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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(15)神の操り人形

  アテナイからの客人  わたしたち生きものはみな、神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも、神々の玩具としてつくられているのか、なにか真面目な意図があってつくられているのか、それは論外としてね。なぜなら、そんなことは、わたしたちに認識できることではありませんから。(「法律」644D-E:『プラトン全集 13』(岩波書店)森進一・池田美恵・加来彰俊訳、p.101)  <わたしたち生きものはみな、神の操り人形だ>という話を信じるか信じないかは別として、そう仮定するということだと考えよう。   アテナイからの客人  今日では一般に、真剣な仕事は遊びのためになされるべきだと考えられています。たとえば、戦争に関することは真剣な仕事であり、それは平和のために、効果的に遂行されなければならないと考えられています。しかし事実は、戦争のうちには兵の意味の遊びも、わたしたちにとって言うに足るだけの人間形成も現に含まれてもいませんし、戦争の結果それらが生じることもないでしょう。しかしわたしたちの主張からすれば、この人間形成こそ、わたしたちにとって最も大事なことなのです。ですから、各人が、最も長く、最も善く過ごさなければならないのは、平和の暮しなのです。(同、 803D-E 、 p. 424 )  人間は、<神の操り人形 >なのであるから、平和の下、<男も女も、この役割に従って、できるだけ見事な遊びを楽しみながら、その生涯を送らねばなりません>(同、 803C )、ということだ。 では、正しい生き方とは何でしょうか。一種の遊びを楽しみながら、つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら、わたしたちは、生きるべきではないでしょうか。そうすれば、神の加護を得ることができますし、敵を防ぎ、戦っては勝利を収めることができるのです。どのような歌と踊りとによって、この2つの目的を達成することができるかについては、その大要はすでに語られました。いわば道は切り開かれているのですから、わたしたちは次の詩人の言葉の正しさを信じて進まなければなりません。 テレマコスよ あることはお前が自分の心で考えるであろうし ほかのことはダイモーンが助言を与えてくれるであろう なぜなら 神々の意に反してお前が生まれ育ったとはわたしは思わないから わたしたちが養育する者たちも、この詩人と同じ考え方

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(14)魂を養う「遊び」

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  アテナイからの客人  わたしの言う意味は、真剣な事柄については真剣であるべきだが、真剣でない事柄については真剣であるなということ、そしてほんらい神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが、人間の方は、前にも述べましたが、神の玩具としてつくられたものであり、そしてじっさいこのことがまさに、人間にとって最善のことなのだということです。ですから、すべての男も女も、この役割に従って、できるだけ見事な遊びを楽しみながら、その生涯を送らなければなりません、現在とは正反対の考え方をしてね。(「法律」 803C :『プラトン全集13』(岩波書店)森進一・池田美恵・加来彰俊訳、 pp. 423f )  これは、優れて宗教的な側面を持つ議論であり、また、哲学的な側面も有していると言えるだろう。  本題に入る前に、少しお浚(さら)いしておこう。   アテナイからの客人  なにごとにせよ、1つのことにすぐれた人物たらんとする者は、ほんの子供の頃から、そのことにそれぞれふさわしいもの(玩具)をもって遊戯をしたり真面目なことをしたりして、その練習をつまねばならないのです。(同、 643B )  このように、プラトンは、遊戯と真面目なこととは別物という認識のようだ。 たとえば、すぐれた農夫とかすぐれた建築家になろうとする者は、後者なら玩具の家を建てるなり、前者なら土に親しむなりして、遊ばなくてはなりませんし、彼ら両者を育てる者は、本物を模倣した小さな道具を、それぞれに用意してやらなくてはなりません。その上さらに、前もって学んでおくべき教課を、あらかじめ学んでおかなくてはなりません。たとえば、大工なら測定測量のことを、兵士なら乗馬のことを、遊びなり遊びに準ずることなりを通じて、あらかじめ学んでおかねばならない。また養育者は、子供の快楽や欲望を、そういう遊戯を通じ、彼らが大きくなればかかわりをもたねばならぬものへ、さし向けるようにつとめねばならない。したがって、教育とは、これを要するに、わたしたちに言わせれば、正しい養育なのです。その養育とは、子供の遊びを通じてその魂をみちびき、彼が大人になったときに充分な腕前の者とならねばならぬ仕事、その仕事に卓越することに対し、とくに強い愛着をもつようにさせるものなのです。(同、 643B-D )  ここに展開されている「遊び」は、

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(13)「遊び」の領域

祭祀(さいし)の機能は単にあることを模倣するというのではなく、幸(さち)という分け前を与えること、それを頒(わか)ち合うことなのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 34)  詰まり、<模倣的(ミメティック)というより、融即的(メセクティック)>(原注:同、 p. 55 )ということだ。 ※融即(ゆうそく):別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理。 Participation 。 そのことを祭祀として演じるということは、〈その行為(儀礼行為)を助けて現実のものたらしめる〉ということである。(同、 p. 34 ) 遊戯の性格はどんなに高貴な行為にも、その固有の性格として具(そな)わることができる。  ところで、この考え方の筋道をさらに祭祀行為まで延長して、供犠(くぎ)の儀式を執(と)り行なっている奉献司祭も、やはり1人の遊戯者ということでは同じである、と主張できるのではないだろうか。そして、もしこのことをある1つの宗教に対して認めるならば、結局すべての宗教について、それを同様に認めざるを得なくなるであろう。そういうことになれば、祭式、呪術、典礼、秘蹟、密儀などの観念は、ことごとく遊戯という概念の適用領域に納まってしまうのではないだろうか。(同、 p. 41 )  宗教的行為に「遊び」的要素が含まれていることは否定できない。が、だからと言って、宗教的行為は「遊び」であるとまで言うのは言い過ぎであろう。要は、どこまでの範囲を「遊び」と見做すのかという言葉の定義上の問題だと言えるだろう。 ただし、ここでわれわれが常に自戒しなければならないのは、遊戯概念のこういう内面的関連を拡げすぎることである。遊戯概念を不当に拡大して使うのは、単なる語呂合せ――言葉の遊び――にすぎない。 しかし私は、聖事を遊戯と呼んだとしても、それで言葉の遊びにおちいったものとは思わない。形式からすれば、それはどう見てもやはり遊戯なのであり、またその本質からいっても、聖事はそれを共にした人々を、別の世界へ連れ去ってゆくという限りでは、やはり遊戯なのだ。(同)  「遊び」が非日常的であり、時と場所が限定されるものという意味では聖事も「遊び」的資格を十分に有していることは間違いない。が、「聖事は遊びである」とまで言い切るのは、や

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(12)遊戯共同体

 この遊戯破りの姿は、男の子たちの遊びの中に、最もはっきりと現われている。ただ彼らの小さな共同体の中では、奴らには俺たちと一緒になって遊ぶ気がないんだとか、奴らと一緒に遊んでなんかやるものかと言って、遊戯破りを違犯視して相手にしなかったりすることはない。むしろ彼らにとって、奴らは許せないということなど最初からなかったので、そういう態度をただ、積極的にやる気がないんだ、と言うだけのことである。 服従と良心の問題も、彼らには罰に対する怖れ以上のものでないのが普通である。遊戯破りは魔法の世界をぶち壊してしまう。だから彼は卑怯者であり、除(の)けものにされるのだ。ところで前にもすこし触れておいたように、高度に真面目な世界の中でも、ぺてん師、偽善者、かつぎ屋のたぐいは、遊戯破りより、いつも気楽な立場におかれている。遊戯破り、すなわち背教者、異端者、革新者、良心的参戦拒否者などの立場はもっと厳しい。  しかし、この遊戯をぶち壊した連中が、自分たちだけで、すぐに新しい規則を持った新しい共同体を形づくる、ということもあり得よう。まさにこういうアウトロウ、革命家、秘密クラブ員、異端の徒たちは、集団を組織する力が非常に強く、しかもそういう場合、殆んどつねに、高度な遊戯性を示すものである。  遊戯共同体は、一般に遊戯が終った後もまだ持続する傾きがある。もちろん、どんなおはじき遊びも、ブリッジ・ゲームも、クラブを設立することへと通じているわけではない。だが、ある例外的状況の中に一緒にいたという感情、世間一般の人々から共同して抜けだし、日常茶飯の規範を一旦は放棄したのだという感情は、その遊戯が続けられた時間を超えて、後々までその魔力を残すものである。クラブの遊戯に対する関係は、ちょうど帽子の頭に対する関係に相当する。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 pp. 29f )  「遊び」は、人と人との絆を生み、人が集まって共同体を構成する。「遊び」が終了しても、この「絆」と「共同体」の記憶は消去されることはないということだ。 奉献の儀礼、つまり表現による現実化というものは、いかなる観点から見ても遊戯の形式的特徴を帯びたものにもなっている。実際、それは柵で囲繞(いにょう)された遊戯の場の中で祝祭として催(もよお)される。つまり、歓楽と自由の雰囲気の中で執(

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(11)「遊び」の規則は絶対的

賭けごととスポーツ競技に至って、緊張は絶頂に達する。遊戯活動そのものは善悪の彼岸(ひがん)にあるとは言ったが、この緊張の要素は、どうやら遊戯とある種の倫理的内容を共にし、それを分かちあっているようである。つまり、この緊張の中で、遊戯者の各種さまざまの能力が試練にかけられるのだ。それは彼の体力、不堯(ふぎょう)不屈の気力、才気、勇猛心、持久力などの試練となる。 しかし、それらと同時に、どうしても勝ちたいという炎のように激しい願望を敢えて抑えて、遊戯の規定で決められた許容の限界の中で耐えてゆくというような、精神力がためされることもある。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 28 ) どんな遊戯でも、それに固有の規則がある。それは、日常生活から離れたこの暫定的な世界の中で適用され、その中で効力を発揮する種々の取りきめである。遊戯の規則は絶対の拘束力を持ち、これを疑ったりすることは許されない。 ポール・ヴァレリーはかつて事のついでにこの点に触れて、遊戯の規則に対しては懐疑ということはあり得ない。なにしろ、この規則の根底をなす土台は揺がすことができないものだ、という取りきめによっているのだから、と言ったが、これは非常に大きな拡がりのある思想である。規則が犯されるや否や、遊戯世界はたちまち崩れおちてしまう。遊戯は終る。審判の笛が続行をさえぎり、〈日常世界〉が一瞬、ふたたび動き始める。(同、 pp. 28f )  規則を犯したり、無視したりする遊戯者が、いわゆる〈遊戯破り〉というやつである。この遊戯破壊者は、いかさま賭博師などとは全然違う。後者は賭け事に加わって本気でやっているかのようなふりをしているものだし、外見上は、依然として遊戯の魔圏というものを認めているのである。遊戯共同体は遊戯破りに対するよりも、いかさま師の罪悪にはずっと寛大である。つまり、遊戯破りの方は、遊戯世界そのものを打ち砕いてしまうからである。 彼が遊戯から身を引くということによって、それまで暫くのあいだ、彼が人々と一緒に閉じこもっていた遊戯世界の相対性と脆(もろ)さが、暴露されてしまうのだ。彼は遊戯から、幻想 inlusio を奪い去るのである。この言葉はラテン語だが、これを置き換えればドイツ語では Einspielung 、英語では in-play となる。そ

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(10)遊戯は秩序

 遊戯の場の内部は、1つの固有な、絶対的秩序が統(す)べている。ここにもまた、われわれは、遊戯のさらに積極的な、もう1つの特徴を見る。遊戯は秩序を創っている。いや、遊戯は秩序そのものである。不完全な世界、乱雑な生活の中に、それは一時的にではあるが、判然と画された完壁性というものを持ちこんでいる。遊戯が要求するのは絶対の秩序なのである。どんなに僅かなものでも、秩序の違犯は遊戯をぶちこわし、遊戯からその性格を奪い去って無価値なものにしてしまう。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 27)  ホイジンガは、「遊び=秩序」のように言っている。が、遊び自体が秩序というよりは、遊びという非日常の世界にも「秩序」は存在するということだろう。 なぜ遊戯のそんなに多くの部分が美学的領域に含まれているように見えるのか…その理由は、おそらくこの遊戯と秩序の観念の内面的な繋がりにあるのだ…遊戯には美しくあろうとする傾向がある…おそらくこの美的因子が、あらゆる種類の遊戯を活気づけている、秩序整然とした形式を創造しようとする衝動と、同一のものなのである。われわれが遊戯のさまざまの要素を表現することができる言葉は、殆んど大部分が美学的な領域に属した言葉なのである。それらは美というもののさまざまの作用、働きを示そうとするときに用いられる単語で、緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決というようなものである。遊戯はものを結びつけ、また解き放つのである。それはわれわれを虜(とりこ)にし、また呪縛(じゅばく)する。それはわれわれを魅惑する。すなわち遊戯は、人間がさまざまの事象の中に認めて言い表わすことのできる性質のうち、最も高貴な2つの性質によって充(み)たされている。リズムとハーモニーがそれである。(同、 pp. 27f )  「遊び」は、「律動」( rhythm )と「調和」( harmony )で充たされている。 遊戯に対して適用できる幾つかの呼び方の1つとして、われわれは緊張という言葉も挙げておいた。いや、この緊張の要素は、遊戯の中では特に重要な役割を演ずるものでさえある。緊張、それは不確実なこと、やってみないことにはわからないということである。だから、遊戯は緊張を解こうとする努力なのである。何か緊張の状態に入ることによって、あることが〈成就

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(9)「遊び」の時処位

遊戯が始められた。しかしある瞬間、それは〈終って)いる。遊戯は〈おのずと進行して終りに達し、完結する〉。その進行のあいだ、全体を支配しているのは運動、動きである。つまり、高揚してはまた鎮(しず)まるという変化、周期的な転換、一定した進行順序、凝集(ぎょうしゅう)と分解である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 26)  「遊び」には、先ず「時間的制約」が存在するということである。さらに、 遊戯は文化形式として、直ちにはっきり定まった形態をとるようになる。一度でもその遊戯が行なわれれば、それは精神的創造、あるいは精神的蓄積として、記憶の中に定着し、伝えられて伝統となるのだ。(同)  「遊び」の中には、それが繰り返される中で、人々の承認を獲得するものもあるだろう。さらに、それが日本文化を体現するものとして人々が認知するものも出てこよう。それが、世代から世代へと、さらには、時代から時代へと受け継がれ、「伝統」と称されるものへと昇華されるものもあろう。 それは子供の遊び、西洋すごろく、競走などのように一旦終った後で、すぐまた繰り返すこともできれば、長い間をおいた後で反復することもできる。この反復の可能性は遊戯の最も本質的な特性の1つである。 この点は、ただ全体として遊戯を見た場合だけでなく、遊戯の内部構造についても言うことができる。かなり発達した形式の遊戯の殆んどすべてがそうだが、反復、繰返し、順番による交代などの諸要素が、遊戯の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)に当たるようなものとなっている。(同)  遊戯の時間的制限よりさらに強く目につくのは、遊戯の空間的制限である。いかなる遊戯も、前もっておのずと区画された遊戯空間、遊戯の場の内部で行なわれる。場を区画することは、意識的に行なわれる時と、当然のこととしてひとりでに場が成立する時とがある。また区画が現実に行なわれる場合と、ただ観念的に設定される場合とがある。外形からすれば、遊戯と祭典の間には異なったところはない。つまり、神聖な行事は遊戯と同じ形式で執行されるのだから、奉献の場を、形式上遊戯の場から区別することはできない。闘技場、トランプ卓、魔術の圏、神殿、舞台、スクリーン、法廷、これらはどれも形式、機能からすれば、遊戯の場である。(同、pp. 26f) ということは

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(8)時空間の限定

ところが、遊戯の固有性として、規則的にそういう気分転換を繰り返しているうちに、遊戯が生活全体の伴奏、補足になったり、時には生活の一部分にさえなったりすることがある。生活を飾り、生活を補うのである。そしてその限りにおいて、それは不可欠のものになってしまう。個人には、1つの生活機能としてなくてはならないものになり、また社会にとっては、その中に含まれるものの感じ方、それが表わす意味、その表現の価値、それが創りだす精神的、社会的結合関係、こういうもののために、かいつまんで言えば、文化機能として不可欠になるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 25)  日常を非日常へと切り替えることで遊びの世界は現れる。時として、この切り替えが日常的なものとなることもある。そこに「遊び」における社会的ないしは文化的な意義を見出すことも可能であろうし、個人的心理の変化を読み解くことも出来なくはないだろう。  遊戯はものを表現するという理想、共同生活をするという理想を満足させるものである。そしてそれは食物摂取、交合、自己保存という純生物学的過程よりも高い領域の中に場を占めている。 こう言うと、動物の生活では遊戯が交尾期に非常に大きな役割を演じている事実と、矛盾におちいるように見えるかも知れない。しかし、われわれが人間の遊戯に対して認めたのと同じように、鳥が囀(さえず)ったり、雌を求めて啼(な)いたり、気取ったなりをして歩いたりすることに対して、そういうのは純生物学的なものの外部で演じられる行動である、と認めたならば、はたしてこれは非条理だろうか。そうではあるまい。 いずれにしても、やや高級な形式における人間の遊戯は、すべてそこに何かの意味があったり、何かのお祭になっていたりするのである。それは祝祭、祭祀の領域――聖なる領域――に属している、と言うことができる。(同)  このように、遊戯は人生にとって不可欠なもの、文化に奉仕するものになることがある。いや、もっと正しく言えば、現に、遊戯そのものが文化になることがある。しかしそうだとすると、そのために、遊戯は、あの利害問題とは関係がない、という特徴を失いはしないだろうか。 しかし、そんな虞(おそ)れはない。遊戯が仕えている目的そのものが、直接の物質的利害の、あるいは生活の必要の個人的充足の外におかれてい

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(7)「遊び」が属する「異世界」

この〈ただ遊戯をしているだけなんだ〉という意識も、それが最高度の真面目さ、真摯(しんし)、厳粛というものと手をたずさえることを妨げはしない。いや、そればかりではない、遊戯に夢中で耽(ふけ)っているうちに、どうかすると恍惚(こうこつ)状態に移ってゆくことがあって、〈ただ本当のようなふりをしてする〉というような言い方が、完全に当てはまらなくなったりすることもある。どんな遊戯であろうと、遊戯をしている人を、いつ何時でも、完全に虜(とりこ)にすることができるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 24)  「真剣さ」と「遊び」は相反(そうはん)しない。詰まり、真剣に遊ぶということがあっても何もおかしくはないということである。実際、一心不乱、一意専心、遊びに興じている 人を目にすることもしばしばである。 このように遊戯-真面目という対照関係は、いつも浮動しているのである。遊戯の劣等性は、それに対応する真面目の優越性と絶えず境を接していて、遊戯は真面目に転換し、真面目は遊戯に変化する。遊戯が真面目というものを俗界に置きざりにして、美と聖の遥かな高みに、翔(か)けのぼってゆくことさえあり得ないわけではない。われわれが遊戯と神聖な宗教行事の関係を、もっとくわしく目にとめて見ざるを得なくなれば、忽(たちま)ちこういう難問が、次々と踵(きびす)を接して迫ってくるのである。(同) さし当たっての問題は、われわれが遊戯と呼んでいる活動に固有なものとして具わっている形式的特徴をはっきり規定することである。すべての研究者が力点を置いているのは、遊戯は利害関係を離れたものである、という性格である。(日常生活)とは別のあるものとして、遊戯は必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に中断する。それはそういう過程の合間に、一時的行為としてさし挿(はさ)まれる。遊戯はそれだけで完結している行為であり、その行為そのものの中で満足を得ようとして行なわれる。少なくともこういうのが、遊戯そのもの、第一義的な立場から見た遊戯が、われわれの前に姿を見せる時の現われ方である。要するに、日々の生活の中の間奏曲としてであり、休憩時間の、レクリエーションのための活動としてである。(同、 pp. 24f )  「遊び」は、日常とは異なる非

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(6)遊びは非日常的

成人して生活に責任を負っている大人にとっては、遊戯などというものは、しなくてもかまわない1つの機能(行為)なのである。遊戯は余計なものである。ただ、遊戯によって満足、楽しみが得られるという限りにおいて、遊戯への欲求が切実になるというだけの話である。またそれはいつでも延期できるし、全く中止してしまおうと何ら差支(さしつか)えない。肉体的な必要から課されるわけではなし、まして道徳的義務によって行なわれるものでもない。それは仕事ではない。暇な時に、つまり〈自由な時間〉に遊戯をする、ということなのだ。ただ遊戯が文化機能となることによって、はじめて必然、課題、義務などの諸概念が、副次的な結果として遊戯と関係を持つようになってくる。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 23)  一般に、「仕事」は生産的であるのに対し、「遊び」は消費的である。だから、遊ぶ元手(もとで)や時間がなければ、無理して遊ぶ必要はない。が、「遊び」が一定の文化機能を纏(まと)うに連れて、「遊び」の意義、そして必要性も否応(いやおう)なく高まってくる。  遊戯は〈日常の〉あるいは〈本来の〉生ではない。むしろそれは固有の傾向によって、日常生活から、ある一時的な活動の領域へと踏み出してゆくことである。(同)  「遊び」は、非日常世界に属するものである。言い換えれば、日常世界からの一時的な「離脱」である。 幼い子供でももう、遊びというものは〈ただホントのことをするふりをしてするもの〉だと感じているのだし、すべては〈ただ楽しみのためにすること〉なのだ、と知ってもいる。この意識が、どんなに子供の魂の奥深く絡まりついているか、それは私見では、かつてある男の児の父親が話してくれた次の場合によって、はっきり説明されると思う。 父親は、4歳になる息子が一列に並べた椅子の一番前に坐って〈汽車ゴッコ〉をして遊んでいるところに行きあわせた。抱いて愛撫してやるとその子は言った、〈パパ、キカンシャにキスしないでよ。そうでないとキシャ(客車たち=並べた椅子)がホントだと思わないんだもの〉。この〈ただ本当のようなふりをしてする〉、〈ただ楽しみのためにしている〉という遊戯の性格の中には、遊戯の劣等意識がある。それは、より本質的なもののように見える〈真面目なこと〉に対して、これは〈楽しみごと〉なん

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(5)名著名訳

 こうして、遊戯は簡単に真にも善にも関連させることができないとすれば、それはあるいは、美の分野にでも包含されることになるのだろうか。ここで、われわれの判断は動揺する。確かに、美しいという属性が、遊戯そのものに具わっているわけではないが、遊戯には、とかく美のあらゆる種類の要素と結合しようとする傾きはある。例えば、比較的素朴な形式の遊戯には、初めから歓楽の気分と快適さが結びついている。運動する人体の美は、遊戯の中にその最高の表現を見いだしている。 一方、比較的複雑な形式の遊戯には、およそ人間に与えられた美的認識能力のうち、最も高貴な天性であるリズムとハーモニーが織りこまれている。このように、遊戯は幾本もの堅いきずなによって美と結ばれているのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 21 )  私の読書法は、多くが「批判的読み」(critical reading)に当たる。したがって、常に引っ掛かるところがないかを気にしながら本を読む癖が付いてしまっているのであるが、本書は論旨明快であり、立ち止まるべきところが殆どといって無い。よって、ただ気になるところを引用するだけになってしまっている。これには、訳文の明晰さも一役買っている。著者に匹敵するくらい内容に精通していなければこのような名訳は生まれない。その意味で、まさに「名著」に相応しい一冊なのではないかと思う次第である。 遊戯という概念は、不思議なことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、常に隔たっている。われわれは、幾つかの思考形式によって、精神生活や社会生活の構造を表現することができるが、遊戯はそれらすべてとも別のものである。(同、 p. 22 ) すべての遊戯はまず第1に、また何にもまして、1つの自由な行動である。命令されてする遊戯、そんなものはもう遊戯ではない。せいぜい、押しつけられた遊戯のまねごと、写しでしかあり得ない。早くも、この自由の性格によって、遊戯は自然の過程がたどる筋道から区別される。遊戯は自然の過程に付け加えられるもの、美しい衣裳のようにその上に着せられるものなのだ。(同)  「自由」があるから遊べるのだ。詰まり、「自由」は「遊び」にとって必要不可欠な要素であると言える。「遊び」には「自由」が無ければならない。型に嵌(はま)った、雁字搦(がんじがら)め

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(4)遊びの自立性

アリストテレースのいう〈笑う動物〉animal ridens は〈理性人〉という言葉よりも、いっそう純粋に人間を動物と対立させて示した言葉といえる。いま、笑いについて言ったのと同じことは、滑稽(こっけい)なものについても言うことができる。滑稽とは〈真面目ではないもの〉という概念に属していて、ある点では笑いとも結びつく。つまり、笑いを喚起するのが滑稽なのだ。しかし、その遊戯に対する関係は従属的な性質のものである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 20) それ自体として見れば、遊戯は滑稽ではない。遊んでいる当人にとってもそうである。観衆にとってもそうだ。動物の仔(こ)や幼児が遊んでいるさまは、時に滑稽なこともないではない。だが、成長した犬が追いかけ合っている眺めとなれば、そういうところは殆んどか、あるいは全く見られないのである。また、われわれがファルスや喜劇を滑稽だと思うのも、そこで演じられている行為そのもののせいではない。そこに盛られた思想内容のせいである。笑いをよぶ道化師の滑稽な身振りは、ただ意味を広くとった時にだけ遊戯と呼ぶことができるにすぎない。 ※ファルス:フランス中世後期に栄えた民衆演劇の形式の一。当時の庶民生活を題材とした単純素朴な喜劇。一般には、こっけいさをねらった喜劇。笑劇。ファース。【デジタル大辞泉】  滑稽なものは、痴愚と密接な繋がりがある。しかし、遊戯は愚かしくはない。それは賢愚という対照の外にある。この痴愚という概念もまた、さまざまの生活気分の大きな区分を表現するのに利用されずにはいなかったものである。(同)  遊戯、笑い、戯れ、諧謔(かいぎゃく)、滑稽、痴愚などの言葉の属している、これらただ漠然とした関連で繋がる一群の観念の表現は、われわれが遊戯に対して認めざるを得なかった特質、つまり、より根源的な概念に還元することの不可能というものを、どれもみな共通して持っている。それらのものの根本原理は、われわれの心の本質の中でも、特に奥深い層におかれているのである。  とにかく、われわれが遊戯という形式を、外見上それによく似ている他のさまざまの生の形式から、はっきりと区画しようと努めれば努めるほど、遊戯というものの絶対的な自立性がいよいよ明らかになってくる。しかもその上、こうして遊戯というものを大きな範

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(3)変更が迫られる「遊び」の概念

最後に、祭祀(さいし)というものを考察してみよう。原始共同社会はこの世の幸福の保証をつかむのに役立てようとして、さまざまの神聖な行事、奉献とか、供犠(くぎ)とか、密儀とかを行なっているが、これらは言葉の最も真実な意味で、純粋な遊戯として行なわれている。  しかも、文化を動かすさまざまの大きな原動力の起源はこの神話と祭祀の中にあるのだ。法律と秩序、取引と産業、工芸と美術、詩、哲学、そして科学、みなそうである。それらはすべて、遊戯的に行動するということを土壌として、その中に根をおろしている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 18 )  荘重なる「祭祀」と「遊び」は矛盾しない。それどころか、祭祀は<純粋な遊戯として行なわれている>と言うのである。ホイジンガは、我々に「遊び」の概念の修正を迫っている。  遊戯はわれわれの意識の中では、真面目ということの反対に相当する。この対立は、さし当たり今のところ、遊戯という概念そのものと同じように、他の範疇(はんちゅう)へ還元することが不可能である。しかし、もっと詳しく見ていくと、遊戯―真面目というこの対立は決定的なものでも、固定したものでもないように見えてくる。われわれは、遊戯とは〈真面目ではないもの〉、真面目の反対である、と言うことはできよう。しかし、この主張は遊戯の多くの特性については、何一つ積極的な内容を述べてはいない。また、そういう点は別としても、それに反駁(はんばく)するのもいたってたやすいことである。〈遊戯とは「真面目ではないもの」である〉というかわりに、〈遊戯は本気なものではない〉と言ってしまえば、われわれはもう、初めの対立を見失ってしまう。遊戯が、実際には全く本気で行なわれることだってあり得るからだ。(同、 p. 19 )  例えば、男女関係において、「真面目な交際」と「遊びの関係」は、普通、正反対のものと考えらえる。が、だからと言って、「真面目」と「遊び」が反意的だということにはならない。遊びに真面目に取り組むことは可能だからである。  だが、それだけではない。われわれは生の基本的な範疇の中で、遊戯以外にもやはり〈真面目ではないもの〉という概念に帰せられる幾つかのものに出合うが、それらは遊戯概念とは重なるところがないのである。例えば、笑いは真面目のある種の反対ではあ

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(2)言語と神話

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人類が共同生活を始めるようになった時、その偉大な原型的行動には、すべて最初から遊戯が織り交ぜられていたのである。例えば言語をとってみよう。言語、これは他人にものごとを伝達したり、教示したり、命令したりするために作られたものであり、人類の最初にしてかつ最高の道具である。言語によって人間はものごとを弁別したり、定義したり、明確化させたりしている。要するにそれによって物に名を与え、その名で物を呼んでいる。物を精神の領域へ引き上げているのである。 このように言語を創り出す精神は、素材的なものから形而上的なものへと、限りなく移行を繰り返しつづけているのだが、この行為はいつも遊戯しながら行なわれるのである。どんな抽象の表現でも、その後に立っているのは比喩であり、いかなる比喩の中にも言葉の遊びが隠れている。こうして、人類は存在しているものに対する表現を、つまり第2の架空世界を、自然界のほかに創造している。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 17 )   Homo loquens 「ホモ・ロークエンス」(言語人)ということである。言葉を駆使するのが人間が人間たる所以(ゆえん)の1つであるのだが、ホイジンガは、この言葉の使用にも「遊び」が含まれていると言う。 あるいはまた、神話を取り上げるがよい。これとても、存在しているものを想像力で形象化したという点は、やはり同じである。ただ、1つ1つの言葉よりは、ずっとその細工の度合が甚だしく、磨きがかかってはいるのだが。要するに、古の人は神話によって地上的なもの、存在というものを釈(と)き明かそうとした。神話によって、さまざまの物を、神的なものという基礎に結びつけて考えようとした。だが、この場合も同じことである。神話が世界に存在するものに被せる、どんな気まぐれな空想の中でも、想像力豊かな魂は、冗談と真面目の境界の上を戯れているのである。(同、 pp. 17f )  自分達は一体どこから来たのか、その源を知りたいと願うのは人間の性(さが)とでも言うべきものであろう。「今・此処(ここ)・私」から離れ、過去を遡(さかのぼ)ればのぼるほど、「世迷い事」も消えて無くなる。それが、神話の世界ということではなかろうか。 《神話の時代と歴史の時代が地続きになっている――これは日本の大きな特徴です。どこの文明国で

【新連載】ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(1)「ホモ」はラテン語で「人間」のこと

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今回は、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読んでいく。  われわれ人間は、結局のところ、18世紀がその素朴な楽天観の中で、とかくそう思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えない。そこで〈ホモ・サピエンス〉という名称が、われわれを指していうにしては、当時信じられていたほど適切なものではないことが明らかになってくると、この名称のほかに、人類を示すため〈ホモ・ファベル〉、作る人という呼び名が持ち出された。しかしこれは、前者よりさらに不適切なものである。ものを作る動物も少なくないからである。 作るということを言ったが、これはまた遊戯することについても同じであって、実に多くの遊ぶ動物がいる。それにもかかわらず、私は〈ホモ・ルーデンス〉、遊戯人という言葉も、ものを作る機能と全く同じような、ある本質的機能を示した言葉であり、〈ホモ・ファベル〉と並んで1つの位置を占めるに値するものである、と考える。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 1 )  ラテン語 Homo Ludens を「遊び人」と訳してしまっては「(遠山の)金さん」のようになってしまって、話があらぬ方向に向かってしまいかねないので、カタカナ書きで「ホモ・ルーデンス」と表記されていることを先ず確認しておこう。  では、ホイジンガの考える「遊び」とは何か。訳者高橋氏は、「遊び」と言うと「仕事」の対義語と受け取られかねないのを危惧してのことであろう、「遊戯」という言葉を使われている。 遊戯というものが、純生物学的な行動の、というか、あるいは純粋に肉体的な活動とでもいうものの限界を超えているのである。すなわち、遊戯はなんらかの意味を持った1つの機能なのである。(同、 p. 12 ) 遊戯は1つの意味を持っているということからすれば、遊戯そのものの本質の中に、1つの非物質的な要素があることは明らかである。(同)  遊戯の起源、基礎は、あり余る豊かな生命力を放出することであると定義できる、と考えた人たちもいる。また他の人々によると、人間が遊戯をするというのは、先天的な模倣本能に従っているということなのだ、という。遊戯によって、緊張から解きほぐされたいと願う欲求を満足させたり、実生活がやがて要求してくる真剣な仕事のための練習を

ザ・フェデラリスト(23)結語その5【最終回】

The zeal for attempts to amend, prior to the establishment of the Constitution, must abate in every man who is ready to accede to the truth of the following observations of a writer equally solid and ingenious: "To balance a large state or society [says he], whether monarchical or republican, on general laws, is a work of so great difficulty, that no human genius, however comprehensive, is able, by the mere dint of reason and reflection, to effect it. The judgments of many must unite in the work; experience must guide their labor; time must bring it to perfection, and the feeling of inconveniences must correct the mistakes which they inevitably fall into in their first trials and experiments." – FEDERALIST 85, Conclusion: Alexander Hamilton (憲法を制定する前に、修正しようとする熱意は、次の堅実で等しく独創的な1人の作家の見解が正当であることに同意することが出来る人ならば誰でも弱まるに違いありません。「一般法に基づいて、君主制であれ共和制であれ、大きな国家や社会の平衡を保つことは至難の業(わざ)ですので、人間の才能が、どんなに包括的であっても、単なる理性と熟考によって、それを達成することは出来ません。多くの判断をその作業に結集し、経験によってその労苦を導き、時間を掛けてそれを完璧なものにし、不都合を感じなが

ザ・フェデラリスト(22)結語その4

In opposition to the probability of subsequent amendments, it has been urged that the persons delegated to the administration of the national government will always be disinclined to yield up any portion of the authority of which they were once possessed. For my own part, I acknowledge a thorough conviction that any amendments which may, upon mature consideration, be thought useful, will be applicable to the organization of the government, not to the mass of its powers; and on this account alone, I think there is no weight in the observation just stated. I also think there is little weight in it on another account.– FEDERALIST 85, Conclusion: Alexander Hamilton (制定後に修正されるかもしれないことに反対して、国民政府の運営陣は常に、かつて保有していた権限の如何なる部分も手放したがらないと主張されてきました。私自身は、熟慮の結果、有用と思われる修正は、膨大な権限にではなく、政府組織に適用されるものであるということを、完全に確信しています。そして、この理由だけでも、今述べた所見は重要でないと思っています。別の理由からも、これは殆ど重要でないと思います)― フェデラリスト85:結語:ハミルトン The intrinsic difficulty of governing thirteen States at any rate, independent of calculations upon an ordin

ザ・フェデラリスト(21)結語その3

The reasons assigned in an excellent little pamphlet lately published in this city, are unanswerable to show the utter improbability of assembling a new convention, under circumstances in any degree so favorable to a happy issue, as those in which the late convention met, deliberated, and concluded. I will not repeat the arguments there used, as I presume the production itself has had an extensive circulation. It is certainly well worthy the perusal of every friend to his country. There is, however, one point of light in which the subject of amendments still remains to be considered, and in which it has not yet been exhibited to public view. I cannot resolve to conclude without first taking a survey of it in this aspect.– FEDERALIST 85, Conclusion: Alexander Hamilton (最近この市で出版された優れた小冊子に挙げられた理由は、先の大会が会合し、審議し、結論を出した状況と、少しでも同じくらい好結果が期待できる状況下で、新しい大会を招集することなどまったく有り得ないことを示すのに反論の余地がありません。この論文自体は広く流布していると思われますので、そこで使い古された議論は繰り返しません。確かに、祖国のあらゆる支持者が熟読するに値するものです。しかしながら、修正案の問題には、まだ検討されておらず、まだ公開さ

ザ・フェデラリスト(20)結語その2

I shall not dissemble that I feel an entire confidence in the arguments which recommend the proposed system to your adoption, and that I am unable to discern any real force in those by which it has been opposed. I am persuaded that it is the best which our political situation, habits, and opinions will admit, and superior to any the revolution has produced. – FEDERALIST 85, Conclusion: Alexander Hamilton (私は、提案された制度を貴方方が採用するように勧める議論を全面的に信頼していますし、反対されてきた議論に真の効力を見付けることが出来ないことも隠しはしません。それが私達の政治状況、習慣、意見が認める最良のものなのであり、革命が生み出した如何なるものよりも優れていると私は納得しております)― フェデラリスト85:結語:ハミルトン Concessions on the part of the friends of the plan, that it has not a claim to absolute perfection, have afforded matter of no small triumph to its enemies. "Why," say they, "should we adopt an imperfect thing? Why not amend it and make it perfect before it is irrevocably established?" This may be plausible enough, but it is only plausible. – Ibid . (この計画を支持する側が、これは完全無欠を主張するものではないと譲歩したことは、敵対する人達に少な

ザ・フェデラリスト(19)結語その1

Thus have I, fellow-citizens, executed the task I had assigned to myself; with what success, your conduct must determine. I trust at least you will admit that I have not failed in the assurance I gave you respecting the spirit with which my endeavors should be conducted. I have addressed myself purely to your judgments, and have studiously avoided those asperities which are too apt to disgrace political disputants of all parties, and which have been not a little provoked by the language and conduct of the opponents of the Constitution. The charge of a conspiracy against the liberties of the people, which has been indiscriminately brought against the advocates of the plan, has something in it too wanton and too malignant, not to excite the indignation of every man who feels in his own bosom a refutation of the calumny. -- FEDERALIST 85, Conclusion: Alexander Hamilton (このように、同胞の皆さん、私は自らに課した任務を遂行致しました。どれほど上手く行ったかに就(つ)きましては、皆さんの行動如何に掛かっています。少なくとも、私が努力する際の心持ちについて、皆さんにお約束したことに間違いはなかったと認めて頂

ザ・フェデラリスト(18)民主主義国 vs. 共和国

The error which limits republican government to a narrow district has been unfolded and refuted in preceding papers. I remark here only that it seems to owe its rise and prevalence chiefly to the confounding of a republic with a democracy, applying to the former reasonings drawn from the nature of the latter. The true distinction between these forms was also adverted to on a former occasion. It is, that in a democracy, the people meet and exercise the government in person; in a republic, they assemble and administer it by their representatives and agents. A democracy, consequently, will be confined to a small spot. A republic may be extended over a large region. -- FEDERALIST 10: The Same Subject Continued: by James Madison (共和政体を狭い範囲に限定する誤りは、これまでの論文で次々に明らかにされ、反論されてきました。私がここで指摘したいのは、この誤りは、主として共和国と民主主義を混同し、後者の性質から導き出される推論を前者に適用したために生じ、広まったと思われるということだけです。これらの形式の本当の区別については、前の機会にも言及しました。それは、民主主義国では、国民本人が直接集まって政治を行うのに対し、共和国では、代表者や代理人が集まり、政治を行うということです。その結果、民主主義国は狭い場所に限定されることになります。共和国は、広い地域

ザ・フェデラリスト(17)マディソンの詭弁

Hence, it clearly appears, that the same advantage which a republic has over a democracy, in controlling the effects of faction, is enjoyed by a large over a small republic, -- is enjoyed by the Union over the States composing it. Does the advantage consist in the substitution of representatives whose enlightened views and virtuous sentiments render them superior to local prejudices and to schemes of injustice? It will not be denied that the representation of the Union will be most likely to possess these requisite endowments. Does it consist in the greater security afforded by a greater variety of parties, against the event of any one party being able to outnumber and oppress the rest? In an equal degree does the increased variety of parties comprised within the Union, increase this security. Does it, in fine, consist in the greater obstacles opposed to the concert and accomplishment of the secret wishes of an unjust and interested majority? Here, again, the extent of the Union gives

ザ・フェデラリスト(16)腑に落ちない話

In the next place, as each representative will be chosen by a greater number of citizens in the large than in the small republic, it will be more difficult for unworthy candidates to practice with success the vicious arts by which elections are too often carried; and the suffrages of the people being more free, will be more likely to center in men who possess the most attractive merit and the most diffusive and established characters. -- FEDERALIST 10: The Same Subject Continued: by James Madison (次に、大国では、各代表が小共和国よりも多数の国民によって選ばれ、悪辣(あくらつ)な手管(てくだ)で選挙に勝ち、価値のない候補者が当選することが難しくなります。また、国民の投票がもっと自由になるため、最も魅力ある功績や、最も広がり易く名声が確立した性質を持つ人物により集中しそうです)― フェデラリスト10:続き:ジェームズ・マディソン  選挙区が小さければ、候補者と選挙民の距離が近く、買収などの選挙違反が蔓延(はびこ)るが、選挙区が大きければ、そのようなことはないというのがマディソンの主張であるが、これは正しくない。選挙区が大きくなれば、別の形で選挙民は誘導されるのであって、選挙区の大小だけでこういったことを言っても意味がない。 It must be confessed that in this, as in most other cases, there is a mean, on both sides of which inconveniences will be found to lie. By enlarging too much the number of e

ザ・フェデラリスト(15)民主主義国と共和国の違い

The two great points of difference between a democracy and a republic are: first, the delegation of the government, in the latter, to a small number of citizens elected by the rest; secondly, the greater number of citizens, and greater sphere of country, over which the latter may be extended. -- FEDERALIST 10: The Same Subject Continued: by James Madison (民主主義国と共和国の2大相違点は、第 1 に、後者では、国民によって選ばれた少数の国民に統治が委ねられること、第 2 に、後者が拡大できる国民がより多数で、国の領域がより広大であることです)― フェデラリスト10:続き:ジェームズ・マディソン  マディソンの言う民主主義国と共和国の違いは、今で言うところの直接民主制と間接民主制の違いと変わらないように思われる。直接民主制は、かつてアテナイで行われていた政治がその典型とされ、顔を見知った人達が集まり、「合意」によって政治を進めたものである。が、これは小さな社会においては有効であっても、大きな社会では成り立たない。だから、大きな社会では、自分たちの代表を選び、代議員が国会で議論し、「多数決」で物事を決めて行く間接民主制となっているわけである。 ※ 日本は間接民主制を敷いているが、君主たる天皇が存在するので、本来は、共和国ではなく君主国と言うべきである。君主が存在するのに国民主権の民主主義などと言うと矛盾である。だから、大正デモクラシー期、吉野作造は「民本主義」と称したのである。 The effect of the first difference is, on the one hand, to refine and enlarge the public views, by passing them through the medium of a chosen body of citizens, whos