オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(24)<良心>の違い

評論家・小林秀雄は言う。

《良心といふやうな、個人的なもの、主觀的なもの、曖味なもの、敢へて言へば何やら全く得體(えたい)の知れぬもの、そんなものにかゝづらつてゐて、どうして道德問題で能率があげられよう。そんなものは除外すればよい。わけはない話だ。これに代るものとして、國家の、社會の、或る階級の要請してゐる、誰の眼にもはつきりした正義がある。これらの正義の觀念は、その根據(こんきょ)を、外部現實(げんじつ)の動きのうちに持つてゐるのだから、歷史や場所の變化(へんか)とともに變化するのは、わかり切つた事である》(「考へるヒント」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第12巻、p. 61

 自分の身を守ることを承認し、他者に危害を加えることを承認しないのが個人の<良心>ということであるなら異論はない。が、どこまで行っても<良心>は個人的なものでしかない。

 『国富論』の著者として有名な英国の哲学者アダム・スミスは、<良心>とは自らの行動の偉大な「裁判官」だと表現している。

It is not the soft power of humanity, it is not that feeble spark of benevolence which Nature has lighted up in the human heart, that is thus capable of counteracting the strongest impulses of self-love. It is a stronger power, a more forcible motive, which exerts itself upon such occasions. It is reason, principle, conscience, the inhabitant of the breast, the man within, the great judge and arbiter of our conduct. – Adam Smith, The theory of moral sentiments: 3.1.3. Chap. III

(自己愛の最強の衝動に対抗することができるのは、人間性のソフト・パワーではなく、自然が人間の心に灯した弱々しい博愛の火花でもない。このような場面で力を発揮するのは、より強い力、さらに強力な動機である。それは理性であり、理念であり、良心であり、胸の住人であり、内なる人間であり、自分の行動の偉大な裁判官であり、裁定者である)――アダム・スミス『道徳感情論』

 アダム・スミスの言う<良心>は、心の中の「社会」における裁判官であるのに対し、ホッブズは、心の中の不確かなものを省いて行って最後に残る「源泉」、デカルトの「コギト」(「我思うゆえに我あり」)のようなものなのではないかと私には思われるのであるが…

activity which springs from fear of shameful death and is designed to mitigate that fear alone has the approval of conscience and is obligatory. Now, there can be no doubt that this is a moral doctrine in so far as it is an attempt to elucidate a distinction between natural appetite and permissible appetite; it does not assimilate right to might or duty to desire. Moreover, it is a doctrine which identifies moral conduct with prudentially rational conduct: the just man is the man who has been tamed by fear. But if Hobbes has said no more than this, he must be considered not to have said enough. And, in any case, he did say something more and something different. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes: FOUR

(恥ずべき死への恐怖から生まれ、その恐怖を和らげようとする活動だけが、良心の承認を得て、義務付けられる。さて、自然の欲望と許容される欲望との区別を明瞭にしようとする限りにおいて、これは道徳的信条であることに疑いの余地はないだろう。権利と権力、あるいは、義務と欲求を同化しはしない。さらに、それは、道徳的行為を細心に合理的な行為と同一視する信条である。正しい人間とは、恐怖に手懐(てなず)けられた人間である。しかし、ホッブズがこれだけしか言わなかったとしたら、十分なことを言わなかったと見做さざるを得ない。そして、とにかく、それ以上のこと、それ以外ことをホッブズはまさに言ったのである)

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