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オークショット「合理的行動」(14)【最終】活動の整合性

It is commonly believed (as we have seen) that there is something pre-eminently 'rational' in conduct which springs (or appears to spring) from the independent premeditation of a purpose or a role of behaviour, and that it is 'rational' on account of the antecedent process of premeditation and on account of the success with which the purpose is achieved. And if we were to accept this view it would appear that moral conduct would be pre-eminently 'rational' when it was being treated for a diseased condition. -- Michael Oakeshott, Rational conduct : NINE (行動の目的や役割を独立に前もって熟考することから生まれる(あるいは生まれるように見える)行動には、極めて「合理的」なものがあり、予謀の先行過程のゆえに、そして目的が達成される成功のゆえに「合理的」であると(これまで見てきたように)一般に信じられている。そしてもし、この考え方を受け入れるなら、道徳的な行為は、病状の治療を受けているとき、極めて「合理的」であるかのように見えるだろう)  「合理的」( rational )というよりも「合理主義的」( rationalistic )と言った方が分り易いのではないだろうか。合理主義者の言う「合理的」とは、理に適(かな)うという意味というよりも、合理主義の考え方に沿ったという意味のように思われるからである。 But even this is rather more than may properly be concluded; the most that may, in...

オークショット「合理的行動」(13) 知識への忠実さ

行動に関して「合理的」という言葉を用いる唯一重要な方法は、我々がそれを用いようとするときに活動それ自体の特質ないし特性(おそらく、望ましい特質ないし特性)を指し示すことである、ということが認められるならば、当該特質とは単に「知性」だけでなく、我々の従事する特別な活動を行う方法に関して我々が持っている知識への忠実さのことでもあると思われるであろう。「合理的」な行動とは、その行動が属する活動のイディオムの整合性が保持されかつ可能な限り高められるような仕方で行為することである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 116-117)  <我々が持っている知識>とは、「知性」のみならず、経験から得られた「実践知」をも含めた総合的な知識のことを指しているに違いない。言い換えれば、伝統や慣習といった定式化されてはいない「暗黙の了解」に棹差すということである。 もちろん、これは活動の(発見されたとしてもごくわずかの)原理・ルール・目的への忠実さとは異なった何かである。原理・ルール・目的は、活動の整合性の単なる要約であり、我々は活動それ自体との接触を失うとしても、これらに忠実であることは容易である。また、「合理性」を特徴づける忠実さは、確立され完成された何かへの忠実さではない(というのも、活動を行う方法に関する知識は常に変動しているからである)。つまり、活動の整合性に自ら貢献する(単にこれを説明するだけではない)ことが忠実さというものなのである。(同、 p. 117 )  <確立され完成された何か>ではなく、定式化されてはいないが、柔軟で流動的な知識を大切にする姿勢、それこそが<知識への忠実>というものなのだろう。 この見解は次のような含意を持っている。第1に、いかなる行動・行為・一連の行為といえども、それらが属する活動のイディオムと無関係に「合理的」ないし「不合理的」であることはできない。第2に、「合理性」とは常に前方にある何かであって後方にある何かではない。しかし、それは望ましい結果ないし予(あらかじ)め考えられた目的の達成に成功するということではない。第3に、活動のイディオムのすべてが単一分野の活動に包含されていると考えないならば、ある活動全体(たとえば、科学、料理、歴史研究、政治、詩など)について「合理的」だとか「不合理的」だとか言うことはできな...

オークショット「合理的行動」(12)<実践知>の欠けた「正解」

All actual conduct, all specific activity springs up within an already existing idiom of activity. And by an 'idiom of activity' I mean a knowledge of how to behave appropriately in the circumstances. – Michael Oakeshott, Rational conduct : seven (すべての実際の行動、すべての具体的な活動は、既存の活動の様式内で生まれてくる。そして、「活動の様式」とは、現場での適切な振る舞い方についての知識を意味する)  観念の世界において、人はいかに行動すべきかを抽象的に考えるのではなく、実際の現場では、慣習的道徳や倫理に沿ってどのように振る舞うべきかが選択されるということである。 Scientific activity is the exploration of the knowledge scientists have of how to go about asking and answering scientific questions; moral activity is the exploration of the knowledge we have of how to behave well. The questions and the problems in each case spring from the knowledge we have of how to solve them, spring from the activity itself. – Ibid. (科学的活動とは、科学的な問いを立て、それに答えるために、科学者が持っている知識を探求することであり、道徳的活動とは、善く振る舞うために、我々が持っている知識を探求することである。各事案の問題は、それの解決法について我々が持っている知識から生まれ、活動自体から生まれる) And we come to penetrate an idiom of activity in no other way than by practisi...

オークショット「合理的行動」(10) 合理性の魅力

確実性――信念と行動の諸問題に関しての――への激しい欲求があった。それは次のような確信と結びついてしまった。すなわち、確実性はただ我々に「与え」られた何かに関してのみ可能となるのであって、我々が確かめた何かに関してではない、つまり確実性は恩寵(おんちょう)という贈物であって、労働の報酬ではない、という確信である。確実性は、おそらく我々が出発点としなければならないものであるに違いない。活動とは無関係の命題的知識だけがそれを提供するように思われる。この種の誤謬(ごびゅう)なき確実性への切望は、思うに、知的誠実さへの欲求ほど信用のおけるものではない。確かに、道具としての精神はいくつかの点で魔術信仰の遺物だとみなされてもよいと、私は思う。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 106)  不確実なものを削ぎ落し排除したものが合理的なものとなるのだから、合理的なものは確実なものとなる。この絡繰(からく)りによる<確実性>が<合理性>の魅力なのである。 多くの生活領域、特に政治においては、物事への取り組み方がますます分からなくなっており、「新しい」と思われるがゆえに素早い処理手段が我々に準備できていない状況がよく生じるようになった。政治の場においていかに行為すべきかを知らないとき、人はこの種の知識の価値と必要性をけなし、活動に先立って知る能力を賦与されていると想定されている、自由で開放的な精神の価値と必要性を誉める傾向があるだろう。(同)  生活そして社会が複雑になるにつれて、政治課題も複雑化する。従来の手法では問題を解決することが出来ず、解決に要する時間も長くなりがちある。これに対し、<合理主義>は物事を単純明快に処理していくわけであるから人々の目には魅力的に映るわけである。  が、不合理なものを削ぎ落し、単純化するからこそ問題を<合理的>に処理することが出来るのであって、削ぎ落された問題は山となり放置されるだけである。が、単純化し<合理的>に処理しようとしたことが必ずしもちゃんと処理できる保証はない。不合理なものをすべて削ぎ落せば、人間的なものは残らないからである。 彼が「合理的」な行動だとするものが実際に不可能なのは、それが「異常で不合理な、大部分の人の内部にある邪悪さの根源」によって圧倒されやすいからではなく、人間行動の性質に関する不実表示...

オークショット「合理的行動」(9) <知的誠実さ>の意味の変更

これら(=活動に関する諸命題など)は教えることはできるが、教師から学びうる唯一の事柄ではない。経験を積んだ科学者ないし職人と一緒に仕事をすることは、そのルールを学びとるだけでなく、どのように彼が仕事に着手するかについての直々(じきじき)の知識(とりわけ、何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)を得る、1つの機会なのである。これが獲得されない間は、たいへん価値のある事柄でさえも学びとったことにはならない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、 p. 105 )  詰まり、オークショット流に言えば、知識には「技術知」と「実践知」の2つあり、定式化可能な「技術知」だけを手に入れただけでは、本当の意味で知識を身に付けたことにはならないということである。 しかし、我々がこれ(=何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)をルールそのものの学習と比較して重要でないと考えるとき、あるいはそれを本当の意味での教授ではない、つまり正式には知識ではないと拒否するときにのみ、ある活動を学習するということの性格が、活動それ自体はそれに関する別途に予め考えられた諸命題から生じうるのだという見解を支えているように思われる(同)  <実践知>を拒否排除し、<技術知>を詰め込むことこそが合理的学習なのである。 精神的誠実さ、公平無私、そして偏見の不在が最高価値を有する知的徳目である、という称賛に値する確信があった。しかし、この確信は不幸にも奇妙な精神混乱に陥り、公平さは完全に自律的な精神――すなわち既得の性向を欠いている精神――にのみ可能であるという信念と結びついてしまった。(同、 p. 106 )  従来の公平の基準は、歴史の英知の中にあった。言い換えれば、自分を越えたところにあった。それが合理主義の波に押し流されしまい、自意識が肥大化する中で、自らが差配できるものへと相対的に矮小(わいしょう)化されてしまったのである。 知的誠実さを重んじると同時に、その知的誠実さを「正直」であろうと特別に決意した活動と同一視すること、そして知的誠実さを1つの既得の技能(これについてはそれぞれその適切な状況に応じた様々のイディオムがある)として認めることは、この不幸な「合理性」という理想への第一歩なのである。(同)  予め特定された目的に向けて、予め決められ...

オークショット「合理的行動」(8) 合理的とは機械的

英語の rational は、例えば、Oxford Advanced Learners’ Dictionary によれば、 able to think clearly and make decisions based on reason rather than emotions (感情よりもむしろ理性に基づいて明瞭に考え、決断することが出来る) のように定義されている。一方、日本語の「合理的」とは「理に適っている」ということであるが、「理」は論理、道理、摂理といったものに細分化され、さらに摂理にも自然の摂理もあれば神の摂理もあるといった具合である。詰まり、「理に適っている」という意味の「合理的」という日本語の感覚で  rational  を見るのは誤解の元なのではないかということだ。 もし「合理性」が活動の望ましい特質を表すとしても、それは活動が始まる前にその活動について予(あらかじ)め別途に考えられた諸命題を持っているという特質ではあり得ない。また、このことは、他のどんな種類の命題にもあてはまるように、活動の目的ないし目標に関する諸命題にもあてはまる。ある活動の目的が予め明確に決定されていることを理由に、またそれが他のすべての目的を除いてその目的だけを達成することに関して、その活動を「合理的」だと呼ぶことは誤りである。なぜなら、実際のところ活動それ自体に先立って活動目的を決定する方法などないからである。仮にそうした方法があったとしても、活動の根源は依然としてその目的を追求する際にいかに行為すべきかを知っていることにあるのであって、単に追求されるべき目的をすでに定式化しているという事実にあるわけではない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、 p. 104 )  「合理的」などと飾らずに、むしろ「機械的」と言った方が分り易くはないか。言うまでもなく、機械は言われた通りに粛々(しゅくしゅく)と作業をこなす。予め決められた目的にむけて、決められた工程を進める。これを人間が行うとすれば、まさに「機械人間」である。 我々は、ある活動がその活動に関する諸命題を予め考えておくことから生じうると想定することは不自然である、ということに同意するかもしれない。しかし、ある活動を教えるためには、それに関する我々の知識を一組の諸命題――言語...

オークショット「合理的行動」(7)合理的理論は唯の抽象論

あれこれの特質は獲得されたものではない。それらは精神を組成する要素なのである。人間の精神からあれこれの特質を消滅させてみれば、人間の「知識」(ないしその一部)だけでなく、精神それ自体も消滅してしまうだろう。後に残るのは中立で公正な道具つまり純粋な知性ではなく、完全な無である。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 103)  例えば、「慣習」は、合理的か否かの検閲を受けておらず、本来の<精神>を歪(ゆが)めるものである可能性が高いからという理由で、これを取り除こうとするのは愚行である。「慣習」を身に付け、これに従うことによって、我々は行動に要する負担を軽減することが出来る。にもかかわらず、「慣習」を否定してしまっては、行動するに当たって、様々な社会的軋轢(あつれき)を想定し、損得計算を行わなければならず、この作業が山のように積み重なっては日常生活を送ることが出来なくなってしまうだろう。 The whole notion of the mind as an apparatus for thinking is, I believe, an error; and it is the error at the root of this particular view of the nature of 'rationality' in conduct. Remove that, and the whole conception collapses. –- Michael Oakeshott, Rational conduct (精神は考えるための装置だという概念全体が誤りなのだと思う。それは、行動における「合理性」の本質についてのこの特別な見解の根底にある誤りである。この誤りを取り除けば、概念全体が崩壊する) it is an error to suppose that conduct could ever have its spring in the sort of activity which is misdescribed by hypostatizing a 'mind' of this sort; that is, from the power of considering abstract proposi...

オークショット「合理的行動」(6)頭の中で作り上げた空想

人間行為についての誤った理論であり誤った記述であるがゆえに、その理論に適する明確で偽りのない行為事例を示すことができない…実際に不可能なのである。人々はこのようには行為しない。なぜなら、そうすることができないからである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 101)  理論通りに合理的に行動することなど不可能だということである。 確かに、この理論を考えた者たちは、自分たちが可能な行為形態を記述しているのだと思っていた。そして、それを「合理的」だと称して、彼らはそれを望ましいものとして推奨したのである。しかし彼らは勘違いしていたのである。また、疑いなく、この理論が通用する場合にはいつでも、行為はその理論が示唆するパターンと合致する傾向があるだろう。しかし、それはうまく行かないであろう。誤った理論が実際に孕(はら)んでいる危険は、その理論のために人々が望ましくない仕方で行為するようになるということではなく、それによって活動が誤れる方向へと惑わされ攪乱(かくらん)されるということである。(同、pp. 101-102)  人間は機械ではない。脳内を初期化して合理的理論だけで埋め尽くすなどということなど出来るわけがない。また、予(あらかじ)め決められた目的に向けて、決められた道筋を、何の選択の余地もなくただ進むなどということは「人間」である限り出来やしないのである。 その理論の正確な性格が看取されるとき、その理論は自らの不完全さのゆえに崩壊することが理解されるであろう…この理論はどんな種類の行動についても満足のいく説明を与えないがゆえに、合理的な行動についての満足のいく考えではない(同、 p. 102 )  合理的理論とはどのようなものなのか。 まず何か「精神」と呼ばれるものがあるということ、この精神は信念・知識・偏見――要するに内実――を獲得するが、それにもかかわらず、それらは精神の単なる付加物にすぎないということ、精神は身体的な諸活動を引き起こすということ、そして獲得されたいかなる種類の性向によっても阻害されないとき精神は最もよく働く(同)  <精神>は独立した存在であるということ、先ずこれが「空想」である。 この精神はフィクションであって、実体視された活動以上の何物でもない。我々の知っている精神は知識や活動の所産であり、もっぱ...

オークショット「合理的行動」(5)合理主義は「砂上の楼閣」

人間の精神にはその構造上、「理性」という生まれつきの能力、その輝きが教育によってのみ曇らされるところの光、1個の誤謬(ごびゅう)防止装置、その呪文が真であるところの神託が含まれていると想定されてきた。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 98)  <理性><光><誤謬防止装置><神託>が人間精神に備わっているなどというのは、まったく非合理な前提である。が、この非合理な前提がなければ合理主義は成立しない。だとすれば、合理主義は、どれほど偉そうなことを言っても、「砂上の楼閣」と言うしかないではないか。 しかし、この想定が賢明さを失い必要を越えてさらに押し進められるならば、人間の精神はその内容とその活動から分離されうるという想定が(この能力があるとすれば)不可避であるように思われる。精神を中立な道具として、また1個の装置として想定する必要がある。この1台の機械を最もうまく使いこなすために長く激しい訓練が必要であるかもしれない。大事に整備されなければならないのはエンジンである。にもかかわらず、精神は独立した道具であり、それを用いることから「合理的」な行動が生じるのである。(同、 p. 98 )  <理性>は決して生得的なものではなく、経験を積むことで研ぎ澄まされていくものではないのだろうか。が、<理性>が経験差によってばらばらとなるようでは合理主義は成り立たない。だから<理性>は生まれながらにして誰もが平等に有しているものと前提しなければならないのである。  この仮説によれば、精神は経験を処理することのできる独立した道具である。信念、観念、知識、精神内容、とりわけ世界中の人間の活動のすべてがそれ自体精神として、あるいは精神を構成するものの一部として捉えられるのではなく、精神の外来的・後天的獲得物として、つまり精神が所有したり企てたりしたかもしれない、あるいはそうしなかったかもしれない精神活動の結果として捉えられる。 精神は知識を獲得したり身体活動を引き起こしたりするかもしれない。しかし、精神はあらゆる知識を欠きいかなる活動も起こさないとしても存在しうる何かである。たとえそれが知識を獲得したり活動を引き起こしたりしたとしても.それはその獲得物ないしその活動表現とは無関係のままである。精神は不変で、永久的であるが、その知識の内容は変動的でしばしば偶然...

オークショット「合理的行動」(4) 人間機械論

「合理的」な行動のさらなる決定要素は、それが除去ないし反対する種類の行為の中に見出されうる。第1に、単に気まぐれなだけの行動、すなわち予(あらかじ)め設定された目的を持たない行動が除去されるだろう。第2に、それは単に衝動的なだけの行動、すなわち欲求された目的の達成手段を反省的に選択するための必須の要素を欠く行動に反対するであろう。第3に、この「合理的」な行動は、次のような行動、すなわち意図的に受容された何らかのルール・原理・規範によって規制されず、かつある定式化された原理を素直に遵守(じゅんしゅ)することからは生じないような行動に永久的に反対する。さらに、それは伝統・慣習・行為習慣という吟味されていない権威から生じる行動を除去する…最後に、その達成に必要な手段のないことが知られている目的を追求する活動は除去される(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 96-97)  <合理的行動>には、こういった様々な制約が存在するのである。 我々が吟味している見解は、これが1つの可能な行動様式であること、具体的な活動はこの仕方で起こりうること、そしてそれがこのような仕方で起こるがゆえに「合理的」だと呼ばれうることを主張する。(同、 p. 97 )  多様な手法の中から絞り込まれた唯一の行動様式が<合理的>と呼ばれるに相応しいわけである。 この見解は何を前提しているのか。またこの諸前提を妥当なものにするのは何か。  第1の前提は、人々が物事を推論し諸活動についての諸命題を熟考しこれらの命題を整序づけて整合的なものにする能力を持つということであるように思われる。また、これは人間が持ちうる他のどんな能力からも独立した能力であり、人間の活動がそこから始まりうるところの何かである、ということがさらに前提されている。活動が「合理的」(あるいは「知的」)だと言われるのは、それがこの能力を行使することによって進められるからである。つまり、人間が行為する前に一定の仕方で「考えた」がゆえにそうなのである。「合理的」な行動とは、先行する「推論」過程から生じる行動のことなのである。ある人の行動が完全に「合理的」であるためには、彼が次のような能力を持っていることが想定されなければならない。すなわち、まずイメージしそれから追求すべき目的を選択する能力、その目的を明確に限定する...

オークショット「合理的行動」(3)厳密に定式化された目的

「合理的」な行動は、通常、特殊な目的だけでなく単純な目的をも持つであろう。というのは、目的が実際に複雑な場合、活動がその目的を達成できるよう有効に方向づけられうるのは、その複雑さが単純な目的の連続(ある目的の達成が次の目的の達成へ、さらに最終目的へと繋がっていくこと)として与えられているときか、あるいは複雑な目的の中にある単純な構成要素がその活動の特殊な構成要素と関連していると考えられるときだけだからである。したがって、「合理的な行為」においては、追求されるべき目的の厳密な定式化が必要とされる。つまり、力学と解剖学にその注意を限定し他の考慮をすべて無視するというブルーマーを考案したデザイナーの決定が必要なのである。「合理的」な活動は、ある問いに対する明確で最終的な回答を探求する活動である。したがって、その問いにはこのような回答ができる、と言えるような仕方で問いを定式化しなければならない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 95-96)  <追求されるべき目的>が厳密に定式化されていなければ、合理的に行動できない。詰まり、目的の厳密な定式化こそが<合理的行動>の肝(きも)なのである。目的は特別なもの、単純なものでなければならない。一般的なもの、複雑なものには合理的手法を用いることが出来ない。特別なもの、単純なものに照準を前もって絞り込むことが目的達成には不可欠なのである。 特殊な目的を達成するために活動を意図的に方向づけることは、必要な手段が利用可能ないし入手可能であり、かつ利用可能な手段から必要な手段を見つけこれを専有する権力が存在する場合にのみ成功しうる。したがって、「合理的」な行動には、予め計画された達成目標だけでなく、予め別々に計画された採用手段の選択も含まれることになろう。そして、これはすべて反省とかなりの公平さを必要とする。目的と手段の計画的な選択は、乱雑な状況の流れに対する抵抗を合意しかつこれを準備する。一度に一歩ずつ、というのがここでの原則である。それぞれの一歩は次の一歩がどんなものであるかを知らずして踏み出される。そういうわけで、行動の「合理性」は、この見解によれば、行動する前に我々が行う何かから生じるということになる。つまり、活動はそれが一定の仕方で引き起こされるがゆえに「合理的」なのである。(同、 p. 96 )  目...

オークショット「合理的行動」(2)合理的活動は目的志向的

なぜブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的」な衣服様式であると考えられたのか。また、なぜこのようなやり方が優れて「合理的」だと考えられたのか。概して、このような問いに対する回答は次のようなものである。第1に、これらの回答は状況に応じて採用されたものである――つまりブルーマーはその設定された特殊問題の正解だったのである。もし自転車が別の設計からなっていた(たとえば脚ではなく腕が推進機関であった)とすれば、「合理的」だと考えられる衣服は異なったデザインになっていたことであろう。 第2に、その回答はその設定された問題の反省的な熟考からのみ生じた(あるいは生じると思われた)ものである。すなわち、ブルーマーをデザインするという行為(あるいはそれを着用するという行為)は、「不適切」な考慮によって撹乱されない独自の反省的努力という先行行為から生じたがゆえに、ブルーマーは「合理的」な衣服様式だった(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 94)  空っぽの頭に合理的なものを詰め込めば、あらゆるものが合理的に見えるのは当然である。合理的に見えないとすれば、最初の段階で頭が空っぽになっていなかったという初期設定の失敗である。 「合理的」な活動とは、予め別途に考えられた目的を追求し、かつその目的だけに規定される行為のことである…「合理的」な行動は、定式化された目的を達成するために意図的に志向された行為のことであり、その目的だけに支配される。(同、 p. 95 )  最初に「ある目的」という小さな世界が設定され、この目的を達成することだけにおいて<合理>が追及される。当然、目的外のことは端(はな)から眼中にはないということである。 ブルーマーは、ヴィクトリア朝の感性に衝撃を与えたり楽しませたり困惑させたりするためにではなく、まさにサイクリングに適する衣服様式を提供するためにデザインされたものである。デザイナーたちは、「何か娯楽に供するものを作ろう」と心の中で考えていたわけではなかったし、またその創作物の「ばからしさ」が多少なりともその「合理性」に適った特性であるなどと思っていたわけでもなかった。(同)  創作物が馬鹿らしいものかどうかなど<目的>とは無関係なのであるから、合理主義者にとって、そんなことを気にすること自体が「馬鹿げたこと」なのである。 ...

オークショット「合理的行動」(1) ヴィクトリア朝のデザイナーたちが求めた「合理性」

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「狂人」――我々はその行為を「不合理的」だと認める――は、必ずしも自分の企図を成し遂げることに失敗するわけではない。また我々は、議論においてさえ、誤った推論にもかかわらず正しい結論が得られることがあることを知っている。(オークショット「合理的行動」玉木秀敏訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 92)  <自分の企図を成し遂げる>こともあると言うのなら、「狂人」の行為は、必ずしも<不合理>だと言えないということである。むしろ狂人は狂人なりに合理的に振る舞っているのではないかとさえ思われる。また、<推論>の正しさと<結論>の正しさも、必ずしも比例しないというのもまた事実であろう。  合理的に考えれば、正しい結論が得られるわけではない。合理的に考えても、答えが間違っていることもあれば、合理的に考えなくても、答えが正しいこともある。詰まり、合理的手法をとるかどうかは答えの正しさと連関しないということである。  さて、オークショットは、19世紀後半に流行した<ブルーマー>を取り上げる。 https://twitter.com/MuseeMagica/status/1395861648804433924 ブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的な服装」であると主張された…彼らは自転車を進ませる活動にもっぱら注意を向けていた。ある一般的な設計からなる自転車と人間の身体の構造とが考慮され互いに関連づけられねばならなかった。これ以外の考慮はすべて、デザインされる衣服の「合理性」の決定に重要でないと考えられたがために打ち捨てられてしまった。特にデザイナーたちは、女性の衣服に関する当時の偏見・因習・民俗を断固として考慮しなかった。つまり、これらは「合理性」の観点からすれば状況を制限するものでしかないと考えられるに違いない。したがって、この目的のために「合理的」な衣服をデザインするという企画の第1段階は、心をすっかり空虚にすること、つまり先入観を意識的に払拭しようと努力することでなければならない。もちろん、ある種の知識――力学と解剖学の知識――は必要とされるが、しかし人間の思考の大部分はこの企画の障害物として、つまり無視する必要のある邪魔物として現れる。(同、p. 93)  合理的成果を得るための第1歩は、例によって、「頭の中を一定空っぽにする...