オークショット「人類の会話における詩の言葉」(10)scientia:知識から探究へ変容
かくて、学知(scientia)は、驚くべき発見の配列とか、世界についての確定した教えとして理解されるのではなく、言説の世界として、想像するやり方ならびにイメージの間を動きまわるやり方として、目下の成果によってよりもそれが導かれる仕方によって特徴づけられるような活動、探究として理解されることになった。またその言語は(はじめに我々が考えていたような)百科全書の教師風の言葉ではなく会話可能な言語であり、それ固有の用語法で語られはするが、会話の中へ参加することもできるものである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 257)
ラテン語scientiaは「知識」全般を指す言葉であった。それが事実の<探究>を意味するように変容したのである。<探究>にあたって用いられる言語は、主観を排した普遍的なものであるから、時として専門語(jargon)が混じるかもしれないが、意思疎通は可能である。
科学的探究、科学者であるという活動は、関係する諸概念から合理的世界を構成し、研究することから生じる知的満足を求める存在ということである。(中略)科学的探究の推進力は、それが与える快とか、それが喚起する倫理的是認とかのために望ましいイメージをもつ世界を作り上げることではなく、因果的にならべられた概念的イメージの合理的世界を作ることにある。(同)
実践的活動とは違い、科学的探究は、<合理的世界>を作ることによって得られる<知的満足>こそが推進力だということである。
学知(scientia)とは、我々が合理的理解を求めるこの衝動に身をまかせる時に起るものである。即ちそれが存在するのは、ただこの衝動が、それ自身のために開発され、権力や繁栄への欲求の介入によって妨害をされないところでだけである。(同、p. 258)
<学知>は、合理的世界に属し、政治的権力や経済的繁栄といった主観的活動とは相容れないものである。
科学的活動において、自己がはじめから十分考えぬかれた目的とか、既存の探究方法とか、一群の与えられた問題をもっていると考えるべきではない。いわゆる科学的探究の「方法」なるものは、活動の過程の中で現われてくるものであり、それは科学的探究に付属するすべてを説明するものではない。また科学的思考に先んじて、何か科学的諸問題が存在しているわけでもない。「自然の合理性」という原理さえ、純然たる前提であるわけではない。それは、学知(scientia)を発生させる衝動を描き出す、もう1つの言い方にすぎないのである。
科学的探究に先んじて存在するものは、知的満足を与える世界のイメージを達成するという要求でしかないのである。思考が科学的となる過程は、大学なるものが、はじめは既定の教説の教師をめざす者を育てあげるための学校として出発しながら、それがもともともっていた宗派的性格をしだいにぬぎ捨て、共有された教説によってではなく、学習と教育に参加する作法によって卓越した学者たちの社交体(societies)に成っていった過程と、酷似している。(同)
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