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オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(52)誇りの二面性

ホップズは争いを引き起こす3つの重要な情念の1つを表わすために、時々「誇り」という言葉を悪い意味で使った。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 346) Pride, subjecteth a man to Anger, the excesse whereof, is the Madnesse called RAGE, and FURY. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER VIII. (誇りは、人を怒りの支配下に置き、度を超すと、激怒や憤慨と呼ばれる狂気となる)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第8章 the Lawes of Nature (as Justice, Equity, Modesty, Mercy, and (in summe) Doing To Others, As Wee Would Be Done To,) if themselves, without the terrour of some Power, to cause them to be observed, are contrary to our naturall Passions, that carry us to Partiality, Pride, Revenge, and the like. And Covenants, without the Sword, are but Words, and of no strength to secure a man at all. – Ibid ., Part 2, CHAPTER XVII. (自然法(正義、公平、謙虚、慈悲、(要するに)自分達がされたいように、他人にもすること)は、もしそれらを守らせる何らかの力の脅威がなければ、私たちを偏愛、誇り、復讐などに駆り立てる自然の衝動に反する。また、剣のない契約は、言葉に過ぎず、人を守る力はまったくない)―第2部 第17章 Hitherto I have set forth the nature of Man, (whose Pride and other Passions have compelled him to submit himselfe to Government – I

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(51)神の拡張

God himselfe, by supernaturall Revelation, planted Religion; there he also made to himselfe a peculiar Kingdome; and gave Lawes, not only of behaviour towards himselfe; but also towards one another; and thereby in the Kingdome of God, the Policy, and lawes Civill, are a part of Religion; and therefore the distinction of Temporall, and Spirituall Domination, hath there no place. - Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XII. OF RELIGION (神自ら、超自然的啓示によって、宗教を植え付けた。そこに神は、自分に特別な王国を作りもし、自分に対する行動だけでなく、互いに対する法も与えた。その結果、神の王国では、政策と市民法は宗教の一部であり、したがって、時間的支配と精神的支配の区別はそこには存在しない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第12章 宗教について It is true, that God is King of all the Earth: Yet may he be King of a peculiar, and chosen Nation. For there is no more incongruity therein, than that he that hath the generall command of the whole Army, should have withall a peculiar Regiment, or Company of his own. God is King of all the Earth by his Power: but of his chosen people, he is King by Covenant. – Ibid. (神が全地上の王であることは事実だ。しかし

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(50)神の王国

Whether men will or not, they must be subject alwayes to the Divine Power. By denying the Existence, or Providence of God, men may shake off their Ease, but not their Yoke. But to call this Power of God, which extendeth it selfe not onely to Man, but also to Beasts, and Plants, and Bodies inanimate, by the name of Kingdome, is but a metaphoricall use of the word. For he onely is properly said to Raigne, that governs his Subjects, by his Word, and by promise of Rewards to those that obey it, and by threatning them with Punishment that obey it not.–- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 2. CHAPTER XXXI. OF THE KINGDOME OF GOD BY NATURE (望むと望まざるとにかかわらず、人は常に神の力に従わねばならない。神の存在や摂理を否定することによって、安楽は振り払えても、その軛(くびき)からは逃れられない。しかし、人間だけでなく、獣や植物や無生物体にも及ぶこの神の力を王国の名で呼ぶのは、この言葉を比喩的に使っているに過ぎない。というのは、自らの言葉によって、即ち、その言葉に従う者には報酬を約束し、従わない者には罰で脅すことによって、臣民を統治する者だけが、君臨すると呼ぶに相応しいからである)―ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について Subjects therefore in the Kingdome of God, are not Bodies Inanimate, nor creatures Irrationall;

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(49)ホッブズ vs. オークショット

The OFFICE of the Soveraign, (be it a Monarch, or an Assembly,) consisteth in the end, for which he was trusted with the Soveraign Power, namely the procuration of the Safety of The People; to which he is obliged by the Law of Nature, and to render an account thereof to God, the Author of that Law, and to none but him. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 2. CHAPTER XXX. OF THE OFFICE OF THE SOVERAIGN REPRESENTATIVE ((君主であれ議会であれ)主権者の職務は、主権を信託された目的、すなわち人民の安全を獲得することにある。主権者は自然法によってその義務を負い、その法の創造者の神に、そして神だけに、それについて説明する義務が課せられている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第 2 部 第30章 主権を有(も)つ代表者の職務  が、オークショットは、このホッブズの考え方に異議を唱える。 しかし彼の言うところでは(そして他の数多い難点を別にしても)、それはせいぜい人間の行動についての摂理を信じている人のクラスに属する主権者にしかあてはまらない。このクラスは(ホッブズの著作の中では)キリスト教徒のクラスと区別することは極めて難しい。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 340 )  が、ホッブズは次のように言っている。 《神は、自らの法を3つの方法で示す。自然理性の指示、啓示、そして奇跡の作用によって他者との信用を得たある人の声によって。ここから3つの神の言葉が生まれる。理性的な言葉、感覚的な言葉、預言的な言葉である。これには、 3 つの聞き方が対応する。正しい理性、超自然的な感覚、信仰である》(ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について  詰まり、この問題は、<信仰>の次元だけで考えるべきで

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(48)ホッブズ擁護

自然法と聖書の両者の独立した権威…前者の権威は理性に基づき、後者の権威は啓示に基づく…国家のメンバーにとって、自然法の権威は国家の主権者の是認に基づき、聖書の教えは国家の主権者がそれだと言ったものである(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 340)  オークショットは、これを5つ目の矛盾として挙げるが、私はこのような整理の仕方で問題ないと考える。 第1の自然法を記述するために、理性の「指針」という言葉を、理性の「一般的ルール」という表現に対する選択肢として使っているが、その説明の最後では、自然法が指図の性格を持つことはその合理性とは全然関係がないと言っている。(同) it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.”-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS (これは理性の教訓または原則である。「万人は、平和を得る見込みがある限り、平和に努めるべきであり、平和が得られないときは、戦争のすべての助力と利点を求め、利用してもよい」。規則の第 1 の部分には、「平和を追求しこれに従う」という自然の第1の基本法が含まれてい

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(47)矛盾するホッブズの主張

Reason serves only to convince the truth (not of fact, but) of consequence. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN , PART III. CHAPTER XXXIII. OF THE NUMBER, ANTIQUITY, SCOPE, AUTHORITY, AND INTERPRETERS OF THE BOOKS OF HOLY SCRIPTURE (理性は、(事実ではなく)帰結の真理を確信させることにしか役立たない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第3部 第33章 聖書諸篇の数、古さ、範囲、権威、解釈者について それ(=理性)は原因と結果についての仮定的命題だけを扱う。人間の行動におけるその仕事は、欲求された目的達成のためにふさわしい手段を示唆することである。何物も合理的だという理由によって義務になることはない…自然法は、法律として、そして単に人間の保全についての結論としてではなしに、「自然の理性の指示」の中で我々に知られている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 339 ) God declareth his Lawes three wayes; by the Dictates of Naturall Reason, By Revelation, and by the Voyce of some Man, to whom by the operation of Miracles, he procureth credit with the rest. From hence there ariseth a triple Word of God, Rational, Sensible, and Prophetique: to which Correspondeth a triple Hearing; Right Reason, Sense Supernaturall, and Faith. As for Sense Supernaturall, which consisteth in Revelation, or Inspiration, there have not been any Universall Lawes so g

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(46)前提の矛盾

ホッブズの記述には、自家撞着と思われる部分が少なくない。オークショットは、これを整理する。 自然においては「万人はあらゆるものに対して ―― 他人の身体に対してすらも――権利を持っている。」また自分自身の判断に従って自分を治め、「何でも自分の好むことをして」、自分がふさわしいと思ういかなる仕方でも自分を保全する権利を持っている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 337 ) the condition of Man, … is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live.-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS (人間の状態は…万人に対する万人の戦争状態であり、この場合、万人は自分自身の理性によって統治され、敵から自分の命を守る際、利用できるものであれば、自分に役立たないようなものは何もない。要するに

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(45)交錯するホッブズの説明

必要とされる「行為」は、神が人間の行動について「摂理」を働かせていると信ずることにおいて神を承認することかもしれない。だが国家の中に生きている人々にとって、それは国家の主権者を創造し彼に授権する行為である。なぜならそのような人々にとっては、この主権者の命令として彼らに影響しないような義務は存在しないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 337)  前者は、神を信じ承認する宗教的行為であり、後者は、国家の主権者として神を承認し授権する政治的行為だと考えられる。 人間をとりまく環境のその他の状態に何が属し、何が属していないにせよ、国家は疑いもなく、 ①本当の意味での法律(すなわち国法)があり、 ②この法律だけが唯一の本当の意味での法であり、 ③平和を求めて努力することがあらゆる臣民の義務であるところの状態である。(同、 p. 337 ) It is therefore manifest, that wee may dispute the Doctrine of our Pastors; but no man can dispute a Law. The Commands of Civill Soveraigns are on all sides granted to be Laws: if any else can make a Law besides himselfe, all Common-wealth, and consequently all Peace, and Justice must cease; which is contrary to all Laws, both Divine and Humane. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART III. CHAPTER XLII. OF POWER ECCLESIASTICALL (したがって明白なことは、牧師の教義に異議を唱えることはできても、法に異議を唱えることはできないということだ。俗世間の主権者の命令は、あらゆる面で、法として認められる。もし他の誰かが我を忘れ法を作ることができるなら、すべてのコモンウェルス、ひいてはすべての平和と正義は消滅するに違いない。それは、神の法、人間の法、両方のすべての法

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(44)限定された自然法

 「自然法はホッブズにとって、全人類を平和を求めて努力する義務にしばりつける、本当の意味での法律の必要十分条件を持っているのか?」あるいは(別の形態では)「平和を求めて努力すべき義務は万人に拘束力を持つ、『自然的』な、契約によらない義務なのか?」という質問には「否」と答えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 336)  簡単に言えば、ホッブズはこんな乱暴な議論はしていないということである。 だがこの問いは、その問いよりも適切な質問は、おそらく「ホッブズはいかなる状況において自然法がこれらの特徴を獲得すると考えていたのか?」と「一体誰にとって、平和への努力は単に生存を熱望する人々にとっての理性的行動であるのみならず道徳的に拘束する命令でもあるのか?」ではないか、とも示唆した。というのも、ホッブズは我々の思考を別の方向におし進めるようなことは大して言わなかったとはいえ、彼にとって自然法は特定の状況でしかこれらの特徴を持たず、そのような人々に対してしか義務を課さないものだったことは明らかと思われるからである。(同)  ホッブズは、特定の状況における<自然法>を対象としていたのである。<自然法>は、状況次第で千差万別であり、これを一括りにして普遍的に述べるわけにはいかないということである。 一般的に、このような状況は、平和を求めて努力することが実定法――それを作ったのが人間であれ神であれ――のルールになった状況であり、一般的に、拘束される人は、この法の創造者を知り、彼がそれを作る権威を承認した人々だけである。 このことは私が道徳的義務に関するホッブズの最も深い信念であると考えるものと調和するように思われる。それはすなわち、「自分自身の何らかの行為から生じないような義務が本人に課されること」はありえない、という信念である。(同、 pp. 336-337 )  <契約>も<承認>も無く、勝手に拘束されたり、義務が課されたりするようなことはおかしいということである。 この原理の趣旨は、ホッブズにとっては、義務を課される者による選択が義務を作り出すということではなく、選択(契約であれ承認であれ)のないところには既知の立法者がおらず、従って本当の意味での法も義務も存在しない、ということである。そしてそれは「

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(43)自然法の解釈

確かに私人の「自然の理性」あるいは「良心」は自然法の解釈者として描くこともできる。だがそれらは、法律としての自然法の「権威ある」解釈を与えるものと考えることはできない。各人が自分自身の解釈者ならば、情念の偏見を排除することはできない(そして良心は結局、自分がしたことやしそうな傾向のあることを是認するものにすぎない)だけでなく、このようにして解釈された法の義務は、平和を求めて努力すべき普遍的な義務であることをやめ、せいぜいのところ、各人が誠実に法だと考えているものに従うべき義務になってしまう。 だがそれでは十分でない。「それ」の下にある人ごとに違うかもしれない法律は、全然法律ではなくて、立法者(この場合は神)が我々にいかに振舞うよう望んでいるかに関する多様な意見にすぎない。実際、法を公布し解釈する共通の権威のないところには法は存在しない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 335-336) The Interpretation of the Lawes of Nature, in a Common-wealth, dependeth not on the books of Morall Philosophy. The Authority of writers, without the Authority of the Common-wealth, maketh not their opinions Law, be they never so true. That which I have written in this Treatise, concerning the Morall Vertues, and of their necessity, for the procuring, and maintaining peace, though it bee evident Truth, is not therefore presently Law; but because in all Common-wealths in the world, it is part of the Civill Law: For though it be naturally reasonable; yet it is by the Soveraig

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(42)自然法には権威ある解釈が必要だ

実際に知られているのは平和を求めて努力する義務だが、それは神がこの義務を課する権限を持つことを間接の契約によって認めた人々に対して、神の実定法が課するものとして認められた場合に限られる。それは神の「預言」の言葉の中で、あるいは国家の実定法の中で、彼らに公布されたから、彼らに知られている。そして国家の中では、「預言」と主権者の命令とは区別できない。というのも国家の主権者は「神の預言者」だからである。   本当の意味での法の第3の特徴は、その意味の「権威ある解釈」が存在するということである。そして神から教示を受け、臣従者たちから承認された国家の主権者や「預言者」のような、何らかの承認された実定的な権威が解釈を供給しないならば、自然法は権威ある解釈を明らかに欠いている。神自らは聖書の「言葉」の解釈者になれないのと全く同じように、神は自然法の解釈者にはなれない。要するにホッブズにとっては、「自然的な」あるいは「契約によらない」ものであると同時に「権威ある」ような、自然法の解釈者や解釈はありえないのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 335-336 ) if it be a Law that obliges all the Subjects without exception, and is not written, nor otherwise published in such places as they may take notice thereof, it is a Law of Nature. For whatsoever men are to take knowledge of for Law, not upon other mens words, but every one from his own reason, must be such as is agreeable to the reason of all men; which no Law can be, but the Law of Nature. The Lawes of Nature therefore need not any publishing, nor Proclamation; as being contained in this o

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(41)自然法は自然に知られるものではない

「理性」(それはホッブズにとっては、所与の出来事の蓋然(がいぜん)的原因や所与の行為や運動の蓋然的影響を認識する能力であって、「(事実についてのではなく)帰結についての真実を納得させる」のに役立つものである)はそれ自体としては、定言命令(=無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法)を供給したりそれを確認する手段となったりすることはできない。それなのに、平和を求める努力は正当な権利から発した命令であり、従ってそれに従うべき義務を人に課するということを、人はいかにして「正しい理性の指示によって」知りうるのか? 神はいかにして人類に対して「自然の理性の指示」の中に「彼の法律を宣言する」(法律としてであって、単に定理としてでなく)ことができるのか?  そしてこれらの質問に対する答えは明らかである。「理性」の性質についてホッブズの見解を持っている人ならば、誰一人として神にそんなことができるとは考えられない。そしてもし神にそれができないとしたら、自然法は人々に知られておりそれも神の法であると知られているから、本当の意味での法であって全人類に義務を課する、という観念全体が崩壊する。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 334 )  <自然法>を知っている人々、そしてその創造者が<神>であることを承認している人々は、限定的なものであって人類全体ではないということである。 ホッブズは自然法は自然的に知られており、本当の意味での法律として、平和を求めて努力する義務を全人類に課すると考えていた、と彼が我々に考えさせるような個所は疑いもなく存在する。彼は「自然の義務」について語ることをあえて避けたりはしなかった(もっとも彼は「自然の正義」という表現は認めなかったが)。そしてあとで我々は、なぜホッブズが我々にそのように考えさせようとするのかを考慮しなければならないだろう。だがまた次のことも疑う余地はない。ホッブズ自身の「理性」の理解によれば、我々が正当に考えることが許されるのは、人間の自己保存についての定理の集合としての自然法はそのようにして全人類に知られているということである。 すると「自然の理性」に言及した、これらの疑いの余地なく暖味な表現を除くと、ホッブズの著作の中には何の証拠もない以上、自然法は本当の意味での法ではないし、平和を求めて努力

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(40)政治的神

神が本当の意味での法の創造者として知られるに至るのは、彼らが神を自分たちの統治者として承認するからである。この承認は、そこからあらゆる義務が「発生」する不可欠の「行為」である。なぜならこの行為がなければ統治者は知られないままなのだから。すると神の万能ではなしに、契約あるいは承認こそが、神が本当の意味での法律を作る権限の源なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 333-334)  「宗教的神」は、畏怖する対象としての神である。他方、「政治的神」は、契約によって、自分たちの統治者として承認された神である。平和を得るために、<神>と契約するか否かは、政治的な問題である。そして、<神>と契約することによって、<神>が創造した<法>を守る義務が生じるのである。 既知の創造者を持つ以外にも、自然法は2つの他の特徴を持っていなければならない。すなわち、それはそれに従うように強いられる人々によって知られているか、知ることができるものでならなければならない(つまりそれは何らかの仕方で「公表」あるいは「公布」されていなければならない)。またその法の「権威ある解釈」がなければならない。ホッブズは自然法がこれらの特徴を持つと考えていただろうか?(同、 p. 334 )  2つの特徴のうちの前者は、これまでも指摘されてきたことである。が、ここで重要だと思われるのは、その法の「権威ある解釈」が必要であるとする後者の指摘である。法はただ存在しているだけでは十分に用を足さない。人々が法を遵守(じゅんしゅ)せねばならないと思うに足る権威付けが先ず必要である。さらに、その法が具体的にどのような意味をもつものであるのかについて、公(おおやけ)の、定まった解釈がなければならないのである。  第1の点に関しては、我々が今考察しているホッブズ解釈は全然難点がないように見える。それはホッブズの次のような言明に依拠している。――自然法は神からその自然的臣民に対して、「自然の理性」あるいは「正しい理性」の中で公布されている。それはこのようにして「神の他の言葉なしに」知られている。推論能力が大したことのない人々でも自然法の十分な知識は得られる。――(同) But they say again, that though the Principles be

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(39)真正の義務を課す者として現われる神

確かに「信仰」によって人は法律の創造者としての神を知るかもしれない。だが「信仰」がわれわれに示すものは、あらゆる人間に義務を課する自然法の創造者としての神ではなく、間接の契約によって神を自分の統治者と認め自分の同意によって神に授権した人々にだけ義務を課する、「実定法」の創造者としての神である。要するに、実定法が平和を求める努力を命ずるところでしか、それは義務にならない。この法だけが、既知の創造者を持っているものとして、本当の意味での法なのである。そしてこの法はその創造者を知っている人々だけに拘束力を持つ。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 332-333)  神は神でも「自然法の創造者としての神」と、「信仰の対象としての神」とは違うのである。「信仰神」が課すのは、実定法としての「戒律」である。キリスト教で言えば、「十戒」と「律法」である。  「ホッブズは自然法が既知の創造者を持っているという点で本当の意味での法であると考えていたか?」という質問は、「ホッブズは人類の中でいったい誰が、平和を求めて努力せよという指針の創造者としての神を知っているという理由で、この指針に従うよう拘束されていると考えたか?」という質問に解消される。そして我々はこの質問に答えるとき、神の「自然的な臣民」と契約または承認による臣民との間のホッブズによる有名な区別は、我々が当初考えていたほど確たる基盤を持っているわけではないことを見いだす。本当の意味での神の「王国」は、神が国法の創造者として認められている国家だけである。(同、 p. 333 )  自然法が義務的であるのは、臣民が<神>を国法の創造者として認めている国家だけに限定されるということである。 そして同じ結論は、「いかなる権威によって神はこの義務を課するのか?」という、関連する質問を考察するときにも現れる。我々が今考察しているホッブズの著作の解釈によると、神が自分のいわゆる「自然的臣民」に対して有する権威は、その抵抗できない力に起因しており、従ってそれは全人類のために立法する権威であると言われる。 しかしホッブズがこれらの個所や他の個所でどんなことを言っていると見えるにせよ、そんなことはありえない。万能あるいは抵抗できない力は、「万物の第1の、永遠の原因」としての神の特徴だが、この

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(38)自然法の創造者としての神

自然法は神の法律だから我々はそれにしばられるとホッブズが言っているというのは、厳密でない表現である。彼が言ったのは、もし自然法が本当の意味での法律だったら我々はそれにしばられるだろうし、そしてそれが本当の意味での法律であるのはそれが神によって作られたと知られるときに限る、ということである。そしてそれは結局、自然法はそれが神によって作られたと知っている人々にとってのみ本当の意味での法律だということである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 332)  <自然法>は、その創造者としての<神>を認める者のみを縛るということである。 しかし誰がその人々なのか? 全人類でないことは確かである。人類の中で、神をこの法律の創造者であると認める人々だけであることは確かである。すると、自然法は本当の意味での法律でありそれは平和を求めて努力するように全人類を拘束するとホッブズは考えていた、という命題を真剣に信ずることはできない――たとえ彼の著作の中にはそれを支持する表現(そのほとんどは曖昧である)が孤立して存在していようと。(同)  <自然法>が全人類を拘束するなどということは有り得ない。拘束するのは、<自然法>の創造者としての<神>を認める人々だけである。  だがそれだけではない。もし神のいわゆる「自然的臣民」さえも、平和を求めて努力するように普遍的に拘束する教えの創造者としての神を自然的には知らないとしたら、ホッブズによれば、彼らはこの種の自然法の創造者としての神を他のいかなる方法でも知らないということも、また明らかである。ホッブズは、彼らがもし平和を求めて努力する義務を人類に課する法律の創造者としての神を「超自然的感覚」(「啓示」か「霊感」)によって知っていると主張するならば、その主張は否定されねばならない、ときっぱり断言した。「超自然的感覚」が人に他のいかなることを知らせるにせよ、それは普遍的法律を知らせたり、普遍的法律の創造者としての神を知らせたりすることはできない。「預言」も、「自然的知識」や「超自然的感覚」が提供できなかったものを提供はできない。(同、 p. 332 ) God declareth his Lawes three wayes; by the Dictates of Naturall Reason, By

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(37)限定されたる神

 しかしながら、「神」という名前は別の意味あいをこめて使うこともできる。そこでは神は、「国王」であるとか自然的な王国と自然的な臣民を持っているとかが本当の意味において言える。神は、「世界を治め、人類に戒律を与え、報償と刑罰とを提出する神が存在すると信ずる」人々の上に立つ其の支配者である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 331)  「神」を宗教的存在としてではなく、政治的側面において捉え直そうという試みなのではないかと推察する。 しかしこれについては、2つのことを見て取らねばならない。 第1に、これらの信念は自然的な知識には達していない。後者は(この関係では)、万能の第1原因として神を仮定せざるをえない、ということに限られている。「摂理を働かせる」神も、第1原因である神と同様に人間の思考の「投影」である。ただし第1原因は人間の理性の投影だが、摂理を働かせる神は人間の欲求の投影である。 そして第2に、「摂理を働かせる」神についてのこれらの信仰が全人類に共通ではないことははっきりと認められているから、神の自然的な臣民(すなわち、その命令に従うべき義務を持つ人々)は、人間の行いについての神の「摂理」を認め、その報償を望み刑罰を恐れる人々だけである。(同、 p. 331 )  人間の欲求は、「場」に規定される。したがって、人間の欲求が投影された「神」という存在も、環境によって自ずと色合いが異なり、相対化せざるを得ない。 (…ホッブズは神の自然的臣民と契約による臣民とを区別しがちだったが、この状況はその区別を和らげる。「神の王国」という表現が適切に理解されるのは、それが「(それに従うべきだった人々の合意によって)彼らの国家的統治( Civil Government )のために設立されたコモンウェルスを指すために使われるときだけである。」)(同) ホッブズにとって、平和を求めて努力すべき義務を課する法律の創造者としての神は、全人類の統治者ではなく、神をこの性格において承認し、従って神をその法律の創造者として知っている人々だけの統治者である。そしてこの承認は「信仰」の問題であって、自然的知識の問題ではない(同、 p. 332 )  <平和を求めて努力すべき義務を課する法律>は、法律の創造者としての「神」を承認する

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(36)絶対的先了解たる「神」

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これらの原因を前へ前へとたどっていくと、我々は「1つの最初の運動者がいる、そしてそれは万物の第1の、永遠の原因であり、人々が『神』の名で意味するところのものである、という考えに達する」しかない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 330)  西部邁氏は言う。 《了解はいかにして可能か、了解のためにはそれに先立つ先了解がなければならない。先了解はいかにして可能か、それに先立つ先々了解がなければならぬ。といったふうに、了解自身が無限遡及(そきゅう)のなかに放り込まれるのであるが、幸か不幸か、人間の生は有限である。知識人の生であれ誰の生であれ、有限の生を死へ向かって突き進ませていく過程である。それゆえ人間は、死を予感しながら、了解に先立つ先了解を求めるという思考プロセスをどこかで打ち止めにせざるをえない》(西部邁『知識人の生態』(PHP新書)、 pp. 102-103 )  ということで、絶対的「先了解」として「神」が登場することになるわけである。が、本来は絶対的であるはず神もまた自と他の相対性を免れない。 《仮説-形成の手続を論理化しなければ、人間・社会にかんする言説は経験とのつながりを失うほかない。ところが、表現者は、面目そうな前提を思いつくに当たって、自分がどれほど鋭い直感を発揮したかを自慢している。あるいはそうした直感に達するまでに、自分がどれほど重い人生体験を味わったかというようなことを吹聴(ふいちょう)している。たとえば、積年にわたる学問的苦労の挙句(あげく)に、新しい発見の糸口を夢のなかで不意に知らされたというふうにである。  なるほど、特定の表現者においてみれば、真理はいつもそのように神の啓示めいた訪れ方をするものなのであろう。しかし人間・社会にかんする言説において生じているのは、あたかも多神教の世界におけるように、互いに異なれる啓示がいくつも神々から下されているという事態である。そして実証作業によっては、どの神が偉くてどの神がさほどでもないのかを識別することができないという有様になっている》(西部邁『知性の構造』(角川春樹事務所)、 p. 72 )  このように、世の中には、安易に優劣を付けることを許さぬ複数の「神」が存在し、ある1つの「神」を絶対視することは出来ない。が、ここでは一旦「神」を絶対

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(35)自然法の創始者「神」

ホッブズによると、法律の課する義務は法律それ自体ではなくその創造者のおかげであり、彼はその創造者であるというだけでなく、命令する権限を持っているとも知られていなければならないのだから、我々の第1の問いは「ホッブズは自然法が全人類にその創造者として知られるような創造者を持つと考えていたのか?」というものでなければならない。そしてもしそうだとすれば、ホッブズは誰がその創造者であると考えていたのか、また彼はこの創造者がいかにしてこの法律の創造者であると知られると考えていたのか?そしてこれとともに、我々はホッブズの著作がこの創造者がこの法律を作る権利についていかなる考えを表わしているのかを考察することが適切だろう。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 329-330)  では<自然法>は誰が創ったのか。ここでホッブズは「神」を持ち出す。 我々が今考察している解釈からすると取らざるをえない答は、ホッブズは自然法にはその創造者として万人に知られている創造者があり、この創造者は神自身であり、神の立法権は、その命令に従うべき人々を創造したことにではなく、その万能に由来すると明白に信じていた、というものである。自然法は本当の意味での法であると主張される。それは万能の神の命令であると知られているから、あらゆる状況のあらゆる人間に拘束力を持つというのである。(同、 p. 330 )  ホッブズは、「神」について次のように述べている。 This perpetuall feare, alwayes accompanying mankind in the ignorance of causes, as it were in the Dark, must needs have for object something. And therefore when there is nothing to be seen, there is nothing to accuse, either of their good, or evill fortune, but some Power, or Agent Invisible: In which sense perhaps it was, that some of the old Poets said, t

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(34)自然法適用の二面性

ホッブズにとって道徳的義務はすべて何らかの法律に起因していたことを認める。この説によると、真正の法のあるところには義務があり、法のないところには義務もないのである。従って、平和を求めて努力することが万人の義務であると示しうるのは、それを命ずる、有効で普遍的に適用される法律があるときだけである。 ここまではホッブズの考えたことについて深刻な意見の相違はありえないと私は考える。ところが今度は、ホッブズの見解によると自然法は単にそれが自然法であるというだけの理由で、この義務を万人に課する有効で普遍的で永久に効力のある法律である、と唱えられるのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 328-329 ) ホッブズが自然法と呼んだものと彼が「平和の好都合な条項」と呼んだものとは内容上同一であり、それらは人間の生の保全についての理性の「示唆」あるいは結論である。このことはホッブズの解釈者なら誰でも認めている。だが今主張されているのは、ホッブズはそれらが本当の意味での法律であるとも信じていた、ということである。すなわちその創造者は知られており、彼は命令を下す先行する権利を獲得しており、法律は公布されて知られており、それらの法律の権威ある解釈があり、順法義務を負う人々はそうすべき十分な動機をもっている、というのである。そしてここから示唆される結論は、ホッブズにとって、平和を求めて努力することは自然法が万人に課した義務であって、それ以外に国家の法律や契約によって成立した命令に従うべき義務もあるかもしれないが、それはこの自然的な普遍的義務から派生したものだ、ということである。(同、 p. 329 )  ホッブズは、自然法を適用するにあたり、その二面性について次のように述べている。 The Lawes of Nature oblige In Foro Interno ; that is to say, they bind to a desire they should take place: but In Foro Externo ; that is, to the putting them in act, not alwayes. For he that should be modest, and tractable, and p

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(33)あらゆる人々に義務を課す自然法

ホップズにとって「平和を求めて努力する」とは常に特定の行為を遂行することであり(そして単に平和を好む意向を持つとか全体として平和的な性向を持つというだけではない)、ある方向への傾向があるとはその方向に向いた運動をすることだ…そして、誰でも狂人か子供でなければ、人間の生の平和的条件を促進すると期待しうる行為の一般的なパターンを理性のおかげで知ってはいるが、特定の状況においていかなる行為が平和の条件のために必要かを決め、それを義務として課するのは法の領分に属する。 「平和を求めて努力すること」が義務であるとき、常にそれは法律に従うべき義務なのであり、常に法律は特定の行為の命令と禁止の集合なのである。だから、平和を求めて努力する義務は、法の指図する行為を遂行する義務と区別できない。人は同時に「平和を求めて努力しつつ、法の禁ずることをすることはできない。もっとも彼は法が彼に要求していない行為――たとえば情深くあること――によって平和を求めることはできる。しかし彼が「平和を求めて努力する」義務は、法に従うべき義務である。つまり、行いを正しくするとともに罪を犯さない義務なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 327-328 ) ホップズはしばしば「自然法」について書いており、しかもあたかもそれらが本当の意味での法律で、平和を求めて努力する「自然の義務」をあらゆる人々に課することができるかのように書いている。そしてこのことを無視したホップズ道徳理論の説明はもっともらしくない。――これもまた、たやすく片づけることのできない反論である。 確かにホップズは、自然法は本当の意味では全然法律ではないと繰り返して明瞭に断言している。その例外は、自然法が契約または承認によって権威を有する立法者の命令として現われる場合だけである。これを除くと、自然法は平和の条件に属する行動を「示唆する」自然の理性の、「人々を平和と秩序に向ける性質」、「指示」、「結論」、「定理」であり、従って国家の理性的(しかし道徳的ではない)基盤であるにすぎない。 だがこれらの断言には他の断言も伴っている。それらは、自然法はそれ自体で(支配者を含む)あらゆる人々に義務を課すると言っていると解釈することができる。それどころか、臣民が自分の国の法律に従うべき義務は臣民がこれらの

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(32)<義務>という言葉に相応しい用法

むろんホップズにとっては、自分自身の利益に反する行為(つまり、万人の万人に対する戦いを求める努力)の義務などありえなかったということは事実である。しかしそれだからといって、平和を求めるその努力が常に義務でなければならないわけではない。要するに、かりにホップズが「国法に従うべき義務が存在する。なぜなら国家の臣民にとってそれは本当の意味での法だからだ。しかし国の主権者を設定する契約あるいは承認を行い保持すべき独立の義務は存在しない」と述べたのだと理解するとしても、ホップズが何か本質的にばかげたことを言ったと理解することにはならない。 彼は単に、「『義務』という言葉にはふさわしい用法がある。しかし国家をまとめるのは『義務』ではなくて(ただしたとえば反逆罪を禁ずる法律が課する義務を除く)、理性の教えを受けた自己利益か、高貴さである。高貴さはあまりにも誇りが高いので、自分の命令を実現する力を欠いた『主権者』に従うことによっていかなる損失を受けるかもしれないかを計算しない」と言ったと認められているのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 326-327 )  ホッブズは『リヴァイアサン』の結論部分で次のように述べている。 To the Laws of Nature, declared in the 15. Chapter, I would have this added, “That every man is bound by Nature, as much as in him lieth, to protect in Warre, the Authority, by which he is himself protected in time of Peace.” For he that pretendeth a Right of Nature to preserve his owne body, cannot pretend a Right of Nature to destroy him, by whose strength he is preserved: It is a manifest contradiction of himselfe. And though this Law may bee drawn by c

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(31)社会契約に道徳的義務の有るや無しや

ホッブズの中には…社会契約締結が(思慮ある行為である以外に)道徳的義務でもあると示唆しているところはほとんどない。そして「契約を守る」ということと「法に従う」ということは、区別できない活動である。またもし法に従うべき義務があるとすれば(実際あるのだが)、そこには契約を守り保護すべき推定上の義務が存在するのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 325-326)  オークショットは、次の部分を例外と指摘する。 From that law of Nature, by which we are obliged to transferre to another, such Rights, as being retained, hinder the peace of Mankind, there followeth a Third; which is this, That Men Performe Their Covenants Made: without which, Covenants are in vain, and but Empty words; and the Right of all men to all things remaining, wee are still in the condition of Warre. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1: CHAPTER XV. OF OTHER LAWES OF NATURE: The Third Law Of Nature, Justice (留保されていると人類の平和の妨げとなる権利は、他者に譲渡する義務を負う自然法から、もう一つのものが生まれる。それは、「結ばれた契約は実行すること」、これである。これがなければ、契約は無駄となり、空言に過ぎなくなる。すると万物に対する万人の権利は残り、私達は未だ戦争状態にあることになってしまう)――ホッブズ『リヴァイアサン』第 1 部 第15章 他の自然法について:第3の自然法、正義 しかし第2に、かりに一歩譲って、「契約を守る」義務が存在するためにはこの義務を課する法律があるはずであり、そしてこれは国法それ自体ではありえないとしても、この解釈によれば、そのような本当の意味で

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(30)法は個人の自由の制限

When a Common-wealth is once settled, then are they actually Lawes, and not before; as being then the commands of the Common-wealth; and therefore also Civill Lawes: for it is the Soveraign Power that obliges men to obey them. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 2: CHAPTER XXVI. OF CIVILL LAWES (一度(ひとたび)コモンウェルスが設立されると、それらは実際に法となるが、それまでは法ではない。そのときコモンウェルスの命令となり、したがって、市民法ともなるのである。というのは、人々を法に従わせるのは主権だからである)――ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第26章 市民法について For in the differences of private men, to declare, what is Equity, what is Justice, and what is morall Vertue, and to make them binding, there is need of the Ordinances of Soveraign Power, and Punishments to be ordained for such as shall break them; which Ordinances are therefore part of the Civill Law. The Law of Nature therefore is a part of the Civill Law in all Common-wealths of the world. Reciprocally also, the Civill Law is a part of the Dictates of Nature. – Ibid. (というのは、私人の相違で、公平とは何か、正義とは何か、道徳的善とは何かを表し、それに拘束力を持たせるには、主権の命令と、その違反者への罰則を定める必要があるから

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(29)ホッブズの頭の中の世界観

適切に任命された国家の主権者の臣民でなく、従って何ら国法上の義務を持っていない人々は、それにもかかわらず権利と同様に義務も持つ、とホップズは考えたのだろうか?…国法のないところに、本当の意味での法があるのだろうか?(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 323-324)  が、これらの問いは大して重要な問題ではない、とオークショットは言う。 第1に、ホッブズは野蛮人のためにではなく、国家に属している人々のために書いていたと理解されている。彼の目的は、彼らの義務は何でありそれらがどこから生じているかを示すことである。そして、国法は拘束し、しかも国法だけが拘束する法である、と信ずべき理由を与えたならば、彼にはそれ以上のことをする必要がない。第2に、(我々が今考察している解釈によると)国法の義務が他の法から導き出されるとか、ともかく何かの仕方でそれと結びつけられるなどということは、問題にならない――たとえその別の「法」が、国家状態以外の環境では本当の意味での法であるとわかったとしても。国家の中では、本当の意味での唯一の法は国法なのである。(同、 p. 324 )  この説明は説得的ではない。ホッブズは、思考の対象範囲を絞り、「合理的」に考えたということなのかもしれない。が、ホッブズの言う「国家」( civitas )とはホッブズの頭の中の「国家」であり、現実の国家ではない。複雑な実態から不確かなものを取り除いて考えるのが合理的手法なのであって、実際には存在しない「架空」の話を恣意的に論理展開して何の役に立つのだろうか。  「国法」( the law of the civitas )が<唯一の法>であるというのも、ホッブズの頭の中の話であるから当たり前である。 我々が今考慮している解釈にあっては、国家の主権者を構成し彼に権威を与える合意に人々が入ることになる原因は、平和への理性的努力に転換させられた、破滅への恐れである。しかし彼らはそうしなければならぬ義務は全然持っていない。彼らが平和を求めて努力すべき義務は、国家の発生とともに始まる。国法こそがただ1つ正当に法と呼ばれ、この努力を命ずる法である。  この解釈は(他のいかなる解釈とも同様に)、ホッブズの著作の中の重要な個所についてのある読み方に依存している。そして関係す

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(28)なぜ道徳的に拘束されているのか?

「なぜ私は私の国家の主権者の命令に従うべく道徳的に拘束されているのか?」という質問(ホップズにとっては重要である質問)は、「なぜなら私は私と似た苦境にある他の人々と合意して、契約を結ぼうという共通の意向をもって彼に『授権』したのであって、彼が疑う余地なく立法者でありその命令は本当の意味での法律だと知っているからだ」という以外の答を必要としない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 323)  所謂(いわゆる)「社会契約論」的な考え方なのであろうが、自分と似た境遇にある人達と合意し契約を結ぶなどという話は、私にはただの「空論」にしか思われない。 さらに――と、主張される――国家の法律が本当の意味での法律であるのみならず、国家の中では、ホッブズにとってこの性格を持った法律は国家の法律しか存在しない。教会のいわゆる「法律」も、いわゆる「自然法」も、国家の中では、国法として公布されることによって本当の意味の法律にさせられなければ、そうはならない。それどころか、国家の主権者の命令であるという意味での「国」法でないような、本来の法なるものは存在しない、というのがホッブズの見解である。(同)  国家が公認したものが「国法」であることに異論はない。よって、「教会法」も「自然法」も国法ではない。が、それは「国法」かどうかの話でしかなく、社会規範として「国法」だけが有効であるというような話ではないことは言うまでもない。 神の法律が本当の意味での法律であるのも、神がその代理人を通じて主権を行使する国家の主権者である場合に限られる。(同) 教会法が本当の意味での法律であるのは、神が代理人を通して主権を行使し、法律を定めたからというような話ではない。信者にとって神は絶対的存在なのであり、教会法も絶対的なのである。それが「信仰」というものである。勿論、「社会契約論」もこの仮説を信じるものだけに有効であり義務的であると言う意味では、半ば宗教的だとも言えるだろう。 国家の主権者はむろん人間の自己保存についての理性的定理としての自然法を「作る」ことはしないが、最も厳密な意味において、それらを本当の意味での法律に「する」のである。たとえば、(神が国家の主権者でないところで)神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返すのが道理にかなっているかもし

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(27)必要なのは「立法者」の権威

加えて、義務の2つの条件がある。本当の意味の法が「立法者」から発されるのは、それに義務づけられる人々が立法者を法の作者として知っており、また彼の命令することを正確に知っている時に限られる。しかし実際には、これらの条件は最初の条件の中に含まれている。というのも、この授権あるいは承認という行為なしには、いかなる臣民も自分を臣民だと知ることができないし、そしてそのような行為を行いながら、立法者は誰で彼は何を命令しているのかを知らないということはありえないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 322)  問われるのは、「立法者」が誰かということである。  法は作られるところの何ものかであり、それはある特徴を持った立法者がある仕方で作ったという理由だけによって拘束する。そして義務は法からしか発生しない。――要するにこれがホップズの見解だったことは間違いない。あるいは換言すれば、いかなる命令も内在的に(すなわち、その命令の内容あるいは内容の妥当さのゆえに)あるいは自明に拘束するのではない。その拘束力は、証明あるいは論駁(ろんばく)されるべき何ものかであり、ホップズはその証明あるいは論駁にとっていかなる証拠が重要であるかを我々に語ったのである。この証拠は、その命令が本当の意味での法であるか――すなわち、命令がそれを作る権威を持つ人によって作られたか――だけに関わる。(同)  皆が「立法者」に法を作るに足る権威を認めるかどうかが鍵となるわけである。 国家( civitas )の法は本当の意味における法であるという命題は、ホッブズにとっては、経験的ではなく分析的な命題だった。国家とは人間の生の人工的条件であって、そこにおいて①自分に服従する人々から権威を与えられたがゆえに法律を作る権威を獲得した立法者が作ったと知られている法律があり、②命令される内容が知られており、③命令されることについての権威ある解釈が存在するところのものとして定義される。それに加えて、これらの法律に服従する人々は服従のための十分な動機を持っている。本当の意味での法であるためのすべての条件を国法( civil law )は満たしている。それゆえ ―― と、ホッブズの著作をこのように読むことを弁護する人々は主張する――ホッブズの確乎たる見解は、国法は疑いもな

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(26)法

 ホッブズによると、あらゆる道徳的義務は法から生まれる。法のないところには義務もなければ、正しい行動と不正な行動の区別もない。そして本当の意味での法のあるところ、それに従うべき十分な動機も存在するならば、その法の下にある人々はそれに従うべき義務がある。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 321 ) whatsoever is a law to a man, respecteth the will of another, and the declaration thereof. But a covenant is the declaration of a man’s own will. And therefore a law and a covenant differ; and though they be both obligatory, and a law obligeth no otherwise than by virtue of some covenant made by him who is subject thereunto, yet they oblige by several sorts of promises. For a covenant obligeth by promise of an action, or omission, especially named and limited; but a law bindeth by a promise of obedience in general, whereby the action to be done, or left undone, is referred to the determination of him, to whom the covenant is made. So that the difference between a covenant and a law, standeth thus: in simple covenants the action to be done, or not done, is first limited and made known, and then followeth the promise to

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(25)ホッブズ解釈の揺れ

 第1に、「なぜあらゆる人々は平和を求めて努力すべきなのか?」という問いに対してここで与えられた答は、それ自体が問いを引き起こす。我々はなぜいかなる人も自分自身の本性を保全するためにだけ努力すべき義務を持っているのかを知りたい。この立場全体は、ホッブズはいかなる人も自分の破滅をもたらすおそれのない仕方で行動する義務があると考えていた、という信念に基づいている。ところがホッブズが言ったのは、いかなる人も自分自身の本性を保全する権利を持っているということ、そして権利は義務でないし、いかなる種類の義務も生じさせないということである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 320 )  一般に、戦争状態になければ、人は平和を求めて努力などしない。が、戦争状態は、ホッブズの頭の中で作り出された「自然状態」における話でしかない。もし平和を求めて努力しなければ「戦争状態」に舞い戻ってしまうなどと考えるとすれば「強迫症」である。  <いかなる人も自分自身の本性を保全するためにだけ努力すべき義務を持っている>というのも空想である。当たり前だが、誰もそのような努力義務など負っていない。権利と義務は表裏一体のものであり、権利無き所に義務はない。オークショットは、義務ではなく<いかなる人も自分自身の本性を保全する権利を持っている>と言う。が、権利があるなら、その裏返しとして義務が生じてもおかしくない。 第2に、義務的行動は「一貫した」、あるいは自己矛盾的でない行動であるという意味で合理的であり、そしてそれはこの意味で(あるいは他のいかなる意味でも)合理的だから義務的である、ということをホッブズが言っているとする解釈は、的外れと考えられなければならない。ホッブズが行動において望ましいものを表すために「無矛盾」の原則に訴えかけたことはあるが、彼は単に合理的であるにとどまる行動と義務的である行動とをはっきりと区別しているといって差し支えない。自然法は合理的行動を表現しているから義務的と考えられる、などというホッブズ解釈は全く説得的でない。 第3に、この解釈は、道徳的行動をあらゆる他者を自分と同等の者として私心なく承認することとしては認めない。しかしホップズはそれが平和のために根本的であると考えた。この解釈によると、平和を求めるあらゆる努力は、いくら

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(24)<良心>の違い

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評論家・小林秀雄は言う。 《良心といふやうな、個人的なもの、主觀的なもの、曖味なもの、敢へて言へば何やら全く得體(えたい)の知れぬもの、そんなものにかゝづらつてゐて、どうして道德問題で能率があげられよう。そんなものは除外すればよい。わけはない話だ。これに代るものとして、國家の、社會の、或る階級の要請してゐる、誰の眼にもはつきりした正義がある。これらの正義の觀念は、その根據(こんきょ)を、外部現實(げんじつ)の動きのうちに持つてゐるのだから、歷史や場所の變化(へんか)とともに變化するのは、わかり切つた事である》(「考へるヒント」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第12巻、 p. 61 )  自分の身を守ることを承認し、他者に危害を加えることを承認しないのが個人の<良心>ということであるなら異論はない。が、どこまで行っても<良心>は個人的なものでしかない。  『国富論』の著者として有名な英国の哲学者アダム・スミスは、<良心>とは自らの行動の偉大な「裁判官」だと表現している。 It is not the soft power of humanity, it is not that feeble spark of benevolence which Nature has lighted up in the human heart, that is thus capable of counteracting the strongest impulses of self-love. It is a stronger power, a more forcible motive, which exerts itself upon such occasions. It is reason, principle, conscience, the inhabitant of the breast, the man within, the great judge and arbiter of our conduct. – Adam Smith, The theory of moral sentiments : 3.1.3. Chap. III (自己愛の最強の衝動に対抗することができるのは、人間性のソフト・パワーではなく、自然が人間の心に灯した弱々しい博愛の火花でもない