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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(70)「擬神法」

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《ある文化の神話の中では、神話による非合理的な説明がなされているが、現代のわれわれには科学によって合理的に説明できるようになっている問題というのは、私に言わせれば、どの文化のどの神話の中においても、神話が説明を与えている、問題の中のいわば枝葉末節に当る部分であると言ってよいと思います。なぜなら、その本当に核心をなす部分は、人間が人間として地上に存在しているかぎり、あらゆる時代――という意味は現代のわれわれにとってだけでなくて、われわれよりいっそう進んだ科学的知識と技術的能力を持つであろう人類にとってもということですが――つまり人類の歴史の最後まで非合理で不条理であり続けるに違いない問題であって、それに対して万人が納得いくような合理的な、1足す1は2というふうな割り切れた説明は絶対に与えることができないと思われるからです》(西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社)、pp. 121f)  これは、昨今の歴史学が神話を歴史から排除することへの反論である。よって、<神話は、どのような形でわれわれに伝えられたものであれ、常に詩である>というホイジンガの話と少し毛色が異なる。  私達の記憶は、時間と共に薄れていく。この記憶の薄れた「過去」を表現する手法が「詩」である。詩は、その特殊な表現技法によって、非日常性を演出する。この非日常性を演出する「詩」を用いることによって、「過去」を現実から遠ざけ、記憶が曖昧であるがゆえに現実と非現実が綯(な)い交ぜになった「薄れた記憶」を描き出すのである。  さらに、現代科学をもってしても説明の付かない「国生み」においては、自然現象を神の御業(みわざ)に準(なぞら)え、謂わば「擬神法」という手法が用いられているのもまた詩的技法と言えるのではあるまいか。  例えば、日本の『古事記』の国生み神話も、神々の力を借りた「超常現象」のように描かれている。 《ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那岐命(いざなきのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱(ふたはしら)の神に、「このただよへる国を修め理(つく)り固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて、言(こと)依(よ)さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画(か)きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ...