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ル・ボン『群衆心理』(20) ~漸進的自由の拘束~

昨日積み残した<個人の自由の漸進的な拘束>について検討しよう。  拘束的な法規をたえずもうけて、生活上のごく些細(ささい)な行為にも、非常に煩(わずら)わしい手続を伴わせれば、必然の結果として、人民が自由に活動できる範囲を次第に狭めることになる。法律を増加すれば、それだけよく平等と自由とが保障される、という錯覚にとらわれている諸民族は、日ましに重くなる束縛に甘んじている。  諸民族が束縛に甘んずれば、悪い結果を生ぜずにはいない。諸民族は、あらゆる束縛に堪えることに慣れて、やがては自ら束縛を求め、自発性や気力をことごとく失うにいたる。それは、もはや空虚な影法師、意志も抵抗力も力強さもない、受動的な自動人形にすぎなくなる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 pp. 264-265 )  フランス革命が「自由・平等・博愛」を旗印にしたものだから、<自由>と<平等>が両立すると誤解している人が多いのだろう。が、<自由>と<平等>は本来的に衝突するものである。<自由>を追求すれば「格差」が生じる。一方、<平等>を追求するためには<自由>は制限されねばならない。民主主義は1人1票の<平等>を旨とするものであるから、必然的に<自由>は縮退されることになる。 人民の無関心と無力とがますます募(つの)るにつれて、政府の役割は、さらに増大せずにはいなくなる。是が非でも、政府は、個人が失った創意と計画と指導との精神を持たねばならないのだ。政府が、一切を計画し、指導し、保護しなければならない。そのとき、国家は、全能の神となるのだ。しかし、このような神々の力が非常に永続きして強大であったことのないのは、経験が教えている。(同、 p. 265 )  「すべての権力は崩壊するし、絶対的権力は絶対的に崩壊する」(アクトン『自由の歴史』)のである。  ある民族にあっては、放縦(ほうじゅう)さが、あらゆる自由を所有しているかのような錯覚をひき起こすにもかかわらず、その自由は、次第に拘束されて行くのである。これは、何らかの制度から起こることであるが、またその民族の老朽さからも起こるらしく思われる。このような自由の漸進(ぜんしん)的な拘束は、これまでどんな文明もまぬかれ得なかったあの衰頽(すいたい)期を示す前兆の一つとなる(同)  平等主義の一形態たる民主主義...

ル・ボン『群衆心理』(19) ~議会~

議会制度は、近代のあらゆる文明国民の理想を綜合しているのであって、それは、多数者が集合すれば、少数者の場合よりもはるかに、ある問題に関して賢明で自主的な決議ができるという、心理学的には誤っているが一般には認められている、あの思想を現わしている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 244)  多数決原理は、国民一人ひとりは同じ能力であるという嘘を前提にしたものである。が、実際は国民一人ひとりの能力は同じではない。したがって、多数者の判断が少数者の判断よりも優れているとは必ずしも言うことは出来ない。それどころか、社会の新機軸は多数者の側からではなく少数の人間の側が打ち出してきたことは明らかなことである。が、そんなことはお構いなし。多数決は絶対なのである。  意見の単純さは、議会の群衆の、非常にきわだった特徴の一つである。主としてラテン民族のあらゆる党派には、最も複雑な社会問題をも、はなはだ単純な抽象的原則や、あらゆる場合にあてはまる一般法則によって解決しようとする一定した傾向が見られる。もちろん、原則は、各党派に応じて異なるが、個々の人は、単に群衆中にあるという事実だけで、ややもすればその原則の価値を過大視して、重大な結果をもひき起こしかねないまでに、その原則を押しとおすのが常である。(同、 pp. 244-245 )  <群衆>の意見が単純であるということは、<群衆>は物事をその表層だけで判断する傾向があるということである。これは当然のことであって、深く物事を考えれば様々な見立てが生じ、<群衆>の意見が拡散してしまう。これでは<群衆>の求心力が失われてしまう。深く考えることは、<群衆>に対する「反逆」なのである。  議会の集会は、その運営にはさまざまな困難が伴うにもかかわらず、各国民が今までに発見したもののうちでは最上の政治方式であり、特に一個人の圧制の絆をできるだけまぬかれるための最上の方法となる。確かに、議会の集会は、少なくとも哲学者や思想家や文筆家や芸術家や学者、つまり、文明の頂点をなすあらゆる者にとっては、政治の理想であるにちがいない。  それに、議会の集会が呈する重大な危険といえば、2つあるだけである。すなわち、それに必然的に伴う財力の浪費と、個人の自由の漸進的な拘束とである。  第1の危険は、選挙上の群衆の要求...

ル・ボン『群衆心理』(18) ~民主主義が抱える問題~

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昨日に続き民主主義が抱える問題について見ておこう。少し長文ではあるが、哲学者田中美知太郎氏の説明を引く。 《市民の徳としてすぐれたよき市民に要求されるものには、体制の如何によっていろいろな差異が出て来ると言わなければならないだろう。市民の誰でもが治者にも被治者にもなるというような民主制国家においては、市民のすべてに対してかなり高度の徳が要求されるわけであり、この要求を厳格に守るとすれば、多数の市民失格者が出て来ることにもなるだろう。不徳の市民からは市民権を剥奪して、これを奴隷か居留外人の地位に落とさなければならないだろう。この点を曖昧にしておけば、治者としては不適格な市民が治者となり、さきのアリストテレスの指摘にも見られたような腐敗が起るだろう。プラトンは民主制を理想的なものとは考えなかったから、その国家体制においては一般市民には多くを求めず、治者たる者だけに限って高度の徳を要求したのである。治者としての適格者はそう多くはないから、体制は少数精鋭者の支配ということにならねばならないのである。アリストクラシー(最優秀者の支配)がつまりそれである。アリストテレスは、さきにも引用した『政治学』第3巻4章において、 ただ一つ智の徳だけは治者に固有の徳である。すなわちこれ以外の徳は被治者にも治者にも共有されていなければならないと見られるけれども、被治者には徳としての智は属さず、異なる思いなしがあればいいということである。つまり被治者は笛をつくる者のようなものであり、治者はその笛を使って曲を奏でる者のようなものだということである( 1277b25 - 30 )。 と言っている。智(фρóvησιs)の徳は治者だけに要求されるものであって被治者には必要ではないとして、治者と被治者を区別し、それはちょうど上手に笛を吹く芸というようなものは、笛をつくる者には要求されることがないよぅなものだとしている。つまり治者の智も音楽家の芸も独自のものであって、他の人に共有されることをむしろ不要とするものなのである。いま治者たるの条件がこのようにきびしいものであり、すぐれたよき市民たる者もこの治者の能力と知識をもっていなければならないのだとすると、両親がアテナイ人であるという資格だけで市民とされるすべての市民が、そのまますぐれたよき市民となりうるものではないことは明らかである。すぐれた...

ル・ボン『群衆心理』(17) ~有権者の資質が握る民主主義の成否~

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 いわゆる犯罪的群衆の一般性質は、あらゆる群衆に認められたそれと、まさしく同じものである。すなわち、暗示を受けやすいこと、物事を軽々しく信ずること、動揺しやすいこと、善悪の感情が誇張されること、ある型の徳性が現われることなどである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 210)  人々は群衆化すれば「理性」を失う。理性を失った<群衆>に犯罪者と変わらぬ特性が見られるのは当然である。  陪審員たちの感情に働きかけること、そして、あらゆる群衆に対すると同様に、議論をさしひかえるか、もしくは幼稚な推論形式のみを用いること、これが、艮き弁護人の心がけねばならないことである。陪審裁判でたびたび成功を博したので有名になったイギリスのさる弁護士が、この方法を巧みに分析した。 「その弁護人は、弁論中に陪審員を注意深く観察するのであった。好機会(チャンス)が到来するや、弁護人は、勘と習慣の力とを働かせて、陪審員の表情に、一言一句の反応を読みとり、そこから結論をひき出す。まず第一に、陪審員中の誰がすでにこちらの立場に好意をよせているかを見わけることである。弁護人は、たちまち、その陪審員を確実に味方にしてしまう。そうしてから、今度は逆に好意を持っていないと思われる人々のほうへ立ちむかって、彼等が被告に反対する理由を見ぬこうと努める。これは、この仕事中でもデリケートな箇所である。なぜならば、一人の人間の処罰を望む気持には、正義感以外にも、無数の理由が存在するかも知れないからである」(同、 pp. 220-221 )  日本もフランスを模範として「裁判員制度」を設けているが、事程左様に裁判員が敏腕弁護士によって手玉に取られているのではないかと心配される。裁判員は訓練された判事ではない。自らの良心だけにしたがって判断が下せるわけではない。周りの状況に流されてしまうのも致し方ないことである。  選挙上の群衆、すなわち、ある職務の有資格者を選ぶべき集団は、異質の群衆を構成する…とりわけ、この群衆に現われる性質は、微弱な推理力と、批判精神の欠如と、昂奮(こうふん)しやすいことと、物事を軽々しく信ずる単純さとである。またこの群衆が行う断定のうちには、指導者の影響と、さきに列挙した諸要因、すなわち、断言、反覆、威厳、感染の作用も見出される。(同、 pp. 228-...

ル・ボン『群衆心理』(16) ~種族の精神とエートス~

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種族の精神が、完全に群衆の精神を支配する。種族の精神は、群衆の動揺を制限する強力な基盤である。種族の精神が強ければ強いほど、群衆の劣等な性質は、弱くなる。これが、根本法則である。群衆の状態と群衆の支配とは、野蛮状態、または野蛮状態への復帰を意味する。強固に確立された精神を獲得することによって、種族は、次第に群衆の無反省な力をまぬかれ、野蛮状態からぬけ出ることができるのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 206)  <種族の精神>とは、差し詰め古代ギリシャ語において「習慣」を意味した「エートス」という言葉と近接するもののように思われる。ドイツの社会経済学者マックス・ウェーバーは主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』の中で、キュルンベルガー『アメリカ文明の実相』の一節を引いて次のように述べている。 《この文章を通じて、われわれに教えをたれているのはベンジャミン・フランクリンである。そしてかれの口を通じて、はなはだ独創的なことばで語られているものが「資本主義の精神」であることは、たとえ、この「資本主義の精神」という語の一般的な用法にみられるすべてのものをふくんでいないにしても、だれもそれを疑うひとはいないだろう…キュルンベルガーの「アメリカ嫌い」は、この処世訓を総括して「牛からは脂肪をつくり、人からは金銭をつくる」とののしっているが、この「吝嗇(りんしょく)の哲学」に接したとき、そのいちじるしい特徴としてうけとられるのは、信用のできる誠実な人という理想であり、なかんずく、自分の資本を増大させることを自己目的と考えることが各人の義務であるという思想である。まことに、ここで教訓されている内容は、たんなる世渡りの技術などではなく、独特の「倫理」であり、これを犯すものは愚か者であるのみか、義務を怠る者と断じられており、このことがこの教訓の本質をなしている。そこでは「業務上の才智」だけが教えられているのではない。―そうしたことだけならば、ほかにもたくさんの実例があるが―ここでは一つのエ-トス〔職業倫理〕が表明されているのであり、このエートスの性格こそが、われわれの興味をそそるのである》(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」:『世界の大思想 29』(河出書房新社)、 pp. 135-136 )  ウェーバーの言う...

ル・ボン『群衆心理』(15) ~模倣~

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群衆の思想、感情、感動、信念などは、細菌のそれにもひとしい激烈な感染力を具(そな)えている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 162)  <群衆>の思想や感情に強い<感染力>があるというのは明察だと思われる。<群衆>の思想や感情が世間に広まるのは、人々がそれに共感するからではない。感染するのである。 群衆を導くのは、模範(モデル)によるのであって、議論によるのではない。いずれの時代にも、少数の個人が行動を起こすと、無意識な多数者が模倣する。(同、 p. 163 )  他の論者も<模倣>という行為に注目する。歴史学者アーノルド・トインビーは、模倣を意味するギリシャ語「ミメシス」という語を用いてこれを説明している。 《文明と、われわれの知っている形での未開社会…とのあいだの一つの本質的な差異は、ミメシスの向かう方向である。ミメシスは、あらゆる社会生活に見られる、社会という類全体の特徴である。その作用は、未開社会と文明社会の別を問わず、映画ファンのスターのスタイル模倣をはじめとして、あらゆる社会活動において看取(かんしゅ)することができる。しかしながら、社会の二つの種においてミメシスは異なった方向に作用する。  われわれの知っている形での未開社会ではミメシスは年長者と、目には見えないけれども、生きている年長者の背後に立っていると感じられ、生きている年長者の威厳を強めている死せる先祖たちに向けられる。このようにミメシスが後ろ向きに過去に向けられている社会では、習慣が支配し、社会は静的状態にとどまる。これに反し、文明の過程にある社会では、ミメシスは、開拓者であるからおのずと追随者が集まってくる、創造的人物に向けられる。そのような社会では、「慣習の殻」はうち破られ、社会は変化と成長の道にそって、ダイナミックに動いてゆく》(「歴史の研究」長谷川松治訳:『世界の名著 61』(中央公論社)、p. 128) 宗教的信念が約束する幸福の理想は、来世でなければ実現されるはずはないのであるから、誰も、その実現に異議をとなえることはできない。ところが、社会主義者の幸福の理想は、現世において実現されなければならないのであるから、実現に着手されるやいなや、約束のあてにはならぬことが暴露し、そして同時に、この新たな信念は、威厳を全く失ってしまうであろう...

ル・ボン『群衆心理』(14) ~指導者~

群衆の心を動かす術を心得ている弁士は、その感情に訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのである。合理的な論理の法則は、群衆には何の作用をも及ぼさない。群衆を説得するのに必要なのは、まず、群衆を活気づけている感情の何であるかを理解して、自分もその感情を共にしているふうを装い、ついで、幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかき立てて、その感情に変更を加えようと試みること、必要に応じてはあともどりもし、特に、新たに生れる感情をたえず見ぬくことである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 144)  <群衆>の扇動指南のような話である。<群衆>の活力源となっている感情を見抜き、その感情に訴えることが必要だということだ。 人間の統治に道理が参加することをあまり要求してはならない。名誉心、自己犠牲、宗教的信仰、功名心、祖国愛のような感情は、道理によらず、むしろしばしば道理に反して生れたのであって、これらの感情こそ、これまであらゆる文明の大原動力であったのである。(同、 p. 147 )  <群衆>を鼓吹(こすい)するためには、道理を説くのではなく、感情に訴えねばならないということである。  指導者は、多くの場合、思想家ではなくて、実行家であり、あまり明噺な頭脳を具(そな)えていないし、またそれを具えることはできないであろう。なぜならば、明噺な頭脳は、概して人を懐疑と非行動へ導くからである。指導者は、特に狂気とすれすれのところにいる興奮した人や、半狂人のなかから輩出する。(同、 p. 151 )  欧州であれば矢張りヒトラーということになろうが、私には小泉純一郎が真っ先に思い浮かぶ。 彼等の擁護する思想や、その追求する目的が、どんなに不条理であろうとも、その確信に対しては、どんな議論の鋭鋒(えいほう)もくじけてしまう。軽蔑も迫害も、かえって指導者をいっそう奮起させるだけである。一身の利益も家庭も、一切が犠牲にされている。指導者にあっては、保存本能すら消えうせて、遂には、殉教ということが、しばしば彼等の求める唯一の報酬となるのだ。強烈な信仰が、大きな暗示力を彼等の言葉に与える。常に大衆は、強固な意志を具えた人間の言葉に傾聴するものである。群衆中の個人は、全く意志を失って、それを具えている者のほうへ本能的に向うのである。(同、 ...

ル・ボン『群衆心理』(13) ~幻想~

恐らく幻想は、はかない影にすぎないではあろう。しかし、われわれの夢の所産であるこの幻想が、諸民族にかつて壮麗な芸術と偉大な文明とをもたらすあらゆるものを創造せしめたのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 139)  <幻想>とは、「現実にはないことをあるかのように心に思い描くこと」である。が、「有り得ない」と思われることを<幻想>することなしに社会の進歩がなかったこともまた事実であろう。その時点で区切れば「有り得ない」と思われることは<幻想>と呼ばれて致し方ないけれども、時代が下ってその<幻想>が「現実」となればこそ文化が振興されるのである。  前世紀の哲学者たちは、幾世紀ものあいだわれわれの父祖たちが生存のよりどころとしてきた宗教上、政治上、社会上の幻想を打破することに、熱心に身をささげた。哲学者たちは、それらを打破することによって、希望と忍従との源泉をも涸渇(こかつ)させてしまったのである。そして、抹殺されたまぼろしの背後に、人間の弱さに対して峻厳(しゅんげん)で、憐憫(れんびん)を知らぬ盲目的な自然力を発見したのである。(同、 p. 140 )  <幻想>は、それ自体が「悪」なのではない。<幻想>を振り回そうとするから「悪」が生まれるのである。<幻想>をどのように扱うのかが重要なのである。  <幻想>の中には「時」と「処」を変えれば立派に芽が出るものも含まれているだろう。夢が現実となればこそ社会は豊かになってきた。にもかかわらず、今現在で切って、<幻想>と考えられるものをすべて悪しきものとして排除しようとするのは社会発展の芽を摘むことになってしまうに違いない。  否、それよりも、非現実的<幻想>は、人間が厳しい現実に晒(さら)されることから保護してくれているということも忘れてはならないだろう。<幻想>を排除すれば、人は現実に直面することになる。それに耐えられないからこそ<幻想>が存在してきたのである。 これまで、民族進化の大きな原動力は、真実ではなくて、誤謬(ごびゅう)であった。今日、社会主義が、その勢力を加えつつあるのは、それが、今なお活気のある唯一の幻想にほかならぬからである。(同、 pp. 140-141 )  ガリレオ・ガリレイが唱えた「地動説」は当時<誤謬>であった。その後、「地動説」の正しさが証明...

ル・ボン『群衆心理』(12) ~言葉~

言葉というものは、時代により民族によって変化する、移動しやすい一時的な意味を持つにすぎないのである。言葉によって群衆に働きかけようとするときには、その言葉が、ある時期の群衆に対して、どんな意味を持っているかを知らねばならないのであって、その言葉のかつての意味や、群衆とは異なる精神構造を持つ個人に通用する意味などは、知る必要がないのである。言葉というものは、思想と同様に、生きているものなのだ。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 134-135)  たくさん言葉を並べても心を打たなければ人は動かない。つまり、「時処位」(TPO)に適(かな)った言葉選びが何よりも大切だということだ。つまりは、共鳴・共感を呼ぶ言葉を見付けられるか否かが人を動かす鍵となるということである。 政治上の大動乱や、信念の変化の結果、群衆が、ある言葉によって呼び起こされる心象に対して、ついに非常な反感を示すようになるときには、真の政治家たる者の第一の義務は、もちろん事物そのものには修正を加えずに、その言葉を変更することである。この事物そのものは、過去伝来の組織と密接に結びついているから、それを改めることはできない。あの明敏なトックヴィルが指摘していることであるが、統領政治や帝政の事業は、とりわけ過去の制度の大部分を新たな言葉で装うこと、従って、人の想像に不快な心象を呼び起こす言葉のかわりに、斬新さのためにそういう心象を呼び起こすことのない他の言葉を用いることであった。(同、 p. 135 )  歴史で言えば、「史実」は変えられないけれども、「名称」は変えられるということだ。例えば、戦前は「支那事変」と呼んでいたものが今では「日中戦争」などと呼ばれている。また、見る距離や角度が変われば「史実」の印象も変わってくる。さらに「歴史解釈」に至っては、人それぞれ千差万別である。要は、立ち位置がどこにあるかで、話ががらっと変わってしまうということだ。 政治家の最も肝要な職責の一つは、古い名称のままでは群衆に嫌悪される事物を、気うけのよい言葉、いや少なくとも偏頗(へんぱ)のない言葉で呼ぶことにある。言葉の力は、実に偉大であるから、用語を巧みに選択しさえすれば、最もいまわしいものでも受けいれさせることができるほどである。ジャコバン派が、「ダオメーにも劣らない専制政治をしき、宗...

ル・ボン『群衆心理』(11) ~教育論~

 現代の有力な思想のうちで第一位を占めるのは…教育は、人間を改良し、かつ人間を平等化するにも、確実な効果をあげることができる、というのである。この主張は、単にくりかえし唱道されたという事実だけで、遂に、民主主義の最もゆるぎない教義の一つとなってしまった…しかし、多くの他の点におけると同様に、この点についても、民主主義思想は、心理学や経験の教える事実とは、大いにくいちがっている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 113-114)  <教育>は偏頗(へんぱ)な思想を刷り込む場と成り下がってしまった。「啓蒙(けいもう)」と称して合理主義へと傾き、平等を旨(むね)として自由に制限を掛ける。社会は合理と平等で成り立っているのではない。経験と合理、自由と平等の間で平衡をとりつつ秩序を保っているのである。が、教育は現実に非を鳴らし、自分勝手な理想を押し付けることに躍起である。現実が変わらないことに苛(いら)立ち、ますます理想の刷り込みを先鋭化させる、それが教育現場に見られる光景なのである。 教育が人間をいっそう道徳的にもいっそう幸福にもせず、人間の遺伝的な情欲や本能を改めず、しかも指導を誤れば、教育が有益となるよりもむしろ大いに有害となりかねない(同、 p. 114 )  地に足の着かぬ理想教育、すなわち、現実と理想の平衡感覚を喪失した偏向教育が有害無益に陥るであろうことは想像に難くない。 わが国現在の教育法が、それを受けた多数の人間を社会の敵に変じ、最悪な形態の社会主義のために多くの追随者を募っていることを示した。  この教育法…の第一の危険は、心理学上の根本的な誤謬(ごびゅう)にもとづいていることなのである。すなわち、それは、教科書の暗唱が知力を発達させると信じこんでいることである。そこで、人々は、できるかぎり教科書をおぼえようと努める。そして、青年は、小学校から博士の学位や教授資格を得るまで、ただ教科書の内容を鵜呑みにするだけで、決して自分の判断力や創意を働かせないのである。青年にとって、教育とは、暗唱と服従とを意味する。(同、 p. 115 )  戦後日本の教育がこのフランスの過誤の後追いになってしまっていないか検証が必要であろう。教師側で言えば、教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのだということを再確認すべき...

ル・ボン『群衆心理』(10) ~法は創るのではなく発見するもの~

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ル・ボンは、  制度が社会の欠陥を正し得るとか、民族の進歩が憲法や政体の改良に起因するとか、また、社会上の変化がたびたびの法令によって行われるという考え(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 p. 107 ) は<妄想>だと言う。 制度が、思想や感情や習慣から生れた結果であって、法規を改めることによって、思想や感情や習慣を改められない(同、 p. 108 ) ことは言うまでもない。<思想や感情や習慣>が先にあり、後から<制度>は出来る。逆はない。憲法もまた同じである。 憲法をつくりあげることに時間を浪費するのは、児戯(じぎ)に類する業(ごう)で、修辞家の役にも立たぬ演習にひとしい。必要と時、この二つの要因を自由に働かせるときに、それらが、憲法をしあげる役目を引き受ける。(同、 p. 109 )  良い憲法を作れば明るい未来が開けるなどと考えるのは<児戯に類する業>であり只の<妄想>である。哲人ハイエクは言う。 there can be no doubt that law existed for ages before it occurred to man that he could make or alter it. The belief that he could do so appeared hardly earlier than in classical Greece and even then only to be submerged again and to reappear and gradually gain wider acceptance in the later Middle Ages. In the form in which it is now widely held, however, namely that all law is, can be, and ought to be, the product of the free invention of a legislator, it is factually false, an erroneous product of that constructivist rationalism ― F. A. Hayek, LAW, LEGISLATION...

ル・ボン『群衆心理』(9) ~時~

民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 103)  今ある<制度>を破壊すれば、自動的に新たな<制度>が生まれるわけではない。一から努力して新たな<制度>を作らなければならないのである。が、たとえ新たな<制度>が出来たとしても、その<制度>が前の<制度>よりも優れている保証はどこにもない。  さらに、今ある<制度>が破壊されれば、新たな<制度>が出来るまでの間、社会の秩序は失われ混乱を来(きた)す。それを避けようとすれば、今ある<制度>を徐々に変えていくしかない。だから、今ある<制度>を保持するにあたって、何をどう改めるのかを考え続けることが重要となるのである。 われわれの魂のなかに君臨する眼に見えぬ支配者である伝統は、どんな人為の力からもまぬかれて、ただ、幾世紀にもわたる緩慢な消耗作用に屈するだけである。(同、 p. 104 )  実に保守的な考え方である。  時は、群衆の意見や信念を準備し、つまり、それらが発生する地盤を用意する。その結果、ある時代には実現できる思想が、他の時代にはもはや実現できないということになる。時は、信念や意見の厖大な残片をたくわえ、その上に時代の思想が生れるのである。この思想は、行き当りばったりに、でたらめに発生するのではない。その根元は、永い過去のうちにひそんでいる。この思想が開花するときには、時が、その出現をすでに用意していたのである。従って、思想の発生を理解するには、常に過去へさかのぼらねばならない。ある時代の思想は、過去の娘であり、未来の母であって、常に時の奴隷である。(同、 p. 106 )  「過去があるから今がある」。この時間感覚を持つか否かで考え方が大きく異なってくる。革命は過去を顧(かえり)みない。だから出たとこ勝負にしかならない。  今を破壊しても新たな今が生まれるだけである。今を生み出す過去は変えられないし変わらない。革命家はそれに気付かない。  今をよく生きるためには清濁(せいだく)併せ持つ過去をしっかり理解することが必要である。歴史に刻まれた民族の記憶に学ぶことである。 時こそは、われわれの真の支配者である。そして、あらゆる事象の変化を見るには、時の力を自由に働かせればよい。今...

ル・ボン『群衆心理』(8) ~伝統~

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 民族を真に導くものは、伝統である。そして、私が幾度もくりかえし述べたとおり、民族が容易に変化させるのは、伝統の外形のみである。伝統がなければ、つまり、国民精神がなければ、どんな文明もあり得ない(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 102)  少し訳文が気になったので、原文をフランス語→英語→日本語の順で翻訳ソフトにかけてみた(フランス語→日本語では対応関係がよく分からないので、英語で橋渡しした)。 【フランス語】Ce qui conduit les hommes, surtout lorsqu'ils sont en foule, ce sont les traditions ; et, comme je l'ai répété bien des fois, ils n'en changent facilement que les noms, les formes extérieures. Il n'est pas à regretter qu'il en soit ainsi. Sans traditions, il n'y a ni âme nationale, ni civilisation possibles. Aussi les deux grandes occupations de l'homme depuis qu'il existe ont-elles été de se créer un réseau de traditions, puis de tâcher de les détruire lorsque leurs effets bienfaisants se sont usés. Sans les traditions, pas de civilisation; sans la lente élimination de ces traditions, pas de progrès. La difficulté est de trouver un juste équilibre entre la stabilité et la variabilité ; et cette difficulté est immense. 【英語】What dri...

ル・ボン『群衆心理』(7) ~独裁者の心得~

 思想が群衆の精神に固定されるのに長い期間を要するにしても、その思想がそこから脱するにも、やはり相当の時日が必要である。従って、群衆は、思想の点からいえば、常に学者や哲学者より数代もおくれている。今日、為政者たちはすべて、今あげたような、根本的思想に含まれる誤謬(ごびゅう)を知りながらも、その思想の勢力が今なおすこぶる強いために、彼等自身では真理とは信じなくなっている原則に従って、政治を行わざるを得ないのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 79)  私はこのような考え方に与(くみ)しない。学者や哲学者が示す思想は決して無謬(むびゅう)ではない。それどころか、おかしな思想は幾らでもある。したがって、思想の真偽を見極め、見定めるために時間が掛かり、慎重になるのは当たり前のことである。また、為政者だけが先んじて、<群衆>が気付いていない根本的思想の誤りを理解しているかのように言うのも間違いであろう。それは余りにも軽率であるし、傲慢な考え方と言わざるを得ない。 民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現われ方なのである。それらの事実が―こういっていいならば―いわば凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺戟する術(すべ)を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである。(同、 p. 86 )  これはまさに<群衆>を支配するための心得(こころえ)である。民衆の想像力を動かすのは<事実>ではなく<事実の現われ方>だという指摘は悪魔的である。 群衆は、推理せず、思想を大雑把に受けいれるか斥(しりぞ)けるかして、論議も反駁(はんばく)もゆるさず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変る傾向を有する(同、 p. 88 ) 適度の暗示を受けた群衆は、彼等に暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にする(同、 p. 88 ) 群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感は生れるやいなや憎悪に変る。(同、 p. 88 ) 優越者と目される人物に対する崇拝心、その人物が有すると思われる権力に対する畏敬の念、彼の命令に対する盲目的服従、彼の説く教義を論議することの不可能なこと、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒...

ル・ボン『群衆心理』(6) ~不易流行~

 群衆は、殺人、放火をはじめ、あらゆる種類の犯罪を演じかねないが、また、単独の個人がなし得るよりもはるかに高度の、犠牲的な、無私無欲な行為をも行い得るのである。光栄とか名誉とか宗教とか祖国とかに対する感情にうったえれば、とりわけ群衆中の個人は動かされる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 69)  これは独裁者から見て「<群衆>は使いよう」とも受け取れるやや怪しげな指摘である。事実、『群衆心理』はヒトラーの愛読書であったともされている。 低級な本能にしばしば身を任せる群衆は、ときには、高尚な道徳行為の模範を示すこともある。無私無欲、諦め、架空のまたは現実的な理想への絶対的な献身などが、道徳上の美点であるならば、群衆は、最も聡明な哲人でもめったに到達できなかった程度に、これらの美徳を往々所有するものであるといえる。(同、 p. 71 )  成程、一見<無私無欲>、<諦め>、<献身>といったものは<道徳上の美点>にも見える。が、<群衆>が恬淡(てんたん)とし、諦念的、献身的であるとすれば、独裁者にとってはこれほど都合の良い事はない。そこに民主主義がともすれば独裁者を生み出してしまう弱さ・怖さがある。  この(群衆に受けいれられやすい)思想は、2つの部類にわけることができる。第1の部類には、そのときどきの影響を受けて発生する偶発的な、一時的な思想を入れよう。これは、例えば、ある個人、またはある主義に対する心酔のごときものである。もう1つの部類には、環境、遺伝、世論などによって非常に強固なものとなる根本的思想を入れよう。これは、かつての宗教思想、今日の民主主義社会思想のごときものである。  根本的思想とは、おもむろに流れつづける河の水全体にもたとえられようし、一時的思想とは、たえず変化して、河面をかき乱すさざ波、実際には重要なものではないが、河自体の進行よりも人の眼につきやすいさざ波にもたとえられよう。(同、pp. 74-75)  これには「蕉風(しょうふう)俳諧理念」が一つの参考となろう。 《俳諧には不易(永遠に変わらぬ本質的な感動)と流行(ときどき新味を求めて移り変わるもの)とがあるが、不易の中に流行を取り入れていくことが不易の本質であり、また、そのようにして流行が永遠性を獲得したものが不易であるから、不易と流行は同一で...

ル・ボン『群衆心理』(5) ~徳性~

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 徳性という語に、ある種の社会的因襲をたえず尊重するという意味と、利己的な衝動を常に抑制するという意味とを結びつけるならば、群衆は、あまりにも衝動的で、動揺しやすいから、徳性を持ち得ないのは、いうまでもない。しかし、この言葉のうちに、自己放棄、献身、無私無欲、自己犠牲、公正さへの要求などのような、ある性質の一時的な発現をも包含させるならば、かえって往々群衆は、非常に高度の徳性を発揮し得るということができる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 68)  <徳性>を有していないところもあれば有しているところもあるという<群衆>に見られる二面性の指摘は興味深い。が、ここで先に考えるべきは、そもそも<徳性>とは何かということであろう。参考になるのがプラトン『メノン』におけるソクラテスとメノンの対話である。 メノン 人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることのできるものであるか。それとも、それは教えられることはできずに、訓練によって身につけられるものであるか。それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなくて、人間に徳がそなわるのは、生まれつきの素質、ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか……。(「メノン」:『プラトン全集 9』(岩波書店)藤沢令夫訳: 70 ) とメノンが問うたのに対し、ソクラテスは「君がこの土地の誰かをつかまえて、いまのような問をかけるつもりになってみれば…誰でもわらって、こう答えるだろう」と言う。 ソクラテス 「客人、どうやら君には、ぼくが何か特別恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか、それともどんな仕方でそなわるものなのか、そんなことを知っていると思ってくれるとは! だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ」。  かく言うぼく自身にしても、メノン、同じことだ。この問題に関するぼくの知恵は、同市民たちの御多分にもれず貧困であって、徳についてぜんぜん何も知らないことを、自分自身に対して非難している状態なのだ。(同、 71-71B )  そしてソクラテスが知っているのなら教えて欲しいと言うので、メノンは、 メノン まず、男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力...

ル・ボン『群衆心理』(4) ~<群衆>は保守的か?~

 群衆は、自ら真理あるいは誤謬(ごびゅう)と信ずることに何らの疑いをもさしはさまず、他面、おのれの力をはっきりと自覚しているから偏狭であるに劣らず横暴でもある。個人ならば、反駁(はんばく)や論難を受けいれることができる。しかし、群衆は、それらに堪えられないのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 64-65)  我々は神ではない。したがって我々の判断に絶対ということはない。だから何が正しくて何が間違っているのかを判断する際、「懐疑」することがどうしても必要となる。懐疑には理性が要(い)る。が、<群衆>は理性を放棄している。だから自分たちの判断に寸毫(すんごう)も疑いを差し挟まず、さも絶対的なものだと信じて傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いに立ち至るのである。  群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。権力の作用か、あるいは強くあるいは弱く働く間歇(かんけつ)的なものであるときには、常にその極端な感情のままに従う群衆は、無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。(同、 p. 66 )  <群衆>は、「衆を頼んで」威勢が良いだけで、そこに本質的な強さがあるわけではないし、信念があるわけでもない。だから、相手が弱いとみるや強く出るが、相手が強いと分かると一転「しゅん太郎」と化してしまう。<群衆>は、「暴徒」にも「奴隷」にもなり得る。そのことはナチスドイツの例を挙げるまでもないだろう。 反抗心、破壊心の激発は、常に極めて一時的なものである。群衆は、あまりにも無意識に支配され、従って幾百年にも及んで受けつがれてきた影響をあまりにも受けているために、極度に保守的な態度を示さざるを得ないのである。群衆は、そのまま放任されていても、やがて自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態のほうへ赴くのである。(中略)群衆は、根強い保守的本能を具(そな)えていて、あらゆる原始人のように、伝統に対しては拝物教的敬意をいだき、現実の生存条件を改めかねない新しい事実を無意識に嫌悪する。(同、 pp. 66-67 )  果たして<群衆>は<保守的>だと言えるのだろうか。私はそれは歴史の「蓄積」如何にあると思っている。例えば、シナ( China )は「易姓革命」を繰り返し、前史が...

ル・ボン『群衆心理』(3) ~単純で極端な<群衆>感情~

 正確に物を見る働きが失われ、かつ現実の事象が、それと関係のない錯覚にとってかわられるためには、群衆は多人数であるを要しない。数人の個人が集れば、群衆を構成する。そして、その個人が優秀な学者である場合でも、その専門外の事柄になると、群衆のあらゆる性質をおびるのである。各自の有する観察力と批判精神とが消えうせてしまうのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 50)  物事の根拠は<群衆>にあって個人にはない。自分が<群衆>の一員である以上、<群衆>を批判することなど滅相もないことである。<群衆>の中にいる限り、<群衆>の論理に従う以外に道はない。否、自分が<群衆>と共にあるのがこの上なく心地良いのである。  群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的である。(中略)群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにはいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。(同、 pp. 60-61 )  個人の感情は本来複雑多岐なものだろうが、<群衆>の感情は「最大公約数」的に極めて単純かつ明快なものと成らざるを得ない。そして単純明快であるがゆえに極端に走りやすい。また、責任は<群衆>にあって個人にはないと考えられるので、ともすれば個々人は「ブレーキの利かぬ暴走列車」となりかねない。  群衆は、ただ過激な感情にのみ動かされるのであるから、その心を捉えようとする弁士は、強い断定的な言葉を大いに用いねばならない。誇張し断言し反覆すること、そして推論によって何かを証明しようと決して試みないこと、これが、民衆の会合で弁士がよく用いる論法である。(同、 p. 62 )  これは「<群衆>の感情に強く働きかけるためには、<誇張><断言><反復>という手法を用いよ」という指南のように聞こえなくもない。まさに「嘘も百回言えば本当になる」という体(てい)で...

ル・ボン『群衆心理』(2) ~「自動人形」~

精神の意識的生活は、その無意識的生活にくらべれば、極めて微弱な役目をつとめているにすぎない。最も明敏な分析家、最も炯眼(けいがん)な観察家でも、自分の行為を導く無意識的動機は極めてわずかしか発見することができない。われわれの意識的行為は、特に遺伝の影響によって形づくられた無意識の基盤から起こるのである。この基盤は、種族の精神を構成する無数の遺伝物を含んでいる。われわれの行為の明らかな原因の背後には、われわれの知らない原因がひそんでいる。われわれの日常行為の大部分は、われわれも気づかない、隠れた動機の結果なのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 30-31)  <意識>とは謂(い)わば「氷山の一角」である。つまり、我々の行為の多くは<無意識>によって支えられているということだ。左右されていると言っても良い。因(ちな)みに、マイケル・ポランニーはこの<無意識>を言葉に出来ない知、「暗黙知」と呼んだ(『暗黙知の次元』)。 群衆中の個人は、単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種不可抗的な力を感ずるようになる。これがために、本能のままに任せることがある。単独のときならば、当然それを抑えたでもあろうに。その群衆に名目がなく、従って責任のないときには、常に個人を抑制する責任観念が完全に消滅してしまうだけに、いっそう容易に本能に負けてしまう(同、 p. 33 )  最近の流行りで言えば「同調圧力」が<群衆>に働くということである。多くの成員が「同調圧力」に靡(なび)き、自ら「考える」という自主性を放棄する。 意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。(同、 p. 35 )  <群衆>の中にあっては、個人は<意志>を持たぬ<人形>のごとき存在である。この<人形>は<群衆心理>によって突き動かされる<自動人形>(オートマタ)である。  群衆に暗示を与え得る刺戟は、多種多様であり、しかも、群衆は常にそれに従うのであるから、その気分は、極度に動揺しやすいのである。群衆は、一瞬のうちに残忍極まる凶暴さか...

ル・ボン『群衆心理』(1) ~<群衆>の登場~

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「人は集団になると理性を失って凶暴化する」。その事例たるや、恐らく枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほどであろう。学校における「いじめ」問題もその典型である。  19世紀末、「群衆」について考察した一人の人物がいた。フランス人ギュスターヴ・ル・ボンがその人である。ル・ボンは心理学、社会学、物理学に通じ、考古学や人類学に関する執筆も行なっているまさに博学多識の士と呼ぶに相応しい存在である。  今回はル・ボン著『群衆心理』を取り上げる。 幾多の文明は、これまで少数の貴族的な知識人によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆のあずかり知るところではなかった。群衆は、単に破壊力しか持っていない。群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 p. 19 )  <群衆>は、ずっと社会の後塵(こうじん)を拝してきた。が、1789年に「フランス革命」が起こり状況は一変する。<群衆>が一躍社会の表舞台に躍り出てきたのである。<群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する>のは確かだろう。が、<群衆>の動向が社会の帰趨(きすう)を握る時代がこの革命によってもたらされたことは間違いないのではなかろうか。 およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のままに放任されている群衆には、全く及びもつかない条件である。群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあの黴菌(ばいきん)のように作用する。文明の屋台骨が虫ばまれるとき、群衆がそれを倒してしまう。群衆の役割が現われてくるのは、そのときである。かくて一時は、多数者の盲目的な力が、歴史を動かす唯一の哲理となるのである。(同)  文明には文明と呼ばれるに足る所以(ゆえん)がある。ル・ボン言うところの<確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養など>がそれに当たるだろう。<群衆>は、それらが自分たちを拘束する柵(しがらみ)と見做(みな)して「破壊」することに精を出す。衝動が抑えられないのが<群衆>の性(さが)なのである。 群衆という語は、全く別の意味をおびる...