投稿

ラベル(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」)が付いた投稿を表示しています

バーク『フランス革命の省察』(44)個性の滅却

They ought to be persuaded that they are full as little entitled, and far less qualified, with safety to themselves, to use any arbitrary power whatsoever; that therefore they are not, under a false show of liberty, but in truth to exercise an unnatural, inverted domination, tyrannically to exact from those who officiate in the state, not an entire devotion to their interest, which is their right, but an abject submission to their occasional will: extinguishing thereby, in all those who serve them, all moral principle, all sense of dignity, all use of judgment, and all consistency of character; whilst by the very same process they give themselves up a proper, a suitable, but a most contemptible prey to the servile ambition of popular sycophants or courtly flatterers. (彼らが説かれるべきは、彼らには、自分たちが安全なまま、如何なる恣意(しい)的権力をも行使する全く同等の権限もなければ、遥かに少ない資格しかないということです。したがって、自由の偽りの見せかけの下で、実際は不自然にも逆に支配し、彼らの権利である自分たちの利益へすべてを捧げるのではなく、彼らの時々の意志、それによって、彼らに仕えるすべての人々の、すべての道徳的原則、すべての尊厳感、すべての判断力の行使、すべての人格の一貫性を消滅させ、まさ...

オークショット「政治教育」(11) 伝統もまた不易不変ではない

 いかなる詩人も、またいかなる芸術家も、それだけで完全な意味をもつものはない。その意義、その評価は、過去の詩人や芸術家たちに対する関係の評価にほかならない。その人単独ではこれを評価するわけにゆかない。比較、対照するために、これを死者のなかにおいてみなければならない。わたしはこれを審美的な批評の一原理としていっているので、ただたんに歴史的批評の原理としてのみいっているのではない。このように、ひとりの詩人や芸術家が過去に順応し一致しなければならないといっても、それは一方的なものではない。(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」:『エリオット全集』(中央公論社)第5巻 深瀬基寛訳、pp. 7-8)  T・S・エリオットのこの論説は、詩人と伝統との関係について書かれたものであるが、この詩人を政治行動と置き換えて考えれば、政治行動と伝統の関係について考えることが出来る。政治行動の意味は、過去の政治的業績との比較対照の中で評価されねばならない。 ひとつの新しい芸術作品が創造されると、それに先立つあらゆる芸術作品にも同時におこるようななにごとかが起る。現存のさまざまなすぐれた芸術作品は、それだけで相互にひとつの理想的な秩序を形成しているが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が入ってくることにより、この秩序に、ある変更が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでにできあがっているわけであり、新しいものが加わったのちにもなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の全体がたとえわずかでも変えられなければならないのである。こうして個々の作品それぞれの全体に対する関係、釣合い、価値などが再調整されてくることになるのだが、これこそ古いものと新しいものとのあいだの順応ということなのである。(同、 pp. 7-8 ) 政治行動がこれまでの政治的業績に順化し、その1つとなることによって旧秩序にどのような変化が生じ、新秩序が構築されたのかを判断し評価しなければならないということである。 伝統の内のどんなものも、長い間まったく変化を受けないままでいるわけではない。すべては推移するが、どれも恣意(しい)的に変るわけではない。すべては、そのとなりに偶然あるものとの比較によってではなく、全体との比較によって現われてくる。そして行動の伝統は、本質と偶有性の区別の余地を残さ...

ハイエク『隷属への道』(44) 個人を超えた非人格的な力

イメージ
 過去において文明の発展が可能になったのは、市場における「個人を超えた非人格的な諸力」に、人々が身を任せてきたからであり、このことなしに、今日のような高度な文明が発展することは決してありえなかった。言い換えると、われわれの中の誰一人として十分に理解することができないより偉大な何事かを築き上げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、という考え方を人々が受け入れてきたからこそ、このように偉大な文明も初めて可能となったのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 279)  T・S・エリオットも同様の指摘をする。 《詩人は過去についての意識を展開しもしくは把握したうえ、生涯を通じてこの意識を絶えずひろげてゆかねばならない…このようにして詩人は現在あるがままの自己を自分より価値の高いものにいつもまかせきってゆくことが可能になるのだ。芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしてゆくこと、絶えず個性を滅却してゆくことである》(「伝統と個人の才能」:『文芸批評論』(岩波文庫)矢本貞幹訳、 p. 13 ) 過去の人々がそのような考えを受け入れてきたのは、一部の人が今日では迷信とみなしているなんらかの信仰が基礎となっているのか、それとも宗教的な謙遜の精神によるものか、あるいは初期の経済学者たちによる原始的な教えを過大に尊敬したからであったのか、というようなことはここでは問うまい。決定的に大切なことは、細かい働きが誰にも理解できないような諸力に身を任せなければならないということを、合理的に理解することはきわめて困難だということである。それよりはむしろ宗教や経済的教義への尊敬から生まれる、謙虚な畏敬の念に従うことはずっとたやすいものである。(ハイエク、同)  社会の流れに棹差せば助力が得られるのに対し、合理的でないからと社会の流れに逆らえば、「労多くして功少なし」という結果に終わってしまうだろう。  必然性が理解できないようなことが多くあるということこそ、文明の基本的性質なのである。もしも、誰もがすべての必然性を知的に理解しなければならないのであれば、現代の複雑な文明を少なくとも維持していくには、現在いかなる人が持っているよりとてつもなく大きな知性が、すべての人に与えられなければならないだろう。(同、 pp. 279-280 )  <必然性>を理...