オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(60)道理の通らぬホッブズの論理
当事者間の普通の相互信頼の契約にあっては、最初の履行者は相手方がその時になっても約束を守らなかったら報いられない。そしてこのことは、参加者がたくさんいる普通の相互信頼の契約(品物や役務に関するもの)でも変わらない。全参加者が履行しなければ、最初の履行者は、そしてそれぞれ他の履行者も、重要なものを奪われる。
しかし多数者が主権に服従することを約するこの契約にあっては、全参加者ではなしに一部の人だけが履行しても、最初の履行著は、そしてそれぞれ他の自発的な履行者も、何も失わない! 履行する人たちの数が十分に多くて、履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限りは。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 354)
<一部の人だけが履行しても、最初の履行著は…何も失わない!>というのは、<履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限り>という条件付きの話である。問題は、この条件の期待値である。私は、<最初の履行者は…何も失わない!>と言えるほど期待値は高くないと思う。
そもそも、当初の自然状態において、弱者が平和を求めることは当然としても、強者までもが自らの権利を放棄して平和を求めるというのは余りにも不自然である。このことは、契約の履行においても同じである。弱者は進んで契約を履行しようとするだろうが、強者はその必要はない。そこでホッブズは<不名誉な死>を怖れるがために強者も平和を希求せざるを得ないとするわけであるが、私にはただの屁理屈にしか聞こえない。
この契約を結んでおきながら野心と貪欲のためにそれを守らない人がいない、と期待することはできないだろうが、十分に多数の人々はこの迷妄を免れていると期待することは許される。このようにして、この契約にはそれを他のあらゆる契約から分かち、最初の契約者になることを不合理ではなくするような特徴があり、その当事者は誰でも最初の履行者になる可能性がある。(同)
戦争と平和の問題は、「多数決の論理」が通用しない。平和を求める人々が圧倒的多数であっても、戦争を求める極少数の強者がこれを一蹴(いっしゅう)してしまうことは容易であろう。
人間の性向が平和を求めるものであるのなら、平和な社会を築くために人が動くのは分かる。が、「万人の万人に対する戦い」こそが自然状態だという前提を置いてしまっては、平和な社会へと収束させようとすれば、横車を押すしかなくなってしまう。
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