オルテガ『大衆の反逆』(9) ノブレス・オブリージュ

選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 88)

 <選ばれたる人>は、足らざるところを補い満たすための努力を惜しまない。一方、<凡俗なる人>は、現状に満足し、努力する必要を認めない。

なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。(同、p. 95

 <大衆>は、井の中の蛙であり、自分のことしか見えていない。一方、<高貴なる人>は、自分の外にあるより高貴なるものに目を向け、それを目標に日々研鑽(けんさん)練磨を怠らぬ人のことである。

一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生―高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse Oblige)のであり、「悪意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ〔「庶出の娘」、「続篇のための構想」〕)のである。(同)

 一般に、日本語の<エリート>という言葉からは、優秀な高級官僚といったものを連想するに違いない。が、本当の意味の<エリート>とは、知的な優劣や職業における勝ち負けで定義されるようなものではない。<エリート>としての義務感や責任意識が有るかどうかが問題なのである。最近の官僚には、そういう意味での<エリート>らしさがうかがわれない。

 が、小室直樹氏は次のように警告する。

《チャーチルも偉大な歴史家ですが、彼は、ノウブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を感得している階級のない国は亡びると言っています。プルタークもギボンもこのことを強調しています。中国では「天下をもって己が任となす」政治家がいないことをもって亡国の原因とするのが歴史家の定説です。日本の歴史家で、とくにこのことを強調するのが、徳富蘇峰と平泉澄です。

「エリートのいない社会は滅亡する」というのは、歴史の鉄則なんですね》(小室直樹・色摩力夫『人にはなぜ教育が必要なのか』(総合法令)、p. 166

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