲求を抑えること、物事の現在ある姿を認めること、自分の手の中にある物の釣り合いを取ること、嫌なことに対して寛容であること、犯罪と倫理的な罪とを区別すること、誤りへと導かれそうに見える時でさえ形式性を重んずること、これらのことは成し遂げるのが困難であり、またそれらは、若者の中に成し遂げられているのを見出すことができないものなのである。(同、 pp. 234-235 )  血気盛んな若者は、自由を謳歌することに夢中で、自由を制御して秩序を乱さぬようにしようなどというところにまで気が回らない。 若い時期というのは誰の場合でも、1つの夢であり、喜びに満ちた狂気、甘美な唯我論である。そこでは、形状とか価格とかが固定されてしまったものは1つもなく、あらゆるものが可能性の中にあり、そして我々は信用貸しを受けて幸福に暮らしている。守るべき義務は何もなく、貸し借りを清算する必要もない。予め特定されているものは何もなく、あらゆるものはどのようにでもすることができる。 世界とは、我々がそこに自分自身の欲求を映し出そうとする鏡である。激烈な感情の魅力には、逆らうことができない。我々は若い時は、世界に対して譲歩しようとしない傾向があり、自分の手の中にある物の釣り合いを――それがクリケットのバットでなければ――決して取ることはない。我々は、自分の単なる好みと好意的な評価とを区別しようとはせず、切迫性を重要度の基準としているし、また我々は

オークショット「保守的であるということ」(17)統治者は価値中立的審判員

規則に従って試合を進行させることをしないような審判員には、あるいはまたえこひいきをしたり、自分自身の試合をしてしまったり、いつも笛を鳴らして試合を止めたりするような審判員には、用がない。結局のところ大事なのは試合なのであり、そして試合で競技する際には、我々は保守的である必要はないし、現在のところそういう傾向にもないのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 231)  自由主義の統治者は競技の審判員のような存在である。競技の外側から、競技者が規則を守って競技しているかどうかを監視し、違反があれば、指摘指導する。 この種の統治は、我々の戦いの熱気の中に、諸々の信念の激しい衝突の中に、また、隣人達ないし全人類の魂を救済しようとする我々の熱狂の中に、次のような諸要素を注入する。即ちそれは、理性の要素ではなくて(一体どのようにして我々はそれを期待すればよいのか?)、悪徳をもう一つの悪徳によって中和しようとする皮肉の要素であり、また、それ自体は賢明さを標榜せずに行き過ぎをくじく揶揄(やゆ)の要素、緊張を散逸させる嘲笑の要素、そして不活性の要素と懐疑の要素である。(同、 p. 232 )  揶揄嘲笑、諧謔(かいぎゃく)滑稽を交え、熱狂を冷まさせる。まさに「毒を以て毒を制す」かの如(ごと)しである。 活動が冒険的な企てへと傾いているところでは、それに対応するものとして、抑制の方に傾いたもう一つの種類の活動が不可欠である。(同)  例えば、冒険的な企てには保守的な企てによって<中和>を図り、社会秩序の平衡を保とうとするということである。 「審判員」が同時に競技者の1人でもあれば、それは全く審判員などではないし、「規則」に対して我々が保守的性向を有していないのであれば、それは規則ではなく、無秩序への誘因である。夢を見ることと統治することを連結すると、それは圧政を生むのである。(同、 p. 233 )  競技から中立的であるからこその審判なのであって、審判自身が競技に参加してしまっては、中立は保てない。競技に参加する審判は、自分達に都合の良い判定を下すようになり、競技の自由は圧殺されてしまうだろう。 統治に関して保守的性向を有するのがきわめて適合的だと思われる人々とは、まさに自分の責任において行ったり考えたりする事柄があり、技

オークショット「保守的であるということ」(16) 節度

 或る人達にとっては、「政府」とは権力の貯蔵所として現れてくるものであり、彼らはそれに刺激されて、それをどのように利用することができるだろうかと、夢を見るのである。彼らは、様々な要素を含んだお気に入りの企てを持っており、それが人類の利益に適ったものであるということを、心から信じている。そして、人を統治するという冒険として彼らが理解していることとは、権力のこの源泉を獲得し、必要であればそれを増大させ、そして、彼らのお気に入りの企てを仲間達に押し付けるのに、それを利用するということである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 229)  1つ疑問がある。果たしてこの人達は、自分達の考える<企て>が<人類の利益に適ったもの>と思っているのだろうか、ということである。私は、オークショットの見解とは違い、この人達は政治を権力闘争と捉える傾向があり、権力を奪取した暁には、自分達が望む社会に誘導しようと考えているだけではないかと思うのである。自由主義は、自分と考え方が異なる人達の自由も法に従う限り認めるものであるが、社会主義は、世の中を画一化するものであり、個人に自由はない。 このように彼らは、統治というものを情念の手段として認識する傾向があり、政治の技術とは、欲求に火をつけ、それを監督することにあるとされる。要するに統治とは、他のいかなる活動とも――或る銘柄の石鹸を作って売ることとも、或る地域の資源を開発することとも、あるいは住宅団地を開発することとも――少しも異なるものではないと理解されており、ただ、統治の場合には、権力が(ほとんどの場合)すでにかき集められている、というだけのことであり、統治という企てが目立つ理由は単に、それが独占を狙っており、ひとたび権力の源泉を獲得してしまえばその成功が約束されている、という点にあるにすぎないとされるのである。(同、 pp. 229-230 )  自由主義における政治とは、人々が自由公正に活動できるようにするための場作り、環境整備である。一方、社会主義における政治とは、為政者のイデオロギーを画一的に遵守させる強制活動である。 統治者の仕事とは、情念に火をつけ、そしてそれが糧(かて)とすべき物を新たに与えてやるということではなく、既にあまりにも情熱的になっている人々が行う諸活動の中に、節度を保つという

オークショット「保守的であるということ」(15)理想と現実の綱引き

規則の修正は、それに服する者達の諸々の活動や信条における変化を常に反映したものでなければならず、決してそうした変化を押し付けることがあってはならない。またそれは、決していかなる場合でも、全体の調和を破壊してしまうほどに大がかりなものであってはならない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 228)  規制の変更は、社会秩序の乱れを是正するために行うものであり、社会を一定の方向に向けさせるために行うものではない。また、変更が大き過ぎては、かえって秩序を乱しかねないから、変更は「微調整」に留めることが肝要である。 保守主義者は…新たな規則を考え出すことよりも、既に手にしている規則を守らせることの方を選ぶだろう。彼は、規制の修正は、それが反映しようとしている状況の変化が、いくらか固まってきたということが明白になるまでは、始めないでおくのが適切だと考えるだろう。(同)  社会秩序の乱れは、独り<規則>が時代に適合しなくなったとだけ考えるのは早計であり、人々が法令遵守(じゅんしゅ)を怠っていることによるかもしれない。この見極めが大事である。後者の場合、緩んだ規律に合わせ、安易に<規則>を変更するのではなく、規律を引き締めることの方が優先されるべきだろう。 彼は、状況の要求するものを超えた変化の提案には、疑いの目を向けるだろうし、為政者が大きな変化をもたらすために尋常ならざる権力を要求し、その発言が「公共の福祉」とか「社会正義」とかといった一般的な事柄に結びついている場合や、よろいをまとった社会の救済者が、退治すべきドラゴンを捜している場合にも、それに疑いの目を向けるであろう。彼は、変革を行うべき時機について注意深い考慮を払うことが、妥当だと考えるだろう。(同、 pp. 228-229 )  社会秩序の乱れを修正しようとするのか、社会体制を根本的に変更しようとするのかをしっかり見極めることが大切である。後者の場合、変化は大きなものとなり、社会秩序は大きく乱れるだろう。地に足の着かぬ一足飛びの社会変革は、うまくいくかどうかはやってみなければ分からない危険を伴うものであり、逆に、変革によって破壊され、確実に多くのものが失われる。要は、割の合わぬ「博打(ばくち)」でしかない。 要するに彼は、政治というものを、価値ある道具を新しく永遠に備え

オークショット「保守的であるということ」(14)「政府」の役割

自己の信条と企てに関して情熱的な人々によって行われる自律的統治は、それが最も必要とされる時に失敗に終わりがちである。解決すべき利益の衝突が比較的小規模のものであれば、そうした自律的統治でも充分なことが多いのであるが、これを超えたものについては、それはあてにできないのである。我々の生き方から生じがちな大規模な衝突を解決し、我々が脱け出せなくなりがちな大きな挫折から我々を救い出すためには、そう簡単には本来の姿が損なわれないような、もっと精緻な儀式が必要となる。この儀式を保護する者が「政府」であり、その者によって課される規則が「法」である。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 225-226)  規模の小さな原始的な社会においてであれば、<自律的統治>も可能かもしれないが、現代のように規模が大きく複雑化した社会においては「政府」という組織が不可欠となる。 統治することとは…目的追求をくじく利益衝突という結果に至る可能性が、当該の環境において最も低いような行動様式を支えるために、法的な制約を提供することであり、また、他人がこれに反した振舞い方をしたので被害を受けたという人のために、補償やら埋め合わせの手段やらを提供すること、規則におかまいなく自分自身の利益を追求する者に対して、時には罰を加えること、そして勿論、この種の仲裁者としての権威を充分に維持できるだけの力を、提供することである。(同、 pp. 226-227 )  人々の自由な活動の結果として生じる利害衝突を最小限に抑えるために設定されるのが「法」であり、この「法」を実行あらしめるのが「政府」の役割である。 統治は特殊で限定的な活動として認識されるのである。それは、それ自体が1つの企ての遂行なのではなく、自分で選択した、それぞれにきわめて多様な企てに携わっている人々の、活動の枠組となる規則を維持することなのである。統治が関わりを持つのは、具体的な人間ではなく諸々の活動であり、しかもその関わりは、それらが相互に衝突する傾向を持つという点のみにおけるものである。 統治は道徳的善悪とは関係がないのであり、人々を善きものにしようという目的で行われるものではないし、人々を比較的善いものにしようという目的ですら行われるものではない。 統治が欠くことのできないものである理由は、「人

オークショット「保守的であるということ」(13)統治者の職務

Something much smaller and less pretentious will do: the observation that this condition of human circumstance is, in fact, current, and that we have learned to enjoy it and how to manage it; that we are not children in statu pupillari but adults who do not consider themselves under any obligation to justify their preference for making their own choices; and that it is beyond human experience to suppose that those who rule are endowed with a superior wisdom which discloses to them a better range of beliefs and activities and which gives them authority to impose upon their subjects a quite different manner of life. -- Michael Oakeshott, On being conservative : THREE (何かずっと小さな、大袈裟でないものが役に立つだろう。つまり、このような人間環境の状態は実際、進行中であり、私達はそれを楽しみ、管理する方法を学んできたという見解。私達は後見人の下にある子供ではなく、自分自身で選択する方を選ぶことを正当化する義務を負わない大人であるということ。支配する者たちが、優れた知恵に恵まれ、より幅広い信念や活動を開示し、全く異なる生活様式を臣下に押し付ける権限を与えられているとは、人間の経験から、思われないということ)  今、目の前で進行しているのが「現実」なのであり、これを否定して夢の世界に逃げ込んだところで何も得られない。現実を受け止め、最善を尽くす。その方が、現実を受け入れられず、空想にただ耽(ふけ)って

オークショット「保守的であるということ」(12)「足るを知る」こと

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保守的性向――の源泉は、人間の環境の現在の状況を受容するという態度の中に見出すことができる。その状況とは…我々には自分自身で選択を行い、かつそうすることに幸福を見出そうとする傾向があるということ、各人は情熱をもって多様な企てを追求しており、また各人は多様な信条を、それだけが正しいとの確信とともに抱いているということである。そこでは、創意工夫がなされ、絶えず変化が起こり、いかなる大がかりな計画も存在せず、過剰、活動の行きすぎ、そして形式にとらわれない妥協があった。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 223)  現状を受け容(い)れること、それこそがまさに保守的性向である。勿論、これは現状が申し分ないということを意味しない。不十分な点、不満な部分がないわけではない。が、不平不満を膨らませていては、自分が不幸になるだけだ。 《禍(わざわい)は足るを知らざるより大は莫(な)く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第46章) (災禍(わざわい)は君主の飽くなき欲望が最大で、咎(つみ)は物欲ほど大きなものはない。だから結論を言えばこうだ。足ることを知ることの豊かさは、いかなる時も常に満ち足りている、と) 統治者の職務とは、それに服する人々に対してそれぞれの抱いている信条やそれぞれの行っている活動とは別のものを押し付けることではないし、彼らを教育したり育成したりすることでも、他のやり方で彼らをもっと良くしたり、もっと幸福にしたりすることでもないし、また彼らに指図することでも、彼らを行動へと駆り立てることでも、いかなる衝突の場面も生じないようにと彼らを指導したり、彼らの諸活動を整序したりすることでもない。(オークショット、同)  ここで否定されているのは、社会主義における統治者のものである。社会主義には、唯一の「正解」がある。統治者はその「正解」を人々に強要し、教育を通して刷り込むのである。 統治者の職務とは、単に、規則を維持するだけのことなのである。この活動は特殊で限定的なものであり、他の活動と結合させられるや、それが何であろうとすぐに自らの本来の姿を損なってしまうものであり、しかも、我々の環境においては不可欠のものである。規則を維持する者の典型は、試合に

オークショット「保守的であるということ」(11)「革命」へと至る単純思考

その情景は、自動車レースと似た興奮をもたらすが、そこには、何らかの仕事上の企てを見事に遂行したときに得られる満足は、少しもないのである。このように思った人達は、現在の乱雑さを大げさに捉えがちになる。彼らにとっては、計画の欠如があまりにも著しいので、混沌(こんとん)を抑制するには微調整では足りないし、それどころかもっと大がかりなしくみですら役に立たないと思われている。彼らは乱雑さを不便なこととしか感じず、そこに温もりを感じることはない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 221)  自由主義とは個人の自由を尊重するということであり、結果として、個々バラバラな個人が混在することとなる。これを<自由>と見る人もいれば、<乱雑>と見る人もいるだろう。後者の人達は、社会に統制が取れていないことの表れと見、それは<計画の欠如>の問題と考える人もいるだろう。この<混沌>を解消するためには社会を抜本的に変えなければならない。すなわち、「革命」が必要だということになる。 彼らの観察能力に限界があるということは、重大ではない。重大なのは、彼らの思考の転回である。彼らの感ずるところによれば、この所謂(いわゆる)混沌を秩序へと変えるために行うべきことがあるはずであり、それというのも、合理的な人間は決してこのようにして人生を送っていくべきではないからである。 彼らは、まるで、ダフネの首のあたりに垂れた髪が乱れているのを見たときのアポロンのように、ため息をつき、「もしそれがきちんと整っていたとしたら、どんなだろう」と一人言を言う。そのうえ彼らの言うところによれば、彼らは夢の中で、衝突が生じないという、全人類にふさわしい栄えある生き方を、目にしたことがあり、彼らの理解によれば、現在の我々の生き方を特徴づけている多様性とか衝突の生ずる場面とかを、除去しょうとすることが、この夢によって正当とされる。 勿論、彼らの見た夢のすべてが全く同様なものというわけではないが、次の点は共通している。即ちどの夢に現れた光景を見ても、そこでは、人間の環境は衝突の生ずる場面が取り除かれた状況になっており、人間の活動は協調的で、単一の方向へ進むようにさせられており、またどの資源も充分に利用されているのである。 このように考えるのだから当然のことながら、そうした人達の理解によれば

オークショット「保守的であるということ」(10)微調整

我々は他人の道を横切る形で自分の道を進んでおり、皆が同種の行為を是認しているわけではない。しかし我々は、時には譲歩し、時にはしっかりと自分の道を固守し、時には妥協することによって、概して互いにうまくやっているのである。我々の行為を構成している活動は、他者の活動と同化するように調整されており、しかもその調整は微小なもので、かつその大部分は、控え目で目に留まりにくいものなのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 220-221)  保守とは、ただ旧套(きゅうとう)を墨守(ぼくしゅ)することではない。時代の変化に合わせ、大きな齟齬(そご)が生じないように「微調整」を怠らない、それが保守の真髄だと言えるのではないだろうか。  こうしたことすべてが何故そういうものなのか、という点は重要ではない。それは、必然的にそうなっているわけではない。人間の環境が異なった状況にある場合も容易に想像できるし、また、時代や場所によっては、活動がはるかに多様性や変化に乏しく、見解もはるかに多様性に乏しくて衝突を生じにくいという状況にもなる、あるいはそうであったこともあるということを、我々は知ってもいる。しかし、概して我々は、これを我々の状況だと認めているのである。その状況は、誰もそれを企図したとか、他のすべてのものに優先してそれを特に選択したとかいうわけではないが、それにもかかわらず人間が獲得したものである。それは、自分自身で選択を行うということへの愛を身につけた人間が、それに衝き動かされて生み出したものであって、「人間の本性」が解き放たれてできたものではない。(同、 p. 221 )  伝統や慣習といったものは、誰かが意図して作成したものではない。社会を構成する人々が賛成し、あるいは、反対せず受け継いできた「集大成」なのである。  この情景を見渡して、或る人々は、秩序と統一の欠如がその顕著な特徴であるかのように思い、そのことに刺激されてしまう。つまりそれは、その無駄の多さ、その失敗、それによる人間の精力の浪費であり、さらに、目的地が予め計画されていないというだけでなく、いかなる進行方向も識別すらできないということである。(同、 p. 221 )  世の中には物事を否定的に見てしまう性向の人達がいる。こういった人達は、往々にして社会が暗黒にしか

オークショット「保守的であるということ」(9)使い慣れた道具

保守的性向が他のいかなるものよりも常に適合的になる場合とは、進歩よりも安定性の方が有益なとき、憶測よりも確実性の方が価値のあるとき、完璧なものよりも慣れ親しんだものの方が望ましいとき、真理であるかも知れないがそのことが論争の的になっているものよりも、誤謬(ごびゅう)だということで意見が一致しているものの方が優っているとき、治療よりも病気の方が耐えやすいとき、期待そのものの「正当性」なるものよりも期待を満足させることの方が重要なとき、そして、規則が全くなくなるおそれがあるよりは、何らかの種類の規則のある方がよいとき、であろう。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 212)  このオークショットの指摘は、<保守的性向>とは何かを考えるに当たって、非常に有益な具体的事例だと言えよう。要は、現状がたとえ不十分だと思われても、あるいは、現状がいかに不満であっても、現状のすべてが駄目なわけではないのであるから、これらをすべてチャラにして、ただ頭の中だけで成り立っている世界に飛び込むというのがどれほど危険であり、馬鹿げたことであるかということである。  一般に、諸々の道具に関する我々の性向は、諸目的に対する我々の態度よりも保守的であり、それは両者の区別にふさわしいものだと言うことができる。言い換えれば、道具は目的よりも変革を受けにくいのであり、その理由は、道具とは、稀(まれ)な場合を除けば、まず特定の目的に合わせて作られ、しかるのちはほったらかしにされる、というものではなく、諸目的全体に合うように作られたものである、ということにある。そしてこのことが理解されるのは、ほとんどの道具にはそれを使う腕前が必要とされ、その腕前とは、その道具を実際に使うことやその道具に慣れることから切り離すことができないものだからである。良い腕前を持っている人とは、水夫であれ調理師であれ、会計士であれ、手持ちのいくつかの道具を使い慣れた人のことである。実際、大工は、大工達の間で広く使われている種類の道具であっても、自分のものでないものを使うよりは自分自身の道具を使った方が、普通は腕が揮(ふる)えるし、弁護士は、ポロックの『組合法』にせよ、ジャーマンの『遺言法』にせよ、(書き込みを入れた)自分自身の蔵書の方が、他のどれよりも容易に使いこなすことができる。道具の使用の本質は使い

オークショット「保守的であるということ」(8)保守的性向

友人という関係は、劇のようなものであり、功利的なものではない。その結びつきは親しみによるものであって、有用性に基づいたものではない。そこで発揮されている性向は保守的なものであり、「進歩志向的」なものではない。そして、我々の経験する物事の中にはこの他にも――例えば愛国心や会話のように――、そこから楽しみを得るための条件としてそれぞれに保守的性向の必要とされるものがありそれらに対しては、友情について当てはまったことが、全く同様に当てはまるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 210)  <友情>、<愛国心>、<会話>といったものには、低次から高次への<進歩>の観念がない。今日の<友情>より明日の<友情>の方がより高尚であり、それは<完成>へ向けて歩を進めるものだ、などという意識はない。 人間の諸関係を伴わないような活動の中にも、見返りのためにではなく、それが生み出す楽しみのために人が携わることのあるようなものがあり、そして、それに唯一適合的な性向は保守的性向なのである。(同、 p. 211 )  保守が現状の肯定にあるのに対し、進歩は現状の否定である。保守は現状に愛着があるのに対し、進歩は現状に不満がある。保守にとって未来は現在の延長線上にあるが、進歩にとって未来は現在から切り離された「空想」の中にある。 釣りを考えてみよ。釣りという活動は、獲物という利益を求めてではなく、人がそれ自体のために携わることがあるものなのであり、従って釣り人は夕方手ぶらで家に帰って行く時でも、魚の獲れた場合と比べて少しも不満足ではないこともある。このような場合には、その活動は儀式のようになっており、保守的性向が適合的である。もしあなたが釣れるかどうかを気にかけないのなら、何故、最高の道具のことで思い悩んだりするのか。大切なのは、腕前を発揮するという(あるいはもしかすると、単に時間を過ごすというだけの)楽しみなのであり、これを得るために必要な道具は、ばかばかしいほどに不適合なものでない限り、慣れ親しんだものであればどのようなものでもよいのである。(同)  <釣り>とは、本来魚を釣る行為である。が、趣味としての<釣り>は、必ずしも魚を釣ることが目的とは言えない。魚が餌に喰い付く「アタリ」を待つ静寂な時間をただ楽しむということもある。むしろ、日

オークショット「保守的であるということ」(7)<見返り>を求めない人間関係

人間の諸関係の中には、保守的性向が特に適合的だというわけではないものも、数多く存在する。つまりそこでは、差し出されたものそれ自体の中にのみ楽しみを見出そうとする性向は、特に適合的だというわけではない…ここでは、当事者はそれぞれ、何らかの利便の提供または提供された利便への何らかの見返りを求めている。(中略) しかし、人間の関係にはもう1つの種類があり、そこでは、当事者達はいかなる成果も追求せず、その関係にそれ自体として携(たずさわ)っている。この関係は、それがもたらすもののゆえにではなく、それ自体として楽しみを与えているのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 209-210)  人間関係には、<見返り>を求めるものと、<見返り>を求めないものがあるということだ。例えば、 主人と使用人、地主と管理人、買い手と売り手、本人と代理人、といった関係(同、 p. 209 ) は、<見返り>を求めるものの例である。逆に、<見返り>を求めないものとしてオークショットは<友情>を例に挙げている。 友情…ここでは、親しみが何となく伝わることによって愛着が生まれ、相互の人格的交流によってそれが維持されている。好みの肉が手に入るまで肉屋を次々と変えていくとか、要求されたことを行うようになるまで代理人を指導し続けるとかの行動は、それぞれの関係にふさわしからざるものではないが、友人が期待通りに振る舞わず、また要求に適うように指導されることも拒んでいる、との理由でその人との関係を断つという行動は、友情というものの性格を完全に誤解した者のすることである。友人達が互いに関心を持っている点とは、相手をどうすることができるかということではなく、ただ相手の中に楽しみを見出すということだけなのであり、この楽しみを可能にする条件は、あるがままのものを喜んで受け容れ、それを変えたり改良したりしようとする願望を一切抱かない、ということである。(同、 p. 210 )  <友情>は、<見返り>を求めるようなものではない。友と共に時を過ごし、心を通い合わせること自体に<愛着>があるのである。 友人とは、或る振る舞い方をすると信頼された人のことではないし、何か求めているものを与えてくれる人、役に立つ或る能力を持っている人、その美点が単に或る感じの良いものであ