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オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(62)右往左往は前提の誤り【最終回】

普通の相互信頼の契約では決して最初の履行者になるな、と自然的な理性は我々に警告する。それはまた平和を求めることが我々の利益になると我々に語り、平和が発生しうる条件を示唆する。平和に必要な条件は、権威と権力とを兼ね備えた主権者の存在である。この主権者の権威は、すべての人がすべての人と結ぶ相互信頼の契約からしか生じない。その契約において、彼らは自分自身を治める自然権を主権者に譲渡し、また共通の平和と安全に関することについては、主権者のすべての命令をあたかも自分自身の命令であるかのように承認する。だがこの主権者がその命令を実現する権力は、このように服従を約した人々が現実に服従することからしか生じない。どこかで始まりがなければならない。そしてそれは理にかなった始まりだと示されなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 355)  「万人の万人に対する戦い」が自然状態だと前提するから、こんな不自然な理路を辿(たど)らねばならなくなるのだ。この前提を取り下げれば、感情や理性のある人々は平和を求めるのが普通であるから、<最初の履行者になるな>というような話は出て来ようがない。 約束を結んだほどの分別を持っている人々なら、それを守るほどの分別がある(つまり、自分の利益のありかを見て取ることができるほど、貪欲や野心やその種のものから解放されている)人々がどんな時でも十分に存在するだろうと期待するのは理にかなっているのではないか? そしてもしそうならば、最初の履行者になることは誰にとっても法外な危険ではなくなる。そしてこの契約の当事者は誰でも最初の履行著になるかもしれない。「これがかの偉大なリヴァイアサンの誕生である。……我々は不死の神の下で、我々の平和と防衛とをリヴァイアサンに負うているのである。(同、 p. 355 )  リヴァイアサンとは、旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる、地上最強の怪獣の名である。ホッブズは、この最強なるものを、人々が命を守るために契約を結んで設立したコモンウェルスだとした。 この説明は、主権を設立するこの契約の最初の履行者になるのが合理的であることは否定できないと証明しているのではなくて、単にそれに伴う危険は普通の相互信頼の契約に伴う危険よりもはるかに合理的である(あるいは法外な程度がはるかに小さい)と...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(61)「万人の万人に対する戦い」は不自然状態

分別ある人がすべて求めていること、この契約の最初の履行者があてにしていることは、持続的な平和の状態だから、この状況は次のような状況として理解する方がもっとよい。そこでは他の当事者のうち十分なだけの人々が、十分なだけの時間、自発的に履行するため、いつでも特定の機会に服従する気にならない人々に強制を加える主権者の十分なだけの権力を発生させることを期待してもおかしくないので、最初の履行者になって履行し続けることは不合理ではない。というのも、最初の履行者になることが合理的か否かは、常に自分の信頼に応えてくれる特定の人々の不変の集団があると合理的に期待できるか否かにはかかっていないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 354)  <分別ある人がすべて求めていること…は、持続的な平和の状態だ>と言い切る根拠は何か。これは、<万人の万人に対する戦い>が自然状態という前提とは真逆である。 The Passions that encline men to Peace, are Feare of Death; Desire of such things as are necessary to commodious living; and a Hope by their Industry to obtain them. And Reason suggesteth convenient Articles of Peace, upon which men may be drawn to agreement. These Articles, are they, which otherwise are called the Lawes of Nature -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIII. (人を平和に向かわせる感情は、死の恐怖、広い生活に必要なものの欲望、そしてそれらを手に入れるための、努力による希望である。そして理性が、人が合意するのに便利な平和の条文を提案する。これらの条文は他に、自然法とも呼ばれている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第13章  人間には感情もあれば理性もある。だから、平和を求めるのである。が、もし仮に人間から感情や理性が失われてしまえば、闘...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(60)道理の通らぬホッブズの論理

当事者間の普通の相互信頼の契約にあっては、最初の履行者は相手方がその時になっても約束を守らなかったら報いられない。そしてこのことは、参加者がたくさんいる普通の相互信頼の契約(品物や役務に関するもの)でも変わらない。全参加者が履行しなければ、最初の履行者は、そしてそれぞれ他の履行者も、重要なものを奪われる。 しかし多数者が主権に服従することを約するこの契約にあっては、全参加者ではなしに一部の人だけが履行しても、最初の履行著は、そしてそれぞれ他の自発的な履行者も、何も失わない! 履行する人たちの数が十分に多くて、履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限りは。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 354 )  <一部の人だけが履行しても、最初の履行著は…何も失わない!>というのは、<履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限り>という条件付きの話である。問題は、この条件の期待値である。私は、<最初の履行者は…何も失わない!>と言えるほど期待値は高くないと思う。  そもそも、当初の自然状態において、弱者が平和を求めることは当然としても、強者までもが自らの権利を放棄して平和を求めるというのは余りにも不自然である。このことは、契約の履行においても同じである。弱者は進んで契約を履行しようとするだろうが、強者はその必要はない。そこでホッブズは<不名誉な死>を怖れるがために強者も平和を希求せざるを得ないとするわけであるが、私にはただの屁理屈にしか聞こえない。 この契約を結んでおきながら野心と貪欲のためにそれを守らない人がいない、と期待することはできないだろうが、十分に多数の人々はこの迷妄を免れていると期待することは許される。このようにして、この契約にはそれを他のあらゆる契約から分かち、最初の契約者になることを不合理ではなくするような特徴があり、その当事者は誰でも最初の履行者になる可能性がある。(同)  戦争と平和の問題は、「多数決の論理」が通用しない。平和を求める人々が圧倒的多数であっても、戦争を求める極少数の強者がこれを一蹴(いっしゅう)してしまうことは容易であろう。  人間の性向が平和を求めるものであるのなら、平和な社会を築くために人が動くのは分かる。が、「万人の万人に...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(59)不合理なホッブズ解釈

第1に、ほかの契約者もその約束を守るだろうとは合理的に期待できなくてさえも、この契約の最初の履行著になることは理にかなっている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 353)  他の契約者もその約束を守るだろうと合理的に期待できないのであれば、普通、この契約の最初の履行著になることは理に適っていないということではないのか。 さらに、契約者たちのかなりの部分が約束を守るだろうと実際合理的に期待できるのであり、この契約の場合は(普通の契約と違って)、それだけでも最初の履行者になることを不合理ではなくしてしまうのである。(同)  果たしてそうか。契約者全員が約束を守らなければ「平和」は得られない。契約者の中に約束を反故(ほご)にして、戦う権利を行使しようとするものが現れれば、独り勝ちになって、他はこの独裁者に平伏(ひれふ)さなければならなくなってしまう。これが果たして合理的な判断と言えるのだろうか。  第1に、確かにこの契約の当事者はいくらかの危険を冒している――もし彼の服従する、権威ある主権者が、他の当事者たちの服従を強制できず、彼らも服従することを合理的には期待できないならば。それにもかかわらず、それは法外な危険ではない。なぜなら彼が失うかもしれないものは、得られるかもしれないものに比べれば取るに足りないものだからであり、また、事実誰かがこの契約を最初に履行しない限り、平和のために不可欠の「共通権力」は発生しえないからである(同)  成程、この理屈では、誰かが最初に履行の危険を冒さねばならない。が、だからといってこの履行は決して合理的ではない。 主権者の権威の行使を授権する契約と他の相互信頼の契約との重要な相違点を見て取り、その帰結として、この契約では最初の履行者になることが合理的である(同)  成程、主権者に権限の行使を授権する契約と、抜け駆けをしないという相互信頼の契約とは中身が異なる。が、そのことが契約の最初の履行者になることを合理化しない。  主権者の権威を承認して彼に権力を与える契約とそれ以外の相互信頼の契約すべてとの間には重要な相違点があるが、その1つは、前者は当事者のすべてが振舞うと約束した通りに振舞わないとしても、効果的に実行されるかもしれない、ということである。(同、pp. 353-35...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(58)叩き台を提示したホッブズ

主権者が必要とする権力を生む手段としても経験的に不可欠だとも認められるかもしれない。なぜなら多くの人々が、服従の行為と性向――それが主権者の権力を構成する――を求める主権者の権威を実際に承認するということは、彼らがそのように契約しなければほとんど想像しがたいからである。それにもかかわらず、契約はそれ自体では国家の十分原因ではない。それは権威を与えはするが、権力の方は約束するだけである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p.352 )   authority を「権威」と訳しているが、ここは「権限」とすべきではないか。契約によって承認するのは、主権者の「権威」ではなく「権限」だろうということである。言い換えれば、「権威」は契約したぐらいで与えられるようなものではないということである。 「平和」の状態を創設するために必要な権威と権力とを持った主権者の必要十分原因は、この種の契約に加えて、その契約を守ろうとする十分に広汎な性向(公然たる行為に現われた)である。というのも、主権者の権力とはその臣民の服従の性向を裏から言ったものにすぎないからである。 だから従って、この契約は自然状態で結ばれる他の契約とは違って守られるだろうと期待するのが合理的だ、ということを我々に納得させるような何らかの議論を我々はホッブズの説明の中に見つけたくなる。というのは、おそらく少々逆説的に聞こえるかもしれないが、平和を創設し契約遵守を強制するために必要な権力は、今や契約を結ぶことによってではなく、契約を守る過程において、つまり、服従の性向と行為において発生するように思われるからである。 要するに、自然状態で普通の相互信頼の契約の最初の履行者となることは常に不合理に違いないと我々は確信しているから、ホッブズが今やわれわれに対して証明しなければならないことは、この相互信頼の契約の最初の履行著になることは誰にとっても不合理ではないということである。 そして同時に述べておいてよかろうが、約束を2番目に履行すべき人々が約束を守るように強制する権力が存在するということからこの状態を発生させることはできないのである。なぜならば我々が求めているものは、いかにしてそのような権力が「設立」されるかについての、理解しうる説明だからである。(同、 pp. 352-353...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(57)個性の道徳の哲学者

ホッブズはカントや他の哲学者と同様、典型的に個性の道徳の哲学者である…第1に、ホッブズは主として国法に従う動機に関心を持っていた。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 349) he is less concerned with what a man might otherwise do with his life than with the minimum conditions in which the endeavour for peace could be the pattern of conduct for even the least well-disposed man. These minimum conditions are that there shall be one law for the lion and the ox and that both should have known and adequate motives for obeying it. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes : SIX (彼は、平和のための努力が、最も非協力的な人でさえ行動規範となり得る最小限の条件ほど、人が自分の命をどうするかということには関心がない。これらの最低条件は、ライオンや牛には1つの「掟」があり、両者とも分かっているはずであり、それに従うに十分な動機があるということだ)  「ライオンや牛にさえ周知された掟が(神の意思として)ある( shall be )」というのは、言うまでもなく、ホッブズが考えた勝手な理屈である。「ライオンや牛にさえ周知された掟があるのなら、最も非協力的な人間でも国法に従う動機はある」などという話は、まったく非論理的である。 第2に、ホッブズはこの別の気分も持っていて、そこでは誇りと自尊心とは平和を求める努力の十分な動機を与えられると認められていた。そしてこの気分のとき、彼は誤解の余地なく個性の道徳( the morality of individuality )の哲学者である。この道徳のイディオムは「貴族的」である。そしてそれがホッブズの著作の中に反映しているのを見つけることは不...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(56)ブルジョア道徳

恥ずかしい死の恐怖は理性を呼び起こし、平和の好都合な条項や、その条項が人間の生のパターンになるかもしれない仕方を示唆し、従順な人の道徳を生み出す。この人は平和の方に左祖(さたん=見方)していて、正しく行動するために高貴さとか寛大さとか度量の広さとか栄光への努力とかを必要としない人である。 そしてこれがホッブズの見解である限りにおいて、彼はいわゆる「ブルジョア」道徳の哲学者として認められてきた。だがこれは、ホッブズの個人主義的人間観にもかかわらず、「共通善」の観念をほのめかし、それに向かっているように見える道徳的生のイディオムである。それが示唆しているように思われるものは、あらゆる状態の人々にあてはまる唯一の公認の人間環境の状態と、この状態を達成し維持する技芸としての道徳である。しかしこれには限定を加えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 348-349 )  <ブルジョア道徳>というのが良く分からない。おそらく社会主義、共産主義が幅を利かせていた時代の名残なのではないかと思われるが、ここでこの時代背景を探ることは避ける。例えばで言えば、マルキスト戸坂潤は、1936(昭和11)年に『思想と風俗』という文章を書いている。 《道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。  こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧(むし)ろ道徳のかかる観念自身が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至(ないし)文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる》  ルサンチマン(怨恨)よろしく既存の社会体制に難癖を付け、共産主義の理想社会を夢見る。当然、社会秩序を支える道徳も気に入らない。だから<ブルジョア道徳>などと勝手な用語を宛(あ)て、人々に悪印象を植え付けて、これを叩くのである。 《ホッブズ倫理学は、イギリス・ブルジョアジーの発展初期に於けるこの云わば変則な必然性を表現した処の、やや変...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(55)誇りの効用を認めぬホッブズ

オークショットは問う。 「なぜ彼(=ホッブズ)はこの議論の線をさらに追求しなかったのか? なぜ彼は誇りに効用を認めず、結局のところ『考慮されるべき情念は恐怖である』と結論したのか?」(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 348 )  ホッブズは、 誇りは平和を求める努力の成功のために十分な動機を与えないからだというものではなく、高貴な性格の持ち主が少なすぎるからだ(同) と言うのである。 The force of Words, being (as I have formerly noted) too weak to hold men to the performance of their Covenants; there are in mans nature, but two imaginable helps to strengthen it. And those are either a Feare of the consequence of breaking their word; or a Glory, or Pride in appearing not to need to breake it. This later is a Generosity too rarely found to be presumed on, especially in the pursuers of Wealth, Command, or sensuall Pleasure; which are the greatest part of Mankind. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIV. (言葉の力は、(以前指摘したように)人に契約を履行させるには弱過ぎる。人間の本性には、それを強化するのに役立つと思われるものが2つだけある。それは、約束を破った結果の恐怖、あるいは約束を破る必要がないように見える栄光や誇りである。この後者は、特に富や命令や官能的な喜びを追い求める人々、つまり人類の大部分の、付け込もうにも滅多にお目に掛かれぬ寛大さである)ホッブズ『リヴァイアサン』第 1 部 第14章 ホッブズは要するに、人間は理性よりも情念を欠いている、それも特にこの...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(54)スピノザとヒューム

スピノザは、主著『エチカ』で、アリストテレスの中庸論と似た発言をしている。 Prop. XLVIII. The emotions of over-esteem and disparagement are always bad. Proof.- These emotions are repugnant to reason; and are therefore bad. 定理48 過大評価や軽視の感情は、常に悪である。 証明 これらの感情は理性と矛盾するため、悪である。 Prop. XLIX. Over-esteem is apt to render its object proud. Proof.- If we see that any one rates us too highly, for love's sake, we are apt to become elated, or to be pleasurably affected; the good which we hear of ourselves we readily believe; and therefore, for love's sake, rate ourselves too highly; in other words, we are apt to become proud. 定理49 過大評価はその対象を高慢にしがちである。 証明 愛のために、誰か自分を高評価し過ぎる人がいるのが分かると、私達は調子に乗って、心うきうきになりがちである。自分のことについて聞いた良いことはすぐに信じてしまい、愛のために、自分自身を高評価し過ぎる、別言すれば、高慢になりがちである。 スピノザは、競争に向かう人間性から平和に向かう2つの道筋の選択肢を示した。その一方は、恐怖と将来への賢慮から発生して国家の法と秩序に至るものであり、他方は、人間の生の環境に対する精神の力が提供する逃げ道である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 347)  哲学者レオ・シュトラウスは言う。 True, both philosophers see self-preservation as the essence of man, but they ...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(53)アリストテレスの言う「誇り」

pride implies greatness, as beauty implies a goodsized body, and little people may be neat and well-proportioned but cannot be beautiful. On the other hand, he who thinks himself worthy of great things, being unworthy of them, is vain; though not every one who thinks himself worthy of more than he really is worthy of in vain. The man who thinks himself worthy of worthy of less than he is really worthy of is unduly humble, whether his deserts be great or moderate, or his deserts be small but his claims yet smaller. And the man whose deserts are great would seem most unduly humble; for what would he have done if they had been less? The proud man, then, is an extreme in respect of the greatness of his claims, but a mean in respect of the rightness of them; for he claims what is accordance with his merits, while the others go to excess or fall short. -- Aristotle,  Nicomachean Ethics , Book 4, Chapter 3 (誇りは、美しさが可成り大きな体を意味し、小人は端正で均整がとれていても、美しくはあり得ないように、大きいことを暗示する。他方、実際は大事に相応しくない...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(52)誇りの二面性

ホップズは争いを引き起こす3つの重要な情念の1つを表わすために、時々「誇り」という言葉を悪い意味で使った。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 346) Pride, subjecteth a man to Anger, the excesse whereof, is the Madnesse called RAGE, and FURY. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER VIII. (誇りは、人を怒りの支配下に置き、度を超すと、激怒や憤慨と呼ばれる狂気となる)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第8章 the Lawes of Nature (as Justice, Equity, Modesty, Mercy, and (in summe) Doing To Others, As Wee Would Be Done To,) if themselves, without the terrour of some Power, to cause them to be observed, are contrary to our naturall Passions, that carry us to Partiality, Pride, Revenge, and the like. And Covenants, without the Sword, are but Words, and of no strength to secure a man at all. – Ibid ., Part 2, CHAPTER XVII. (自然法(正義、公平、謙虚、慈悲、(要するに)自分達がされたいように、他人にもすること)は、もしそれらを守らせる何らかの力の脅威がなければ、私たちを偏愛、誇り、復讐などに駆り立てる自然の衝動に反する。また、剣のない契約は、言葉に過ぎず、人を守る力はまったくない)―第2部 第17章 Hitherto I have set forth the nature of Man, (whose Pride and other Passions have compelled him to submit himselfe to Government – I...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(51)神の拡張

God himselfe, by supernaturall Revelation, planted Religion; there he also made to himselfe a peculiar Kingdome; and gave Lawes, not only of behaviour towards himselfe; but also towards one another; and thereby in the Kingdome of God, the Policy, and lawes Civill, are a part of Religion; and therefore the distinction of Temporall, and Spirituall Domination, hath there no place. - Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XII. OF RELIGION (神自ら、超自然的啓示によって、宗教を植え付けた。そこに神は、自分に特別な王国を作りもし、自分に対する行動だけでなく、互いに対する法も与えた。その結果、神の王国では、政策と市民法は宗教の一部であり、したがって、時間的支配と精神的支配の区別はそこには存在しない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第12章 宗教について It is true, that God is King of all the Earth: Yet may he be King of a peculiar, and chosen Nation. For there is no more incongruity therein, than that he that hath the generall command of the whole Army, should have withall a peculiar Regiment, or Company of his own. God is King of all the Earth by his Power: but of his chosen people, he is King by Covenant. – Ibid. (神が全地上の王であることは事実だ。しかし...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(50)神の王国

Whether men will or not, they must be subject alwayes to the Divine Power. By denying the Existence, or Providence of God, men may shake off their Ease, but not their Yoke. But to call this Power of God, which extendeth it selfe not onely to Man, but also to Beasts, and Plants, and Bodies inanimate, by the name of Kingdome, is but a metaphoricall use of the word. For he onely is properly said to Raigne, that governs his Subjects, by his Word, and by promise of Rewards to those that obey it, and by threatning them with Punishment that obey it not.–- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 2. CHAPTER XXXI. OF THE KINGDOME OF GOD BY NATURE (望むと望まざるとにかかわらず、人は常に神の力に従わねばならない。神の存在や摂理を否定することによって、安楽は振り払えても、その軛(くびき)からは逃れられない。しかし、人間だけでなく、獣や植物や無生物体にも及ぶこの神の力を王国の名で呼ぶのは、この言葉を比喩的に使っているに過ぎない。というのは、自らの言葉によって、即ち、その言葉に従う者には報酬を約束し、従わない者には罰で脅すことによって、臣民を統治する者だけが、君臨すると呼ぶに相応しいからである)―ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について Subjects therefore in the Kingdome of God, are not Bodies Inanimate, nor creatures Irrationall; ...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(49)ホッブズ vs. オークショット

The OFFICE of the Soveraign, (be it a Monarch, or an Assembly,) consisteth in the end, for which he was trusted with the Soveraign Power, namely the procuration of the Safety of The People; to which he is obliged by the Law of Nature, and to render an account thereof to God, the Author of that Law, and to none but him. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 2. CHAPTER XXX. OF THE OFFICE OF THE SOVERAIGN REPRESENTATIVE ((君主であれ議会であれ)主権者の職務は、主権を信託された目的、すなわち人民の安全を獲得することにある。主権者は自然法によってその義務を負い、その法の創造者の神に、そして神だけに、それについて説明する義務が課せられている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第 2 部 第30章 主権を有(も)つ代表者の職務  が、オークショットは、このホッブズの考え方に異議を唱える。 しかし彼の言うところでは(そして他の数多い難点を別にしても)、それはせいぜい人間の行動についての摂理を信じている人のクラスに属する主権者にしかあてはまらない。このクラスは(ホッブズの著作の中では)キリスト教徒のクラスと区別することは極めて難しい。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 340 )  が、ホッブズは次のように言っている。 《神は、自らの法を3つの方法で示す。自然理性の指示、啓示、そして奇跡の作用によって他者との信用を得たある人の声によって。ここから3つの神の言葉が生まれる。理性的な言葉、感覚的な言葉、預言的な言葉である。これには、 3 つの聞き方が対応する。正しい理性、超自然的な感覚、信仰である》(ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について  詰まり、この問題は、<信仰>の次元だけで考えるべきで...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(48)ホッブズ擁護

自然法と聖書の両者の独立した権威…前者の権威は理性に基づき、後者の権威は啓示に基づく…国家のメンバーにとって、自然法の権威は国家の主権者の是認に基づき、聖書の教えは国家の主権者がそれだと言ったものである(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 340)  オークショットは、これを5つ目の矛盾として挙げるが、私はこのような整理の仕方で問題ないと考える。 第1の自然法を記述するために、理性の「指針」という言葉を、理性の「一般的ルール」という表現に対する選択肢として使っているが、その説明の最後では、自然法が指図の性格を持つことはその合理性とは全然関係がないと言っている。(同) it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.”-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS (これは理性の教訓または原則である。「万人は、平和を得る見込みがある限り、平和に努めるべきであり、平和が得られないときは、戦争のすべての助力と利点を求め、利用してもよい」。規則の第 1 の部分には、「平和を追求しこれに従う」という自然の第1の基本法が含まれてい...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(47)矛盾するホッブズの主張

Reason serves only to convince the truth (not of fact, but) of consequence. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN , PART III. CHAPTER XXXIII. OF THE NUMBER, ANTIQUITY, SCOPE, AUTHORITY, AND INTERPRETERS OF THE BOOKS OF HOLY SCRIPTURE (理性は、(事実ではなく)帰結の真理を確信させることにしか役立たない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第3部 第33章 聖書諸篇の数、古さ、範囲、権威、解釈者について それ(=理性)は原因と結果についての仮定的命題だけを扱う。人間の行動におけるその仕事は、欲求された目的達成のためにふさわしい手段を示唆することである。何物も合理的だという理由によって義務になることはない…自然法は、法律として、そして単に人間の保全についての結論としてではなしに、「自然の理性の指示」の中で我々に知られている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 339 ) God declareth his Lawes three wayes; by the Dictates of Naturall Reason, By Revelation, and by the Voyce of some Man, to whom by the operation of Miracles, he procureth credit with the rest. From hence there ariseth a triple Word of God, Rational, Sensible, and Prophetique: to which Correspondeth a triple Hearing; Right Reason, Sense Supernaturall, and Faith. As for Sense Supernaturall, which consisteth in Revelation, or Inspiration, there have not been any Universall Lawes so g...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(46)前提の矛盾

ホッブズの記述には、自家撞着と思われる部分が少なくない。オークショットは、これを整理する。 自然においては「万人はあらゆるものに対して ―― 他人の身体に対してすらも――権利を持っている。」また自分自身の判断に従って自分を治め、「何でも自分の好むことをして」、自分がふさわしいと思ういかなる仕方でも自分を保全する権利を持っている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 337 ) the condition of Man, … is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live.-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS (人間の状態は…万人に対する万人の戦争状態であり、この場合、万人は自分自身の理性によって統治され、敵から自分の命を守る際、利用できるものであれば、自分に役立たないようなものは何もない。要するに...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(45)交錯するホッブズの説明

必要とされる「行為」は、神が人間の行動について「摂理」を働かせていると信ずることにおいて神を承認することかもしれない。だが国家の中に生きている人々にとって、それは国家の主権者を創造し彼に授権する行為である。なぜならそのような人々にとっては、この主権者の命令として彼らに影響しないような義務は存在しないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 337)  前者は、神を信じ承認する宗教的行為であり、後者は、国家の主権者として神を承認し授権する政治的行為だと考えられる。 人間をとりまく環境のその他の状態に何が属し、何が属していないにせよ、国家は疑いもなく、 ①本当の意味での法律(すなわち国法)があり、 ②この法律だけが唯一の本当の意味での法であり、 ③平和を求めて努力することがあらゆる臣民の義務であるところの状態である。(同、 p. 337 ) It is therefore manifest, that wee may dispute the Doctrine of our Pastors; but no man can dispute a Law. The Commands of Civill Soveraigns are on all sides granted to be Laws: if any else can make a Law besides himselfe, all Common-wealth, and consequently all Peace, and Justice must cease; which is contrary to all Laws, both Divine and Humane. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART III. CHAPTER XLII. OF POWER ECCLESIASTICALL (したがって明白なことは、牧師の教義に異議を唱えることはできても、法に異議を唱えることはできないということだ。俗世間の主権者の命令は、あらゆる面で、法として認められる。もし他の誰かが我を忘れ法を作ることができるなら、すべてのコモンウェルス、ひいてはすべての平和と正義は消滅するに違いない。それは、神の法、人間の法、両方のすべての法...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(44)限定された自然法

 「自然法はホッブズにとって、全人類を平和を求めて努力する義務にしばりつける、本当の意味での法律の必要十分条件を持っているのか?」あるいは(別の形態では)「平和を求めて努力すべき義務は万人に拘束力を持つ、『自然的』な、契約によらない義務なのか?」という質問には「否」と答えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 336)  簡単に言えば、ホッブズはこんな乱暴な議論はしていないということである。 だがこの問いは、その問いよりも適切な質問は、おそらく「ホッブズはいかなる状況において自然法がこれらの特徴を獲得すると考えていたのか?」と「一体誰にとって、平和への努力は単に生存を熱望する人々にとっての理性的行動であるのみならず道徳的に拘束する命令でもあるのか?」ではないか、とも示唆した。というのも、ホッブズは我々の思考を別の方向におし進めるようなことは大して言わなかったとはいえ、彼にとって自然法は特定の状況でしかこれらの特徴を持たず、そのような人々に対してしか義務を課さないものだったことは明らかと思われるからである。(同)  ホッブズは、特定の状況における<自然法>を対象としていたのである。<自然法>は、状況次第で千差万別であり、これを一括りにして普遍的に述べるわけにはいかないということである。 一般的に、このような状況は、平和を求めて努力することが実定法――それを作ったのが人間であれ神であれ――のルールになった状況であり、一般的に、拘束される人は、この法の創造者を知り、彼がそれを作る権威を承認した人々だけである。 このことは私が道徳的義務に関するホッブズの最も深い信念であると考えるものと調和するように思われる。それはすなわち、「自分自身の何らかの行為から生じないような義務が本人に課されること」はありえない、という信念である。(同、 pp. 336-337 )  <契約>も<承認>も無く、勝手に拘束されたり、義務が課されたりするようなことはおかしいということである。 この原理の趣旨は、ホッブズにとっては、義務を課される者による選択が義務を作り出すということではなく、選択(契約であれ承認であれ)のないところには既知の立法者がおらず、従って本当の意味での法も義務も存在しない、ということである。そしてそれは「...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(43)自然法の解釈

確かに私人の「自然の理性」あるいは「良心」は自然法の解釈者として描くこともできる。だがそれらは、法律としての自然法の「権威ある」解釈を与えるものと考えることはできない。各人が自分自身の解釈者ならば、情念の偏見を排除することはできない(そして良心は結局、自分がしたことやしそうな傾向のあることを是認するものにすぎない)だけでなく、このようにして解釈された法の義務は、平和を求めて努力すべき普遍的な義務であることをやめ、せいぜいのところ、各人が誠実に法だと考えているものに従うべき義務になってしまう。 だがそれでは十分でない。「それ」の下にある人ごとに違うかもしれない法律は、全然法律ではなくて、立法者(この場合は神)が我々にいかに振舞うよう望んでいるかに関する多様な意見にすぎない。実際、法を公布し解釈する共通の権威のないところには法は存在しない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 335-336) The Interpretation of the Lawes of Nature, in a Common-wealth, dependeth not on the books of Morall Philosophy. The Authority of writers, without the Authority of the Common-wealth, maketh not their opinions Law, be they never so true. That which I have written in this Treatise, concerning the Morall Vertues, and of their necessity, for the procuring, and maintaining peace, though it bee evident Truth, is not therefore presently Law; but because in all Common-wealths in the world, it is part of the Civill Law: For though it be naturally reasonable; yet it is by the Soveraig...