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オルテガ『大衆の反逆』(28) 未来への幻想

人間は不可避的に未来主義的構造をもっている。つまり、何よりもまず未来に生き未来によって生きているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 268)  <未来主義>という言葉が引っ掛かる。「人間は未来に向かって生きる」と言うのならまだしも、それを<主義>とまで言うのはやはり言い過ぎであろう。今だけに気を取られていては方向を誤りかねない。一方、未来だけ見ていては、地に足が着いていなくても気が付かない。重要なのは、今と未来との平衡(へいこう)である。 ところでわたしは、古代人とヨーロッパ人を対置して、古代人は未来に対して比較的封鎖的でありヨーロッパ人は比較的開放的であるといった。ここには一見矛盾があるように見えるだろう。しかしそれが矛盾とみえるのは、人間が複層をもった存在であることを忘れている場合である。つまり、一方においては、人間は現にかくあるものであるが、他方においては、人間は自己の真の現実と多少とも一致している自己自身に対する観念をもっているものである。われわれの観念や好みや願望がわれわれの真の存在を無効にすることができないのはもちろんだが、しかし混乱させたり変形させたりすることはできる。古代人もヨーロッパ人も実は同じように未来に関心はもっているが、しかし古代人は未来を過去の規範に服せしめているのに対し、われわれヨーロッパ人は来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える点が違っているのである。こうした在り方そのものの相違ではなく好みの相違が、ヨーロッパ人を未来主義者とみなし、古代人を懐古主義者とみなす立場を正当化する(同、 pp. 268-269 )  欧州大陸は保守性が希薄なのであろう。保守は過去の積み重ねの延長線上に未来を見る。過去の経緯を無視した未来など「絵に描いた餅」に過ぎないからである。にもかかわらず、オルテガは<来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える>と言っている。が、<来るべきもの>とは一体何か。来たるべきか否かは何を根拠としているのであろうか。判断の根拠は過去にある。さもなくば単なる思い付きである。ただ過去に拘泥(こうでい)するのであれば「懐古趣味」と言われても致し方なかろうが、弓矢も後ろに強く引いて射るように、過去を参照せずに理想を語ったところで現実に打ちのめされるだけであろ...

オルテガ『大衆の反逆』(27) ナショナリズムか国民国家主義か

ナショナリズムはすべて袋小路(ふくろこうじ)なのだ。試みにナショナリズムを未来に向けて投影してみていただきたい。たちまちその限界が感得されるだろう。その道はどこにも通じていない。ナショナリズムとはつねに国民国家形成の原理に逆行する衝動である。ナショナリズムは排他的であるのに対して国民国家主義は包含的なのだ。しかしナショナリズムも基礎固めの時代には積極的な価値をもっており、1つの高度な規範たりうる。だがヨーロッパにおいては、すべては十分過ぎるほど固まっているので、ナショナリズムは単なるマニアであり、創意の義務と大事業への義務をまぬがれようとする口実にすぎないのである。ナショナリズムが用いている単純きわまる手段とそれが賞揚している人間のタイプを見れば、ナショナリズムが歴史的創造とはまったく逆のものであることが十分すぎるほど明らかとなろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 262)  <国民国家形成の原理>を一旦ここでは「国民国家主義」( nation-statism )と称するとすると、問題は、ナショナリズムか国民国家主義かの二者択一ではないということである。オルテガはナショナリズムを旧套(きゅうとう)として攻撃するが、国民国家を形成するにしても民族( nation )自体が無くなるわけではない。民族が連帯して国民国家が出来るのである。民族のような中間組織は国民国家統合の邪魔になると考え、民族を紐帯(ちゅうたい)なき個人へとバラバラにしようとするのであれば、それは「全体主義」になってしまうだろう。 このまま年月がたち、ヨーロッパ人が現在営んでいる低次の生に慣れてしまう危険、世界を支配しないことにも自己自身を支配しないことにも慣れてしまう危険があるからである。そうなった場合には、ヨーロッパ人の高度の美徳も能力もすべて雲散霧消してしまうだろう。  しかしヨーロッパの統合には、国民国家形成の過程においてつねにそうであったように、保守的な階級が反対している。こうした保守主義者の態度は、彼ら自身の破局を招きかねない。というのは、ヨーロッパが決定的に遺徳的堕落に陥りその歴史的エネルギーのすべてを喪失してしまうにいたるという普遍的な危険の上に、さらにもう1つきわめて具体的で切迫した危険を加えることになるからである。(同、 p. 263 )  ...

オルテガ『大衆の反逆』(26) 生の原理

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生というものは、われわれがその生の行為を不可避的に自然的な行為と感じうる時に初めて真なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 260 )  手元に別訳が2つある。 ある行為が偽りないものと言えるのは、われわれがその行為を不可避的に必要なものと感じるときだけである。(『オルテガ著作集 2』(白水社)桑名一博訳、 p. 243 ) われわれが、なんらかの生の行為がどうしようもないほど必要であると感ずるとき、はじめて生存のなかに真実がある。(『世界の名著 68』(中央公論社)寺田和夫訳、 p. 568 )  今回は最も手頃ということで「ちくま学術文庫」版を底本としたが、見ての通り訳は三者三様である。よって、あまり訳文やその用語自体に拘(こだ)っても仕方がないわけであるが、ここでオルテガが言いたいことは、「偽りのない行為とは、まさに必然と感じられる行為だけだ」ということであろう。だから、 今日、自己の政治的行為を不可避的な行為と感じている政治家は一人もいないし、彼の身振りが極端であればあるほど彼の自覚は薄く、より軽薄で、運命に要求されている度合いが少ない。不可避的な場面から成り立っている生以外に、自己の根をもった生、つまり真正な生はない。それ以外のものは、すなわちわれわれが手に取ったり、捨てたり、あるいは他のものと取りかえたりしうるものは、虚構の生以外のなにものでもない(オルテガ、同) ということになるわけである。  すべての人々が、新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかし―このような危機の時代にはつねに見られることだが―ある人々は、すでに失効してしまった原理を、過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日われわれが目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。もう一度繰り返していうが、いつの時代にもこうであったのである。最後の炎は最も長く、最後の溜息(ためいき)は、最も深いものだ。消滅寸前にあって国境―軍事的国境と経済的国境―は、極端に過敏になっている。(同、 pp. 261-262 )  今まさに<生の原理>の転換期にあり、従来の原理が「断末魔」を迎えているという認識なのであろう。オルテガは、この危機的状況について別著で次のように述べている。 ...

オルテガ『大衆の反逆』(25) 重苦しい世の中

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世界は今日、重大な道徳的頽廃(たいはい)に陥っている。そしてこの頚廃はもろもろの兆候の中でも特にどはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており、その起源はヨーロッパの遺徳的頑廃にある。ヨーロッパの頑廃には数多くの原因があるが、その主要なものの1つが、かつてヨーロッパ大陸が自己およびその他の世界のうえに行使していた権力が移動したことである。つまり、ヨーロッパは自分が支配しているかどうかに確信がもてず、その他の世界も自分が支配されているかどうかに確信がもてないでいる。すなわち、歴史的至上権が分散してしまっているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 258-259)  かつて欧州は世界の最先端を走っていた。だから世界標準は欧州発であった。欧州が基準を作り、他の国々がその基準に従う。その意味で、欧州が支配者であり、その他の国々が被支配者であった。が、『大衆の反逆』が出版された1930年は2つの大戦の間にあたり、非常に不安定な時期であった。誰が支配者なのか、指導者なのかが見えない時であった。  もはや「頂点の時代」はない。なぜならばそのためには、19世紀がそうであったように、1つの明確で、あらかじめ設置された疑う余地のない未来が前提となっていなければならないからである。19世紀の人々は明日何が起こるかを知っていると信じていたのだ。ところが今日地平線はふたたび新しい未知の世界に向かって開かれているのである。なぜならば、誰が支配するのか、そして権力はいかなる形で地球上を覆うのかが分からないからである。誰が支配するかというのは、つまり、いかなる民族、あるいはいかなる諸民族の集団、したがって、いかなるイデオロギー、いかなる傾向、規範、生命衝動の体系が支配するかということである。(同、 p. 259 )  オランダの歴史家・ヨハン・ホイジンガは1935年の著作で、欧州の重苦しい雰囲気を次のように著(あらわ)した。 《わたしたちは憑(つ)かれた世界に生きている。そのことをよく承知している。予期せぬものとてなかろう、やがては狂気が爆発する、あわれなヨーロッパの人びとは、呆然(ぼうぜん)自失のうちにとりのこされる、モーターはなおまわりつづける、旗は風にひるがえる、だが精神はどこへいったのか。  わたしたちは、いま生きているこの社会の仕組が...

オルテガ『大衆の反逆』(24) 欧州という共通の背景

国民国家の深奥にひそむ本質…それは次の2つの要素からなっている。第1は共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に対する人々の支持である。この全員による支持こそ、国民国家をそれ以前のすべての国家から区別するあの内的強固さを生み出すものなのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 251)  <生の計画>を人々が支持すればこその<国民国家>なのだ。人々の支持がなければ<国民国家>は成り立たない。物理的紐帯(ちゅうたい)を乗り越えた連帯には人々の支持が欠かせない。 フランス人の魂、イギリス人の魂、スペイン人の魂は確かに大いに違っていたし、今日も違っているし、今後も違ったままであろう。しかし彼らは、まったく同一の心理的な結構というか構造をもっており、なかんずく共通の内容をもちつつあるということである。宗教、科学、法律、芸術、社会的価値、愛の価値などは共通のものとなりつつある。ところで、実はこれらこそ、人間が因(よ)って生きるところのものである。したがってこの場合の等質性の方が同一の型にはめられた魂の場合よりも大きいという結果になるのである。(同、 p. 257 )  が、オルテガに楯突くようだが、<宗教>ばかりは共通のものとはならないように思われる。そんな簡単に<宗教>が共通のものとなるのであれば、どうして欧州で苛烈な宗教戦争が繰り返されてきたのか。カトリックとプロテスタントがどうして折り合いを付けられるのか分からない。一体キリスト教、イスラム教、仏教の共通性はどこに見出せるというのだろうか。共通性が見出されるのだとすれば、それは脱宗教ということだろう。つまり、唯物論が社会を席巻するということである。こんな恐ろしい話はない。  今日もしわれわれが、われわれの精神内容―意見、規範、願望、仮定―のバランスシートを作成したとすれば、その大部分がフランス人の場合には彼のフランスからもたらされたものでもなく、スペイン人の場合にも彼のスペインからもたらされたものでもなく、ともに共通の背景であるヨーロッパに負うものであることに気づくであろう。今日確かに、われわれ一人一人のうちには、フランス人、スペイン人等々というように他国人と相達する部分よりもヨーロッパ人としての部分の方が大きな場所を占めているのである。(同)  <宗...

オルテガ『大衆の反逆』(23) 共通性の創造

共通の血、言語および過去は静的で、宿命的で、硬化した無気力な原理であり、牢獄である。もし国民国家がそれらのみに存するとすれば、国民国家とはわれわれの背後にあるものであって、われわれとしてはなすべきことは何もないだろう。つまり、国民国家とはかくあるものであって、かく形成するものではなくなってしまうだろう。さらに国民国家が誰かに攻撃されたとしても、それを守ることすら無意味になってしまうであろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 247)  国家の基礎となるのは<共通の血>であり<共通の言語>であり<共通の過去>であることは論を俟(ま)たないだろう。が、大事業をなさんとすれば、より多くの人々、地域、国家が連帯せねばならない。それが物理的紐帯(ちゅうたい)を超越した、オルテガ言うところの<国民国家>なのだと思われる。  もし国家が過去と現在とからのみ成り立っているのであるなら、それが攻撃を受けても誰も防衛しようとはしないだろう。このことに反対する人は偽善者かさもなければ愚者である。国家の過去は、未来に夢―それが正夢であろうと逆夢であろうと―を投影するのである。われわれには、われわれの国家がその中で存続するような未来が望ましく思えるのだ。だからこそ、われわれは祖国の防衛に立ち上がるのであって、血を守るためでも、言語を守るためでも、共通の過去を守るためでもない。国家を守ることによってわれわれが守衛するのは、われわれの明日であってわれわれの昨日ではない(同、 pp. 247-248 )  私にはオルテガの論理が今一つ分からない。例えば、明日は未だ来ないものであるから備えることは出来ても具体的に差配することは出来ない。だから、良き未来を手に入れるためには現在において最善を尽くすのみである。換言すれば、現在の努力の積み重ねが良き未来へと繋がっているということである。過去は過ぎ去ったものであるから変えられないというのは「事実」ではあっても「真実」ではない。どの角度、どの距離で過去を見るかによって「史実」は変わらなくとも「解釈」は変わる。「事実は1つであっても、真実は複数ある」と言われる所以(ゆえん)である。だから過去を守るということもまた現在の大切な仕事なのである。 国民国家は、成員に共通した1つの過去をもつ前に、その共通性を創造しなければなら...

オルテガ『大衆の反逆』(22) 国民国家

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国民国家(ナショナル・ステート)の秘密は、国民国家を国民国家たらしめている独自の原動力、つまりその政治そのものに探し求めるべきであり、生物学的もしくは地理学的な性格をもった他の無縁の原理に求めるべきでない(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 242)  欧州の<国民国家>は複雑である。海に囲まれ、大陸から隔離された日本とは随分心象が異なるだろう。国家とは1つの言語、1つの宗教、1つの文化といった感覚が日本人には強い。が、欧州の<国民国家>は、複数の言語・宗教・文化が入り混じっている。つまり、これらの要素で国境を線引きすることが困難なのである。よってオルテガは<政治>そのものに境界を求めるべきだと主張するのである。 国民国家とは―この言葉が1世紀以前も前から西欧において示している意味においては―社会的権力とそれによって支配されている集団との「原質的一致」を意味するのである。  国家とはその形態がどういうものであろうと―原始的、古代的、中世的、近代的を問わず―つねに、ある人間集団がある事業を共同で行なうために他の人間集団に対して行なう招請である。この事業は、その中間的な手続きがいかなるものであっても、最終的には、ある種の共同生活の型を創り出すことにある。(同、 p. 243 )  戦前の日本も<共同事業>を遂行しようと朝鮮を併合した時代があった。この事業は日本が大東亜・太平洋戦争に敗北したことにより終わりを迎えたが、文化や言語の異なる人達が目標を掲げ1つとなり協働することの難しさが嫌と言うほど分かった事例であった。米国に対抗する1つの極を作るべく創設されたEU(欧州連合)も今、艱難辛苦(かんなんしんく)に喘(あえ)いでいる。 《過去においては共有すべき栄光と悔悟の遺産、未来に向けては実現すべき同一のプログラム。ともに苦しみ、喜び、望んだこと、これこそ、共通の税関や戦略的観念に合致した境界線以上に価値あるものです。これこそ、種族と言語の多様性にもかかわらず、人々が理解することです。いま私は、「ともに苦しみ」と申しました。そうです、共通の苦悩は歓喜以上に人々を結びつけます。国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値のあるものです。というのも、哀悼は義務を課し、共通の努力を命ずるのですから。  国民とは、したがって、人々が過去にお...

オルテガ『大衆の反逆』(21) 世論の支持

支配とは権威の正常な行使である。それはつねに世論に支えられているものであり、この事実は今日も1万年前も、イギリス人の場合もブッシュマンの場合も変わりないのである。いまだかつて、世論以外のものに支えられて支配を行なった者は地球上には1人もいないのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 181-182)  <支配>とは、他者を自分の権力下に置くということである。が、それは必ずしも有無を言わさずとか無理矢理とかということを意味するわけではない。それどころか、<支配>は<世論>に支えられてはじめて成り立つのである。 創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは次のような2つの状況下においてのみ可能である。すなわち、自ら支配するか、あるいは、われわれが完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、つまり、命令するか服従するかのいずれかである。しかし服従するということはけっして忍従することではなく―忍従は堕落である―その逆に、命ずる者を尊敬してその命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に情熱をもって集まることなのである。(同、 p. 208 )  命令者の支配下に自ら入るのか、入らされるのかで意味合いは大きく異なる。命令者に自ら進んで参与すればこそ<創造的な生>を生きることが出来る。嫌々支配下に組み込まれるようでは<生>のエネルギーは解放されることはない。 今日の議会の権威失墜は、議会の有する明白な欠点とはなんの関係もない。それは、政治的道具としての議会とはまったく無関係な別の世界の理由からきているのである。つまり、ヨーロッパ人が、その道具を何に使うかを知らないこと、伝統的な社会的な生の諸目的を尊重しなくなっていること、一言でいえば、ヨーロッパ人が自分が登録され閉じこめられている国民国家に希望を抱かなくなっていることに由来しているのである。(同、 p. 213 )  <議会>は今や、国民間の問題を調整し、国民国家を前進させるための「アリーナ」(討議の場)ではなくなり、<大衆>の意見を形式的に追認する場(トポス)と化している。そこに<権威>などあろうはずがない。 かくも有名な議会軽視を少し注意深く分析してみれば、大部分の国において...

オルテガ『大衆の反逆』(20) 全体主義への道

革命によって市民階級は社会的権力を掌握した。そして、彼らは彼らのもっている否定しえない美徳を国家に応用し、わずか一世代足らずで強力な国家をつくりあげ、一連の革命の息の根をとめてしまったのである。1848年以後、つまり、市民階級による支配の2世代目が始まってからというもの、ヨーロッパには真の意味での革命は起こっていない。それは革命のための動機がなかったからというのではなく、その手段がなかったからである。社会的権力と社会の力とが均衡した。革命は永遠に姿を消したのである。ヨーロッパに起こりうるのはもはや革命とは逆のもの、つまり、クーデターのみとなった。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 168)  デモクラシーが広がるにつれ、政治体制の抜本的転換を図ろうとする革命熱は冷めていった。また、社会主義国家建設が画餅(がべい)に帰し、イデオロギーの転換を求める<革命>ももはや時代錯誤となった感がある。残ったのは政権奪取を図る<クーデター>だけだということである。 今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。大衆がなんらかの不運を感じるか、あるいは単に激しい欲求を感じる場合、彼らにとっての大きな誘惑は、ただ一つのボタンを押して強力な機械を動かすだけで、自分ではなんの努力も苦闘もせず、懐疑も抱かなければ危険も感じずにすべてのものを達成しうるという恒久不変の可能性をもつことである。(同、 pp. 169-170 )  国家に権力を集中させ、それを用いて個人の自由を制限し抑圧しようとするのは、「全体主義」そのものである。また、<大衆>以外の存在を認めない不寛容な姿勢も「全体主義」に通ずるものがあると言ってよいだろう。つまり、大衆社会は「全体主義」的傾向をもつということである。我々はそのことに十分注意しなければならない。 ヨーロッパ文明は…自動的に大衆の反逆を生み出した。そして、この大衆の反逆は、表面から見れば、楽観的な様相を呈している。すなわち…大衆の反逆とは、人間の生がわれわれの時代にいたって経験した驚異的な成長そのものに他ならない…しかしその裏側は実に恐ろしい様相を呈している。...

オルテガ『大衆の反逆』(19) 分を弁えぬ自惚れ屋

彼(=専門家)は、政治、芸術、社会慣習あるいは自分の専門以外の学問に関して、未開人の態度、完全に無知なる者の態度をとるだろうが、そうした態度を強くしかも完壁に貫くために―ここが矛盾したところだが―他のそれぞれの分野の専門家を受け容れようとはしない。文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである。しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてることとなろう。かくして、特別な資質をもった最高の実例―専門家―、したがって、大衆人とはまったく逆であるはずのこの実例においてすら、彼は生のあらゆる分野において、なんの資格ももたずに大衆人のごとくふるまうという結果になるのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 160)  <専門家>は、専門分野においては秀でているが、専門外については他と変わらぬ凡人である。にもかかわらず、専門外のことまで自信満々に弁舌(べんぜつ)を振るう。それだけなら只の厚顔無恥で済まされるのかもしれないが、大衆化した<専門家>は、他者の意見に対し聞く耳を持たない。専門家の意見であっても聞き入れない。<専門家>は、専門外のことに関しては知識がないために、好きか嫌いかで判断してしまう。だから他者の意見を聞き入れる余地がない。 今日、政治、芸術、宗教および生と世界の一般的な問題に関して、「科学者」が、そしてもちろん彼らに続いて医者、技術者、財政家、教師等々が、いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、誰でも観察しうるところである。わたしが大衆人の特性として繰り返し述べてきた「人の言葉に耳を貸さない」、より高度の審判にも従わないという傾向は、まさにこの部分的資質をもった人間においてその極に達するのである。今日の大衆支配の象徴であるとともに、その大部分を構成しているのが彼らなのである。(同、 pp. 160-161 )  <科学者>は、自分の専門内においては科学者足り得るが、専門外においては一般人と何ら変わるところがない。科学は客観的なものでなければならないはずだが、専門外における<科学者>の発言は、科学者の仮面を被(かぶ)ってただ自分の主観を巻き散らしているだけである。専門内における「自信」が専門外にも応用...

オルテガ『大衆の反逆』(18) 犬儒主義者

紀元前3世紀ごろ、地中海文明がその絶頂点に達するとすぐに、犬儒(けんじゅ)主義者が現われた。ディオゲネスは泥まみれのサンダルをはいてアリスティブスの絨毯(じゅうたん)の上を歩いた。犬儒主義者はどの街角にもどの階層にもいるという人物像になってしまった。ところで、彼らがやったことは、当時の文明をサボタージュすることに他ならなかったのである。彼らはヘレニズムの虚無主義者だったのだ。彼らは、何も創造しもしなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊であった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。文明の寄食(きしょく)者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 148-149) ※「犬儒」:kynikos(「犬のような」の意)の訳語。 古代ギリシアの哲学者シノペのディオゲネスがみすぼらしい身なりで町をさまよい歩き、樽を住居として「犬のような生活」を送ったことからいう(『精選版 日本国語大辞典』)  <大衆>は、謂(い)わば犬儒主義者、虚無主義者、文明の寄食者のような存在ではないかということだ。 文明世界は平均人の能力に比較して、過剰、過度の豊かさ、余剰の様相を示すにいたったのである。そのほんの一例をあげれば、進歩―すなわち生にとっての便益の不断の増大―が約束するかに見えた安全さは、平均人に偽りの、したがって怠惰に誘(いざな)う悪弊のある自信を与える結果となり、平均人を堕落させてしまった(同、 p. 150 )  <大衆>の堕落は二義的な問題である。看過(かんか)できないのは、<大衆>が社会の真ん中にしゃしゃり出てきたことである。 専門家は自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく「識(し)っている」が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである。(同、 p. 159 ) かつては、人間は単純に、知識のある者と無知なるもの、多少とも知識がある者とどちらかといえば無知なるものの二種類に分けることができた。ところが、この専門家なるものは、そのいずれの範疇(はんちゅう)にも属しえないのである。彼は、自分の専門領域に属さないことはいっさいま...

オルテガ『大衆の反逆』(17) 運命

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運命というものは、われわれが好んでこうしたいということにあるのではなく、むしろ、したくないことをしなければならないというわれわれの自覚において、その厳しい横顔をはっきりと現わすものなのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 146)  <運命>を考えるにあたっては、したいかしたくないかという好悪の問題としてではなく、しなければならないという義務・責務の問題として考えるべきであろう。東洋思想の大家・安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は、<運命>について次のような解説をなされている。 《我々の存在、我々の人生というものは一つの命(めい)である。その命は、宇宙の本質たる限りなき創造変化、すなわち動いてやまざるものであるがゆえに「運命」というのであります。「運」というのは「動く」という字であり、ダイナミックを意味します。ところが普通は、「運命」ということをそう正しく学問的に解釈しないで、きわめて通俗的にこれを誤解して、運命を我々の決まりきった人生の予定コースと解している。何年になったら病気をする、何年何月何日には火事に遭う、来年の正月には親が亡くなる、あなたは四月になったら転任するだろうと、というようなことを運命だと思っているが、そういうものは運命ではなくて「宿命」である。宿はヤドであるから泊まる、すなわち固定的・機械的な意味を持つ。運命は運命であって、どこまでもダイナミックなものであって、決して宿命ではない、またメカニカルなものではない》(安岡正篤『運命を創る』(プレジデント社)、 p. 123 ) 《命というものは絶対的な働きであるけれども、その中には複雑きわまりない因果関係がある。その因果律を探って、それによってその因果の関係を動かして新しく運命を創造変化させていく、これが「道」というものであります。あるいは、命という字を使えばそれを「立命」という。この複雑な数(すう)を知ることは「知命」であります。命を知って、これによって我々が自分というものをリクリエートしていくのが立命であります。  だから、我々の運命というものは、本質的に見ればこれは絶対であり、これを主体的に考察すれば自由である。客観的には絶対であり、主体的には自由である》(同、 p. 125 ) ★ ★ ★ 今日は「風潮」の時代であり「漂流者」の時代である。芸...

オルテガ『大衆の反逆』(16) 歴史に学ばぬ人達

ポルシェヴィズムとファシズムも、この本質的な後退の明瞭な2つの例である。わたしがそれらを本質的な後退というのは、彼らの教義の内容を指していっているのではない。その内容をそれなりにとりあげてみれば、当然ながら一片の真理をもっているのである―この宇宙には、いささかの真理ももたぬものなど存在しない。むしろ、彼らが自分たちの正当性を取り扱う場合の、反歴史的、時代錯誤的な方法を指しているのである。大衆人の運動の常として、凡庸(ぼんよう)で、時代に則しておらず、古い記憶もなければ「歴史意識」もない人間に指導された典型的な大衆人の運動は、初めからあたかもすでに過去であるかのごとく、つまり、今起こりつつありながらあたかも昔の人類に属しているかのようなふるまい方をする(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 130)  しばしば「歴史は繰り返す」と言うけれども、歴史に学ばぬ人達は、過去と同じ過ちを犯しがちである。例えば、なぜヒトラーが登場し暴走することになったのかについて省察を加えなければ再び「独裁者」が現れることとなりかねない。 いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵(ぞう)することこそ、いっさいの過去を超克(ちょうこく)するための不可避的な条件である。過去と戦う場合、われわれはとっ組み合いをすることはできない。未来が過去に勝つのは、未来が過去を呑み込むからである。過去のうちの何かを呑み込みえないままで残すとなれば、それは未来の敗北である。(同、 p. 132 )  歴史に宿す英知に学ぶことは、過去を超克するための必須条件であろう。過去に学ばぬ人間が考えることなど高が知れている。 19世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼...

オルテガ『大衆の反逆』(15) 垂直的侵略者

最も怖るべき事実は、平均人が科学から受ける恩恵と、平均人が科学に対して抱く―いや抱かないというべきであろう―感謝の念の不調和なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 120 )  <大衆>は手に入れるばかりで与えることをしないから社会の帳尻が合わない。<大衆>は社会の「搾取者」なのである。 今やヨーロッパにおいて支配的な地位に登り始めた人間は―これがわたしの仮説である―彼がその中に生まれ出た複雑な文明と対比すれば、原始人であり、舞台の迫出(せりだし)から突如姿を現わした野蛮人、「垂直的侵略者」なのである。(同)  自分が作ったものであれば思い入れもあろうが、自分が生まれた時には既に文明が存在していたのであるから、そこに有難みがあろうはずもない。在って当たり前のものに過ぎないのである。 文明とはそこにあるというものではないし、自立自存もしえないものである。文明とは技巧的なものであり、芸術家もしくは職人を必要とするものである。もしあなたが文明の使役を利用したいと希望しながら、文明を維持することに関心を示さないなら、……あなたは失望する結果に終わるだろう。たちまちのうちに、あなたは文明を失うだろう。(同、 pp. 124-125 )  もし自分が生きている間に文明が失われるというのであれば、少しは危機感を持つかもしれないが、<大衆>は恐らくそう思わない。文明を維持発展するために自らも努力しなければ文明は失われてしまうと警鐘を鳴らしたとしても、馬耳東風でしかないだろう。  大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって( ipso facto )原始人になってしまっているのである。文明は彼にとっては原生林のように見えるのだ。(同、 p. 126 )  文明というものは、進めば進むほど、いっそう複雑でむずかしいものになってゆく。今日の文明が提起している問題は極端に錯綜(さくそう)したものである。そして、それらの問題を理解しうる頭をもった人間の数は日ごとに少なくなっていっている。(同、 p. 127 )  文明の発展に伴って「専門分化」が進み、同時に、これらを統合し総合することが難しくなってしまった。全体像を...

オルテガ『大衆の反逆』(14) 大衆は穀潰し

ほとんどすべての国において、同質的大衆が社会的権力の上にのしかかり、反対派をことごとく圧迫し、抹殺している。大衆は―その密度とおびただしい数とを見れば誰にも明らかなことであろうが―大衆でないものとの共存を望まない。いや大衆でないものに対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いている(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 108)  <大衆>は自ら高みを目指して努力することをしない。努力する必要を感じないし、努力するにしても億劫(おっくう)だ。そもそも<大衆>を抜け出てしまえば攻撃の対象とさえなってしまう。だから、<大衆>は大衆でない人達を攻撃することだけに精を出し、社会の実権をほしいままにする。 世界は文明開化しているが、しかしその住民は未開なのである。彼らは自分たちの世界の中に文明をさえ見ずに、ただ文明をそれがあたかも自然物であるかのように使っているだけである。(同、 p. 114 )  <大衆>は、文明を利用はするが、文明を維持発展するために努力はしない。 科学は、その純粋そのままの姿に対する、つまり科学そのものに対する興味がなくなれば科学ではなくなるのである。しかも、人々が文化の一般的原理に対する情熱を失ってしまえば、かかる興味も起こりえないのである。この情熱が衰えれば―今やそうなりつつあるように思われるが―技術はほんのしばらくの間、つまり、技術を生んだ文化的衝動の惰性が続く間だけ生きのびるにすぎないであろう。人は技術を用いて生きてはいるが、技術によって生きているのではない。技術は自らを養うこともしなければ自ら呼吸することもない。技術は自己原因( causa sui )ではなく、あり余った非実用的な関心が生み出した有用で実用的な沈澱物なのである。(同、 pp. 115-116 )  大衆社会の何が問題かと言えば、文明の存続が危ういということにある。文明の維持発展にはそのために努力する人間が必要である。が、<大衆>はそのような努力はしない。敢えて言うなら「穀潰(ごくつぶ)し」的存在だとでも言えるのではなかろうか。 ★ ★ ★ 哲学者は大衆の擁護も必要としなければ好意も同情も必要としない。哲学は自己を完全に無益なものに見せかけ、そうすることによって平均人に対するいっさいの屈従から自己を解放しているのである。哲学は...

オルテガ『大衆の反逆』(13) 自由主義的デモクラシー

手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。かかる煩雑さはいったい何のために創り出されたのだろうか。これらすべては他ならぬ「文明」(civilización)という言葉に要約されるものであり、チヴィス(civis)―市民―なる概念のなかにその本来の起源をもっているのである。つまり、そうした煩雑さのすべてをもって、市(ciudad)、共同体、共存を可能たらしめようというわけである。したがって、今わたしが列挙した文明の道具の一つ一つをその内部から眺めてみれば、まったく同一の核をもっていることを発見するであろう。これらすべては、各人がもっている他のすべての人を頼りにしたいという根本的・漸増(ぜんぞう)的な欲求を前提としているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 106)  社会には、秩序を保つための掟(おきて)が必要であり、社会が高度化するにつれ、より高度な決まり事が必要となる。「文明」とは、洗練された( sophisticated )原理を有した社会のことである。 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。(同、 pp. 106-107 )  考え方の異なる人達が<共存>するための規範作りが文明化というものであり、逆に、自分の考え方をただ相手に強制しようとするのは野蛮化である。 政治において、最も高度な共存への意志を示したのは自由主義的デモクラシーであった。自由主義的デモクラシーは、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものであり、「間接行動」の典型である。自由主義は、政治権利の原則であり、社会的権力は全能であるにもかかわらずその原則に従って自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分が支配している国家の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じ方もしない人々が生きていける場所を残すよう努めるのである。(同、 p. 107 )  共存のために編み出された制度が<自由主義的デモクラシー>なのである。それは「権力...

オルテガ『大衆の反逆』(12) 文化なき野蛮

今日では、平均人は宇宙に生起するすべてのこと、そして、起こるべきすべてのことに関して、最も限定的な「思想」をもっている。それだからこそ、彼らは聴くべき耳を失ってしまった。自分の中に必要なもののすべてをもっているのに、他人の言葉に耳を傾ける必要がどこにあろう。彼らにとってはもはや傾聴すべき時は過ぎたのであり、今や判定し、裁定し、決定する時なのである。大衆人が、彼ら本来の視覚も聴覚ももたぬ姿で介入してきて、彼らの「意見」を強制しない問題は社会的な生の分野にはもはや一つもなくなっているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 100-101)  <大衆>が抱く「思想」は、野球の推(お)し球団のようなものであって、それが邪(よこしま)だなどと言われるのは大きなお世話なのである。「平等」が好きだという人間に「平等」が間違っていると言っても無駄である。<大衆>が例えば「平等」が好きということ自体はとやかく言うことではない。それこそ「思想・良心の自由」である。問題は、<大衆>が自分の好きなものが「絶対」であるかのように他の人たちに押し付けてくることである。他の人たちにも「平等」を強制するのは「自由」の範囲を超えてしまっていよう。 思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。そうした規則こそ文化の原理なのである。その規則がどういう種類のものであってもかまわない。わたしがいいたいのは、われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところに文化はないということである。われわれが訴えるべき市民法の原則のないところには文化はない。議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念のないところには文化はない。人間がその庇護のもとに身を守りうるような交通制度が経済関係を支配していないようなところには文化はない。美学論争が芸術作品を正当化する必要性を認めないところに、文化はないのである。  こうしたものすべてが欠如しているところには文化はないのであり、そこにあるのは最も厳密な意味での野蛮( barbarie )である。そしてこの野蛮こそ…実は大衆の漸進的蜂起(ほうき...

オルテガ『大衆の反逆』(11) 借り物の思想

 今日の状況の中で、社会的な生における知的凡庸さの支配ほど、過去のいかなる事件とも同一視することのできない新事態はないのではなかろうか。少なくともヨーロッパの歴史においては、庶民が自分が物事に関する「思想」をもっていると信じ込んだことは一度もなかった。彼らは、信条、しきたり、経験、格言、習慣的なものの考え方などはもっていたが、物事の現在の姿、あるいはかくあるべきという姿に対する―たとえば政治や文学に対する―理論的見解を自分がもっていると想像したことはなかったのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 99-100)  <大衆>が語る思想など「借り物」に過ぎない。そこにはあるのは結論だけである。裏にあるはずの知的格闘がすっぽり抜け落ちている。だから彼らの思想には重みがない。大層なことを言っているようで張り子の虎でしかない。 彼らにも、政治家が計画することや実行することが善いか悪いかを判断し、賛成したり反対したりすることはできたが、彼らのそうした行動は、他の人々の創造的な行為を、肯定的あるいは否定的に反射するということに限られていた。彼らは、政治家の「思想」に対して自分の思想を対立させるということはけっしてなかったし、政治家の「思想」を、自分がもっていると信じている別の「思想」によって裁こうなどと願ったこともなかったのである。(同、 p. 100 )  今や政治家は<大衆>の代表と化している。したがって、我々が目にするのは、政治家と<大衆>との思想における対決ではない。政治家が<大衆>の意向を汲んでいるかどうかが問われているのである。勿論、このようなことは間違っている。政治が「世論」(せろん)という名の無責任な一時の国民感情に支配されてしまっては、国は立ち行かなくなってしまう。世論を無視しろと言えば言い過ぎなのだろうが、参考程度に留めおくことが肝要だろう。 芸術に関しても、また社会的な生の他の局面に関しても、彼らの態度は同じであった。自己の限界、つまり、自分には論理的に思考する資質がないという生得的な自覚が、彼らが前記のような態度に出るのをはばんでいたのである。その当然の結果として、大部分が理論的性格のものである社会的活動のいかなる分野においても、自分が決定を下すなどおよそ考えてもみなかったのである。(同)  かつての庶民...

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達

賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを胆に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑(あんかん)としていられる理由がある。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 98)  <賢者>は、他者のみならず自己にも疑いの目を向ける。人間は神でない以上、誰にでも間違いを犯す可能性があるからである。が、<愚者>は、他者を疑いなしに否定するが、自らを疑うことはしない。自らが間違っていることなど思いも寄らない。そもそも自らを疑う習慣がないのである。自らを疑わぬ人には、発見もなければ成長もない。ただ与えられたものを大事にしまっておいて、それをそのまま吐き出すだけである。 わたしは大衆人がばかだといっているのではない。それどころか、今日の大衆人は、過去のいかなる時代の大衆人よりも利口であり、多くの知的能力をもっている。(同、 p. 99 )  <大衆>は、知識が豊富であり、その意味で知的水準は決して低くはない。が、問題は、<大衆>は知識獲得の必要は感じても、その知識の歴史来歴にはほとんどといって興味がない。だから<大衆>が持っている知識は、表層的で薄っぺらなのである。「実用」には興味があっても「教養」には関心はない。それが<大衆>というものである。 大衆人は、偶然が彼の中に堆積したきまり文句や偏見や思想の切れ端もしくはまったく内容のない言葉などの在庫品をそっくりそのまま永遠に神聖化してしまい、単純素朴だからとでも考えないかぎり理解しえない大胆さで、あらゆるところで人にそれらを押しつけることであろう。(同)  <大衆>は疑うことを知らない。だから正しいことも間違ったことも好悪の篩(ふるい)に掛けられて蓄積される。だから<大衆>の知識は自らのお気に入りに知識であり、正しいか正しくないかは与(あずか)り知らぬことである。したがって、仮に<大衆>の意見の間違いを指摘したとしても、<大衆>にとっては自分のお気に入りが否定されたとしか思われないだろう。<大衆>にあるのは好きか...

オルテガ『大衆の反逆』(9) ノブレス・オブリージュ

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選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 88)  <選ばれたる人>は、足らざるところを補い満たすための努力を惜しまない。一方、<凡俗なる人>は、現状に満足し、努力する必要を認めない。 なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。(同、 p. 95 )  <大衆>は、井の中の蛙であり、自分のことしか見えていない。一方、<高貴なる人>は、自分の外にあるより高貴なるものに目を向け、それを目標に日々研鑽(けんさん)練磨を怠らぬ人のことである。 一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生―高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある( Noblesse Oblige )のであり、「悪意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ〔「庶出の娘」、「続篇のための構想」〕)のである。(同)  一般に、日本語の<エリート>という言葉からは、優秀な高級官僚といったものを連想するに違いない。が、本当の意味の<エリート>とは、知的な優劣や職業における勝ち負けで定義されるようなものではない。<エリート>としての義務感や責任意識が有るかどうかが問題なのである。最近の官僚には、そういう意味での<エリート>らしさがうかがわれない。  が、小室直樹氏は次のように警告する。 《チャーチルも偉大な歴...