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オークショット「保守的であるということ」(6)「改新=改善」とは限らない

我々の世界では、何もかもが止むことなく進歩させられており、生ずべき進歩によって消滅させられるおそれのないものは1つもなく、人間自身を除けばすべてのものがその寿命を絶えず縮めている。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 207)  歩を進めるという一般的な意味ではなく、あるべき「完成像」に近付くという意味の<進歩>の観念「進歩史観」に我々は囚(とら)われてしまっているのだ。「進歩史観」は、変化は良き事、すなわち<進歩>なのであって、過去は価値無き低劣なるものとして消去される。 敬虔(けいけん)さははかないものであり、忠実さも束の間のものである。また変化の速さは、我々が何に対してもあまり深く愛着を抱かないよう警告している。(同)  <愛着>は、変化に対する制動であり、<進歩>の妨げである。<進歩>にあっては、現状は否定されるべきものである。だから、今在る何かに<愛着>があっては、先へ進めなくなってしまうのである。 我々は何事でも、その帰結が何であろうと一度は進んで試みようとする。個々の行動様式は競って「最新の」ものであろうとし、まるで自動車やテレビのように、道徳的信念や信仰が棄てられている。我々の目は、常に最新型のものへと向けられているのである。ものを見るということは、即ち、今あるものの場所にこの先何が来ることになるのだろうか、と想像することであるし、ものに触れるということは、即ち、その形を変えることである。この世界が今持っている形状や性質は、いかなるものであれ、我々の望むほどには長続きしない。また、先頭を進んで行く者達の持つ進取の気性や活力は、後ろの者達にも伝わっていく。「我々はみな、同じ一つのところへ追いたてられていく」のであり、足が軽やかさを失ってしまった時でも、その集団の中に自分自身のいるべき場所を見出すのである。(同)  が、何であれ「新しいものは良いものだ」と考えるのは軽率である。改新が必ずしも「改善」、「改良」、「改正」となるとは限らない。場合によっては「改悪」だということも有り得るのである。 保守性とは、人間の行動の全領域を包含することのできる「進歩志向的」な態度に対して、偏見にとらわれた敵意を示すものではなく、広範で重要な領域における人間の活動に対して、唯一適合的な性向なのだということである。また、この性

オークショット「保守的であるということ」(5)保守の真骨頂

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もし人間の抱く選好の中に保守的な要素が多く含まれていなかったならば、間違いなく人間の環境は現在のそれとは非常に異なったものとなっていたであろう。未開の諸民族は変化を嫌い、慣れ親しんだものを手放さないと言われているし、古代の神話は変革を行うことに対する警告に満ちている。我々の生き方に関する民間伝承や諺の名句にも、保守的な格言が多い。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 205) というのがオークショットの見立てであるが、私も同様の印象を持つ。勿論、革新派は、そんなことはない、そうとは言い切れないと言うだろう。が、急進的変革は変革による新たな問題を招来するだろうし、変革熱が冷めれば、結局元の鞘に収まるということに成り勝ちだ。 我々は、大きな変革が行われているのでない限り、何も重大な事は生じていないのだと考えがちであり、また、進歩の過程にないものは後退しているに相違ないと考えがちである。我々は、まだ試みられたことのないものを良いものと思い込んでいる。我々は、変化とはすべて何かしら良い方向へのものだ、と信じてしまいやすいし、我々が変革を行ったために生じた帰結はすべて、それ自体が進歩となっているか、あるいは少なくとも我々の望んだものを手に入れるために支払わねばならないだけの適切な代価なのだ、とあっさり納得してしまう。(同、 p. 206 ) 《難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易より作り、天下の大事は、必ず細より作る》 (困難な仕事は容易なうちに手をつけ、大きな仕事は小さなうちに片づけてゆく。世のなかの難事は、いつでも容易なところから生じ、世のなかの大事は、いつでも些細なところから起こる》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第63章)  事が大事となって、大きな変革が必要となる前、小事のうちに芽を摘んでおく。これが保守の真骨頂なのである。  進歩主義者は、変化は進歩と考える。変化には退歩も有り得るなどという考え方には与(くみ)しない。変化が急過ぎたり、大き過ぎて混乱が生じたとしても、それは進歩に向けての必要経費だと考える。実に、勝手である。 我々は貪欲と言ってもよいほど欲張りであり、未来という鏡の中に拡大されて映っている骨が欲しくて、今くわえている骨を落としてしまいがちである。(同、 p. 207 )

オークショット「保守的であるということ」(4)保守的性向

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Thirdly, he thinks that an innovation which is a response to some specific defect, one designed to redress some specific disequilibrium, is more desirable than one which springs from a notion of a generally improved condition of human circumstances, and is far more desirable than one generated by a vision of perfection. Consequently, he prefers small and limited innovations to large and indefinite. -- Michael Oakeshott, On being conservative : ONE (第3に、何か具体的欠陥への対応としての革新、何か具体的不均衡を是正するため考案された革新の方が、人間環境の一般的改善条件の概念から生まれる革新より望ましく、ある完成像から生まれる革新より遥かに望ましいと彼は思う。結果、彼は、大きくて無限の革新よりも、小さくて限定的な革新の方を好むのである)  革新が<小さくて限定的>であれば、実行するのが楽だし、変化も小さくて限定的であるから、たとえ何か問題が生じたとしても大惨事にはならない。安楽、安心だということである。 第4に、彼は、変化の速度は急速なものよりも緩やかなものの方が良い、とする。そして彼は、目下のところ何が帰結として生じているのかを、立ち止まって観察し、適切に順応していく。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、 p. 204 )  変化が漸進(ぜんしん)的であれば、足下を確かめながら歩を進めることが出来るので、安全だということである。 最後に彼は、変革の行われる時機が重要だと考える。彼が変革にとって最も都合が良いと考える時機は、計画されている変化が意図された範囲に限って実現される可能性が最も高く、望んでいない制御不可能な帰結によってそれが汚染される可能性が最も低い、という時である。(同)

オークショット「保守的であるということ」(3)進歩主義者の誤解

すべての進歩には変化が伴うのだから、我々はその必然的帰結としての混乱を、期待される利益と常に突き合わせなければならない。しかもこの点について納得した後も、考慮されるべき点がまだ残っているであろう。変革とは常に、端的な評価が下しにくい企てなのである。つまりそこでは、利益と(慣れ親しんだものを失うということを除外しても、なお残る)損失とが非常に緊密に織り合わされており、そのため、最終的な成果を予想することは極めて困難である。但し書きなしの進歩などというものは、存在しないのである。なぜなら、変革という活動は、追求されている「進歩」なるものばかりでなく、新たに複合的状況をも生み出すのであり、「進歩」なるものはその構成要素の1つにすぎないからである。 変化の総体は意図された変化よりも常に広範なものであり、帰結として生ずる事柄をすべて予測することも、その範囲を画定することも不可能である。そういうわけで、変革が行われる場合はいつも、意図されたものよりも大きな変化が生まれてくることは確実であるし、利益とともに損失も生じ、影響を受ける人々の間で、その損失と利益とが平等に分配されはしないであろうということも、また確実である。そして、得られる利益が意図されたものを上回る可能性もあるが、悪化した分によってそれが帳消しにされてしまう危険も、あるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、 p. 203 )  進歩主義者は、変革によって得られる(と目される)利益しか眼中にはない。変革によって失われるもの、変革によって生まれる不利益には気にも留めない。変革の算盤勘定が合うかどうかも眼中にない。そこには、変革が進歩であるという思い込みがあるだけだ。変革には、進歩も有れば退歩もあるということが分かっていない。否、分かろうとしない。だから、変革には、混乱が付き物なのである。  これらすべてのことから、保守的な気質の人はいくつかの適切な結論を導く。 第1に、変革による利益と損失は、後者が確実に生ずるものであるのに対し、前者はその可能性があるにすぎない、従って、提案されている変化が全体として有益なものと期待してよい、ということを示す挙証責任は、変革を唱えようとする者の側にある。 第2に、変革が自然な成長に一層似ていればいるだけ、(即ち単にそれが状況に対して押し付け

オークショット「保守的であるということ」(2)反「青い鳥症候群」

保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完壁なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。 得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 200)  ともすれば、人は「青い鳥症候群」に陥(おちい)りがちである。現実を受け入れられず、幸せの青い鳥探しに出掛けてしまう。が、どこを探しても見付からない。落胆し帰宅すると、目の前に青い鳥が居るではないか。その青い鳥を捕まえようとすると、青い鳥は飛んで行ってしまう。  幸せは目の前にある。が、そのことに気が付かない。現実を否定し、理想を追い掛けても幸せは得られない。結局、現実を受け入れるしかないということに気が付いた頃には、時遅しである。 嵐が茂みを吹き払ってお気に入りの眺めを一変させてしまう、友人が死亡する、友情が終焉を迎える、慣習的な振舞い方がすたれる、お気に入りの道化役者が引退する、亡命を余儀なくされる、不運な事が起こる、持っていた能力が失われて他のものがそれに取って代わる――これらは変化であり、いずれもその埋め合わせがないわけではないかも知れないが、それでも、保守的な気質の人はこれらを残念な事と思わずにはいられないのである。 しかし、彼がそれらの変化をなかなか受け容れられない理由は、彼がそこで失ったものが、他のいかなる可能性よりもそれ自体として良いとか改良の余地のない最高のものであったとかいうことではなく、またそれに取って代わろうとするものが、本来そこに楽しみを見出すことの不可能なものであるということでもない。本当の理由は、

オークショット「保守的であるということ」(1)保守人は輿

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保守的であるということは、思考や行動が或る様式を持つ傾向にあるということであり、或る種の行動様式や人間をとりまく環境の或る状態を他よりも好むということ、或る種の選択を行う傾向にあるということである。(中略)その中核をなすのは、何か手もとにないものを望んで捜し求めるのではなく、手にすることができる限りのものを利用して楽しみを得ようとする傾向、かつてあったものや将来あるかも知れないものではなく、現にあるものから喜びを得ようとする傾向である。 もしかすると、現にあるものに対して感謝することがふさわしく、従って、過去からの贈り物ないし遺産に対する感謝の念もふさわしい、ということが反省によって明らかにできるかも知れないが、そこには過ぎ去った昔のものへの盲目的崇拝は少しもない。大切にされているのは現在なのであり、そしてそれが大切にされる理由は、遠い古代とのつながりがあるということでも、他の可能な選択肢よりも賞賛に値すると認められているということでもなく、それに親しんでいるということにあるのである(オークショット「保守的であるということ」:『政治における合理主義』(勁草書房)石山文彦訳、p. 199)  保守とは、何か実際に存在するものを保ち守ることである。言い換えれば、実在しない理想よりも実在する現実をより大切にしようとする考え方である。  もし現在が貧弱なもので、利用して楽しみが得られるものをわずかしか、ないしは少しも提供しないならば、この性向は弱いものであるか、存在しないであろう。現在が著しく不安定ならば、それはもっと堅固な足場を求め、それゆえ、過去に頼り過去の中を探って歩く姿をとって現れるだろう。しかし、そこに楽しみを見出すことのできるものが豊富な時は、それは自らの特徴を充分に示すし、さらに、明らかな喪失の危険がこのものと結びついている時、それは最も強くなるだろう。(同)  私は少し見方が異なる。楽しみが見出せるかどうかは、心の持ち様(よう)である。足るを知る人にとっては、世の中は驚異に満ち溢れている。他方、自意識が肥大化してしまった人にとっては、世の中は詰まらぬものの集合のようにしか見えないだろう。  保守的な人とは、先人から引き受けた文化や伝統を、遺漏無く後人に引き渡す「輿(こし)」( vehicle )である。 この性向が適合的な人間とは、簡単に言え

オークショット「歴史家の営為」(11)【最終】過去の政治利用

たしかに我々の時代の性向は、眼前に起きた事象を過去の事象の証拠として見ること、つまり前者を「結果」として理解し、その原因を発見するために過去に目を向けることにある。しかしこの性向は、過去を現在に同化するというもうひとつの同様に強力な傾向に結合されている。我々の圧倒的な関心は、「歴史」ではなく回顧的政治に存する。実際、いまや過去はかつてなかったほど、まるで日曜日の午後、牧草地でホイペット犬をそうさせるように、我々の道徳的意見や政治的意見を運動させる場になっている。さらに(多少ましなことを期待してよかったはずの)例の理論家たちでさえ、重要なのは特定の種類の「現在」なのであって、過去と「実践的」現在との結び付きを緩めることこそ「歴史家」の任務であると注意を与えようとはしていない。むしろ彼らは過去と現在との結び付きの解明に熱中しているのである。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 193)  <過去>は、現在我々が存在する根拠として政治利用されている。<過去>の中から自分に都合の良い<過去>が選びだされ、自分に都合の良い解釈が施される。 今日の世界は、事象が安全に過去に入っていくことを許さないように決定づけられている。つまりこの世界は、事象を人工呼吸の方法で生かし続けるように、あるいは(必要なら)そのメッセージを受領するため死者の手から事象を呼び戻すように決定づけられているのである。というのは、この世界は過去から教訓を得ることだけを望んでいるからである。この世界は、言うように仕込まれた発言を見せかけの権威を持って繰り返す「生きている過去」を構築する。(同、 p. 194 )  <過去>は、現在の自分にとって都合の良い発言を探し出す貯蔵庫と化してしまっているのだ。 かつて「歴史的」過去の出現を邪魔していたのは宗教であったが、今日では政治である。だがそれは、同じ実践的性向であることに変わりはない。(同、 p. 194 )  <過去>を「歴史的過去」として手に入れるためには、<過去>を政治利用し、弄(もてあそ)ぶことを慎まねばならない。でなければ、我々は、「歴史」としての<過去>を手に入れることは出来ないであろう。 歴史家の営為は、他のすべてを排除して「真」と呼ぶことが許容される、諸事象の唯一理念的な整合性(コヒーレンス)の解明に資するという

オークショット「歴史家の営為」(10)歴史的語法への翻訳

よき振舞いの擁護者として現れるような過去の研究者は、単に実践的な過去を我々に提出できるにとどまる。我々は、過去の行いの道徳的価値を判断する場合、ちょうど過去の行いの価値や有用性を他の観点から(例えば「無益な」戦争と)判断する場合と同じように、その行いをあたかも現存するように扱っている。この理由だけで、「歴史家」の営為から道徳的判断を排除するためには十分である。要するに、過去の行いの道徳的価値を探求するのは、過去に対する実践的態度に堕落することである。もし仮にこの点で堕落が許されるならば、他のどの点でも堕落が正当に禁じられることはあり得ないだろう。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 191)  「歴史的過去」とは、ある種客観的なものであり、評価、判断、好悪などの主観的価値観を免れていなければならない。価値観が盛り込まれた過去は、「主観的過去」なのであって、到底「歴史的過去」と呼べるようなものではない。だから、オークショットは、<過去の行いの道徳的価値を探求するのは、過去に対する実践的態度に堕落すること>だと批判しているのである。歴史家の営為は、実践的態度を超越したものでなければならないのである。 「歴史家」の課題は、過去を想起または再演することとしては正当に記述し得ず、ある重要な意味で、「歴史的」事象はいままで一度も起こらなかった何かであり、「歴史的」行為とは、いままで一度も遂行されなかった何かであり、「歴史的」人物は、いままで生きることのなかった誰かである、と。 出来事の語法は常に実践的語法であり、出来事の記録はたいてい実践的語法で書かれている。ところが「実践」と「歴史」とは、論理的に異なる2つの論議領域なのである。 かくて「歴史家」の課題は、翻訳の手順により創造すること、つまり過去の行いや出来事をその時点でそれらの理解されていた仕方とはまったく異なる仕方で理解すること、行為や事象をその実践的語法から歴史的語法に翻訳することである。(同、 p. 192 )  歴史的な出来事と目されているものには、大抵善悪、損得、好悪などの主観が貼り付いている。この主観を除去するのがオークショットの言うところの「翻訳」である。主観塗(まみ)れの<過去>を翻訳し、<歴史的過去>を創作するのが歴史家という存在なのである。 我々は、過去に対する「歴史的」態度

オークショット「歴史家の営為」(9)道徳的判断を排除する根拠

常に過去はまず最初、実践の語法で我々のところに現れるのであり、その上で「歴史」の語法に翻訳される。そこで周囲状況の変化、時間の経過や無関心さの無理な押し付けなどが全くあるいはほとんど助力にならない場合、「歴史家」がこの翻訳という課題を達成するのは、特に困難となる。対象は問題の企てに対して有用性や関連性のないことにより絶縁され、囲いを巡らされているものの方が「観照」しやすいし、冗談は自分をからかうのでないものの方がわかりやすい。ちょうどまったく同じことで、過去は、非歴史的態度を積極的に誘発することのないようなものの方が、そこから「歴史」を作ることが(他の事情が等しいかぎり)容易だろう。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 189)  「歴史的過去」とは、主観が入り混じった語法から主観を排除し、歴史の語法へと「翻訳」された<過去>だということである。 例えば、道徳的判断も、歴史的語法へと翻訳され排除されねばならない。排除の理由として、次のようなものが一般に挙げられよう。 過去の行為の道徳的評価は、絶対的な道徳的標準の適用を伴う、と(けれどもそのような標準について見解の一致などない)。 あるいはそれは、その行為が遂行された場所と時期において通用していた標準の適用を伴う、と(だがこの場合探求者は、その時代の道徳家が言ったであろうことを引き出すだけのことであって、彼は現実に述べられたことを引き出すことに携わり、そうして自分の探求を道徳的意見の「歴史」になす方がずっとよいであろう)。  あるいは例えば現代のような何か別の場所と時代の規準の適用を伴う、と(だが「歴史的」には、我々の座標点としてある時代と場所を別のそれに優先して選ぶ理由はまったくないのであって、その営為全体が窓意(しい)的で余計なものとして表される)。 またさらに次のようにも言われる。行いの道徳的善悪は、行為の動機に関連しているのであり、動機は常に心の奥に隠されているのであるから、過去のにしろ現在のにしろ、行いに関してこの種の道徳的判断を宣言し得る証拠は常に不足しているだろう、と。 もっとも以上の論証は、「歴史家」の著述から道徳的評価でなく単に道徳的非難を排除しているにすぎない。その意図は両方を排除することにあるのだが。 しかしながら実のところ、「歴史的」な探求や発言から道

オークショット「歴史家の営為」(8)「歴史的」な態度

漸進的にしかも多くの障碍(しょうがい)にもかかわらず出現してきた、過去に対する態度が存在する。その態度においては、過去の事象は、単なる「イメージ」ではなく、「事実」として理解され、後続の事象や現在の周囲状況や欲求から独立したものとして理解され、また必要十分条件を決してもたないものと理解される。つまり特別の種類の探究や発言を誘発するが、実践的態度でも科学的態度でも観照的態度でもないような、過去に対する態度が存在するのである。他の態度にいささかも逆戻りすることなくこの態度を保持し、過去へ向かう探究者は僅(わず)かしかいないかもしれない。だが我々は、この態度があくまで固持されているのを見出すとき、それを注目すべき偉業であると認める。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 186)  オークショットは、これを「歴史的」な態度と称している。オークショットの言う「歴史的」な態度は、時間を遡(さかのぼ)って「原因」を探し求めるものではない。<過去>は、ただ「歴史的事実」として描かれるのである。 歴史の探究を「起源」への探究とする考えについて我々の抱く疑いは結局のところ正当な疑いだが…「起源」を探究することは、歴史を後向きに読むことであり、したがって過去を後続の、または現在の事象に同化することだからである。それは、既に特定された場面の「原因」や「始まり」に関する情報を提供するために、過去に目を向ける探究である。そしてこのような限定された目的に操舵されるこの探究は、過去を単にこのような場面の中に表されるかぎりで認識するのであって、過去の事象に恣意(しい)的な目的論的構造を押し付けている。(同、 p. 188 )  ここでオークショットは、「最近の過去の事象に対する真正の歴史的探究が可能かどうか」について考察する。 最近の過去に対する探求、また過去に対する「公的」探求が「歴史的」研究の地位に達するとは期待し得ないと信じるについては、様々な理由が挙げられている。最近の事象は、焦点を合わせるのが特別困難であるとも、偏見の残存が離れた立場に立つことを妨げるとも、押さえるべき証拠は量が膨大であるとともにしばしば意気阻喪(そそう)するほど不完全であるとも言われる。また過去の「公的」探求は、「真理」の発見以外の関心の現存により、制約されがちであるとも言われる。たしかに以

オークショット「歴史家の営為」(7)実践者 VS 歴史家

(歴史的な著述家に特有のものとして私の念頭にある種類の、過去に関する言明の中に表現されるような)特殊に「歴史的」である態度においては、過去は現在との関連において眺められるのではない。つまりあたかもそれが現在であるかのように扱われるのではない。証拠が表現し、また指し示すものはどれも固有の位置を有しているものと認められる。何も除外されないし、何も「非寄与的」であると見なされない。ある事象の位置は、後続する事象との関連によって決定されるのではない。ここで求められているのは、後続のあるいは現在の事物の状態についての正当化でも批判でも説明でもない。「歴史」においては、早く死に過ぎたり、不慮の死を遂げた者はない。そこには成功もなければ、失敗もないし、非嫡出子もいない。それに関して是認が作動し得るような、望ましい事物の状態など存在しないのだから、何ものも賞賛されない。もちろん何ものも非難されない。この過去は、実践者が彼の現在から彼の過去へと転送する道徳的・政治的・社会的構造を持たない。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 181)  歴史的記述とは、筆者の主観が排除されたものでなければならない。そこには、善悪もなければ好悪もない。損得勘定もなければ、価値判断もない。ただ歴史的事実が淡々と並べられたものである。 実践者の注意が過去に向けられるのは、彼の現在の関心、野心や行為の方向ゆえに彼にとって重要であるような、現在の出来事の寄せ集めによってであるか、あるいは偶運が彼の行く手に置いたような、また人生の浮沈がたまたま彼を巻き込むような現在の出来事によってである。換言すれば、「それは過去についてどんな証拠を提供するのか」と彼が尋ねるところの素材は、偶然か無批判的な選択かのいずれかにより、彼のもとに至る。要するに、彼の証拠すなわち彼がそれから始めるものは、彼が自分の周りの出来事から受け容れた何かにすぎないのである。彼はそれを「積極的に」捜し求めることなく、提供されたものは何であれ拒絶することはない。(同、 p. 182 )  <実践者>は、「今・ここ・私」から<過去>を見る。得られる<過去>は、主観的世界の中にある。一方、<歴史家>は、過去に降り立ち、<過去>を<過去>として見る。そこには主観は紛れ込まない。 歴史家に関して言えば、事態は異なる。歴史家の過去

オークショット「歴史家の営為」(6)実践的態度

「歴史家」として現在普通に認められている人々の著述にのみ見出されるというものである以上、特殊に実践的でも科学的でも観照的でもなく、「歴史的」と呼ぶことが適切であるような、過去に対する態度を窺わせるものをその著述が提供しているかどうか、検討に値すると考えても大過あるまい。 (中略) 「歴史家」とは、自己の眼前にある世界の事象を既に起きた事象の証拠として理解するものである…「歴史家」が(常にでないにせよ)しばしば述べるような、過去についての言明の…第一の特徴は、その言明が事実に関しても欲求に関しても、過去を現在に同化するように設定されていないということである。つまり過去に向かうその態度は、私が実践的態度と呼んだものではない。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、 pp. 179-180 )  ここで<実践的態度>について振り返っておこう。  実践者は過去を後向きに読む。彼は現在の営為に関係付けることのできる過去の事象だけに関心を抱き、それだけを認識する。彼は、自分の現在の世界を説明し、正当化し、あるいはそれをより棲みやすい、より不可解さの少ない場にするために過去を見る。その過去は、後続する事物の状態に寄与的か非寄与的か、あるいは望ましい事物の状態に友好的か敵対的か、と識別されるべき出来事からなっている。(同)  オークショット言う<実践的態度>とは、優れて主観的なものだと思われる。ここには主観的判断が介在する。過去の世界の中から、自分に興味関心のある<事実>を取捨選択し、自分にとって都合がよい形で手に入れ、現在を装飾するのである。 庭師のように、実践者は過去の出来事の中に雑草と差し支(つか)えのない植物とを区別する。法律家のように、実践者は摘出子(ちゃくしゅつし)と非嫡出子とを区別する。もし彼が政治家であるなら、彼は自分の政治的偏好を支持するように見える過去のものは何であれ肯定し、それに敵対的なものは何であれ否定する。もし道徳家であるなら、彼は過去に道徳的構造を押し付けて、人の性格の中に徳と悪徳を、人間行為の中に善悪を区別し、前者を肯定し後者を非難する。 観点が広い視野を与えるなら、彼は事象のさらに深い動因の中に有害であるものと有益であるものを見分ける。彼の肩入れする事業計画に彼の行動が決定されているなら、過去はその事業計画に関連する

オークショット「歴史家の営為」(5)西洋における叙事詩

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過去を理解する方法のうち、実践的な方法は、人類と同じくらい古い。(過去に起きたと信じていることを含めて)何事をも自分自身との関係において理解することは、最も洗練されていることの少ない、最も素朴な世界理解の方法である。 さらに他の方法で過去の事象と認識された事柄に対する観照的な態度もまた、概して原初以来のものであり、広く見出せる。それは周囲の事情により隠されるかもしれない。たしかに、その態度に慣れ親しんでいる人々においてさえ、それは他の何かの態度を引き立てるために覆いをかぶせられ、あきに押しやられるかもしれない。 しかしヨーロッパや東洋の諸民族の壮大な叙事詩は、他の観察の語法においては過去の事象として知られている事柄が非常に早い時代から「事実」としてでなく、観照の「イメージ」として認識されていたことを示している。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、 p. 177 )  おそらく日本にはこれが<叙事詩>だと呼べるような、例えば、英文学における『ベーオウルフ』や古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』のような作品はない。だから、<叙事詩>云々と言われても今一つピンとこない。 (『ベーオウルフ』(春風社)吉見明徳訳、 pp. 10-11 )  先を急ごう。 In short, when we consider the kind of statements men have been accustomed to make about the past, there is no doubt that the vast bulk of them is in the practical or the artistic idiom. Consequently, if we go to writers who have been labelled 'historians' (because they have displayed a sustained interest in past events) and ask, what kind of statement are they accustomed to make about

オークショット「歴史家の営為」(4)歴史的過去

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What we call 'past events' are … the product of understanding (or having understood) present occurrences as evidence for happenings that have already taken place. The past, in whatever manner it appears, is a certain sort of reading of the present. Whatever attitudes present events are capable of provoking in us may also be provoked by events which appear when we regard present events as evidence for other events -- that is, by what we call 'past' events. In short, there is not one past because there is not one present: there is a 'practical' past, a 'scientific' past and a (specious) 'contemplative' past, each a universe of discourse logically different from either of the others. -- Michael Oakeshott,  The activity of being an historian : FOUR (所謂(いわゆる)「過去の出来事」は、現在の出来事を、既に起こった出来事の証拠として理解する(あるいは理解した)ことの帰結である。過去は、どのような姿で現れるにせよ、ある種現在の解釈である。現在の出来事が私達に引き起こすことのできる態度は何であれ、現在の出来事を他の出来事の証拠と見なしたときに現れる出来事、詰まり、所謂「過去」の出来事によっても引き起こされるかもしれない。詰まり、現在が1つでないのだから

オークショット「歴史家の営為」(3)歴史小説は史実に基づくものではない

「観照的」態度…これは、いわゆる「歴史」小説家の作品に例示されている。「歴史」小説家にとって、過去は実践でも科学的事実でもなく、単なるイメージを蓄えた倉庫である。例えば、トルストイの『戦争と平和』においてナポレオンは一個のイメージなのであって、彼について「ナポレオンはどこで生まれたか」、「ナポレオンは本当にああいうふうだったか」、「ナポレオンは実際にこうしたのか、ああ言ったのか」などと尋ねるのは適切でない。それは、シェークスピアの『十二夜』におけるイリリアの公爵オーシーノウについて同様の質問をするのが不適切なのと同じことである。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 175)  歴史小説家は、歴史の中に題材を求めているだけであって、歴史を探求しようとしているわけでもなければ、小説という手段によって世間の歴史意識を高めようとしているわけでもない。詰まり、史実に関しては「無責任」だということである。 《「幕末に大活躍した」というイメージが世間に広まっている坂本龍馬。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』などの小説を読んで、「薩長同盟を締結できたのは龍馬がいたからだ」「大政奉還の立役者だった」と思い込んでいる方も多いかもしれません。  しかし歴史学の観点に立つと、実態はぜんぜん違います。上記のような彼の業績とされるものは、あれもウソだ、これもウソだといった感じで、「ほとんど真実がない」と言っても言い過ぎではないでしょう》(加来耕三「坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった」:日経ビジネス 2022.4.4) Since 'the past', as such, cannot appear in 'contemplation' (this attitude being one in which we do not look for what does not immediately appear), to 'contemplate' past events is, properly speaking, a dependent activity in which what is contemplated are not past events but present events which (

オークショット「歴史家の営為」(2)3つの世界の読み方

さて、提案されていない他の方法がまだあるかもしれないのはもちろんだが、しばらくの間最も支持を受けている候補は、過去の事象を一般法則の例として表わすことにより、それを理解しようとする探求である。この種の思考がどのようにして実りある帰結に達し得るのか、私自身はわからない。しかし少なくとも明らかなのは、それが自明とは到底言えない諸前提に依拠していることである。したがってはたしてそれが結局実りある方法であり得るかどうかは、我々が納得するほど、その諸前提が裏付けられるか否かに懸かっているだろう。さらに、ここで求められているのは、現状の歴史的思考では過去が完全に理解されるなど、原理上あり得ないという論証だけではない。現状の「歴史」を凌駕すると同時にその代わりを務め得る、過去に関する思考法も求められているのである。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、 p. 163 ) 「歴史的」事象(event)とは、何にせよ、記述された有様(ありさま)で起きたと、(それがある探求方法の帰結であることにより)信憑(しんぴょう)するよう保証された出来事(happening)なのである。(同、p. 164)   happening  は「たまたまの出来事」、 event  は「重要な出来事」であるから、歴史に刻まれるのは  event  の方である。 歴史家は人間行為の道徳上の正邪に関与する者でなく、道徳的是非・賞賛非難の言明は歴史家の著述においては不適当である(同、 p. 166 )  詰まり、歴史家は本来、「価値中立」的存在であり、「没価値」的でなければならないということである。  いまや観て取らなければならないのは、「過去」が、眼前に起こる事象から我々が自分で作り出す構成物であるということである。ちょうど現在の事象をこれから起こるだろうことの証拠として理解するときに「未来」が現れるように、今の出来事を既に起こったことの証拠として理解するとき、「過去」と呼ばれるものが現れる。要するに(我々の直接の関心に話を限定するならば)「過去」は、現在の世界をある特定の仕方で理解した結果である。(同、 p. 172 )  「現在」は「過去」の結果であり、「過去」は「現在」の原因である。「過去」と「現在」は原因と結果の関係、すなわち、「因果関係」にある。 「過去」とは、「現

オークショット「歴史家の営為」(1)2つの歴史解釈法

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早速だが、原題 The activity of being an historianが「歴史家の営為」と訳されているのが引っ掛かる。ここは being を無視せずに、例えば、「歴史家という営為」や「歴史家としての営為」のように訳すべきだろう。 ※ historian は子音 /h/ で始まる語なので、 a historian が本来であるが、半母音/ h /と見てan historian とすることもある。 ★ ★ ★ 最近200年程の間、この営為については多くの反省がなされてきた。  反省は2つの方向を取った。まず追求されたことは、現に確定するに至った歴史家の営為についての一般的で満足のいく記述である。当の営為それ自体が歴史的発現であり、またそれの現在達成した特定化( specification )の程度が、それを世界についての一貫した(コヒーレント)思考方法としてみなすのに十分である、そういう考えがここで前提されている。かような探求がもし成し遂げられたなら、現状における歴史的思考が世界に付与する理解可能性の種類、またこの営為が(発現の過程で)自らを分離することに成功した他の営為との区別の方法が明らかにされるであろう。(オークショット「歴史家の営為」:『政治における合理主義』(勁草書房)杉田秀一訳、 p. 162 )  第1の歴史家の営為とは、素朴なものである。過去の出来事を歴史家が掘り起こし、歴史という物語の中に位置付けられ、従来の歴史が更新される。問題は、第2のものである。  第2の探求の方向は、第1のそれから(必然的にではないにしろ)生じると言えよう。歴史家の営為の現状について、十分な記述が達成されていると仮定しよう。すると、問われる問題は次のようになる。その営為の現在の特定化を細かい点で修正するだけでなく、定義的特徴を生み出すような、より以上の特定化の可能性をこの現状から、窺(うかが)えるか(あるいは、一般的な諸理由からそのような可能性を仮定すべきではないのか)。そしてもしそうならば、この特徴とは何か。(同)  歴史とは、単なる過去の出来事の一覧表ではない。「史実」と「史実」の間の関係を意味付ける物語、詰まり、「解釈」が必要なのである。 歴史家の営為は過去を理解するという営為である。しかるに現状の方法では、過去を完全に理

オークショット「政治教育」(15)【最終】歴史教育の必要

これらおよび他の政治的思考様式を越えて、我々の経験全体の地図の上で、政治的活動自体の位置を考察する、というような反省の仕方がある。この種の反省は、政治的意識をもち知的活力をもったいかなる社会においても、これまで遂行されてきたものである。そして、ヨーロッパの社会に関するかぎり、そのような探究によって、各世代が各様に定式化し、それぞれ自分が活用し得る技術的手段を用いて取りくんできた知的諸問題が、明らかになっている。また政治哲学は、確固たる結論を積み上げたり、さらなる研究が安んじて依拠し得る諸結論に到達したりすることによって「進歩する」科学とは、見なし得るものではないから、その歴史は、とりわけ重要なものとなる。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 153)  政治には、最終到達点はない。初期の目標に達成したら終わりというようなものではない。が、中には、「平等社会」などという到達目標が予め設定され、これに向けて歩を進めるのが政治であるかのような空想も存在する。  20世紀は共産主義国家樹立に向けて壮大なる実験が行われた世紀であった。が、「平等社会」などというものは、観念の世界だけで成立するものであって、現実社会においてこのような考え方が機能しないことが実験の失敗によって明らかとなったのである。にもかかわらず、未だに「平等社会」を実現することが正義だと考える人達が社会を掻き乱し続けている。  我々が学んだのは、たとえ観念の世界で可能であったとしても、それを現実の世界に落とし込むことは言うほど簡単ではない、否、出来ないということではなかったか。我々に出来ることは、「革命」を起こして一足飛びに理想を追求することではなく、現実を踏まえ、歴史を参照し、加えるべき修正を加え続けるという地道な作業ではないのだろうか。 実際ある意味では、それは歴史以外の何物でもないのであり、それも、諸々の教説や体系の歴史ではなく、哲学者が、一般の思考法の中に見出した不整合や、彼らが提案したその解決法などからなる、1つの歴史なのである。この歴史の研究は、政治教育の中で重要な位置を占めると考えねばならないし、また現代における反省がそれに与えた展開を理解しようとすることは、なおいっそう重要である。(同)  言うまでもなく、<歴史>は「玉石混交」であるから、しっかりとした「歴史眼」を養い

オークショット「政治教育」(14)「真理は細部に宿る」

他の人々の政治の研究は、我々自身の政治の研究と同様、行動の伝統についての生態的研究でなければならず、機械的装置の解剖学的研究とか、イデオロギーの研究ではない。そして、我々の研究がこのようなものである場合にのみ、我々は他の人々のやり方から有益な刺激を受けながらも、幻惑されないような道を見出すことであろう。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 152 )  <イデオロギー>は、抽象的なものであるから、或る意味、世界のどこにでも、そして、いつの時代にも応用することが可能である。が、政治とは、本来的に優れて環境に依存するものであるから、地域性、国民性、時代状況といったものを具体的に勘案することが必要となる。 他人の実践や目的から、「最善のもの」を手あたりしだい選び出すために世界をあさることは(折衷主義者ゼウクシスは、へレネよりもさらに美しい顔を造形しようとして、それぞれに完璧さで際立った部分部分をはり合わせた、と言われるが、それと同様に)堕落した企てと言わねばならない。それは、人の政治的平衡感覚を失わせる最も確実な方法の1つである。だが他方、他の人々がその整序化に務める仕事に関する具体的な在り方を探究するならば、さもなくばかくれたままになっている、我々自身の伝統の中のいくつかの重要な筋道を明らかにしてくれるであろう。(同、 pp. 152-153 )  政治的成功例を搔き集めて貼り合わせたところで上手くいく保証はどこにもない。かつてどこかで上手く行ったことであっても、「時・処・位」が異なれば、同じように上手く行くとは限らない。過去の成功例から読み取らねばならないことは、成功という表層的なことではなく、どのような状況において、どのような手段を講じたことがどのような結果へとつながったのかという具体的な中身である。 政治的活動についての反省は、様々の水準でおこなわれ得る。即ち例えば、ある情況に対処するために、我々の政治的伝統はどんな手段を提供するのか、を考察したり、あるいは、我々の政治的経験を1つの教義に縮約して、それを、ちょうど科学者が仮説を使うように、その暗示的意味を探るために使用することもできる。(同、 p. 153 )  <伝統>は、我々の「後ろ盾」であり、活動の原動力である。が、<伝統>は、大きな流れであって、具体的状況に対して答えてくれ

オークショット「政治教育」(13)prejudice(先入見)

what is equally important is not what happened, here or there, but what people have thought and said about what happened: the history, not of political ideas, but of the manner of our political thinking. -- Michael Oakeshott,  Political Education : FIVE (等しく重要なのは、あちらこちらで起こったことではなく、起こったことについて人々がどう考え、何と言ったのかということ、すなわち、政治思想ではなく我々の政治的思考方法の歴史である)  政治において重要なのは、出来事をどう解釈し、どう対処するのかということである。したがって、先人が出来事についてどう考え、何と言ったのか、そしてどのような結果に至ったのかを研究することは、経験値を高めるという意味でも大切である。 Every society, by the underlinings it makes in the book of its history, constructs a legend of its own fortunes which it keeps up to date and in which is hidden its own understanding of its politics; and the historical investigation of this legend -- not to expose its errors but to understand its prejudices -- must be a pre-eminent part of a political education. – Ibid (あらゆる社会が、自らの歴史書に下線を引くことによって、絶えず最新の状態にし、自らの政治についての独自の理解が隠されている自分たち自身の運命の伝説を作成する。そして、この伝説の歴史的調査――自らの誤りを暴くためではなく、自らの先入見を理解するために――は、政治教育の傑出した部分であるに違いない)  prejudice

オークショット「政治教育」(12)伝統理解と会話術の習得

政治教育は、単に伝統を理解するに至るということだけでなく、どのようにして会話というものに参加すべきか、を習得することを含んでいる。つまりそれは、我々が生涯不動産権をもつ遺産の伝授であると同時に、その暗示的意味の探究でもある。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)  政治には、伝統理解と会話術が必要であり、政治教育とはこの2つを身に付けるためのものでなければならないということだ。 政治教育は、伝統を享受し、我々の先輩たちの行動を観察し、模倣することにはじまる。我々が目をあけた時、我々の前にひろがる世界の中で、このことに寄与しないものは、ほとんどあるいはまったく存在しない。我々は、現在を意識するや否や、過去と未来を意識する。我々は、政治についての本に興味をもつ年頃よりもずっと以前から、我々の政治的伝統に関する、かの複雑・錯綜した知識を獲得しつつあり、それなくしては、いつか本を開いてみても、それを理解することなどできないであろう。(同、 p. 150 )  教育は<模倣>に始まる。よく「学ぶ(まなぶ)」とは、「まねぶ」、すなわち、「まねる」ということに由来すると言われる。詰まり、教師・師匠を真似て教養や技術などを身に付けるということである。 我々が理解することを学ばなければならないものは、政治的伝統であり、行動の具体的様態なのだ、ということを考慮することである。そしてそれ故、学問的な水準では、政治の研究は、1つの歴史研究たるべきであり、――それもなによりまず第1に、それが過去に関わるベきだから、という理由からではなく、我々が具体的な細部を問題にせねばならない、という理由からである。(同、 pp. 150-151 )  政治は、伝統に棹差すことが必要である。が、しっかり伝統が理解出来ていなければ、自分では伝統に棹差しているつもりでも、ただ流されてしまっているだけということにもなりかねない。だから、伝統の源たる歴史を研究することが欠かせないのである。 たしかに、深くその根を過去の中におろしていないようなものは何も、政治的活動の伝統の現在の表層にも現われはしないし、それが存在するに至るのを十分に観察しなければ、その重要性への手がかりをしばしば見落すことになるだろう。だからこそ、本格的な歴史研究は、政治教育の不可欠の部分をなすのである。(

オークショット「政治教育」(11) 伝統もまた不易不変ではない

 いかなる詩人も、またいかなる芸術家も、それだけで完全な意味をもつものはない。その意義、その評価は、過去の詩人や芸術家たちに対する関係の評価にほかならない。その人単独ではこれを評価するわけにゆかない。比較、対照するために、これを死者のなかにおいてみなければならない。わたしはこれを審美的な批評の一原理としていっているので、ただたんに歴史的批評の原理としてのみいっているのではない。このように、ひとりの詩人や芸術家が過去に順応し一致しなければならないといっても、それは一方的なものではない。(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」:『エリオット全集』(中央公論社)第5巻 深瀬基寛訳、pp. 7-8)  T・S・エリオットのこの論説は、詩人と伝統との関係について書かれたものであるが、この詩人を政治行動と置き換えて考えれば、政治行動と伝統の関係について考えることが出来る。政治行動の意味は、過去の政治的業績との比較対照の中で評価されねばならない。 ひとつの新しい芸術作品が創造されると、それに先立つあらゆる芸術作品にも同時におこるようななにごとかが起る。現存のさまざまなすぐれた芸術作品は、それだけで相互にひとつの理想的な秩序を形成しているが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が入ってくることにより、この秩序に、ある変更が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでにできあがっているわけであり、新しいものが加わったのちにもなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の全体がたとえわずかでも変えられなければならないのである。こうして個々の作品それぞれの全体に対する関係、釣合い、価値などが再調整されてくることになるのだが、これこそ古いものと新しいものとのあいだの順応ということなのである。(同、 pp. 7-8 ) 政治行動がこれまでの政治的業績に順化し、その1つとなることによって旧秩序にどのような変化が生じ、新秩序が構築されたのかを判断し評価しなければならないということである。 伝統の内のどんなものも、長い間まったく変化を受けないままでいるわけではない。すべては推移するが、どれも恣意(しい)的に変るわけではない。すべては、そのとなりに偶然あるものとの比較によってではなく、全体との比較によって現われてくる。そして行動の伝統は、本質と偶有性の区別の余地を残さ

オークショット「政治教育」(10) 伝統の原理

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伝統の原理とは、連続性の原理である。権威は、過去と現在と未来、古いものと新しいものと、やがて現われるものとの間に分散されている。それが安定しているのは、それがいつも変化しているにもかかわらず、決して全面的に動揺することがないためである。それはまた、静寂ではありつつも、決して完全には休止することはない。伝統に属するかぎり、どんなものも完全に失なわれはしない。我々はいつでも、英気をやしなうために過去をふり返り、伝統の中でも最も遠くへだったた要素からさえ、何か時局に適ったものを得るのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)  <伝統>とは、現在を経て未来へと時と共に流れて行く過去からの「送り物」である。が、ここで注意すべきは、<伝統>は、必ずしも正しいものであるわけではないし、美しいものであるとも限らない。中には時代にそぐわなくなった伝統もあるだろう。そのことを理解せず、ただ<伝統>を旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)するだけでは、やがてその<伝統>は形骸化し、命脈を保てなくなってしまうに違いない。 もし伝統ということの、つまり伝えのこすということの、唯一の形式が、われわれのすぐまえの世代の収めた成果を墨守して、盲目的にもしくはおずおずとその行きかたに追従するというところにあるのなら、「伝統」とは、はっきりと否定すべきものであろう。われわれは、このような単純な流れが、たちまちにして砂中に埋もれてゆくさまを、たびたびまのあたりにしてきたのである。それに新奇は反復にまさるものである。伝統とはこれよりはるかに広い意義をもつことがらである。それは相続するなどというわけにゆかないもので、もしそれを望むなら、ひじょうな努力をはらって手に入れなければならない。 伝統には、なによりもまず、歴史的感覚ということが含まれる。これは25歳をすぎてなお詩人たらんとする人には、ほとんど欠くべからざるものといっていい感覚である。そしてこの歴史的感覚には、過去がすぎ去ったというばかりでなくそれが現在するということの知覚が含まれるのであり、またこの感覚をもつ人は、じぶんの世代を骨髄のなかに感ずるのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体が――またそのうちに含まれる自国の文学の全体が――ひとつの同時的存在をもち、ひとつの同時的な秩序を構成しているという感じをもって筆をと

オークショット「政治教育」(9)政治活動の伝統

political crisis (even when it seems to be imposed upon a society by changes beyond its control) always appears within a tradition of political activity; and 'salvation' comes from the unimpaired resources of the tradition itself. Those societies which retain, in changing circumstances, a lively sense of their own identity and continuity (which are without that hatred of their own experience which makes them desire to efface it) are to be counted fortunate, not because they possess what others lack, but because they have already mobilized what none is without and all, in fact, rely upon. -- Michael Oakeshott,  Political Education : FOUR (政治的危機は(たとえそれが制御できない変化によって社会に出来(しゅったい)したように思われる場合でさえ)常に政治活動の伝統の中に現れるのであり、「救い」は伝統それ自体の損なわれていない資源から齎(もたら)されるのである。変化する状況の中で、自分自身のアイデンティティと連続性についての生き生きとした感覚を保持する(自分自身の経験を消し去ろうとする嫌悪感を持たない)社会は、幸運と見做(みな)される。それは、他の社会に欠けているものを所有しているからではなく、どこにも無くはなく、実際、すべてが依存するものをすでに動員しているからである)  <政治的危機>は、政治活動の伝統の中に生じ、その救済もまた政治活動の伝統の中から得られる。にもかかわらず、政治活動の伝統を否定してしまっては、適

オークショット「政治教育」(8)行動の伝統とは共感の流れ

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行動の伝統とは、固定的な、融通のきかない行動様式ではない。それは共感の流れである。それは、時として外国からの影響が侵入して、中断するかもしれない。またそれは、向きを変えたり、制限されたり、押しとどめられたり、また枯渇したりすることもある。また、そこにあまりに深く矛盾が根をはっていることが明らかになって(たとえ外国の助けがなくても)危機が出来(しゅったい)することもあろう。もしこれらの危機に対処するために、何らかの確固たる不変の、独立した指導原理が存在し、社会がそれに訴えることができるのならもちろんそれは結構なことであろう。しかしそんなものは存在しない。危機が、手をつけずそのままに残しておいた、我々の行動の伝統の断片とか、遺物とか、なごりといったものの外に、我々はいかなる手立てももたないのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 146)  <行動の伝統>とは<共感の流れ>である。伝統は、目には見えねど止め処(とめど)なく、時と共に流れている。 《傳統(でんとう)とは過去の文化の遺產が、現在に傳へられ、現在によみがへるからこそ傳統なのである。過去の文化の遺產が、どういふ性質のものであったかを理解するといふ事は、傳統の問題の半面に過ぎず、それが現在によみがへるといふ處(ところ)を考へなければ、問題は片付かぬ。 而(しか)も、この現在によみがへるといふ事は、よみがへる處を僕等が觀察出來るといふ樣な筋合ひのものではない、よみがへるかよみがへらぬかは、偏(ひとえ)に僕等の努力とか行ひとかにかゝつてゐるといふ性質のものなのであります。傳統はさういふ僕等の行爲のなかにだけ生きてゐるものであるから、過去の遺產を、現在によみがへらせようと努力しない人にとつては、傳統といふ樣なものは、決して見付け出す事は出來ない、と言つてよいのである。 誰でも傳統の流れのうちにゐる、知ると知らざるを閏はず、傳統の流れのうちに暮してゐる、從つて傳統を知るといふ樣な事に何んの努力が要るわけではない、さういふ安易な考へ方を、僕は好みませぬ。恐らくさういふ考へには、非常に閒違つた處がある。僕等が意識しないでも、過去からの連績した流れのうちに身を浸してゐる、さういふ流れは、傳統の流れといふより寧(むし)ろ習慣の流れであると僕は考へたい。 傳統と習慣とはよく似てをります。倂(しか

オークショット「政治教育」(7)イデオロギーという縮約

A total ideology is an all-inclusive system of comprehensive reality, it is a set of beliefs, infused with passion, and seeks to transform the whole of a way of life. This commitment to ideology—the yearning for a ‘cause,’ or the satisfaction of deep moral feelings—is not necessarily the reflection of interests in the shape of ideas. Ideology, in this sense, and in the sense that we use it here, is a secular religion. – Daniel Bell, The End of Ideology (イデオロギー全体が、広汎な現実の包括的体系であり、それは情熱を注ぎ込んだ一連の信念であり、生活様式の全体を変えようとする。このイデオロギーへの傾倒――「大義」への憧れ、あるいは、深い道徳的感情の充足――は、必ずしも利害の反映を思想の形にしたものではない。イデオロギーは、この意味で、そして我々がここで使っている意味で、世俗的な宗教なのである) -- ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉』 ★ ★ ★ 政治的伝統の暗示的意味を探究するための、1つの技巧として縮約を利用すること、即ちそれを、あたかも科学者が仮説を使用するように使用することと、政治的活動自体を、社会の整序化があるイデオロギーの予見に合致するように修正する行動として理解することは、まったく別のことであり、後者はまったく不通切なものである。なぜならその場合、まったく支持しがたい性格づけが、イデオロギーに対してなされることになり、実際我々はまったくまちがった、誤解を生じやすい手引きに引きずられていることになるからである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 145 )  ここで、<縮約>( abridgment )には2つあることを確認しておくべきだろう。政治的伝統の暗示的意味を探究するた

オークショット「政治教育」(6)政治とは伝統に暗示されたことの追求

政治という活動は、その時々の欲求からも一般原理からも、自動的に発生するものではなく、存在している行動の伝統自体から発するものである。また政治活動が取る形とは、多くの伝統の中で暗示されたことを探究し、追求するによって、すでに存在している秩序に手を加えるということである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 143)  政治とは、既存の秩序に手を加え、新たな秩序を構築する活動のことである。秩序は、独り明示的規則だけで成り立っているわけではない。伝統や慣習という形で過去より伝わる暗示的な部分にも十分目配りしなければ、十全たる活動は望めない。 政治的活動を為し得る社会を構成している整序化は、それらが習慣であれ、制度であれ、あるいは法や外交的決定であれ、整合的であると同時に、不整合的でもあるものである。それらは、あるパターンをなしているが、同時にそれらは、完全には現われていないものに対する、ある共感を暗示してもいるのである。政治的活動とは、この共感を探究する試みである。だから、意味のある政治的推論とは、存在はしていてもまだ十分には把握されていないある共感を、説得的なやり方で呈示することであり、今こそそれを認知すべき絶好の時であることを、説得的に証明することであろう。(同、 pp. 143-144 )  政治活動は、明示的なものだけではなく、暗示的なものにも目を向けて、これに<共感>することが必要なのだ。伝統に棹差すことによって<共感>したことを説得的に明示し、探究の中身を深く掘り下げることが大事だということである。 政治においては、いかなる企てもある帰結としての企てであり、夢や一般原理の追求ではなく、暗示された意味の追求である(同、 p. 144 )  現実から乖離(かいり)し観念的世界に遊ぶのではなく、現実を追求することによって「なすべきこと」を見出す。問題の手懸りは、必ずや過去にある。 もし我々が、政治とはそもそも暗示的意味の追求以上の何ものかである、という幻想から逃れることができれば、理解の誤ることは少なくなろうし、また致命的なものでもなくなるだろう。それは、論議によって結着するのではなく、会話によって追求するのである。(同、 pp. 144-145 )  「なすべきこと」は、議論に勝つか負けるかによって決まるのではない。まして、多

オークショット「政治教育」(5) イデオロギー

我々が「イデオロギー」と呼ぶ抽象観念の体系は、ある種の具体的活動からの抽象であることになる。ほとんどの政治的イデオロギー、そしてとりわけその中で最も有用なもの(というのは、イデオロギーは疑いもなく、有用性をもっているのだから)は、ある社会の政治的伝統からの抽象である。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、pp. 140-141)  具体的活動を素直に観念の世界へと取り込められたら問題はない。が、我々は往々にして斜に構え、現実を歪(ゆが)んで取り込みがちである。だから、「理念」も歪んでしまうのである。 しかし時には、政治的経験からの抽象ではなく他の何らかの活動様態――例えば戦争とか、宗教とか、産業の経営など――から抽象された、政治への指導原理そしてイデオロギーが提供される場合がある。そしてこの場合、我々に示されるモデルは、単に抽象的であるのみならず、それが抽出されたもとの活動が的はずれなものであることになる。私の意見では、これはマルクス主義のイデオロギーが提供するモデルの欠点の1つである。しかしいずれにせよ重要なことは、イデオロギーはせいぜいのところ、具体的活動のある様態からの縮約にすぎないという点である。(同、p. 141)  具体的活動から帰納的に得られた政治思想ではなく、偏見と妄想を体系化した「イデオロギー」ほど迷惑なものはないだろう。世の中に「ルサンチマン」(怨恨)が広がるだけでも問題なのに、曲がりなりにもそれに「お墨付き」を与えることになってしまうのであるから大変なのである。 政治を、独立に考案されたイデオロギーの導きの下に、社会の整序化に関わる活動と理解することは、それを純粋に経験的な活動と理解するのと同じくらい、誤解であるということになろう。政治が他のどこにはじまるものであろうと、それはイデオロギー活動にはじまるものではあり得ないのだ。  地に足の着かぬ<イデオロギー>など「虚偽の意識」(エンゲルス)に過ぎないということである。 科学の仮説が、既に存在している科学的探究の伝統の中にでなければ、現われることも機能することもまったく不可能であるのと同様に、政治的活動の諸目的の体系も、我々の整序化へいかに関わるべきかという既存の伝統の中にのみ現われ、またそれに結びつけられる場合にのみ、評価し得るものとなるのである。政治においては、見

オークショット「政治教育」(4)「平等主義」の行き着く先

The cult of the proletariat, of the common man, by insisting on the equality of social rights common to all, has confirmed the emphasis, already implicit in modern techniques of production, on similarity and standardization. It treats society as a conglomeration of undifferentiated individuals, just as science treats matter as a conglomeration of undifferentiated atoms. The social unit displays a growing determination to "condition" the individuals composing it in uniform ways and for uniform purposes and a growing ability to make this determination effective. The view that the exclusive or primary aim of education is to make the individual think for himself is outmoded; few people any longer contest the thesis that the child should be educated "in" the official ideology of his country. – E. H. Carr (1947), The Soviet Impact On The Western World (プロレタリアート、平民の崇拝は、万人に共通する社会的権利の平等を主張することによって、近代の生産技術にすでに潜在していた、類似性と標準化の強調を確認した。それは、科学が物質を未分化な原子の集合体として扱うように、社会を未分化な個人の集合体