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オークショット「人類の会話における詩の言葉」(28)【最終】友人関係は功利的なものではない

友人や恋人たちは、互いからどんな利益を引き出そうかと考えるわけではなく、ただ相互の享受を心がけるにすぎない。友人とは、ある仕方で行動するに違いないと信頼される人であるわけではないし、一定の有益な特性を有し、妥当な意見をもっていると信頼されている人であるわけでもない。友人とは、興味や歓びや、理由のない信頼を喚起するような人なのであり、(ほとんど)観想的想像に与(あずか)らせる人なのである。 友人たちの関係は劇的なものであって、功利的なものではない。そしてまた、愛するということは、「何か善をなす」ということとは違う。それは何も義務ではないし、是認や否認せねばならないということから、一切自由である。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 pp. 291-292 )  友人関係は、本来、功利的なものではない。一切功利的なものを排除できるわけではないにしても、功利的なものが表へ出てしまっては、友人関係は長続きしないだろう。 愛情や友情におけるイメージ(愛情や友情の想像様式の中で創り出されるもの)は、実践的想像作用への他のいかなる関わりにおけるよりも、「何であれ成り行きまかせ」という性質をもっている。たとえ、これらを観想的活動と呼ぶのが適当とは言えないとしても、それらは少なくとも観想を模倣するものであり、詩と実践の言語の間を架橋し、共通の理解への道すじをつけるという意味で、実践的性格のあいまいな活動であるといえよう。そしておそらく、文学作品の中で恋におちる作中人物たちが、すべての詩的イメージの中で最も一般的なものであるのも、このためである。(同、 p. 292 )  友人関係においては、その時々を楽しんでいるだけであって、そこから何か利益を得ようとしているわけでもなければ、何かを探求しようというのでもない。 (「有徳な行動」とか、「すばらしい性格」とか、「よい仕事」への関与などとは区別されるような)「道徳的善」の中には、行動の生気のなさや完遂の可能性からの自由があり、それが詩の模放となっているのだ。なぜならここにあるのは、個人的で自己充足的な活動であり、世界への適応から解放され立場や状態から自由であり、過ぎ来しゆく末から独立に、各人がそれにあずかることができる。(同、 pp. 292-293 )  「道徳的善」における<個人的で自己...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(27)詩的想像を逃避と蔑む勿れ

 こ(=社交)の会話の中では、各言語はそれぞれの観点から、他のすべての言語の用語法を規定している条件からのある解放を表現している。学知は、実践の力のための知識からの「逃避」であり、実践的活動は科学的「事実」からの「逃避」である。したがって、もし我々が詩的想像を一種の「逃避」として語るなら、(そのさい観想は、欲求や是認や追求や探究などからの「逃避」と認められるであろうが)それは、他のいかなる想像作用の言説空間とも異なって構成された言説空間にあるもの、という以上の何ものでもない。実践と科学の両方について本来言われること以上、何も言っていないに等しい。そして、詩的想像が一種の「逃避」であると言われる時、割り込んでくる非難がましい調子は、会話についての不完全な理解を表すものであるにすぎない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 289)  詩的想像は住む世界が違うのであって、これを「逃避」と決め付けるのは適切ではない。詩的想像が「逃避」と見えるのは、実践的活動と科学的探究に携わる人達が自らの活動を中心に物事を見ているからに過ぎない。 もちろんある観点からすれば、詩は一種の「逃避」ではある。しかしそれは、(しばしば考えられているように)詩人の、大方は不如意で不自由な実際生活からの逃避ではなく、実践的活動の諸々の要点からの逃避である。しかし、実践的企てや、倫理的努力や科学的探究には、そこから逃避することを嘆かねはならぬような神聖なものなど、何もない。(同)  詩的想像は、実生活からの「逃避」なのではなく、実践的活動と異なった種類の活動に携わっているに過ぎない。実践的活動を比較優位において、詩的想像を「逃避」であると蔑視するとすれば、それは独善的に過ぎよう。 実際これらは、我々ができればのがれたいと思っているもともとわずらわしい活動であるし、これらの言葉しか話されないような会話はまことに味気ないものであろう。ところが詩においては、欲求したり苦しんだり、知ったり工夫したりする自己は、観想する自己によって押しのけられる。背影に目を向けることは、どんな場合でも観想を裏切ることとなり、排除することが困難であるばかりか、致命的な結果をまねくものとなってしまう。にもかかわらず、会話へ参加するために、言語は自分自身の用語法で語らねばならないばかりか、...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(26)詩に恣意的役割を宛がう人達

(シラーの)もう少し深遠な見解においては、芸術の「社会的価値」は、実践的いとなみにばかり専念している生活の一様性や堅苦しさから自由にさせてくれることに存在するのだ、と認められている。そして悪名高き誇張的な言い方で詩人はこれまで「言葉の意識されざる立法者」と呼ばれてきたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 288)  実生活の一様性や堅苦しさからの解放、それが芸術の社会的価値だとドイツ思想家のシラーは言うのである。 世界と我々自身について探究することが、人間のとりわけ本質的な仕事であると考える著作家は、当然詩の役割をも学知( scientia )との関係で解釈することに関心を向けがちである。(同)  探究という活動に慣れ親しんだ著作家は、詩もまた探究という色眼鏡を通して見てしまいがちである。当然、詩の役割を考えるにあたっても<学知>が持ち出される。 詩的想像の中に、学知という足かせからの気晴ししか見ないような著作家たちがいる。彼らは詩の非記号的言語の中に、科学的コミュニケーションにとっては役に立たない道具しか見出さないのである。これらは一種の差別廃止論者である。彼らは注目すべき系譜をもっていて、17世紀以降ずっと我々の社会で羽ぶりがいい。しかし彼らと仲間を組む著作家たちは、詩的想像に、「事実をありのままに見る」力を要求し、詩を世界についての知識の記録や貯蔵と見なし、世界の本質についての明断で公平な意識を与えてくれる力と役割を帰属させるべきもの、というように詩を理解するのである。そしてまた、科学的探究や発見の過程そのものの中に、彼らが詩的想像と見なすような要素を識別する人々さえいるのである。(同)  詩は、記号的言語の世界に属するものではない。だから科学的コミュニケーションは成り立たない。詩的想像に<学知>が見出せないからといって、それを<気晴らし>としてしか見ないのは偏見である。が、この偏見が大手を振って社会を闊歩(かっぽ)しているのである。詩に<事実>を要求し、詩を記号化し、画一的に解釈しようとする。そして詩に対し、探究活動に都合の良い恣意的な役割を宛(あて)がうのである。 唯一考慮に価する詩の弁護論は、詩の言語の位置と特質を、人間の会話ということの中に識別しようとするものである。即ち各言語が、それぞれの...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(25)詩的想像の分からぬ人達

特定の活動様式が卓越していると考える人は誰でも、その様式に関して詩がはたす仕事を見出そうと務めるに違いない。それゆえ実践的企てや道徳的努力が人間のもっぱら主要関心事であるからには、詩を弁護する最も一般的な形が、この関心に詩が答え得ることをうけあうことであるとしても、何ら不思議はない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 287)  我々は、詩が有する曖昧さの裏に、何か深い意味合いが潜んでいるのではないかとつい考え勝ちである。実践的企てや道徳的努力に四苦八苦している人達には、そこに何か足掛かりがあるのではないかと見てしまう。 芸術と社会との関係を探究することは、実践活動に従事する人々の社会との関係を探究することである。つまり「社会秩序における詩の『機能』は何か」を問うことである。このような筋道をたどる著者のある者は、詩的想像についてこれといった考えがないので、それをまともな生活のなりわいからの、悼(いた)むべき逸脱であると考えてしまう。あるいはせいぜいのところ、それは休日のハイキングのようなもので、我々は休養をとり、またおそらくは新たな活力を得て再び仕事へもどることができるのだと思われているのである。(同)  詩は社会にどのような影響を与えるのかということであるが、これこそ詩を実践的活動の一部と捉えてしまう誤りである。 詩を実践的努力のための有益な僕(しもべ)であるかのように見なし、いろいろな有用な仕事をするものだと考える人もいる。詩の職務とは、このような人々によれば、我々にいかに生きるべきかを言ってくれたり、我々の行動に関するある種の批判を提供してくれるものである。それは、道徳的諸価値の尺度を記録したり、流布するものである、また特殊な道徳教育を与え、よき感情を単に記述したり推賞したりするのみならず、実際に我々の中に鼓舞するものである。あるいはまた、感情生活の健康を増進させ、腐敗した良心をいやし、「我々を存在にあわせて調整し」それが現われる「社会」の構造や機能を反省するものである。そして、みじめな人々を慰め、罪人たちのどぎもをぬき、あるいはただ単に、「仕事の時に音楽を」提供するものだったりするのである。(同、 pp. 287-288 )  詩を「神の啓示」のように感じ、そこに何か大切なものが隠されていると考える。そのこと...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(24)具体的状況が忘れ去られた活動

彫塑(ちょうそ)での発明について言えば、かかる変化をもたらした、おそらく最も重要な情況は、芸術作品と認められる資格をそなえた作品が単にありあまるほど豊富に存在するようになったということであろう。王侯・貴族、教会、商人、市当局、組合などの宝庫にため込まれ、保管されたこれらは、その実践的な由来や製作の機会が知られなくなったり、忘れ去られてしまい、それがかつてもっていたかもしれない実用や意味合いすべてから切り離され、こうして、新しい文脈へと移し置かれることによって、観想的注視を喚起し得るものになったのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 286)  それが作られた具体的状況が忘れ去られてしまい、抽象的意味や価値だけが残された。皮肉にも、その忘却が観想的活動を可能にしたということである。 それはちょうど、古い時代に征服したローマ人たちがギリシアの寺院や彫刻によって、観想的歓びを喚起されることになったようなものである。というのは、彼らにとって、それらは何ら宗教的・記号的な意味合いはもたなかったからである。イコンや絨緞(じゅうたん)や偶像や建造物や日常用品が、それらをもともと使用するはずではない人の目で見られたり、あるいはそれらのはじめの文脈から移し替えられたりして、我々自身の時代での認知を受けることになるのは、これとまったく同様の情況である。(同)  それが作られた具体的状況を与(あずか)り知らぬ者たちだからこそ、観想的歓びを享受することが出来たのである。 詩や絵画の「主題」への注目とか、詩の中に行動への手引きを求めがちな我々の傾向とか、詩を知恵や娯楽ととり違えたり、詩の「心理学」に興味を示したり、虚構をそれ自体で受け入れにくく、それを記号的なもの、見せかけのもの、あるいは幻想などと解釈する憤向などであるが――それらは何であれ、詩が現われ認知されるはるか以前の時代から生き残っているものとして、あるいは、我々にとって歴史的に比較的新しく、今なお不完全にしか消化されていない経験に対する反動として、理解することができるのである。(同、 pp. 286-287 )  ともすれば我々は、詩や絵画の中に隠された「テーマ」を見出そうとしたり、詩の中に行動への手引きの暗示を読み取ろうとしがちである。詰まり、詩それ自体を楽しむのではなく、...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(23)忘却の果たす役割

ヨーロッパでは、それほど古くない時代にも我々が「芸術作品」と認め得るものを実践的活動のはしため(端女=召使いの女)とみなしていた。もっぱらその仕事は、装飾的で説明的なもの、王侯の威厳や、宗教的しきたりや大商人の生活などのかざりと考えられていた。それは、敬虔(けいけん)とか、家名の誉(ほまれ)とか、正義への尊敬や権威の擁護などを表現したり喚起するものとして賞賛されていた。また特筆さるべき人物や出来事の記念を残すため、あるいは見知らぬ人々が互いの顔を知り合うため、また、正しい信念を表したり、よい行動を教えるための手段として賞賛された。 しかし、こういったものからの解放、即ちこれらの対象を観想的注意にふさわしく工夫されたイメージと認めることは、実践的想像力の権威から逃れようとする、何か真新しい、説明のつかぬあこがれから生み出されたのではなかったし、まったく異なった種の作品の生産の中に、忽然(こつぜん)と始まったわけでももちろんない。それが生じたのは、様々の情況の変化からでありその変化が(すでにそこに存在していたものに、新しい文脈を与えることによって)それを変形し、さらにこの文脈にふさわしく物事をあんばいする性向を引き出しさえすることによってである。実際、時間の経過と人の忘れっぽさということが、この解放で大きな役割を演じていたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 285 )  「忘却」というものが大きな役割を果たした。具体的な意味が、時が過ぎることで忘れ去られてしまい、後に<イメージ>だけが残されたということである。 つまり、もともとそれが言わんとするところが失われてしまった物語や、その「意味するところ」が忘れ去られてしまったイメージが生き残るとか、どこかからやってきて、その記号体系がもはや知られないような(言語的および彫塑的)イメージと遭遇するとか、ということである。 例えば『真夏の夜の夢』と『テンペスト』の中では、イメージの全体は、それらのもつ宗教的および実践的意味合いから自由になり、詩へと変形されてしまっている。もはや呪縛しない呪文があり、自らの情動的力を失ったイメージがあり、歴史と神話の双方における自分の場を失い、詩的な性格を獲得している人物たちがいるのである。(同、pp. 285-286)  <呪縛しない...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(22)比喩

詩の言語においては、比喩はそれ自身詩的イメージとなっており、したがって、それらは虚構である。詩人は、自然的・習慣的対応関係を認知したり記録するのではない。またそれを「実在を探究するために」使うのではない。詩人は同等性を喚起するのではなく、イメージを作り出すのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 282-283)  詩人は、言葉を用いて何か具体的なものを喚起するのではない。抽象的イメージを想起させるのである。 詩人の比喩は、何ら定まった価値をもってはいない。それがもっている価値とは、詩人がそれに与えることに成功したものだけである。もちろん、言語的表現であるかぎり、それらも記号性ということから完全にまぬがれてはいない。それらのいずれも(そしてとりわけ、いわゆる「神聖な」または「原型的な」イメージは)固定的価値をもつ貨幣へと堕落することがあるが、こんなことになる時には、それらはもはや詩的イメージであることを、単にやめてしまっているのである。そして、記号的比喩をもてあそび、それで様々のパターンを組み立てることは、コールリッジが詩的想像と対比して「空想」と呼んだ活動に他ならない。(同、 pp. 282-283 )  比喩は、言語を用いた表現法である限り、記号性を免れ得ない。が、だからといって、記号の世界にどっぷり浸かってしまっては、もはや<詩的想像>とは成り得ない。コールリッジ言うところの「空想」ということになってしまうだろう。が、詩的比喩は<イメージ>を作り出すものであり、本来的に<虚構>の世界に属するものなのである。 科学においてはあいまい性の余地がないように、詩においては陳腐なイメージの余地はない。それゆえ、詩が現われる前に「解消」されねばならないものは、「原的な」様式をもたない想像作用のイメージなのではなく、実践的活動の記号言語と、科学のより厳密に記号化された言語の権威なのである。音楽や舞踏における詩的想像作用の敵は、記号的な音と動きである。造形芸術は、形態の記号性が忘れられた時にだけ立ち現われ、実践的活動の記号言語は、詩の出現に対して、強く執拗な障害となる。(同、 p. 283 )  言葉の記号化とは、言葉の画一化である。が、記号化された言葉では詩的想像は行えない。言葉の画一化が解かれた時、イメージが浮かび上...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(21)<美>と<真>

「美」とは(私が今それが属するのがふさわしいと考える美学理論の語りの中では)「真理」のような言葉ではない。それはまた異なったふるまいをもっているのである。「美」という言葉は、その使用がある詩的イメージを記述することであるような言葉、即ち、立派な行動を(是認しつつ)称賛したり、うまくいったこと(数学の証明などのような)を称賛したりする場合と違って、観想的傍観者の中に喚起する卓越した歓びのゆえに称賛せざるを得ないような詩的イメージを、記述することをその役割としている、そういう言葉なのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 281)  <美>は<真>とは異なる。よって、<美>という言葉を<真理>だと受け取るとすれば、それは誤りである。<美>には、美醜の区別はあれども、真偽の判断はない。<美>には、それに触れることによって<歓び>と変わる<詩的イメージ>があるだけである。 詩は言語にはじまり言語に終る。だが詩の言語の中では、単語、形姿、音声、動きなどは、あらかじめ定めおかれた意味作用をもつ記号なのではない。それらは、チェスの駒のように、知られた規則に従ってふるまうわけでもなければ、貨幣のように、流通する一定の価値をもつと認められたものでもない。それらは特定の適合性や使用法をもつ道具ではないし、伝達されるものが既に思考や情念の中に存在しているとされる場合の伝達手段でもない。それのみか詩の言語は、およそ同じ意味を伝えているなら、他の語に置き替えができるようなあるいは他の種類の記号(例えば単語のかわりに身ぶり)でしばしば同じようにまにあうような、同義語を多く含む言語ではない。手短に言えば、それは記号的言語ではないのだ。詩においては、語自身がイメージであり、他のイメージのための記号なのではない。(同、 pp. 281-282 )  詩は、<記号的言語>ではない。Aという記号が必然的にBを意味するというようなものではない。詩の言語は、イメージでしかない。また、ある詩的言語が特定のイメージを喚起するわけでもない。詩的言語は、人が<歓び>を得る源と成り得る<イメージ>でしかない。 想像することは、それ自体発話であり、発話がなければいかなるイメージもないのである。それは、語彙というものをもたない言語であり、従って、模倣によっては学習できない...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(20)詩的想像における活動

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 「リリーとの恋愛関係を描写したところには、」と私はいった、「あなたの青春の息吹きがひしひしと感じられます。むしろ、ああいう場面にあの当時の呼吸づきがそっくりそのまま出ていますね。」  「それというのも、」とゲーテはいった、「あのような場面は詩的だからさ。そして私が詩の力をかりて、すでに今は失われてしまった青春時代の恋愛感情を補おうとしたからだよ。」(エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』(岩波文庫)1831年3月28日付、 p. 289 )  <場面が詩的>とは、ある特定の具体的な場面ではなく、<当時の呼吸づき>がそっくりそのまま出ている場面。そして<今は失われてしまった青春時代の恋愛感情>を補うために詩の持つ想像力をゲーテは借りたのである。 詩的想像における活動は、何かを「表現」したり「伝達」したり、「模倣」「模写」「再生」「呈示」したりする活動ではない。「原的想像」なるものがあってその活動に素材を提供するのではないし、それが利用できるような何かを想像する、他の想像モデルがあるわけでもない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 281 )  <原的想像>とは何か。 コールリッジは(カントにならって)すべての経験が「想像作用」であると考える傾向があった。しかし、彼が「原的想像」と呼ぶものが、実際「原的」であるのは、それが我々が最もしばしばかかわりをもつ想像様態、つまり実践的想像であるという意味でのみである。(同、 p. 299 )  <詩的想像>と<実践的想像>は、同じ<想像>という言葉が使われていても、その意味合いは異なる。<詩的想像>とは、何かを具体的に意図した活動ではない。何かを「表現」したり「伝達」したりしようとするものではない。 それは、自分自身の観想的イメージの享受で歓びを得る活動力に他ならない。これらのイメージが互いに合わさっていかなるパターンを作り上げるのか、より複合的なイメージの構成要素となる資格は何かは、あらかじめ決定されていない。連鎖パターン、呼応といったものが我々に歓びを与え得るのは、それらが期待に答えるものである場合、しかしそれもそれが詩的な期待である場合のみである。そしてそれらは、予期を大きくはずれて与えられることから我々を驚かせるが、それも詩的な驚きである場合にのみ、歓びを与える...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(19)詩的イメージは虚構の世界に属するもの

どんな「真実」を詩的イメージが表現していようとも、それは実践的、科学的、歴史的な真理ではない(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 275) 実践的に不可能であったり、科学的誤りや歴史的時代錯誤を含むような詩的イメージを非難することは、どろぼうのとがで盗品を非難するように、物事の本性にはずれている(同) 「真」とは命題に関わるものである。そして、実践的言明も、科学的あるいは歴史的言明が常にそうであるように、命題を構成することができるのに対して、詩的イメージは、決してかかる性格をもたない(同) 詩的想像が見ぬくのは、知覚が欲求や評価や好奇心や探究などの先行関心によって曇らされていない場合に物事がそう見えるような姿なのだ(同、 p. 277 )  詩的イメージを様々な<先行関心>という色眼鏡を通して見てしまっては、<観想>することが出来ず、それ自体から<歓び>は得られない。 詩人は「物事」についてそもそも何も言うわけではないのだ(つまり、詩の言説以外の言説空間に属するイメージについて、何も語りはしない)。詩人が語るのは、「これこそ、これらの人物や対象や出来事(例えば、オデュッセウスの帰還、ドン・ジョヴァンニ、ナイルの夕日、ヴィーナスの誕生、ミミーの死、現代の愛、麦畑( Traherne )、フランス革命など)が、実際にそうあった、または今そうある姿である」ということではなく、「観想の中で、私がこれらのイメージを生み出し、彼ら自身の性格の中にそれを読み、その中にただ歓びだけを求めたのだ」ということである。つまり、もし事物が本当にどのようであるかということがわかっているならば、まったく詩などは作り得ないだろうということである。(同)  詩的イメージは、虚構の世界に属するものであって、実在するものではない。したがって、ここに<事実>に関する情報を持ち込むのはお門違いである。そもそも虚構なのだから事実がどうのこうのという話ではない。そのようなことに気を取られていては、観想の世界を楽しむことは出来なくなってしまう。 ワーズワースの説明によれば、観想されるものは「想像された情念」である。また、シドニ-は、何らかのやり方でまったく情熱ではない情熱――感じられないで「見透される」情熱について語っている(同、 p. 279 )  ...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(18)詩的イメージへの誤解

写真は(もし事件の記録をねらっているなら)「ウソをつく」こともあるけれども、詩的イメージは、何をも主張するものでないから、「ウソをつく」ことはあり得ない。形、情景、運動、性格、言語構成――これらのイメージは、「事実」と「非事実」を区別することができるような言語空間に属してはいない。それらは虚構なのだ。また、絵画や言葉や石や舞踏の動きの中の、これらの物語や記述は、虚構の出来事や情景の物語である。それらは寓話なのだ。そしてこの点についてもまた、それらは幻想でもなければ見せかけのイメージでもない。またそれらは装う行動によって作られたイメージでもないのだ。なぜなら、幻想とか、見せかけとか、装いということはすべて、「事実」への言及がなくては不可能であるから。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 273)  <詩的イメージ>は、<虚構>の世界に属するものである。<詩的イメージ>の物語は<寓話>であるから、当然、<事実>かどうかが問われるようなものではない。 実践的、科学的、歴史的イメージにふさわしい諸研究は、詩的イメージにはふさわしいものではない(中略) 詩的イメージは、ある意味で「真」であるか「真理」の表現であることが示され得ないかぎり、理解不能であると考える人々がいる。そしてこのような要求が直面する明らかな困難は、「詩的真実」とか、他の「真理」の表現よりも深遠だとふつう考えられるような、特別製の「真理」の概念をもち込むことによって、避けられるというわけである。そればかりか詩的想像を、その中で物事の真の姿が見られる(他の活動に抜きん出た)活動と理解し、詩人をこの点で、他の人々にはない特別の才能をもつものと考える、そういう傾向が存在するのである。(同、 pp. 274-275 )  詩というものに対する誤信がしばしば見られるということである。 詩的想像とは、詩人が体験し、他の人々にもそれを分かち与えようと願う経験の「表現」「伝達」「再現」以外の何物でもあり得ないと、固く信じて疑わない人々がいる。そしてこの「経験」なるものは、もっぱら「情念」とか「感情」と考えられているのである。(同、 p. 275 )  経験や体験を言葉にして伝えるのは、何程か<事実>の伝達ということになるから、詩的活動とは言えない。 詩的想像はすべて、「...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(17)<観照>は<幸福>を生み出す源

生きているところの神から「行為する」ということが、いわんや「制作する」ということが取り除かれるならば、そこには、観照の働き以外の何が残るであろうか。してみれば、至福な活動たることにおいて何よりもまさるところの神の活動は、観照的な性質のものでなくてはならない。したがってまた、人間のもろもろの活動のうちでも、やはり最もこれに近親的なものが最も幸福的な活動だということになる。  また、人間以外の諸動物はかような性質の活動を完全に欠如しているがゆえに幸福にあずからない、ということも1つの証左となる。つまり、神々にあってはその全生活が至福であるし、また人間にあっては神のかかる活動の何らかの似姿がそこに存しているかぎりにおいて至福なのであるが、人間以外の諸動物はいずれも全然観照的な活動に参与しないがゆえに幸福を有しない。かくして、観照の働きの及ぶ範囲に幸福もまた及ぶわけであり、しかも「観照する」ということがより多く見出だされるほど、「幸福である」こともまた著しい。付帯的にではなく、観照の働きそれ自身に即して――。(観照は即日的に尊貴な働きなのであるから。)してみれば、幸福とは何らかの観照の働きでなくてはならない。(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第 10 巻 第 7 章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、 pp. 226-227 )  <観照>は、<幸福>を生み出す源だということである。 実践の活動とは、欲求し獲得することであり、また科学の活動が、探究し理解することであるのと同様に、詩は観想であり、観想の歓びである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 269 )  実践的活動や科学的活動とは異なり、詩的イメージを伴う活動は、観想(観照)的であり、この観想的活動を通して<歓び>が得られるのである。 詩が現われるのは、想像が観想的想像である時であり、つまりもろもろのイメージが、「事実」または「非事実」として認められない場合、それらが倫理的是認も否認も呼び起さない場合、それが記号として、また原因・結果として、あるいは窮極目的のための手段として読まれないで、作り出され、作り変えられ、観察され、振り返られ、楽しまれ、瞑想され、歓ばれる場合であり、イメージがただより複雑なイメージであるような、より大きなパタンへと構成され...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(13)観想とは何か

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幸福とは、卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動でなくてはならぬ。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれのうちにおける最善の部分」の卓越性でなくてはならない。それゆえ、これが或いは理性(ヌース)と呼ばれるにせよ、或いは何らか他の名称で呼ばれるにせよ、いずれにしても「その本性上支配指導する位置にあり、うるわしき神的なことがらについて思念しうる――それ自身が神的であることによってにしても、またはわれわれのうちに存する最も神的なるものであることによってにしても――と考えられるところのもの」――このものの、その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な幸福でなくてはならない。それが観照(テオーリア)という活動である(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 223)  ここに言う「観照」は、「観想」と同じものである。アリストテレスは、幸福とは卓越性に即しての活動であり、最高の卓越性に即する活動を<観照>と呼んだ。 観想とは、実践的ならびに科学的想像とは異なった、ある特定の想像様式であり、イメージの間を立ちまわる様式である。それは、単なるイメージを製作し享受する活動なのだ。実践でも科学でも、「活動」は否定されるべくもない。一方には、満たされるべき必要、いやされるべき渇きがあり、飽満の後にはいつも欲望がやってくる。消耗はあっても安息はない。また他方にあってはそれ固有の用語法にかなった、同じようなたゆみなさがある。完全に知解可能なイメージ世界を眺望する、すべての探究成果は、新たな活動への序曲にすぎないのだ。 しかし、観想には、現われないものの調査もなければ、現存しないものへの欲求もないので、それはしばしば非活動性とまちがえられてきた。しかし(アリストテレスがそう呼んだように)それを非労働的活動と呼ぶ方が適切である。即ち、それが遊戯的で職業的でないゆえに、また論理的必然と実用的要請から解放され、心配からも自由なために、非活動性の性格に与(あずか)るように見えるような活動である。にもかかわらず、閑暇つぶし(σχολή)というこの見かけは、決して無気力のしるしではない。それは、その活動に参加する各人が享受する自足性に由来するのであり、その活動があらかじめ定められたような外的...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(12)観想におけるイメージ

 観想(contemplation)におけるイメージは、実践的および科学的活動の相関者であるイメージとは、性格を異にしているので、これらのイメージの組織化もまた異なることになろう。実践的世界のイメージ相互(それは、快適と苦痛、是認と否認、「事実」と「非事実」、期待されると期待されない、選択されると拒絶される、のような区別によって組織されているが)の整合性の大本(おおもと)は、それらが欲求の産物であることにある。また、科学的イメージの世界は、相互に理解可能であることをその秩序原理としている。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 265)  <観想>のイメージは、実践的活動のイメージや科学的活動のイメージとは異なるものだということである。  観想の中で自己が眼ざめる世界は、うす暗く、そのイメージはぼんやりしたものかもしれない。またその活動が無関心と隣接しているかぎり、現われてくるものは、1つ1つゆるい連合でつながった、ただのイメージの連鎖で、そのそれぞれが現われる瞬間ごとに固有の歓びをもつが、どれも保持されたり探究されたりしないようなものであろう。(同)  <観想>のイメージは、最初は朧(おぼろ)げなものであり、イメージとイメージの間の必然的な連鎖もない。 しかしながら、これは観想の最下底をなすもので、あるイメージが(それの提供する優越した歓びのために)注意の焦点となり、またそこから増殖がはじまる活動の核となる時、観想的自己が立ち現われるのは、そこからである。核となったイメージは、他のイメージを呼び寄せ、互いに結んで、さらに大きな複雑な構成を取るに至る。しかしこの構成でもって最後というわけではない。それは、同じ種類のもう1つのイメージにすぎない。(同)  が、一旦<観想>のイメージが活動の核となると、イメージは活性化し、他のイメージを引き寄せて大きな構成体を形成する。 この過程で、諸々のイメージはつぎつぎと生れ、互いに変形し、融合し合うが、それはいずれもあらかじめ定められた計画が遂行されるものではない。ここでの活動は明らかに推論的なものでも論争的なものでもない。そもそも解かれるべき問題とか、調査されるべき仮定とか、克服されるべき欲求とか、かちとられねばならない是認など存在しないのだから、「こうだからああ」といったものは...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(11)<学知>なるもの

学知( scientia )を特徴づける解放は、ある教義(dogma)からの解放なのではない。それはむしろ、実践的想像作用の権威からの解放である。実践的想像作用の諸イメージをせいぜい最も経済的に取りまとめたものにすぎないと考えるのは、科学的知識についての誤った理論である。それは、概念の経済という考えが科学理論にとっては具合が悪いからではなく、その諸イメージが、実践の世界のイメージではないからである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 258-259)  <学知>とは、言い換えれば、主観からの解放である。よって、実践的想像作用とは相容れることはない。 ひっきょう(畢竟=つまるところ)、科学者であるしるしは、現在の科学理論を自由に駆使し得る力量(これが彼の出発点だから)、その不合理性を呈示するようなあいまいさや不整合性を見落さない能力、有効な前進の見込める方向に狙いをつけ予測を立てる力、重要なことと項末(さまつ)なことを区別し、有意味で明確な帰結を生み出せるように彼の推測をおし進める能力である。そしてこの点に関していえば、科学的探究のあらゆる細部は、より大規模な、またより一般的な科学理論の場合に、探究と解明がおし進められたやり方のミクロコスモス(縮図)なのである。(同、 p. 259 )  科学的探究は、全体のみならず細部に至っても合理的であり、整合的だということである。科学者には、科学理論に精通しこれを自在に駆使できるだけでなく、科学的探究において妥協を許さない厳格さが求められる。 学知は本質的に協同的な企てである。普遍的な合意をめざして概念的イメージからなるこの合理的世界の構成に参加する人はすべて、あたかも1人の人間であるかのようであり、彼らの間には、意志疎通の厳密さが必須である。実際科学とは、このイメージの世界の構成に参加するすべを心得た人々が、相互に享受する理解のことに他ならない、と言うこともできよう。(同)  <学知>は、単純にして明快な原理や法則という頂点を目指す登山のようなものである。複数の人間が、時に協力し、時に競合し、同じ頂点を目指すのである。 科学者たちは、世界について我々に知識を与えるべく、ますます最善をつくしているけれども、学知というのはそれ自体活動であって、知識であるわけではない。そしてこ...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(10)scientia:知識から探究へ変容

かくて、学知( scientia )は、驚くべき発見の配列とか、世界についての確定した教えとして理解されるのではなく、言説の世界として、想像するやり方ならびにイメージの間を動きまわるやり方として、目下の成果によってよりもそれが導かれる仕方によって特徴づけられるような活動、探究として理解されることになった。またその言語は(はじめに我々が考えていたような)百科全書の教師風の言葉ではなく会話可能な言語であり、それ固有の用語法で語られはするが、会話の中へ参加することもできるものである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 257)  ラテン語 scientia は「知識」全般を指す言葉であった。それが事実の<探究>を意味するように変容したのである。<探究>にあたって用いられる言語は、主観を排した普遍的なものであるから、時として専門語(jargon)が混じるかもしれないが、意思疎通は可能である。  科学的探究、科学者であるという活動は、関係する諸概念から合理的世界を構成し、研究することから生じる知的満足を求める存在ということである。(中略)科学的探究の推進力は、それが与える快とか、それが喚起する倫理的是認とかのために望ましいイメージをもつ世界を作り上げることではなく、因果的にならべられた概念的イメージの合理的世界を作ることにある。(同)  実践的活動とは違い、科学的探究は、<合理的世界>を作ることによって得られる<知的満足>こそが推進力だということである。 学知( scientia )とは、我々が合理的理解を求めるこの衝動に身をまかせる時に起るものである。即ちそれが存在するのは、ただこの衝動が、それ自身のために開発され、権力や繁栄への欲求の介入によって妨害をされないところでだけである。(同、 p. 258 )  <学知>は、合理的世界に属し、政治的権力や経済的繁栄といった主観的活動とは相容れないものである。  科学的活動において、自己がはじめから十分考えぬかれた目的とか、既存の探究方法とか、一群の与えられた問題をもっていると考えるべきではない。いわゆる科学的探究の「方法」なるものは、活動の過程の中で現われてくるものであり、それは科学的探究に付属するすべてを説明するものではない。また科学的思考に先んじて、何か科学的諸問題が存在...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(9)科学の世界

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言語記号について、ソシュールは次のように解説している。 言語記号は…2面を有する心的実在体であって,図示すれば: この2つの要素はかたくあい結ばれ,あい呼応する.ララン語のarborの意味を求めるにせよ,ラテン語が「樹」という概念を示すのに用いる語を求めるにせよ,言語が認めた照合のみが真相にかなうものと思われることは明らかであって,このほかに随意の照合を想像しえようが,われわれはそれらをすべて斥(しりぞ)けるのである.  以上の定義は重要な用語問題を提起する.われわれは概念と聴覚映像との結合を記号(signe)とよぶ.しかし一般の慣用では,この名称は聴覚映像のみを示す,たとえば語(arbor etc.)を.ひとは, arbor が記号とよばれるとすれば,それが「樹」という概念をになうものとしてにほかならぬことを忘れている,そのけっか,感覚的部分の観念が全体のそれを包含してしまうのだ.  このあいまいは,当面の3個の概念を,あい対立しながらあい呼応する名前をもって示したならば,消え失せるであろう.われわれは,記号という語を,ぜんたいを示すために保存し,概念( concept )と聴覚映像( image acoustique )をそれぞれ所記( signifié )と能記( signifiant )にかえることを,提唱する;このあとの2つの術語は,両者間の対立をしるすにも,それらが部分をなす全体との対立をしるすにも,有利である.記号は,それで満足するとすれば,それにかわるものを知らぬからである;日用語には適当なものが見当らないのだ.(ソシュール『一般言語学講義』(岩波書店)小林英雄訳、 pp. 96-97 ) 学知( scientia )「事実」と「非事実」の認知には、既に我々はなじんでいるが、今までのところそれは scientia propter potentiam (力のための学) ―― いかに欲しいものを手に入れるかの知識、是認され、快を与えるイメージの世界をいかにくふうするか――ということにとどまっていた。他方それとは異なる種類の学知( scientia )が問題であるように見える。 即(すなわ)ち、我々の希望や欲求、選好や野心とは独立した観点で理解される世界、全く異なる素性をもち、異なる欲求をもって、どこか宇宙の違う場所に住んでいる...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(8)倫理的活動と奴隷道徳

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一般に倫理的活動は、それぞれ目的であって他の者の欲求の単なる奴隷ではないと、他者によって承認された欲求する自己達の、さまざまの要求の間で適当な平衡を保つことであると、言えるだろう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 253-254) 《すべての貴族道德は勝ち誇つた自己肯定から生ずるのに反して、奴隸道德は「外のもの」・「他のもの」・「自己でないもの」を頭から否定する。さうしてこの否定が即(すなわ)ち奴隸道德の創造的行爲なのである。評價眼のこの逆倒――自己自身へ歸(かえ)る代わりに外へ向ふこの必然的な方向――これこそはまさしく《反感》(ルサンチマン)の本性である。奴隸道德が成立するためには、常に先ず1つの對境(たいきょう)、1つの外界を必要とする。生理學的に言へば、それは一般に行動を起すための外的刺激を必要とするのである――從つて奴隸道德の行動は根本的に反動である》(ニーチェ『道徳の系譜』(岩波文庫)木場深定訳、 p. 37 ) とニーチェは言った。が、オークショットの言う<倫理的活動>は、二-チェが言う<奴隷道徳>ではなく、社会秩序を維持するための平衡感覚のようなものではないかと思われる。 しかしこの一般的性格は、常にある特定の平衡として現われるのであり、ある「倫理性」は他の倫理性とこの平衡が成り立つ水準という点で、また平衡の質という点で、異なるのが常である。例えば「ピューリタン」の倫理では、自己の自立性の水準と平衡の質は、ともすれば非難をかうほどであり、定められた平衡からほんのわずかはずれることも拒否し、共感の領域を少しでも拡大することを許容するようないかなる傾向をも排除するように見える。(オークショット、同、 p. 254 )  <倫理性>は、固定的なものではない。社会を構成する<倫理性>が異なれば、自ずと平衡の中身は違ってくる。  実践的生活に関わる仕事を遂行する言語は、記号的言語である。その言葉と表現は、多くの同意にもとづく記号であり、比較的固定的な厳密な用法をもつがゆえに、また共鳴的でないがゆえに、信頼できる意志疎通の手段として役立つのである。模倣によって学ばれねばならないものが、その言語である。(同、 p. 254 ) 《(言語記号)はなによりも、記号表現と記号内容との結びつきとして捉(とら)えられた...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(7)両次元の認識を持つわけではない実践的活動は抽象的

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これら両次元の認識を欠いた実践的活動は、なお抽象的なものにとどまっている。実際、他人の活動の中にこれらの倫理的カテゴリーの働きを知覚することはできても、それらを自分の欲求の充足のためにこれらの自己たちから期待できる手助けや妨害への手引きとしか見なさないような人を想定できよう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 252)  詰まり、具体的な実践的活動には、「欲求―反発」のイメージだけではなく、「是認―否認」のイメージも必要であるということである。 それ(=両次元の認識を欠いた実践的活動)はあくまで単なるイメージにとどまり「事実」としての資格は欠いている。時には、是認は欲求の活動と合致するように見える。例えば、オーウェン瀑布(ばくふ=滝)の観察者は(何もそれについて言ってはいないが)明らかに、彼の欲求のイメージの性質についていかなる疑問もいだいてはいない。他のいろいろな場合でも、是認と否認は、欲求や反発の批判者として現われる場合が多く、第2の現実の中で( in an actus secundus )働く。(同、 pp. 252-253 ) ※ 現実態は、「形相」としての第1現実態( actus primus )と「働き」としての第2現実態( actus secundus )に区分される。 しかし、たとえどう現われようとも是認または否認された欲求や反発というイメージは、ただ是認したり否認する活動の中でのみ知られるのに変りない。そして、是認と否認という次元が認められるなら実践的想像という活動とは、欲求されかつ是認されたイメージでもって我々の世界を満たすことを目標にするものと言えよう。(同、 p. 253 )  ホッブズは、 《他の人々の行為と自分自身のそれとを比較考量し、もしも前者があまりに重いように思えたならば、前者を秤(はかり)の反対側にかけ直し、自分自身の行為を前者の代わりにかける。そして、自分自身の情念や自己愛がまったく秤にかからないようにする》(ホッブズ「リヴァイアサン」第15章:『世界の名著 23 』(中央公論社)永井道夫・宗片邦義共訳、 p. 184 ) と言う。これをオークショットは、次のように言い換えている。 倫理的行動における自己は、諸々の自己が構成する共同体の平等な構成員なのであり、是認と否...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(6)是認と欲求は別

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実践的活動の世界は、単に意欲の相の下での世界であるのみならず、規範の相の下での世界でもある。即ち、それは単に欲求と反発のイメージから成るのみならず、是認と否認のイメージからも構成されている。  是認とは欲求するのと同じ活動ではない、また否認も反発と同一視され得ない。例えば、死はすべての反発の象徴であるが、すべての否認の象徴であるわけではない。即ち、我々は常に、我々自身の死を忌避するが、我々がそれを否認せず、それに従って行為するかもしれないような情況が存在するのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 252 )  死刑を宣告されたソクラテスは、彼を助け出そうとするクリトンに次のように言い、従容(しょうよう)として死を受け入れた。 《もしわたしたちが、正しいと信ずる理由があって、お前を死に導こうとするならば、お前もまた、これに対して、わたしたち国法と祖国とを、お前のカの及ぶかぎりにおいて、破滅に導くことを企て、しかもこの行為は正しい行為であると主張することになるのだろうか、本当に徳に心がけている人だというお前が。それとも、お前は賢すぎて、忘れてしまったのではないかね。母よりも、父よりも、その他の祖先のすべてよりも、祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものだということを。それは神々の許にあっても、心ある人々の間においても、他にまさって大きな比重を与えられているのだということを。 だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしている時には、父親がそうしている時よりも、もっとよく機嫌を取って、これに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところのものを何なりとも行なうのでなければならないのである。またもし何かを受けることが指令されたなら、静かにそれを受けなければならないのだ。打たれることであれ、縛られることであれ、戦争につれて行かれて、傷ついたり、死んだりするかも知れないこと′であっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとは、この場合、そういうことなのだ》(「クリトン」田中美知太郎訳:『プラトン全集 I 』(岩波書店): 50-50B )  ソクラテスの例は、極端なのかもしれない。が、「欲求―反発」の次元では、「死」は受け入れられなくとも、「是認―否認」の次元では、「死...