オークショット「歴史家の営為」(5)西洋における叙事詩

過去を理解する方法のうち、実践的な方法は、人類と同じくらい古い。(過去に起きたと信じていることを含めて)何事をも自分自身との関係において理解することは、最も洗練されていることの少ない、最も素朴な世界理解の方法である。

さらに他の方法で過去の事象と認識された事柄に対する観照的な態度もまた、概して原初以来のものであり、広く見出せる。それは周囲の事情により隠されるかもしれない。たしかに、その態度に慣れ親しんでいる人々においてさえ、それは他の何かの態度を引き立てるために覆いをかぶせられ、あきに押しやられるかもしれない。

しかしヨーロッパや東洋の諸民族の壮大な叙事詩は、他の観察の語法においては過去の事象として知られている事柄が非常に早い時代から「事実」としてでなく、観照の「イメージ」として認識されていたことを示している。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 177

 おそらく日本にはこれが<叙事詩>だと呼べるような、例えば、英文学における『ベーオウルフ』や古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』のような作品はない。だから、<叙事詩>云々と言われても今一つピンとこない。

(『ベーオウルフ』(春風社)吉見明徳訳、pp. 10-11

 先を急ごう。

In short, when we consider the kind of statements men have been accustomed to make about the past, there is no doubt that the vast bulk of them is in the practical or the artistic idiom. Consequently, if we go to writers who have been labelled 'historians' (because they have displayed a sustained interest in past events) and ask, what kind of statement are they accustomed to make about the past, we shall find a great preponderance of practical and contemplative statements. -- Michael Oakeshott, The activity of being an historian: FIVE

(要するに、人が過去についてどのような発言をすることに慣れているかを考えてみると、その大部分は実践的ないしは芸術的な語法であることに疑いの余地はない。したがって、(過去の出来事に持続的関心を示しているので)「歴史家」と呼ばれている作家に、過去についてどのような発言をすることに慣れているかを尋ねれば、実践的記述と観照的記述が圧倒的に多いことが分かる)

歴史家の営為が特定されるに至った過程が、探究により相当詳細に明らかにされている。すなわち情報源を批判的に取扱う技術が新たに発展する。次いで体系化を果たす一般的な諸概念が生み出され、批判され、実験され、却下されあるいは再定式化される。――こうした(我々が今日理解している「自然科学者」が出現した過程と類似の)過程である。しかもこれらのどの局面においても順調な進歩などなかった。

我々は歴史家の営為の中に何か固有の徴表を捜し当てたいと望むかもしれないが、歴史家であることの必要十分条件を求めているのではない。問題の営為は、それが現にそうなったそのままの営為(what it has become)であり、我々の現在の分析は、現に達成されてあること(what has been achieved)で始まりかつそれで終るのである。(同、p. 179

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