オークショット「歴史家の営為」(10)歴史的語法への翻訳
よき振舞いの擁護者として現れるような過去の研究者は、単に実践的な過去を我々に提出できるにとどまる。我々は、過去の行いの道徳的価値を判断する場合、ちょうど過去の行いの価値や有用性を他の観点から(例えば「無益な」戦争と)判断する場合と同じように、その行いをあたかも現存するように扱っている。この理由だけで、「歴史家」の営為から道徳的判断を排除するためには十分である。要するに、過去の行いの道徳的価値を探求するのは、過去に対する実践的態度に堕落することである。もし仮にこの点で堕落が許されるならば、他のどの点でも堕落が正当に禁じられることはあり得ないだろう。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 191)
「歴史的過去」とは、ある種客観的なものであり、評価、判断、好悪などの主観的価値観を免れていなければならない。価値観が盛り込まれた過去は、「主観的過去」なのであって、到底「歴史的過去」と呼べるようなものではない。だから、オークショットは、<過去の行いの道徳的価値を探求するのは、過去に対する実践的態度に堕落すること>だと批判しているのである。歴史家の営為は、実践的態度を超越したものでなければならないのである。
「歴史家」の課題は、過去を想起または再演することとしては正当に記述し得ず、ある重要な意味で、「歴史的」事象はいままで一度も起こらなかった何かであり、「歴史的」行為とは、いままで一度も遂行されなかった何かであり、「歴史的」人物は、いままで生きることのなかった誰かである、と。
出来事の語法は常に実践的語法であり、出来事の記録はたいてい実践的語法で書かれている。ところが「実践」と「歴史」とは、論理的に異なる2つの論議領域なのである。
かくて「歴史家」の課題は、翻訳の手順により創造すること、つまり過去の行いや出来事をその時点でそれらの理解されていた仕方とはまったく異なる仕方で理解すること、行為や事象をその実践的語法から歴史的語法に翻訳することである。(同、p. 192)
歴史的な出来事と目されているものには、大抵善悪、損得、好悪などの主観が貼り付いている。この主観を除去するのがオークショットの言うところの「翻訳」である。主観塗(まみ)れの<過去>を翻訳し、<歴史的過去>を創作するのが歴史家という存在なのである。
我々は、過去に対する「歴史的」態度の敵をいくつか認識できるようになったにしろ、さらになおその敵を打ち負かすところまで行かねばならない。(同)
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