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オークショット『政治における合理主義』(19) 政治における合理主義とは精神の腐敗

Rationalism in politics … involves an identifiable error, a misconception with regard to the nature of human knowledge, which amounts to a corruption of the mind. And consequently it is without the power to correct its own short-comings; it has no homeopathic quality; you cannot escape its errors by becoming more sincerely or more profoundly rationalistic. – Michael Oakeshott, Rationalism in politics (政治における合理主義とは…精神の腐敗に等しい、特定可能な錯誤、人間の知の本質に対する誤解を伴っている。そしてそれ故に、自らの欠点を修正する力がない。ホメオパシーの性質を持たない。さらに心から深く合理主義的になっても、その誤りから逃れることは出来ないのである)  合理主義の誤りとは、合理主義に内在するものであって、いくら合理主義を追求しても、誤りから逃れることは出来ないということである。 これは、本によって生きることの罰の1つだと見うるかも知れない。それは様々な個々の誤りへと導くだけでなく、精神そのものを干乾びさせもする。教条によって生きることは、遂には知的不正直を生じさせるからである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 32 )  どうしても誤りから逃れることが出来なければ、誤りが誤りでないと自己を欺(あざむ)くしか術(すべ)はない。 そしてさらに合理主義者は、彼の誤りを正すことのできる唯一の外的インスピレーションを、まえもって拒否してしまった。彼は、自分を救ってくれる種類の知を無視するだけでなく、それをまず破壊することから始めるのである。まず電灯を消してから、見えないじゃないか、つまり「1人で闇の中を歩む人のよう」だと文句を言う。要するに、合理主義者は本質的に教育不能なのであり、できるとすれば、彼が人類の大敵だとみな

オークショット『政治における合理主義』(18) 白黒思考

デカルトの 《いくたりもの棟梁(とうりょう)の手でいろいろと寄せ集められた仕事には、多くはただひとりで苦労したものに見られるほどの出来ばえは無い》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 p. 22 ) という心像は、百年余りの時を経て、米国建国の父の一人と称されるジョン・ジェイによってなぞられることとなった。 The Americans are the first people whom Heaven has favoured with an opportunity of deliberating upon, and choosing the forms of government under which they should live. All other constitutions have derived their existence from violence or accidental circumstances, and are therefore probably more distant from their perfection, which, though beyond our reach, may nevertheless be approached under the guidance of reason and experience. -- John Jay,  Charge to the Grand Jury of Ulster County (1777) (米国人は、自分たちが暮らすべき政治形態を熟慮し、選択する機会を天が初めて与えてくれた人民である。他の全ての憲法は、暴力や偶発的な状況から生まれたものであり、したがって、手の届かぬものなれど、理性と経験の導きの下、近付くやもしれぬ完成の域に達したものからは懸け離れたものだ)――アルスター郡大陪審への告発 独立宣言は、合理主義の世紀( saeculum rationalisticum )の特徴的な産物である。それは、イデオロギーの助けを借りて解釈された知覚されるニーズの政治を表現している。そしてそれが、合理主義の政治の聖典の1つとなり、類似のフランス革命の文書と共に、その後の多くの社会の合理主義的再構成の冒険へのインスビレーションと範型となったのも、驚く

オークショット『政治における合理主義』(17) 合衆国建国

革命のずっと以前から、アメリカ入植者たちの精神傾向、つまり支配的な知的性格と政治習慣は、合理主義的であった。そしてこのことは、憲法関係の諸文書と個々の植民地の歴史に、明確に反映されている。また、これら各植民地が「それらを相互に結び付けていた政治的靭帯を解」いて、各々の独立を宣言するに至った時、この政治習慣が外部から受け取った唯一の新鮮なインスピレーションは、その土着の性格をあらゆる点で再確認するものであった。なぜなら、ジェファーソンや他のアメリカ独立を基礎づけた人たちのインスビレーションは、ロックがイギリスの政治的伝統から蒸留したイデオロギーだったからである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 28) Sect. 4. To understand political power right, and derive it from its original, we must consider, what state all men are naturally in, and that is, a state of perfect freedom to order their actions, and dispose of their possessions and persons, as they think fit, within the bounds of the law of nature, without asking leave, or depending upon the will of any other man. A state also of equality, wherein all the power and jurisdiction is reciprocal, no one having more than another – John Locke, Second Treatise of Government (政治権力を正しく理解し、その原点から導き出すためには、すべての人間が本来どのような状態にあるのか、すなわち、自然の法則の範囲内で、他の人間の許可を求めたり、その意思に依存したりすることなく、自らの行動を命じ、自分の所有物や人物を自分の思うままに処分する完全に自由な状態を考えねばならない。また、す

オークショット『政治における合理主義』(16) 共産主義と米国

権威に関する限り、この分野でマルクスとエンゲルスの作品に比肩(ひけん)するものはない。この2人の著述家がいなくとも、ヨーロッパ政治はやはり合理主義に深く関わっていたであろうが、疑いもなく彼らは、我々の政治的合理主義のうち最も驚嘆すべきものの著者である。さもありなん。というのも、それは、政治権力をふるうという幻想をもつに至った他のどんな階級よりも政治的教養に乏しい階級の教化のために書かれたのだから。だから、この全ての政治的クリップの中の最大のものが、そのために書かれた者たちによって学ばれ使われる際の機械的やり方に、けちをつけることはできないのである。他のどんな技術もこれほど、それが具体的な知であるかのようにして世に登場しなかったし、誰もこれほど広範に、その技術以外失うもののない知的プロレタリアートを生み出しはしなかった。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 27)  マルクスやエンゲルスが著(あらわ)したことは、安直な政治の「虎の巻」( crib )だったということである。世の中をマルクス・エンゲルスの教義に従って技術的に管理すれば、共産主義の「バラ色の世界」が開かれる、などということなど普通に考えれば有り得ない。そんな有り得ないことに、正義感が強いが政治経験のない素人がコロッと騙(だま)されてしまった。が、ソ連邦が崩壊したことによって、それが幻想であったことが明らかとなったのであった。  次は、米国である。  アメリカ合衆国の初期の歴史は、合理主義の政治の教訓に満ちた1章である。(同)  米国は、英国の伝統を嫌って新大陸へ入植した人達の国であるから、初めから<合理主義>的傾向が強かった。 アメリカ独立の基礎を築いた人々は、頼るべきものとして、ヨーロッパの思想伝統と土着の習慣や経験との双方をもっていた。しかし実際のところは、(哲学と宗教の双方につき)ヨーロッパからアメリカへの知的贈物は、初めから圧倒的に合理主義的であったし、土着の政治習慣は、植民地化の環境の下で生み出されたものであって、自然で素朴な合理主義とでもいうべきものであった。 自分たちが実際に受け継いだ種々の行動習慣について反省する能力もあまりなく、フロンティアのコミュニティーで相互の合意により自分たちで法と秩序を設立する経験を常にしていた単純で控え目な人々に

オークショット『政治における合理主義』(15) 合理主義の政治は政治経験未熟者の政治

 全て今日の政治は合理主義に深く感染している、ということを否定できるのは、この感染に別の名を与えるのを選ぶ者たちのみである。我々の政治的悪徳が合理主義的であるだけでなく、我々の政治的徳もまた、そうなのである。様々な我々のプロジェクトは主に、目的も性格も合理主義的であるが、もっと重要なことに、政治における我々の精神的態度全体も、同様にして決定されるのである。 特にイギリスにおいて、合理主義の圧力に対して何らかの抵抗を続けると期待されるかも知れない伝統的諸要素は、今やほとんど完全に支配的な知的趨勢に順応し、この順応をそれらの活力、時代と共に動いてゆくそれらの能力の印だとみなしさえしているのである。 合理主義は、政治のスタイルの1つであることを止め、全ての尊敬に値する政治にとってのスタイル上の特徴となったのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 20-21)  現代政治のすべてが合理主義に深く染まっている。政治の悪徳のみならず美徳さえも合理主義が生み出したものである。合理主義が蔓延した現代政治において、伝統などの非合理的なものは存在する場すらない。かつては1つの流儀流派に過ぎなかった合理主義が、合理主義的でない政治は政治でないというところにまで上り詰めてしまっているのである。 The well-established hereditary ruler, educated in a tradition and heir to a long family experience, seemed to be well enough equipped for the position he occupied; his politics might be improved by a correspondence course in technique, but in general he knew how to behave. But with the new ruler, who brought to his task only the qualities which had enabled him to gain political power and who learnt nothing easily but the vices o

オークショット『政治における合理主義』(14) パスカルのデカルト批判

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パスカルはデカルトに対する明敏な批判者であり、全ての点でそうしたわけではないが、基本的な論点でデカルトに反対した。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 20 ) 76 必要以上に深い知識を求めようとする人々に反対して書くこと。デカルト。 77 わたしは、デカルトをゆるすことができない。かれは、その哲学全体の中で、できれば神なんかはなしですまお(→し)たいと、思ったことであろう。しかし、世界に動きを与えるためには、神に指でひとはじきしてもらわずにはいられなかった。そのあとでは、もう神なんかに用はなかったのだ。 ――パスカル『パンセ』(角川書店)田辺保訳、 p.72-73  このように神をご都合主義で扱う「理神論者」デカルトがパスカルには許せない。 彼はまず、確実な知に対するデカルト的願望は、確実性についての誤った基準に基づいていること、を認めた。デカルトは、疑い得ないほどに確かなことから出発せねばならず、その結果、全ての真正な知は技術知であると信じるようになった。パスカルは、蓋然(がいぜん)性についての彼の信条によって、この結論を回避した。唯一確実な知は、その部分性のために確実なのである。ここには、蓋然的な知の方が確実な知よりも真理全体の内の多くを含むというパラドックスがある。(オークショット、同)  <確実な知>とは、疑わしいという理由で削ぎ落された結果残った「氷山の一角」であり、全体からみれば<真理>の極一部に過ぎず、大半の<真理>が捨てられてしまっているということである。 第2にパスカルは、どんな具体的活動においてもデカルト的推論がそこに含まれる知の源泉の全部では決してない、ことを認めた。彼が言うところでは、人間精神は、成功裡に機能するために、定式化された自覚的技術に全面的に依存することはできないのであって、技術が関係する場合でさえ、精神はその技術に「暗黙に、自然に、わざとでなく」従うのである。(同) 78 無用で、不確実なデカルト。 79 〔デカルト――概略的に話をすべきなのだ。「これは、かたちと運動からでき上がっている」というふうに。そう言えば、正しいのだ。しかし、かたちや運動がどんなだかまで言い、機械の仕組みを述べるのは、それこそこっけいである。そういうことは、役にも立たず、不確実で、厄介

オークショット『政治における合理主義』(13) 棒大なる針小

合理主義的性格は、ベーコンの希望の誇張とデカルトの懐疑の無視とから生じていると見てよいかも知れない。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 18 )  合理主義が、たとえ意に反した形で独り歩きすることになったのだとしても、ベーコンとデカルトがその先鞭を付けたのは間違いない。 現代合理主義は、凡庸な精神が洞察力と非凡の才に恵まれた者達のインスピレーションから作り出したものなのである。偉人達は、弱い人々に反省して考えることを教えたために、彼らを誤りの道に引き込んだ。しかし合理主義の歴史は、この新しい知的性格の漸進(ぜんしん)的な出現と確定の歴史であるだけでなく、それはまた、技術至上の信条が知的活動のあらゆる分野を席巻して行く歴史でもある。デカルトは決してデカルト主義にはならなかった。(同)  技術至上主義が世の中を席巻する時代、我々はそういった時代を生きている。が、それは技術では割り切れないものが捨て置かれる時代でもある。 17世紀には「思考術( L'art de penser )」であったものが、今や、あなたの頭脳とその使い方、通常の費用のほんの一部しかかからぬ世界的に有名な専門家達が立てた思考訓練プラン、になったのである。生活の仕方であったものが、成功のテクニックになり、教育に対する初期のもっと穏やかな技術至上の侵入は、ベルマン式記憶法になったのである。(同、 p. 19 )  このような技術至上主義の行き着く先は「人間疎外」であろう。 この知的ファッションの起源が、自分で発見したものの方が受け継いだものよりも重要だと考える社会または世代、自分の成し遂げたことに過度に印象づけられて、ルネッサンス後のヨーロッパの特徴的愚かさであるあの知的壮大さの幻想を抱き易い時代、自分の過去と決して折り合うことをしないために決して精神的に自分自身と平和な状態にない時代、にあることも確かである。(同)  我々は、先人から受け継いできた社会の中で暮らしている。自分が発見したものなど「大海の一滴」でしかない。にもかかわらず、「自意識」が肥大化した現代のガリヴァーたちは、社会が小人の国リリパットにしか見えない。 Satan was the most celebrated of Alpine guides, when he

オークショット『政治における合理主義』(12) 技術至上は夢

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《合理とは、何らかの前提に立って推論をなし、その推論のなかから何らかの結論を導く、という思考のプロセスのことにほかならない。だが、いかなる前提を置くべきかということについて合理主義は明確な解答を持ち合わせていない。人々が納得しうる妥当な前提がどこから出てくるか、それが問題である。  歴史に蓄えられた良識や一般庶民がひそかに担う歴史感覚としての常識に深くつながるのでなければ、妥当な前提とはいえない。単に前提のことにかぎらず、合理的推論のプロセスとて歴史的考察によってその妥当性が決まる。なぜなら、推論は多方向に分散しうる以上、どの方向に推論を推し進めていくべきか、そして人間の実生活にたいしていかに意味ある結論を導くか、ということについてもまた良識と常識に問うてみなければならないのである。そうでない合理主義は、とりわけ人間・社会の問題にかかわる場合、きわめて人工的な科学主義に陥ってしまう》(西部邁『歴史の復権』(東洋経済新報社)、 pp. 175-176 )  零から合理的作業を始める訳にはいかない。何らかの元となる<前提>が必要である。が、合理主義はそのあたりを有耶無耶(うやむや)にしてしまっている。 デカルトは、懐疑を自分に向けるについてべーコンよりも徹底していて、最終的には、この方法が探究の唯一の手段であり得ると考えるのは誤りだということを、認識するのである。技術至上は夢に帰し、現実とはならないのである。それにもかかわらず、後継者達がデカルトから学んだと信じた教訓は、誤り得ない方法の可能性に対する彼の疑いではなく、技術の至上性だった(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 18 )  <技術>は、それが通用する極々小さな特別な世界において<至上>なだけであって、これが絶対的なものだと思って、外の一般世界でこれを振り回しても、只の空振りに終わってしまうだけである。 《科学主義は、ある事実を説明するにあたって、様々に異なった相矛盾する仮説や理論(諸仮説の体系化されたもの)が併存している場合、そのうちのどれを有効な仮説、理論として採択すべきかということについて経験的には明確にしえないという袋小路にはまってしまっている。誇張を恐れずにいえば、人間・社会にかんする学問の方面で、様々な学派が対立し合ったまま併存しえている(近代経済

オークショット『政治における合理主義』(11) 知的粛清

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確実な知は、空っぽの精神にのみ生じることができるのであって、研究の技術は、知的粛清から始まる(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 17)  <空っぽの精神>に<確実な知>を注ぎ込む。まるで「全体主義国家」のようである。 デカルトの第1原理は、「いかなる事柄も、私がそれを明証的にそうであると認識しない限り、決して真とは受け取らないこと、すなわち、慎重に速断と先入見とを避けること」、「全てが私のものである基礎の上に建設すること」であり、探究者は「あたかも、たった1人で暗黒の闇を歩む人のよう」だと言われるのである。(同)  「偏見」や「固定観念」は排除すべきだろう。が、だからといってすべての<先入見>を捨て去ることは出来ない。なぜなら、<先入見>という「前提」があるからこそ、我々は物事を考えることが出来るからである。すべての<先入見>を捨ててしまうことは、「考える」術(すべ)を失ってしまうことと同じである。 《「合理のための大前提は合理からはやってこない」、そして「事実なるものは(無前提に存在するのではなく)現象にかんする(包括的という意味で納得のいく)合理的説明の結果にすぎない」…「大前提」が何であるかを探究すれば、合理的には説明し切れないという意味で非合理とみなすしかないものを含む「感情」や「慣習」の大切さに気づくに違いない。そしてそのような感情・慣習の重みを知るには、レイショ(均衡)のとれたストーリー(物語)がなければならず、その物語がどこからやってくるかというとヒストリー(歴史)へのコムプリへンション(「理解」つまり「様々なことを一緒に、予め、把握すること」)からだ、ということになる。それをアンダースタンディング(理解)と言い換えても同じことで、それは「下方にある幅広い基礎、その上に立つ」ことだ。その意味で人間性の本質は(J・オルテガのいった)「物語的理性」にある》(西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)、 p. 188 ) 第2に、探究の技術は1組のルールに定式化され、そのルールは、理想としては、機械的普遍的に適用できる誤りえない方法を構成する、のである。第3に、知には等級がなく、確実でないものは単なる無知に過ぎない。(オークショット、同)  <機械的普遍的に適用できる誤りえない方法>を実践するということは、「感情」

オークショット『政治における合理主義』(10) ベーコンが推す研究法

The art of research which Bacon recommends has three main characteristics. First, it is a set of rules; it is a true technique in that it can be formulated as a precise set of directions which can be learned by heart. Secondly, it is a set of rules whose application is purely mechanical; it is a true technique because it does not require for its use any knowledge or intelligence not given in the technique itself. Bacon is explicit on this point. The business of interpreting nature is 'to be done as if by machinery', 'the strength and excellence of the wit (of the inquirer) has little to do with the matter', the new method 'places all wits and understandings nearly on a level'. Thirdly, it is a set of rules of universal application; it is a true technique in that it is an instrument of inquiry indifferent to the subject-matter of the inquiry. -- Michael Oakeshott, Rationalism in politics (ベーコンが推奨する研究法には、大きく分けて3つの特徴がある。第1が、規則集である。暗記できるぴったりの指示集として定式化できるという点で、まさに技

オークショット『政治における合理主義』(9) ベーコンの登場

「知の現状は、隆盛でもなければ大いに前進しつつある訳でもない」とべーコンは書いた。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 15) That the state of knowledge is not prosperous nor greatly advancing; and that a way must be opened for the human understanding entirely different from any hitherto known, and other helps provided, in order that the mind may exercise over the nature of things the authority which properly belongs to it. -- Francis Bacon, Preface to the Instauratio Magna (知の状態は順調でも大いに進歩してもいないということ。そして、これまで知られていたものとは全く異なる道が人間の理解のために開かれ、精神が物事の本質に正しく属する権威をその本質に行使できるよう、他の助けを提供しなければならないということ) IT SEEMS to me that men do not rightly understand either their store or their strength, but overrate the one and underrate the other. Hence it follows, that either from an extravagant estimate of the value of the arts which they possess, they seek no further; or else from too mean an estimate of their own powers, they spend their strength in small matters and never put it fairly to the trial in those which go to the main. -- Ibid. (人は自分

オークショット『政治における合理主義』(8) 非合理に支えられない合理はない

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デカルトは、あらゆるものを疑い斥(しりぞ)け、最後に残ったのが有名な「コギト」(cogito)であった。 《いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥(しりぞ)けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺(あざむ)くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。 また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬(ごびゅう)を犯(おか)さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。 最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。 けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私は有る」(※)というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束(たば)ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第1原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 pp. 44-45 ) ※「我思う、故に我あり」( Cogito ergo sum 【ラテン語】) 他の全ての種類の知の学習と同じく、技術の学習は、純粋な無知を脱することにあるのではなく、すでにそこにある知を修正してゆくことにある。何事も、自足的技術に最も近いもの(1つのゲームのルール)でさえ、実際には空っぽの精神に対してそれを伝えることはできない。そして伝えられるものは、すでにそこにあるものによって育まれるのである。その点、1つのゲームのルール

オークショット『政治における合理主義』(7) 狂人

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合理主義とは、私が実践知と呼んだものはまったく知ではないのだ、という言明のことであり、正しく言うなら技術知以外の知などはないのだ、という言明のことである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 12)  <合理主義>は、定式化できる知識のみ扱うものであるから、定式化できない知識は排除されることになる。 合理主義者の立場からは、あらゆる人間活動に含まれる知の唯一の構成要素は技術知であり、私が実践知と呼んだものは、実際にはある種の無知であって、たとえ積極的に有害でないとしても無視できるものだ、とされる。合理主義者にとって「理性の至上」とは技術の至上を意味するのである。(同)  合理主義者は、<実践知>を取るに足りないものとして排除し、<技術知>だけで事足れりとし、<技術知>を弄(もてあそ)ぶのである。 思想伝統に対するイデ(オ)ロギーの優位は、それが自己完結的であるように見えることによっている。イデオロギーは、精神が空っぽの人々に対して最もうまく教え込むことができるのであり、すでに何かを信じている者に教える場合には、教師が取るべき最初の一歩は、粛清を敢行すること、つまり絶対的無知という揺るぎない岩盤を彼の土台とするために、全ての先入見と先入観念が取り除かれたことを確認すること、である。要するに技術知は、合理主義者が選択した確実性の基準を充たす唯一の知であるように見える、というわけである。(同)  精神を空っぽにした上でイデオロギーを注入すれば、そのイデオロギーは、他の何とも干渉することなく絶対的な存在となれる。同様に、<理性>以外の一切を排除すれば、<理性>は絶対化し、しばしば歯止めが利かなくなって暴走する。  英国の作家であり批評家の G ・ K ・チェスタトンは「狂人」というものを次のように風刺する。 If you argue with a madman, it is extremely probable that you will get the worst of it; for in many ways his mind moves all the quicker for not being delayed by the things that go with good judgment. He is no

オークショット『政治における合理主義』(6) 「習う」と「倣う」

技術知は、ルール、原理、指示、格言の内、つまり命題の内に残らず定式化することが可能である。技術知を本の中に書き留めることが可能である。 (中略) 他方、この種の定式化ができないのが、実践知の特徴である。それの普通の表現は、物事を行なう慣習的、伝統的やり方の中、つまり実践の中にある。そしてこのことは実践知に、不明確、その結果不確実、見解の問題、真理ではなく蓋然(がいぜん)性、という外観を与えるのである。確かにそれは、趣味または鑑識眼の内に表現される、厳密性に欠け、学ぶ者の精神の刻印を受け易いような知なのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 pp. 10-11 )  オークショットは、定式化できる知(技術知)と定式化できない知(実践知)という二分法を用いて考察を深めていく。  技術知は、本から学ぶことができるのであり、通信コースで学ぶこともできる。さらにそれの多くは、暗記し、そらで繰り返し、機械的に適用することができる。三段論法のロジックは〔それ自体が〕この種の技術である。要するに技術知は、その語の最も単純な意味において、教える( teach )ことも学ぶ( learn )こともできるのである。他方実践知は、教えることも学ぶこともできず、伝え( impart )、習得する( acquire )ことができるだけである。それは、実践の内にのみ存在し、それを習得する唯一の方法は、名人への弟子入りによる方法である。弟子になればそれが習得できるのは、師匠にそれが教えられるからではなく(彼はそれができない)、それを絶え間なく実践している者との継続的接触によってのみ、それを習得することができるからである。(同)  「ならう」とは2つの意味合いがあり、それぞれ「習う」と「倣う」の漢字が当てられる。「習う」とは「教えてもらって学ぶ」ということであり、「倣う」とは「実際にやってもらって真似る」ということである。オークショット流に言えば、「習う」のが<技術知>であり、「倣う」のが<実践知>ということになろう。 芸術と科学において普通起こるのは、弟子が師匠から技術を教えられそれを学んでいる内に、はっきりとそれを伝えられたわけでもなく、しばしばそれが何かをはっきりと言えるわけでもないにもかかわらず、単なる技術知とは別の種類の知をも習得して

オークショット『政治における合理主義』(5) 技術知と実践知

もちろん合理主義者が常に、個々の場合にその精神が包括的ユートピアによって支配されているというような、一般的な場面での完全主義者だとは限らない。しかし彼は、細部においては例外なく完全主義者なのである。そしてこの完全性の政治から、画一性の政治が出て来る。つまり、状況というものを認めない組立には、多様性のための場所もありえないのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 6-7)  すべての政治課題を合理的処理するというのならまだしも、合理主義者が扱う政治課題は、合理的処理が出来るものに限られる。それ以外は非合理的なものとして端(はな)から排斥される。実に合理的なのである。  全ての科学、全ての芸術、何らかの技術を必要とする全ての実践活動、実際、人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく2つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている。思うに、それらを2種の知と呼ぶのは行き過ぎなのではない。(実際にはそれらは別々に存在するわけではないが)それらの間には一定の重要な違いがあるからである。 初めの種類の知を、技術知または技術の知識と呼ぶことにする。全ての芸術と科学、全ての実践活動には、ある技術が含まれる。多くの活動においてこの技術知は、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移される、またはそうされるはずの、諸ルールへと定式化される。しかしそれが精確に定式化されている、またはされた、ものであると否(いな)とに拘(かか)わらず、また、精確な定式を与えるには特別の技と洞察が必要かも知れぬとは言え、それの主要な特徴は、それがそのような定式化を許すものであるというところにある。イギリスの道路で自動車を運転する技術(またはその一部)は道路法( Highway Code )の内に見出し得るし、料理の技術は料理の本の中に書かれている。また、自然科学や歴史学における発見の技術は、それ等の研究のルール、観察と証明のルールの内にある。 第2の種類の知は、使用の内にのみあることから実践知と呼ぶことにするが、これは反省的なものではなく、(技術とは異なり)ルールに定式化することができない。しかしだからといって、これが深遠な種類の知だというわけではない。ただ、これが共有され人々の共通の知になるための方法は、教条

オークショット『政治における合理主義』(4) 合理という小さな世界

 合理主義者にとって物事の処理は問題解決であり、その仕事においては、理性が、習慣への降伏によって硬直化したり伝統のもやによって曇らされているような者には、成功は望めないのである。この活動において合理主義者が自分のものだとする性格は、技術者のそれである。この場合、技術者の心は適切な技術によって全面的に制御され(ていると想定され)、彼の第一歩は、彼の特殊化された意図と直接関連性のないものを全て自分の注意から追い出すことである。政治を工学に準(なぞら)えるこのやり方は、まさに合理主義の政治の神話とも呼ぶべきものである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 5)  技術を用いることが出来る範囲はごく限られる。同様に、合理的判断が出来る範囲は、本来政治が扱うべき範囲のごく一部に留まるに違いない。合理主義者は、合理的に処理できない部分は非合理的なものなので政治課題から排除すべきだとするのかもしれない。が、この非合理的なものの中に重要な部分が含まれていないとは限らない。否、含まれているに違いないのである。  例えば、日本には皇室の伝統がある。が、どうしてこのような伝統があるのかは非合理そのものである。が、だからといって皇室をなくしてしまえばよいということにはならないであろう。もし皇室をなくしてしまえば、日本は日本でなくなってしまう。皇室は文化的統合の象徴的存在なのであって、皇室がなくなれば日本文化は雲散霧消してしまうであろうことは想像に難くない。  合理主義の政治の一般的な特徴として、これ以外に2つのものを認め得る。それは、完全性の政治、そして画一性の政治である。これらの特徴の各々は、もう一方と切り離されれば、それぞれまた違った政治のスタイルを指示するのだが、合理主義のエッセンスは、両者の結合にある。(同、 p. 6 )  合理主義的政治は、不完全なものの排除し、画一化を図る。 不完全性の消失は、合理主義者の信条の第1項目だ、と言えるかも知れない。彼に謙虚さがないわけではない。彼は、自分の理性の猛攻をはねつけるような問題を想像することができる。彼に想像できないのは、問題解決からなるのではない政治、または「合理的」な解が何もないような政治問題、である。そんな問題は、にせものなのである。そしてどんな問題についてであれ「合理的」解とは、

オークショット『政治における合理主義』(3) デカルト合理論の屁理屈

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デカルトは『方法序説』の冒頭で、 《良識( bon sens )はこの世のものでもっとも公平に配分されている》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 p. 12 ) と言う。が、良識が公平に分配されている、詰まり、全ての人に同じ良識が備わっているなどと信じる人など皆無だろう。にもかかわらず、デカルトは屁理屈を捏(こ)ねる。 《なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ大人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わぬのが一般である。このことで大人がみなまちがっているというのはほんとうらしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性( raison )とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等であることを証明する》(同)  良識あるいは理性と呼ばれる、真実と虚偽を見わけ、正しく判断する力は、生まれながらに平等であることなど絶対に有り得ない。そもそも人は生まれながらにして良識や理性など持ち合わせてなどいない。様々な経験と学習によって培われていくものである。 《そこでまたこのことが、私どもの意見の多様なのはある者が他の者よりよけいに理性を具えたところからくるのではなく、私どもが思想を色色とちがった道でみちびくところから、同じような事を考えるわけでもないところからくるのである》(同)  意見が多種多様であるのは、理性に差があるからではなく、理性の使い方に差があるからだとでも言いたいらしい。「物も言い様(よう)」としか言い様がない。 《そもそも良き精神を持つだけではまだ不完全であって、良き精神を正しく働かせることが大切である。きわめて偉大な人人には最大の不徳をも最大の徳と全く同様に行いうる力がある。また、ごくゆっくりでなければ歩かぬ人でも、つねに正しい道をたどるならば、駆けあるく人や正しい道から遠ざかる人よりも、はるかによく前進しうるのである》(同)  <つねに正しい道をたどる>人などいない。更に言えば、世の中、何が<正しい道>なのか分からないことだらけである。だから議会を開いて意見を交換し、よりよい道を模索するのである。 当然のことながら…伝統を保持することも改善することも問題にはならない。なぜなら、両者はいずれも〔そ

オークショット『政治における合理主義』(2) 政治は合理主義的処理は馴染まない

すべての世界の中で政治の世界は、合理主義的処理にもっとも馴染まない世界かも知れない――政治、そこには常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っているのだから。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 4)  白黒はっきりさせるのには<合理主義>的処理は有効かもしれないが、政治的決断の多くは簡単に白黒付けられない灰色の領域の問題に関するものであるから、<合理主義>的処理は馴染まないということである。 彼(=合理主義者)は、開かれた精神、つまり先入見、過去の遣物、習慣から自由な精神を信奉する。彼は、何物にも妨げられない人間「理性」が(活動させられさえすれば)、政治活動における誤りなき指針だ、と信じている。さらに彼は、「理性」のテクニックと作用としての論議を信奉し、意見の真理性と制度の「合理的」基礎のみが、彼の関心事である。その結果、彼の政治活動の多くは、彼の社会の社会、政治、法、制度に関する遺産を彼の知性の法廷の前に立たせることにあり、その余は、「理性」が事件の様々な環境の上に何の制約も受けずに管轄権をふるう、合理的管理である。(同、 pp. 4-5 )  合理的でないものを非合理だとして排除してしまえば、「合理的社会」が築ける。が、それは極小さな社会でしかないだろう。例えば、合理的審判を受けて来なかった文化や伝統というものは非合理的なものの塊(かたまり)である。したがって、合理主義を貫けば、過去のほとんどを捨て去ることになりかねない。 合理主義者にとって存在しているというだけでは(そして明らかに何世代にもわたってそれが存在してきたということからは)何物も価値を有しない。親しみに価値はなく、何事も、精査を受けずに存続すべきではないのである。こうしてその性向のため、彼にとっては受容と改革よりも破壊と創造の方が理解し易く携わり易いものとなる。繕うこと、修理すること(つまり、素材についての忍耐強い知識を必要とすることを行なうこと)を彼は、時間の無駄とみなす。そして彼は常に、そこにあるよく試された便法を利用することよりも、新たな趣向を発明することの方をよしとする。彼は、それが自覚的に引き起こされた変化でないかぎり変化を認識せず、その結果容易に、慣習的なもの、伝統的なものを変化なきものとする誤りに陥る。(同、 p. 5

オークショット『政治における合理主義』(1) 合理主義者とは

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本日より、英国の哲学者マイケル・オークショット『政治における合理主義』を読んでいきたい。    オークショットという名前を耳にしたことがない方も多いのではないかと思われるけれども、保守思想を考えるに当たって欠くべからざる人物であることは間違いない。前回のハイエク『隷属への道』に続き本書もまた浩瀚(こうかん)であるので、長丁場になると思われるが、お付き合いの程、宜しくお願い致します。 ★ ★ ★ オークショットは「合理主義者」を次のように定義する。   The general character and disposition of the Rationalist are, I think, not difficult to identify. At bottom he stands (he always stands) for independence of mind on all occasions, for thought free from obligation to any authority save the authority of 'reason'. His circumstances in the modern world have made him contentious: he is the enemy of authority, of prejudice, of the merely traditional, customary or habitual. His mental attitude is at once sceptical and optimistic: sceptical, because there is no opinion, no habit, no belief, nothing so firmly rooted or so widely held that he hesitates to question it and to judge it by what he calls his 'reason'; optimistic, because the Rationalist never doubts the power of his 'reason' (when

ハイエク『隷属への道』(53)【最終回】「国際連邦」が必要だ

国際的な権力を創設する上で障害になっているのは、国際的な権力は、現代の国家が保持している、事実上無制限な権力のすべてを掌握する必要があるという考え方である。しかし、連邦制度のもとでは権力が分割されるから、この種の無制限な国際的権力はまったく必要ない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 322)  連邦制であれば、権力が分散される。したがって、国際機関を創る際は、ハイエクの言うように連邦制を採用すべきであった。が、実際は、 United Nations (連合国)という名の戦勝国が世界を牛耳る権力体が創られ現在に至っている。 民衆一般や将来の指導者たちのために、政治的訓練をしてくれる学校を提供するのが地方自治である。この地方自治という偉大な手段に依存せずに、民主主義がうまく運用されたためしはどこにもない。(同、 p. 324 )  このことはジェームズ・ブライスの言葉として有名である。 it is enough to observe that the countries in which democratic government has most attracted the interest of the people and drawn talent from their ranks have been Switzerland and the United States, especially those northern and western States in which rural local government has been most developed. These examples justify the maxim that the best school of democracy, and the best guarantee for its success, is the practice of local self-government. Viscount James Bryce, Modern Democracies , vol. 1: CHAPTER XII: local self-government (民主政治が最も人々の関心を集め、その中から才能ある人材を引き出してきたのは、スイスと合衆国、

ハイエク『隷属への道』(52) UNは国際連合に非(あら)ず

国際的な当局というものは、諸国民が自らの生活を発展させていけるような、秩序の維持と環境条件の創設をなすのみにとどまるならば、正義にもとることもなく、経済の繁栄に大きく貢献するものとなろう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 314)  <国際的な当局>と言えば、ほとんどの日本人が「国際連合」を思い浮かべるに違いない。が、「国際連合」は日本語における誤訳であって、実態は第2次大戦の戦勝国連合でしかない。だから名前もThe United Nations(UN)となっているのである。UNが戦勝国連合である証拠は、常任理事国が米英仏露中の5カ国(P5)で構成されており、「拒否権」という特権を独占していることからも分かる。したがって、公正な国際機関を創るためには、現UNを一旦解散することが必要となるのではないかと思われる。戦後日本には、しばしば国連至上主義のような幻想が見られるが、実態をよく見極めることが必要であろう。 われわれが必要とし、またその実現が可能だと希望を持つこともできるのは、経済的利害関係を抑制できる能力を持ち、自らは各国間の経済的ゲームに巻き込まれていないので、各国間に経済的な利害の衝突が起きればこれを真に公平に裁定できる能力を持っていて、しかも各国より強力な政治的権力である。 ここで必要とされているのは、各国の国民に対して何をなすべきかを命じることのできる権力は持っていないが、ある国の国民が他国の国民に被害を与える行為をしないように抑制できる権力は持っていなければならない、1つの国際的な政治当局である。このような国際的当局へ譲渡しなければならない権力は、近来、諸国の政府によって行使されてきた新しい種類の権力ではなくて、平和な国際関係を維持するために絶対不可欠な最低限の権力、すなわち本質的にみて、極端に自由主義的な「自由放任」国家が持っている権力と同じものである。 そして、一国の分野においてよりもさらにいっそう不可欠だとさえ言わなければならないことは、国際的当局が持つことになるこれらの諸権力が、「法の支配」によって巌格に制限されなければならない、という点である。(同、 p. 320 )  UNはP5の恣意的統治下に置かれてしまっている。だからUNは解散し、「法の支配」下に置かれた新たな国際機関を創設する必要があるのである。  厳

ハイエク『隷属への道』(51) 集産主義国は国際社会の不穏分子

様々な国がそれぞれの国家的規模によって独自に行なう多様な経済計画化は、それらが複合された時の結果から見ると、純粋に経済的な観点から見ても、有害なものとならざるをえず、しかもそれに加えて、深刻な国際的摩擦を発生させざるをえないということである。 今さらとりたてて強調するまでもないが、それぞれの国が、自国の直接的な利益にとって望ましいと思われる政策なら、他の国にどんな被害を与えようが、何であれ実行してもかまわないということになれば、国際的秩序や持続的な平和が達成される望みはほとんどなくなってしまうことは明らかだ。 だが、多くの種類の経済計画化は、計画当局がうまく外からの影響というものを遮断できた時に、初めて実現可能なものであることもまた言うまでもない。したがって、そういった計画化が行なわれていけば、国境を越えた人や物の移動がますます制限されるようになってしまうことは必然なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 pp. 304-305 )  統制経済が成立するためには、対外的な経済関係を絶ち自国内のみで行うか、周辺国も巻き込んで統制経済化するしかない。  より潜在的ではあるが、現実性が少ないわけではない国際平和への危険が存在する。それは、たとえばある国で国民全員を経済的に平準化するような政策が行なわれたり、国家規模での計画化により利益が衝突するいくつかの経済ブロックが作られたりすることによって、生まれてくるものである。前者の点に関して見れば、国境を明確な境として人々の生活水準がはっきりと異なってしまったり、ある国の国民となることで他の国民となった場合とはまったく異なる富の配分を得られるというようなことは、必要なことでも、望ましいことでもない。後者に関して言えば、ある国の資源が全部その国の独占的所有とされ、国際的な経済交流は個人間の流通でなく国家を交易主体とした流通へと統制されていくようになれば、それは必ず国家間の摩擦や他の国への羨望を引き起こす原因となる。(同、 p. 305 )  集産主義国は排他的であるので、他国と同じ決まりで経済交流を図ることは基本的に無理である。つまり、 集産主義国は、 国際社会にとっての「不穏分子」 でしかないということである。 力に訴えることなく解決できる諸個人間の競合関係であったものを、上位の法に従う

ハイエク『隷属への道』(50) 自由主義社会における美徳の衰退

こうした(=集産主義)体制のもとでは、時折民衆の代表を選ぶための選挙が実施されても、各候補を道徳的基準に従って選出することは、ますます少なくなっていく傾向がある。選挙はもはや、各候補者にとって、道徳が試される機会でもなければ、自分の道徳体系がどんなものかを選挙民に絶え間なく繰り返し説明したり、高い価値のために低い価値を進んで犠牲にすることで自己の政治信条がどれだけ真剣なものであるかを証明したりしなければならない機会でも、なくなってしまっている(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 292)  集産主義では、自由主義のような<選挙>は意味をなさない。判断の自由がない個人の意見を集めても無意味だからである。自由主義の指示命令系統は、「上意下達」と「下意上達」の二方向であるのに対し、集産主義には「上意下達」の一方向しかない。下位の者から意見を汲み上げる手段の1つが<選挙>というものであろうが、集産主義ではこのような方式は機能しない。  選挙は、選挙人および被選挙人の両者が人格を磨く場である。被選挙人つまり候補者は、自らの思想信条を明らかにし、投票を呼び掛ける。政治が扱う事項は複雑多岐に渡り、1つひとつの問題の賛否を聞いても仕方ない。問われるのは、候補者の道徳観である。  様々な行動規範というものは諸個人によって生み出され、進化させられてくるものであり、それこそが、社会集団の政治的行動がどのような道徳的基準を持つかを決定していく(同)  集団の規範は、過去からの慣習や慣例に負うところが大きい。これらも先人たち個人によって生み出され、進化させられてくるものの積み重ねと言えるだろう。懸念されるのは、 個人の自主独立性や自立の精神、あるいは個人的なイニシアティヴやそれぞれの地域社会への責任感、様々な問題をうまく解決しうる個人の自発的な活動に対する信頼、隣人に対する不干渉、普通と異なっていたり風変わりな人々に対する寛容、習慣や伝統に対する尊敬、権力や政府当局への健全な猜疑心(同、 pp. 295-296 ) といった自由主義社会の「美徳」が集産主義の広まりと共に薄れつつあることである。 ☆ ☆ ☆ Of all checks on democracy, federalism has been the most efficacious an

ハイエク『隷属への道』(49) 自由社会と道徳

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 物的な諸条件が人々に対してなんらかの選択を余儀なくさせるような分野で、人々が自分の行動を秩序立てていける自由が存在していること、そして、人々は、自らの良心に従って自分自身の生活を整えることに対する責任を保有していること。これこそ、道徳的感覚が発達していくことのできる唯一の環境であり、このような環境のもとで、それぞれの個人が自由な決定を下していくことによって、道徳的観念が日々新たにされていく。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 290-291)  <自由>と<責任>は表裏一体のものである。<責任>あればこそ自制心も生まれる。そして<自由>と<自制>の葛藤の中で人は磨かれ、道徳心を涵養していくのである。 自分より上位の人に対してでなく、自分自身の良心に対して責任を負うこと、強制されるからではなくて、自発的に行なうべき自分の義務を自覚していること、自分が貴重だと考えている様々な事柄のうち、どれを犠牲にするかを決定しなければならないという必要性、自分の下した決定の結果がどのようであっても、それに対して自分で責任を持つこと、といったことが、道徳という名前にふさわしい事柄のまさに本質なのである。(同、 p. 291 )  何かを選択するということは、それ以外の選択肢を捨てるということである。何かを選ぶとは何かを犠牲にすることによって成り立っている。だから<責任>がある。 本来の道徳は、各人が自分自身でこれが正しいと考えることは、たとえ自分の欲望を犠牲にしてもこれを行ない、また、たとえそのような行動を敵視する世論が存在していても、敢然として断行する用意があることを要求する。(同、 p. 292 )  「正義」や「勇気」といった道徳心は、時として<自己犠牲>を求めることもある。危険を顧みず難題に立ち向かう態度は称賛に値する。  個人の自主独立や自助、個人の責任で進んで危険を冒していく意志、そして、世間の大半の人々の意見と異なっていても自分の信念を貫き通す用意とか、隣人たちと自発的に喜んで協力していく意欲などといった美徳(同) これらは成熟した社会にこそ見られる「徳目」である。 《徳はわれわれのうちに生まれる善への傾向とは別のもので、それよりも高尚なものであるように思われる。生れつき正しく気高い心の人は、有徳の人と同じ道を行き、その

ハイエク『隷属への道』(48) 選択の自由と道徳

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道徳は必然的に個人的な行動にかかわる現象である…各個人が自分自身で決定する自由を持っていて、しかも道徳的な規範を遵守(じゅんしゅ)するため、個人的な利益を自発的に犠牲にすることを求められる分野においてだけ、道徳は存在できる(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 290)  個人の側に選択の余地があり、どれを選択するのかについての自由があればこそ「道徳」は存在する。逆に言えば、個人に選択権のない全体主義社会には、そもそも「道徳」なるものは存在しない。 個人の責任が問われないところでは、善も悪もなく、道徳的真価を試される機会も、正しいと思うことのために欲望を犠牲にすることで自らの信念を証(あか)すチャンスもない。人々が自分の利益に責任を持っていて、それを犠牲にする自由があるところにおいてだけ、人々が下す決定は道徳上の価値を持つことができるのである。(同)  全体主義社会では、個人に自由はなく、したがって、責任もない。自由がないから責任もないという意味で全体主義は平等社会なのである。 われわれは、自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることなど許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的にふるまったからといって、どんな価値があるものでもない。また、善行を行なうようにあらゆる面で強制されている社会の人々は、称讃されるべきどんな資格も持っていない。(同)  <博愛>には、どこか胡散(うさん)臭いところがある。 Philanthropist , n. a rich (and usually bald) old gentleman who has trained himself to grin while his conscience is picking his pocket. – Ambrose Bierce, The Enlarged Devil’s Dictionary ( 博愛主義者、慈善家 (名詞)自らの良心がスリを働いている間、ニヤニヤする訓練を積んできた金持ちの(そして大抵はハゲた)老紳士)―A・ビアス『悪魔の辞典』  自由社会では、自由と自制の平衡を如何に保つのかが人として問われるのに対し、統制社会には自由がないから、自制する必要もない。唯(ただ)、上からの支持に従うだけである。自由社会には、自制

ハイエク『隷属への道』(47) 反「労働の再分配」

短期的に見れば、「可能な最大限の雇用」というものは、すべての人々に対して臨時的であれ雇用を与えたり、貨幣供給の拡大を行なうことによって、いつでも作り出すことができるだろう。だが、このような最大限の雇用は、累進的に加速されていくインフレ的な拡大政策によってだけ可能になるものでしかなく、それがもたらす結果といえば、諸条件が変化していくことによって必要とされるようになる、諸産業間における労働の再分配を妨害することである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、 p. 285 )  ケインズ理論は、不況となって失業者が増加するのは偏(ひとえ)に国内の需要が不足しているからだとして、政府が公共投資を行うことを求めるわけであるが、ハイエクは、このような施策は労働市場の自由を損なうものだと言うのである。 しかも、実のところは、このような再分配は、働く人々が自由に自分たちの仕事を選択することができるかぎり、ある程度の時間の遅れののちに(したがってその間にある程度の失業は生じさせるものの)、必ず達成することのできる種類の再分配なのである。(同)  一時的に失業者が増えたとしても、少し経てば失業者はまた新たな職業に就くわけだから、政府が焦って就職を斡旋(あっせん)するには及ばないということである。 それゆえ、金融政策という手段によって最大限の雇用の達成を常に図ろうとすることは、究極的には「完全雇用」という目的それ自体や、これにかかわる他の諸目的の達成を、確実に不可能とさせてしまう政策でしかない。しかもこの政策は、労働の生産性を低下させていく傾向を持っており、その結果、つじつま合わせ的な政策手段を採用しないかぎり、現在の賃金水準において雇用され続けることができる労働人口の比率は、常に減少していくのである。(同)  失業者を減らすために「公共投資」を行い続ければ、それが既得権益化してしまうだろう。詰まり、一旦「公共投資」をやり始めれば、止(や)められなくなってしまう。よって、この「先行投資」は永遠に回収されなくなってしまい、借金だけが積み上がるという構図になる。 重要なことは、貧困の問題を経済成長によってではなく、「所得の再分配」という近視眼的な方法によって解決しようとして、様々な階級の手取り所得を広汎に減少させてしまい、その結果として、それらの人々を既存の政

ハイエク『隷属への道』(46) 対ケインズ

個人的自由と、単一の目的が至高のものとされ、社会全体が完全にそして恒久的にそれに従属させられねばならないということとは、両立できない…自由な社会はどんな単一の目的に対しても従属させられることがあってはならない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 281)  「個人的自由」か「社会的統制」かは二者択一のものであって、政治がこの 2 項の間にある平衡点を探るというようなものではない。 この規範の唯一の例外は戦争であり、またその他の一時的な災害だけである。こうした事態のもとでは、緊急で直接的な必要に対して、ほとんどすべてのことが従属させられなければならないが、これは、長期的な観点で自由を維持し続けるために、われわれが支払わなければならない代償である。(同)  戦時下や災害などで一時的に自由を放棄しなければならない状態に追い込まれることもある。戦前の日本が軍国主義体制となったのがこれに当たるし、東日本大震災後、自由が制限されたことも思い起こされるところである。  平和の時代には、単一の目的が、他のすべての目的に対して絶対的に優先される立場に立つようなことは、決して許されるべきではない。このことは、失業の克服という、いまや最も重要な地位を占める問題になったとすべての人々が意見の一致をみているテーマに関してさえ当てはまる。(同、 p. 282 )  この発言は、政府が積極的に市場に介入し失業対策を行うべきだとするケインズ理論を念頭に置いてのものだろう。 Unemployment develops, that is to say, because people want the moon; -- men cannot be employed when the object of desire (i.e. money) is something which cannot be produced and the demand for which cannot be readily choked off. There is no remedy but to persuade the public that green cheese is practically the same thing and to have a green cheese f