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オークショット『政治における合理主義』(12) 技術至上は夢

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《合理とは、何らかの前提に立って推論をなし、その推論のなかから何らかの結論を導く、という思考のプロセスのことにほかならない。だが、いかなる前提を置くべきかということについて合理主義は明確な解答を持ち合わせていない。人々が納得しうる妥当な前提がどこから出てくるか、それが問題である。  歴史に蓄えられた良識や一般庶民がひそかに担う歴史感覚としての常識に深くつながるのでなければ、妥当な前提とはいえない。単に前提のことにかぎらず、合理的推論のプロセスとて歴史的考察によってその妥当性が決まる。なぜなら、推論は多方向に分散しうる以上、どの方向に推論を推し進めていくべきか、そして人間の実生活にたいしていかに意味ある結論を導くか、ということについてもまた良識と常識に問うてみなければならないのである。そうでない合理主義は、とりわけ人間・社会の問題にかかわる場合、きわめて人工的な科学主義に陥ってしまう》(西部邁『歴史の復権』(東洋経済新報社)、 pp. 175-176 )  零から合理的作業を始める訳にはいかない。何らかの元となる<前提>が必要である。が、合理主義はそのあたりを有耶無耶(うやむや)にしてしまっている。 デカルトは、懐疑を自分に向けるについてべーコンよりも徹底していて、最終的には、この方法が探究の唯一の手段であり得ると考えるのは誤りだということを、認識するのである。技術至上は夢に帰し、現実とはならないのである。それにもかかわらず、後継者達がデカルトから学んだと信じた教訓は、誤り得ない方法の可能性に対する彼の疑いではなく、技術の至上性だった(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 18 )  <技術>は、それが通用する極々小さな特別な世界において<至上>なだけであって、これが絶対的なものだと思って、外の一般世界でこれを振り回しても、只の空振りに終わってしまうだけである。 《科学主義は、ある事実を説明するにあたって、様々に異なった相矛盾する仮説や理論(諸仮説の体系化されたもの)が併存している場合、そのうちのどれを有効な仮説、理論として採択すべきかということについて経験的には明確にしえないという袋小路にはまってしまっている。誇張を恐れずにいえば、人間・社会にかんする学問の方面で、様々な学派が対立し合ったまま併存しえている(近代経済...