ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(10)遊戯は秩序

 遊戯の場の内部は、1つの固有な、絶対的秩序が統(す)べている。ここにもまた、われわれは、遊戯のさらに積極的な、もう1つの特徴を見る。遊戯は秩序を創っている。いや、遊戯は秩序そのものである。不完全な世界、乱雑な生活の中に、それは一時的にではあるが、判然と画された完壁性というものを持ちこんでいる。遊戯が要求するのは絶対の秩序なのである。どんなに僅かなものでも、秩序の違犯は遊戯をぶちこわし、遊戯からその性格を奪い去って無価値なものにしてしまう。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 27)

 ホイジンガは、「遊び=秩序」のように言っている。が、遊び自体が秩序というよりは、遊びという非日常の世界にも「秩序」は存在するということだろう。

なぜ遊戯のそんなに多くの部分が美学的領域に含まれているように見えるのか…その理由は、おそらくこの遊戯と秩序の観念の内面的な繋がりにあるのだ…遊戯には美しくあろうとする傾向がある…おそらくこの美的因子が、あらゆる種類の遊戯を活気づけている、秩序整然とした形式を創造しようとする衝動と、同一のものなのである。われわれが遊戯のさまざまの要素を表現することができる言葉は、殆んど大部分が美学的な領域に属した言葉なのである。それらは美というもののさまざまの作用、働きを示そうとするときに用いられる単語で、緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決というようなものである。遊戯はものを結びつけ、また解き放つのである。それはわれわれを虜(とりこ)にし、また呪縛(じゅばく)する。それはわれわれを魅惑する。すなわち遊戯は、人間がさまざまの事象の中に認めて言い表わすことのできる性質のうち、最も高貴な2つの性質によって充(み)たされている。リズムとハーモニーがそれである。(同、pp. 27f

 「遊び」は、「律動」(rhythm)と「調和」(harmony)で充たされている。

遊戯に対して適用できる幾つかの呼び方の1つとして、われわれは緊張という言葉も挙げておいた。いや、この緊張の要素は、遊戯の中では特に重要な役割を演ずるものでさえある。緊張、それは不確実なこと、やってみないことにはわからないということである。だから、遊戯は緊張を解こうとする努力なのである。何か緊張の状態に入ることによって、あることが〈成就〉しなければならないのだ。この要素は、玩具を小さな手で掴(つか)もうとしている赤ん坊、糸巻機にじゃれている子猫、手毬(てまり)を投げたり、受けとめたりしている少女にも、すでにある。この要素はまた、パズルとか、嵌(は)め絵遊び、モザイク作り、トランプのペイシェンス、標的打ちのような、ひとりでする技能の遊戯、解決の遊戯をも支配している。そして、遊戯が多かれ少なかれ競争的な性格を帯びてゆく程度に応じて、その意味を増してゆく。(同、p. 28

※ ペイシェンス:ソリティア(1人で遊ぶトランプのゲーム)

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