オークショット「合理的行動」(13) 知識への忠実さ
行動に関して「合理的」という言葉を用いる唯一重要な方法は、我々がそれを用いようとするときに活動それ自体の特質ないし特性(おそらく、望ましい特質ないし特性)を指し示すことである、ということが認められるならば、当該特質とは単に「知性」だけでなく、我々の従事する特別な活動を行う方法に関して我々が持っている知識への忠実さのことでもあると思われるであろう。「合理的」な行動とは、その行動が属する活動のイディオムの整合性が保持されかつ可能な限り高められるような仕方で行為することである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 116-117)
<我々が持っている知識>とは、「知性」のみならず、経験から得られた「実践知」をも含めた総合的な知識のことを指しているに違いない。言い換えれば、伝統や慣習といった定式化されてはいない「暗黙の了解」に棹差すということである。
もちろん、これは活動の(発見されたとしてもごくわずかの)原理・ルール・目的への忠実さとは異なった何かである。原理・ルール・目的は、活動の整合性の単なる要約であり、我々は活動それ自体との接触を失うとしても、これらに忠実であることは容易である。また、「合理性」を特徴づける忠実さは、確立され完成された何かへの忠実さではない(というのも、活動を行う方法に関する知識は常に変動しているからである)。つまり、活動の整合性に自ら貢献する(単にこれを説明するだけではない)ことが忠実さというものなのである。(同、p. 117)
<確立され完成された何か>ではなく、定式化されてはいないが、柔軟で流動的な知識を大切にする姿勢、それこそが<知識への忠実>というものなのだろう。
この見解は次のような含意を持っている。第1に、いかなる行動・行為・一連の行為といえども、それらが属する活動のイディオムと無関係に「合理的」ないし「不合理的」であることはできない。第2に、「合理性」とは常に前方にある何かであって後方にある何かではない。しかし、それは望ましい結果ないし予(あらかじ)め考えられた目的の達成に成功するということではない。第3に、活動のイディオムのすべてが単一分野の活動に包含されていると考えないならば、ある活動全体(たとえば、科学、料理、歴史研究、政治、詩など)について「合理的」だとか「不合理的」だとか言うことはできない。(同)
合理か不合理かは、<活動のイディオム>すなわち活動の「慣習法」「様式」抜きには判断できないということである。
科学者の行動が正当に「合理的」だと呼ばれうるのは、その行動が科学的研究の伝統に忠実であるからだ(同、p. 118)
伝統に忠実であればこそ「合理的」と称することが出来るということである。
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