オークショット「人類の会話における詩の言葉」(11)<学知>なるもの

学知(scientia)を特徴づける解放は、ある教義(dogma)からの解放なのではない。それはむしろ、実践的想像作用の権威からの解放である。実践的想像作用の諸イメージをせいぜい最も経済的に取りまとめたものにすぎないと考えるのは、科学的知識についての誤った理論である。それは、概念の経済という考えが科学理論にとっては具合が悪いからではなく、その諸イメージが、実践の世界のイメージではないからである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 258-259)

 <学知>とは、言い換えれば、主観からの解放である。よって、実践的想像作用とは相容れることはない。

ひっきょう(畢竟=つまるところ)、科学者であるしるしは、現在の科学理論を自由に駆使し得る力量(これが彼の出発点だから)、その不合理性を呈示するようなあいまいさや不整合性を見落さない能力、有効な前進の見込める方向に狙いをつけ予測を立てる力、重要なことと項末(さまつ)なことを区別し、有意味で明確な帰結を生み出せるように彼の推測をおし進める能力である。そしてこの点に関していえば、科学的探究のあらゆる細部は、より大規模な、またより一般的な科学理論の場合に、探究と解明がおし進められたやり方のミクロコスモス(縮図)なのである。(同、p. 259

 科学的探究は、全体のみならず細部に至っても合理的であり、整合的だということである。科学者には、科学理論に精通しこれを自在に駆使できるだけでなく、科学的探究において妥協を許さない厳格さが求められる。

学知は本質的に協同的な企てである。普遍的な合意をめざして概念的イメージからなるこの合理的世界の構成に参加する人はすべて、あたかも1人の人間であるかのようであり、彼らの間には、意志疎通の厳密さが必須である。実際科学とは、このイメージの世界の構成に参加するすべを心得た人々が、相互に享受する理解のことに他ならない、と言うこともできよう。(同)

 <学知>は、単純にして明快な原理や法則という頂点を目指す登山のようなものである。複数の人間が、時に協力し、時に競合し、同じ頂点を目指すのである。

科学者たちは、世界について我々に知識を与えるべく、ますます最善をつくしているけれども、学知というのはそれ自体活動であって、知識であるわけではない。そしてこの活動の原理は、個人的なもの、秘教的なもの、あいまいなものは、すべて排除するということである。(同)

 <学知>は合理的である。したがって、主観的なもの、曖昧なものは排除されるのである。

また、意志疎通の厳密さというこの要求に答えるために、諸々のイメージは、共有された尺度に合致する計測になり、その諸関係は数学的比率であり、位置は数の座標で指示されることになる。つまり、科学の世界は、量の相の下での(sub specie quantitatis)世界として認知される。(同、pp. 259-260

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