ル・ボン『群衆心理』(19) ~議会~

議会制度は、近代のあらゆる文明国民の理想を綜合しているのであって、それは、多数者が集合すれば、少数者の場合よりもはるかに、ある問題に関して賢明で自主的な決議ができるという、心理学的には誤っているが一般には認められている、あの思想を現わしている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 244)

 多数決原理は、国民一人ひとりは同じ能力であるという嘘を前提にしたものである。が、実際は国民一人ひとりの能力は同じではない。したがって、多数者の判断が少数者の判断よりも優れているとは必ずしも言うことは出来ない。それどころか、社会の新機軸は多数者の側からではなく少数の人間の側が打ち出してきたことは明らかなことである。が、そんなことはお構いなし。多数決は絶対なのである。

 意見の単純さは、議会の群衆の、非常にきわだった特徴の一つである。主としてラテン民族のあらゆる党派には、最も複雑な社会問題をも、はなはだ単純な抽象的原則や、あらゆる場合にあてはまる一般法則によって解決しようとする一定した傾向が見られる。もちろん、原則は、各党派に応じて異なるが、個々の人は、単に群衆中にあるという事実だけで、ややもすればその原則の価値を過大視して、重大な結果をもひき起こしかねないまでに、その原則を押しとおすのが常である。(同、pp. 244-245

 <群衆>の意見が単純であるということは、<群衆>は物事をその表層だけで判断する傾向があるということである。これは当然のことであって、深く物事を考えれば様々な見立てが生じ、<群衆>の意見が拡散してしまう。これでは<群衆>の求心力が失われてしまう。深く考えることは、<群衆>に対する「反逆」なのである。

 議会の集会は、その運営にはさまざまな困難が伴うにもかかわらず、各国民が今までに発見したもののうちでは最上の政治方式であり、特に一個人の圧制の絆をできるだけまぬかれるための最上の方法となる。確かに、議会の集会は、少なくとも哲学者や思想家や文筆家や芸術家や学者、つまり、文明の頂点をなすあらゆる者にとっては、政治の理想であるにちがいない。

 それに、議会の集会が呈する重大な危険といえば、2つあるだけである。すなわち、それに必然的に伴う財力の浪費と、個人の自由の漸進的な拘束とである。

 第1の危険は、選挙上の群衆の要求や、その無分別から生ずる必然的結果である。(同、p. 261

 これをル・ボンは<歳費の膨張>と呼んでいる。被選挙人は国民の要求に応えねばならないため、歳費が膨らむことが避けられないということである。歳費を抑えるためには選挙人の賢明さが必要である。が、<群衆>にはそれがない。

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