オークショット『政治における合理主義』(4) 合理という小さな世界

 合理主義者にとって物事の処理は問題解決であり、その仕事においては、理性が、習慣への降伏によって硬直化したり伝統のもやによって曇らされているような者には、成功は望めないのである。この活動において合理主義者が自分のものだとする性格は、技術者のそれである。この場合、技術者の心は適切な技術によって全面的に制御され(ていると想定され)、彼の第一歩は、彼の特殊化された意図と直接関連性のないものを全て自分の注意から追い出すことである。政治を工学に準(なぞら)えるこのやり方は、まさに合理主義の政治の神話とも呼ぶべきものである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 5)

 技術を用いることが出来る範囲はごく限られる。同様に、合理的判断が出来る範囲は、本来政治が扱うべき範囲のごく一部に留まるに違いない。合理主義者は、合理的に処理できない部分は非合理的なものなので政治課題から排除すべきだとするのかもしれない。が、この非合理的なものの中に重要な部分が含まれていないとは限らない。否、含まれているに違いないのである。

 例えば、日本には皇室の伝統がある。が、どうしてこのような伝統があるのかは非合理そのものである。が、だからといって皇室をなくしてしまえばよいということにはならないであろう。もし皇室をなくしてしまえば、日本は日本でなくなってしまう。皇室は文化的統合の象徴的存在なのであって、皇室がなくなれば日本文化は雲散霧消してしまうであろうことは想像に難くない。

 合理主義の政治の一般的な特徴として、これ以外に2つのものを認め得る。それは、完全性の政治、そして画一性の政治である。これらの特徴の各々は、もう一方と切り離されれば、それぞれまた違った政治のスタイルを指示するのだが、合理主義のエッセンスは、両者の結合にある。(同、p. 6

 合理主義的政治は、不完全なものの排除し、画一化を図る。

不完全性の消失は、合理主義者の信条の第1項目だ、と言えるかも知れない。彼に謙虚さがないわけではない。彼は、自分の理性の猛攻をはねつけるような問題を想像することができる。彼に想像できないのは、問題解決からなるのではない政治、または「合理的」な解が何もないような政治問題、である。そんな問題は、にせものなのである。そしてどんな問題についてであれ「合理的」解とは、その本質からして、完全な解なのである。彼の組立の中には、「その状況の下でもっともましなもの」の1つが占めるべき場所はなく、「最善」のための場所のみがある。なぜなら、理性の機能は、まさに状況を克服する事にあるのだから。(同)

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