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オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(21)大学にふさわしい政治学教育

 我々の道のりは長い。しかも誤った道に踏み出してしまったので、大学にふさわしい政治学教育もすぐに進展するとは思われない。しかし、適切な方向に我々を導く2つの方策が存在する。  第1は、政治学部において、政治用語の使用を禁ずることである。我々は学問上の説明の「言葉」のみを用いるべきである。そして、政治的言い方が取上げられる場合でも、その使用と意味を探求し、それらを分析したり歴史的哲学的説明を行うためだけにするのである。政治的言い方自体が説明的表現であると扱われてはならない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 390)  が、これは短慮であろう。<政治学部において、政治用語の使用を禁ずる>などというやり方は、およそ自由主義的ではない。オークショットは自分の考え方が絶対的であると信じるからこそこのように主張するのであろうが、自由主義はこのような信念とは相容れない。 またいわゆる「政治理論」は一種の政治活動であり、それ自体が教授されるべきではなく、歴史的哲学的に説明されるべきものであることを認識せねばならない。(同)  大学での政治学教育はいかにあるべきかを一方的に断定すべきではない。オークショットのようにあるべき姿を主張することは構わないし、これを自ら実践することも問題はない。が、他者の教授法を改めるために、言葉の使用を制限してしまっては、統制主義である。  オークショットが危機感を抱いているのは、大学における政治の「職業」教育以外のものではないか。例えば、マルクス経済学のようなものが、政治の分野にまで侵食してきて、政治が現実から空想へと変容し、無政府状態( anarchy )が招来されることを危惧していたのではないか。あくまでも、私の憶測にすぎないが…  第2に、大学において我々は、情報の体系としての教科書の学習を指導するのではなく、適切な教科書による説明的言葉の用い方を教えるのであるから、「教科書」は注意深く、それにふさわしい教育上の基準から選択されねばならない。 しかし現状ではそうした適切な基準は全く採用されていない。〔採用されている基準といえば〕新聞でしばしば報道される地域であるかどうかとか、国家が新興国か強国であるかどうかとか、行政的施策が専門家からみて興味を引く重要なものかどうかとか、というものであり、こう

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(20)死学と化した政治の「職業」教育

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when we ask our pupils to display their attainments by discussing such questions as Was Mill a democrat? or, Has the House of Lords outlived its usefulness? or, Would not Ghana do better with a Presidential system of government than a Parliamentary? or, Is Great Britain heading for a One-Party State? we may suspect that a not very high class 'vocational' education in politics is at work. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (「ミルは民主主義者だったのか」「貴族院は用済みとなったのか」「ガーナは議会制よりも大統領制の方がうまくやれるのではないか」「英国は一党独裁国家に向かっているのか」といった問題を議論することで、生徒たちに自らの成果を示すように求めるとすれば、あまり高級でない、政治の「職業」教育が行われていると疑われるかもしれない)――オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章  先哲の偉業を傍観しているだけであれば、それは「死に学問」にしかならない。それでは活きた学問は身に付かない。  碩学(せきがく)安岡正篤(やすおか・まさひろ)は言う。 《本の読み方にも2通りあって、1つは同じ読むと言っても、そうかそうかと本から始終受ける読み方です。これは読むのではなくて、読まれるのです。書物が主体で、自分が受身になっている。こっちが書物から受けるのである、受取るのである。つまり吸収するのです。自分が客で、書物が主。英語で言えば passive です。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受身で、積極的意味に於(おい)て自分というものの力がない。そういう疑問に逢着(ほうちゃく)して、自分で考え、自分が主になって

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(19)政治は生きている

if it is said that the manner in which 'politics' is taught in universities has not forbidden a connection with history and philosophy, the reply must be that the connection is often resented as a diversion from the proper concerns of 'political science', and that wherever it has been made it has been apt to be corrupting rather than emancipating. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (「政治学」が大学で教えられる方法が、歴史や哲学との結びつくことを禁じていないと言うなら、その結びつきは、「政治科学」固有の関心事からの逸脱だとして嫌がられることが多く、結びつけられた所では、解放というよりむしろ腐敗させる傾向が常にあったと答えざるを得ない)――オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章 'History' appears, not as a mode of explanation, but merely as some conclusions of allegedly 'historical' writers believed to account for the present structure or to forecast the future prospects of (for example) a political party, or to provide evidence relating to the origin or the efficiency of an administrative device. – Ibid. (「歴史」は、説明の様式としてではなく、単に、(例えば)政党の現在の構造を説明したり、将来の見通しを予

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(18)政治の新陳代謝に必要なもの

もし政治学の学習が其の説明言語に精通するにふさわしい機会であるとするならば、そうした機会は与えられるべきであろう。「政治学」の学習が「職業」教育から明確に区別され、大学に固有の教育として位置を占めることができるのは、まさにこのようにしてなのである。 これに対する主たる障害は、「政治学」がこれまで大学教育において「職業」教育的色彩を確立してしまっており、それを打ち捨てることができなかったことである。大学の「政治学」教授たちがこうした傾向について一般に深く考えているとは思われない。もっとも幾人かの人達はこうした傾向に情熱的に関わり、それを擁護してきてはいるが、こうした傾向はむしろ、彼らが世俗的な政治と行政の問題に第1次的関心を向けていることから、すなわち政治や行政の最新情報に目を奪われていることから、更に、どうしてこうした情報を大学教育において教授すべきでないのか、他の何を「政治学」の名において教えるべきかを理解しえないことから、生じている。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 pp. 388-389 )  オークショットは、<「政治学」がこれまで大学教育において「職業」教育的色彩を確立してしまって>いるのを問題にしている。が、大学教授にはこのことに対する問題意識は低い。現在ある政治体制と行政制度について講じ、政治学の先賢の業績を披瀝することが大学における政治学教育であることを信じて疑いもしない。  が、オークショットは、本来あるべき大学の政治学教育は、「結果」ではなく、これを生み出した政治学の「言語」並びに「思考の枠組み」を教授し、学生に習得させることであると言う。 大学教授としての彼らの誤った姿勢は、彼らの研究方針にあるのではなく、自分の関心事を不適切にも学生に教授しようとするところから生じているのである。彼らは、大学教授たる者は政治研究を「時事問題」のレベルを超えてそれにふさわしい知的内容を与えねばならないと考えている。しかし、大学教育における「政治学」が研究「科目」ではなく「テキスト」の豊庫(→宝庫)であり、大学教育は政治を説明する「言葉」をいかに用いるかを学ぶ機会にすぎないことを認めてはじめて其の大学教育が達成される点を、彼らはほとんど理解していない。(同、 p. 389 )  今在る政治をそのまま墨守(ぼくしゅ)し

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(17)「政治学」についての学部生の適切な取り組み

If there is a manner of thinking and speaking that can properly be called 'political', the appropriate business of a university in respect of it is not to use it, or to teach the use of it, but to explain it -- that is, to bring to bear upon it one or more of the recognized modes of explanation. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (仮に「政治的」と呼ぶに相応(ふさわ)しい考え方や話し方があるとして、これに関し大学が適切に行うべきは、それを使うことでも、その使い方を教えることでもなく、それを説明すること、すなわち、1つ以上の広く認められた説明方法をそれに注ぐことである)――オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章 If the expression ‘political activity’ stands for something which plausibly offers itself to be understood and to be explained, the questions a teacher of 'politics' in a university should ask himself are: In what manner do I design to explain it? Into what explanatory 'language' or 'languages' should I translate it? What 'languages' of explanation may an undergraduate find himself learning to use and to manage in connection with polit

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(16)「職業」教育と大学教育の相違

secondly, it will be said, in spite of our rather lamentable tendency to urge our pupils to acquaint themselves with the patterns and structures of current politics (that is, with the contents of political 'texts') and to provide for their needs by engaging experts on an ever increasing number of these 'texts', experts in the political 'systems' of India and Iraq, of Ghana and Indonesia, we do make a notable attempt to teach them how to use a "language', namely, the language of politics. (第2に、現在の政治学の傾向や構造(即ち、政治「テキスト」の内容)に習熟するよう生徒に促し、増え続けるこれらの「テキスト」の専門家、インドやイラク、ガーナやインドネシアの政治「制度」の専門家を雇うことによって、生徒のニーズに応えようとしがちなのは少々嘆かわしいことなのだけれども、実際、「言語」、即ち、政治学の言語の使い方を教えようとしていることは注目に値すると言われるだろう) The difference between ourselves and the pioneers of 'politics' in universities, it will be said, is that for us the study of the dull and doubtful detail of political structures and operations is designed as a means of teaching our pupils how to think politically. In sho

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(15)社会主義に侵食された大学の政治学教育

大学における「政治学」教育をこうした「職業的」色彩から解放し、漠然とした言い方だが「リベラルな」性格を与えるために、これまで2つの教育方法が行なわれてきていると主張されるかもしれない。 まず第1に、我々はもはや政治の種々雑多な観察結果を伝えることに満足してはいない、政治の解剖は必要ではない、といわれている。我々は「分析し」(すばらしい言葉だ)、分析法を教授し、比較し(これもすばらしい)、比較学を教授し、理想モデルを構成し、仮説を設定し、将来の課題を定式化し、解決策を求めるべきだ〔といわれるかもしれない〕。これらのことは、その幾つかは疑いもなく、メリットがあろう。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 pp. 385-386 )  これは社会主義の政治に関する話であろう。本書が書かれた時代(1962年)は、社会主義真っ盛りであったから、このように言わざるを得なかったのかもしれないが、社会主義の政治は、結局は非現実的妄想であったのであって、私はその功績を認めない。要は、社会を混乱させたに過ぎなかったということである。現実を捨象(しゃしょう)すればこそ成り立つ空想の世界にただ微睡(まどろ)んでいただけではないか。 誰も政治研究を無邪気なものとは思っていない。しかし、この政治研究はどれも、本質的に「職業的」問題、たとえば政治はどのように動いているのか、どのように改善されうるか、政治は民主的か等々の問題以外は取扱ってはおらず、そう意図されてもいない。(同、 p. 386 )  社会主義という偏頗(へんぱ)な「思考様式」を通して社会を見、分析するのが、さも科学的であるかのように振る舞い、その手法を植え付けようとしただけではないか。 その多くは、架空の「制度」「過程」「権力」、「エスタブリッシュメント」、「エリート」といった、あれやこれのステレオタイプに関心を向けてきたので、実際の政治組織や政治事件がしばしば不規則的であることを見落しがちであったし、その結果「職業」があまり役立たないことにもなっている。(同)  現実の政治は其方退(そっちの)けで、社会主義という空想を理解するのに必須の言葉を身に付けたところで、現実社会では何の役にも立たない。 要するに、政治研究の複雑性や微妙性は我々の最初の素朴さに洗練さを付与してきているとはいえ

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(14)大学教育に必要な政治の「言葉」と「思考様式」

この科学を教える目的は、学生に時の重要な政治問題を理解させ、政治的討論に効果的に参加させ、重要な政策問題を把握させ、デマゴギーへの抵抗を与え、専制者の嘘や圧制者の空約束に抗議させ、政治宣伝と真理の区別を知らしめ、公的権威が負うべき公正な批判を行わしめ、または政府の行動を評価する基準を知らしめ、更に民主主義が効果的に働くために不可欠な、政府に対する知的関心を有権者に与えることである。要するに、ここで述べているのは、疑いもなく政治の「職業」教育である。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 381)  オークショットの言う「職業」教育とは、実用面ばかりに目を向けた教育ということである。が、本来あるべき大学教育とはそういった実用的なものではないとオークショットは言うのである。 政治学の古典に関しては、学生は依然、そこに含まれているとされる政治的行為についての教訓を発見するために、そしてそうした教訓の適切性を省察するために、それらの古典を読むよう求められている。政治的行為の教訓はいまだこのようにして書かれている。(同、 p. 385 )  学生たちは、今ある政治の問題に対する「処方箋」を政治学の古典に見出そうと躍起になりがちである。が、教訓を見出すために、デイヴィッド・ヒュームやJ・S・ミルやアダム・スミスなどの古典を読んでいるうちはまだ半人前でしかないだろう。より重要なのは、そこで用いられている「言葉」や「思考の枠組み」( paradigm )を理解することである。 我々の大学における「政治」教育の中に、政治の「職業」教育と私が呼んできたものとは異なった何か、つまり、知識の貯蔵庫としての「文献」研究を超えて、政治の「言葉」や思考方法を学ぶことに導く何かを求めることはむずかしい。(同)  現在行われている政治は、学術研究の1つの成果であり、歴史的経緯の成り行きであり、様々な取捨選択の結果である。が、言うまでもなく、これが最善とは限らない。時が過ぎ、環境も変われば、政治も変わらねばならない。今ある政治を検証し、必要があれば変更する。そこで必要となるのが、政治はいかにあるべきかを考えるための「言葉」であり「思考様式」である。政治の「言葉」と「思考様式」が身に付いていなければ、あらたな政治を考えることなど不可能である。 実際、大学

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(13)マスター・サイエンスとしての政治学

The descriptions we have of this so-called 'master science" do not present it as an enterprise in which events are understood in terms of the operation of general laws, but (more modestly) as ‘a systematic, organized, teachable body of knowledge’ springing from the study of political ideas, of the constitutions and processes of governments, of the structure and operation of political parties and groups, of the generation of public policy and public opinion and of the relations between states. From this knowledge it is designed to elicit a 'body of rational principles' concerning political activity and the administration of public affairs. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (このいわゆる「マスター・サイエンス」について今ある説明によれば、それは、出来事を一般法則の働きという観点から理解する活動ではなく、(より控えめに)政治思想、統治の構造と過程、政党と政治集団の構造と運営、公共政策と世論の生成、国家間の関係についての研究から生まれる「体系的、組織的、教授可能な知識体系」とされている。この知識から、政治活動や公務の運営に関する「合理的原理の体系」を引き出すことが意図されているのである)―オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章  「マスター・サイエンス」とは、「科学の主(あるじ

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(12)政治の「職業」教育とは

実際、現代世界で行われているような政治のスタイルはその時々において数多くの参加者を必要とし、また受け入れている。更に政治解説や政治的接待を行なう人々はいうまでもなく現在の生活の特徴となっているが、それに従事するには政治の知識が必要となる。このように考えると、政治の「職業」教育は、他の職業の場合よりも多くの、より広範な学生にとって必要であり、したがってそれが対象とする学生の区分はそれほど明確に限定されない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 378) And if we hesitate to follow those who find it to be an appropriate 'vocational' education for every citizen in a 'democracy', or for a sufficient number to leaven the whole, then it may perhaps be recognized as a 'vocational' education appropriate to those who are, or who wish to be, politically self-conscious. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (そしてもしそれが「民主主義国」内のあらゆる市民にとって、あるいは全体を徐々に変化させるのに十分数にとって適切な「職業」教育であると見なす人々に従うのをためらうならば、それはおそらく、政治的自意識のある、あるいはそうありたいと願う人々に相応しい「職業」教育として認識されうるかもしれない)―オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章 But this does not entail any modification of its character as a 'vocational' education which here, as elsewhere, is an education designed to impart a body of reliab

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(11)政治における「職業」教育

確かにこれは、学校で従来教えられてきた「公民学」の特徴であったし、現在の学校教育が「現代社会」として受けついだものの特徴なのである。すなわち、現在の政府の仕組とそれに関する基本制度及び慣習、更にそれと結びついた基本的信条についての入門である。 おそらくそれは退屈な授業であり、市長の職務や下院の機能やケネディ、フルシチョフ、カストロの演説などの無味乾燥な文章であり、ギリシャ語の不規則動詞をおぼえるのとは達って、よりよい成果が約束されることもない。にもかかわらず、政治学は我々すべてに関わることであり、また経済学や歴史学などの他の学校科目が必要なのと同様それが必要であるのであるから、政治学が学校教育の一部をなすと擁護することができる。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 pp. 377-378 ) At least it is something to modify the mystery of the world as it appears in the newspapers, and it entails nothing to prohibit a more profound interest in public affairs such as occasionally (along with county cricket, space travel and church brasses) makes its appearance among school-boys. The interest it serves is an interest in public affairs. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : TWO (少なくとも、それ(=政治学)は、世界の謎を、それが新聞に掲載されても、修正するものであり、小学生の間で時折(郡部クリケット、宇宙旅行、教会の真鍮(しんちゅう)と共に)登場するような公共問題への関心をより深めることに何ら妨げとはならない。政治学が提供する関心は、公共問題への関心である)―オークショット『大学における「政治」の研究』:第 2 章 Nor, I think, is there any greater dif

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(10)大学は現実社会とは異次元の世界に属するもの

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読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は1年である。 むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えばだれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は、精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(ショウペンハウエル『読書について』(岩波文庫)斎藤忍随訳、 pp. 95-96 ) ★ ★ ★ 大学教育…それは漠然とした不明瞭なものではなく、明らかにまごうことなく他の種類の教育とは区別されるものである。学部学生であるとは「余裕」を享受すること、すなわち実際的行動を考えることなしに思考し、処方箋を示したり実際的助言をすることなしに意見を述べることなのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 p. 376 )  大学は、現実社会とは次元の異なる世界に属するものと言うべきか。我々は、社会における様々な枠組みを<前提>として暮らしている。が、大学は、この枠組み自体をも研究対象とするものであるから、現存する枠組みを必ずしも是としない。したがって、大学は本来、既存の枠組みを用いて、実際的な答えを出すことが期待されるような存在ではないということである。  学校教育に関しては、一般に何が教えられるべきかを決めるのに困難はほとんどない。まず第一に、それはすべての人が学ぶのに適した事柄であろう。というのは学校教育の原則は特定の方向づけを持たないことにあるからである。更に、それを学

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(9)古典を学べ

 更に、大学はこのような教師たちの連合であり、また彼らの活動はその最善の教授法についての考え方を反映している。そのうち最も重要なもの(今やむしばまれつつあるが)は、思考様式(つまり「言葉」)を正しく得るためには適切な「文献」あるいは「テキスト」の学習が欠かせないという考え方である。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 375)  「知的混沌」の中で<探究>するには、そこで用いられている<思考様式>を身に付けることが必要である。そのためには、定評のある文献やテキストを熟読玩味(がんみ)することが欠かせない。 すなわち、科学的思考はいわゆる「科学的方法」を学ぶことによってではなく、ある科学の分野を学ぶことによって最もよく習得されるという信念であり、歴史的思考はいわゆる「歴史的方法」を学ぶことによってではなく、過去のある事柄や断面の研究に携わっている歴史家を注視し学ぶことによって習得されるという信念である。(同)  これを私なりに解釈すれば、<思考様式>は、抽象的な「方法論」を学ぶことによってではなく、具体的な文献やテキストの学習を通して見に付けるものだということなのだと思われる。 このことは、早とちりをする人には、大学を「職業」教育に近づけるものと受けとられるかもしれないが、それがそうではないことは、大学教育においては「テキスト」は情報の体系としてではなく「言葉」のパラダイムとして考えられていることから明らかである。(同)  大学教育においては、文献やテキストから<情報>を得るというよりも、物の見方や捉え方、すなわち、米科学史家トーマス・クーンの言う「パラダイム」(知的枠組み)を手に入れるのである。 したがって、或る「文献」が(すなわち或る科学的研究、歴史の一時期、或る法制度や或る哲学が)研究対象としてより適切であり、当該分野の「言葉」のより明確なパラダイムを与えるという認識や、更に、この理由からして、学部学生が学ぶべきものはこうした「文献」や「テキスト」(つまり太陽物理学よりも化学であり、ジャワ現代史よりも中世イギリス史であり、ヒッタイト法やケルト法よりもローマ法であり、デモクリトス、ライプニッツ、リッケルトやベルグソンの哲学よりアリストテレスやヒュームやカントの哲学)であるという認識は、「言葉」は「文献」と結びつい

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(8)今ある「結果」を懐疑すること

 最後に、大学はアカデミックな教育に従事する人々の集まりである。この点で、大学では教師の役割が際立っている。教師として彼らは他の教育機関の人々よりすぐれていることもあろうし、劣っていることもあろう。しかし彼らは、自ら自分の専門とは別の何かを学びつつあるものとして、異なった存在である。 彼らは一定の結論や事実や真理、公理等を教えるだけの、あるいは十分検証された原理を伝えるだけの人ではない。また彼らは、自分の専門分野の「現在の知識水準」に通暁することを主たる任務とする人でもない。彼らはそれぞれ、個々の分野で或る思考様式を探求しつつある人達なのである。((オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 p. 374 )  大学人の主たる任務は「真・善・美」の<探究>である。「結果」を最高の研究成果として学生に開陳し伝達する存在ではない。  にもかかわらず、彼らが教えるものは、彼らが学びつつあるものでも、極く最近学んだり発見したことでもない。学者として彼らは「知識の前線」に立っているが、教師として彼らは前線に立つ者とは異なる者でなければならない。更に、彼らが教えることは彼らが従事している活動自体でもない。学生は彼らの活動を受け継ぐ者では必ずしもない。科学者や歴史学者や哲学者は彼らと同じ者になれと教えるのではない。つまり、教師として彼らが行なうのは彼らの後継者を育てることではない(もっとも学生の何人かはそうなるかもしれないが)。(同)  今ある「結果」を懐疑せずにはいられない。それが大学人の性(さが)である。そして「結果」以前の混沌状態に戻って、再び<探究>を続けるのである。 直接に役立つとか現代に適しているとかの考慮に左右されずに、大学の教師が教え、伝えうることは、思考様式に親しませること、〔大学教育〕からみて、文明の知的資本全体をなす「言葉」に親しませることである。大学が提供するのは情報ではなく、思考訓練であり、それも思考訓練一般ではなく、特定の分野でその分野に特徴的な帰結を導きうるような思考の訓練なのである。そして、学部学生が他でもなく大学で習得するものは、歴史的に考え、数学的に考え、科学的あるいは哲学的に考えるとは何かについて理解し、これらを「科目」としてではなく生きた「言葉」として理解し、それらを探求し語る者を〔単に情報を与えるのとは

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(7)ゐつくは死ぬる手也(『五輪書』)

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〔学問の〕現場を見学する資格を認められることは、他では与えられない教育の機会を享受することであり、そうした教育を大学は、中世以来、つまり神学博士たちの「騎士道的」論争が大学で行なわれ、学生たちが宗教上の神秘に立ち合い学んだ時代以来、様々な形で提供してきた。要するに、大学においては、他では行ないえない(あるいは容易に行ないえない)こと、すなわち、文明を様々な知的活動の束と考えそうした様々な思考様式の間の対話と考えることが行なわれる。そしてこれが大学教育の性格を規定するのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 374)  剣豪宮本武蔵は言う。 《太刀の取り樣は、大指人さし指を浮べる心に持ち、たけ高指しめず、ゆるまず、くすし指小指をしむる心にして持つ也。手の內にはくつろぎのある事惡し。敵をきるものなりと思ひて太刀を取るべし。敵をきる時も、手の內に替わりなく、手のすくまざるやうに持つべし。もし敵の太刀をはる事。うくる事、あたる事、おさゆる事有り共、大指人さし指許(ばか)りを少し替る心にして兎にも角にもきると思ひて太刀を取るべし。ためしものなどきる時の手の內も兵法にしてきる時の手の內も、人をきるといふ手の內に替る事なし。總べて太刀にても、手にてもゐつくといふ事を嫌ふ。 ゐつくは死ぬる手也、ゐつかざるは生きる手也 》(宮本武藏遺稿『原本 五輪書』(敎材社):水の卷:一、太刀の持樣の事)  (注)下線は筆者。  「ゐつく」は、居着くと書き、固定化を意味する。谷沢永一氏は次のように解説する。 《太刀の動きにせよ、手の持ち方にせよ、すべて固定してしまってはなんにもならない。固定は死であり、自分が負けることだ。固定しないことが生であり、勝ちに結びつく。  これを現代流に解説すれば、すべての手段は、あらゆる情勢の変化に対応できるように準備しておかなければならない、ということになろうか。つまり、武蔵は、“固定化”を徹底的に排除している》(谷沢永一『「五輪書」に学ぶ 勝ち方の極意』(ごま書房)、 p. 114 )  話が随分遠回りしてしまったが、詰まり、大学がただの知的遺産の権威となり固定化してしまっては、死したるも同然だということである。本来あるべき大学の姿は、「結果」を生み出した「知的混沌(こんとん)」へと戻ることである。「結

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(6)大学教育とは

同様のことは数学や哲学や歴史にもあてはまる。それらは思考様式であり、結果を伝達するだけの死んだ「言葉」ではなく、絶えず探求され、用いられつつある。たとえばメンデルの遺伝理論や物質の分子構造、あるいはパーキンソンの法則のように実際上の利益を生み実生活を動かしている原則、学説や理論も、大学においては、更なる理論的発展のために再投資の価値があるものと考えられており、その再投資はそれぞれの分野の思考表現様式の探求、「言葉」の探求に向けられるのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 373)  大学は、「結果」をただ集積し保存するところではない。「結果」を評価し、変更を加えるのみならず、「結果」を導き出した思考体系自体に変更を加え、新たな知の世界を模索探求し続けているのが大学というところなのである。  第3に、大学は学問と研究の場であるのみならず、教育の場でもある。そしてその教育を際立たせているのは大学自体の性格である。大学で学ぶとは学識ある個人教授の下で学ぶことでも、話術巧みで物知りの解説者についていろいろな物事を見てまわることでもない。それはそれで教育であるが、大学教育とは違う。大学教育はまた第一級の図書館に自由に出入りすることでもない。 大学教育とは、先程述べた〔科学的〕活動が〔各分野における思考表現様式の絶えざる探求〕という仕方で行なわれている現場に自由に出入りすることを享受することである。これが大学教育を他の教育、――すなわち、学校教育、特殊な「職業」訓練や様々な技術が学ばれる科学技術専門学校や少数の学生のみを受け入れる専門研究所における教育、及び個別分野の個人教授によって授けられる、デリンジャーが若きアクトンに行なったような教育――から区別するものなのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、 pp. 373-374 )  定式化された「結果」であれば、教師が学生に教え伝えることも可能であろう。が、大学にあるのは、「結果」を生み出す前の形無き「知の混沌(こんとん)」である。「混沌」は、感じることは出来ても知ることは出来ない。大学における活動に実際に参与参画することによって「感化」されるものなのである。  職人の世界では、しばしば「師匠の技を盗む」と表現されるけれども、これは、定式化されて

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(5)知的遺産を最大活用できる唯一の場

学校の生徒も熱心に本を読み、そこから知識を得、また自分自身について学び、どう振まうべきかを学ぶけれども、大学において彼はその同じ本から何か違ったものをつかむよう求められるのである。彼はたとえば、ギボンやスタップズ、ダイシーやバジョット、クラーク・マックスウェルやアダム・スミスを読み、その本が伝える情報が時代遅れであり、その処方箋は頼りにならないし、「職業」教育には役に立たないと考えるであろうが、にもかかわらず、大学教育にふさわしい何かを与えてくれると理解するのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 372)  時代状況が異なるから、たとえ名著と呼ばれる書物であっても、過去の著作がそのまま現代に通用するわけではない。が、考え方や発想は、今でも大いに参考となるものが少なくないということだ。だからこそ、名著は時代を越えて読み継がれていくのである。  第1に、大学とは、文明という知的資本全体を尊重し関与する人々の集まる場所である。大学は、知的遺産が損なわれないよう保つのみでなく、不断に失われたものを発見し省みられなかったものを回復し、散逸していたものを集めあわせ、損なわれたものを修繕し、再考し、修理し、再構成し、より理解しうるものとなし、再発行し、再投資するのである。原則として、大学は実社会の関心に左右されない。その関心方向は学術的考慮によってのみ決定され、大学が生む利益はすべて再投資される。(同、 p. 372 )  大学は、知的遺産の貯蔵庫である。ここに集積された知的遺産を大学人が管理する。大学人は、集められた知的遺産を用いて研究を進めることに存在意義がある。学生を教育するのは、二の次である。学生も、学習から研究へ知に対する取り組みの転換が必要となる。  第2に、大学において〔文明という〕知的資本は、蓄積された結果とか、権威的原則とか、確かな情報または知識の現水準として考えられているのではなく、様々な思考様式や知的活動としてあらわれるのであり、それらは各々自分自身の声、「言葉」で語り、互いに対話的に関係する、つまり互いに肯定あるいは否定しあうのではなく、間接的に承認しあい調整しあうのである。たとえば、大学において、科学とは情報の百科辞典あるいは自然認識の現状ではない。科学とは現在の活動であり、探求される対象について思考し

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(4)職業教育で学ばれるもの

「職業」教育で学ばれるのは「作品」あるいは「テキスト」であって、「言葉」ではない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 371)  このオークショットの哲学的な表現を私なりに解釈すれば、職業教育とは、その職業はかくあるべしという「答え」を学ぶものであって、その職業はいかにあるべきかという「問い」を探求するものではない。詰まり、職業教育で学ばれるのは、その職業を遂行するために社会が求めるところの、出来合いの手法であり、既成の技術なのだというである。 習得されるのは、権威によって示される知識であって、それを生み出した思考様式に習熟することではない。たとえば、職業教育において学ばれることは、科学的に考えることとか、科学的問題や命題をどう見つけだすかとか、科学の「言葉」をどう用いるかではなく、我々の現在の生活に資する科学の産物の利用の仕方である。 あるいは、もしこの区別があまりに難しくきこえるならば、職業教育では、言葉を語ったり新しいことを述べるという意味で「生きた」言葉を学ぶのではなく、「死んだ」言葉を学ぶのであり、単に情報を得るために「作品」や「テキスト」を読むにすぎないのである。習得される技術は、情報を用いる技術であり、「言葉」を語る技術ではない。(同)  職業教育は、権威に裏打ちされた「知識」を伝達するだけであって、「知識」そのものを客観的に評価するものではない。詰まり、「知識」に修正を施したり、自ら新たな「知識」を生み出すことを可能とする「理論的枠組み」( paradigm )に精通するものでもないということである。 私の理解では、大学教育は学校教育とも「職業」教育とも全く異なるものである。それは、教えられる事柄(およびそれを定める基準)およびそれをどのように教えるか、の点で異なっており、また大学教育が専門化される場合でも(大学教育は専門化される必要はないが、「職業」教育はそうはいかない)、専門化の原則が「職業」教育のそれとは異なっている。 あるいは、これがあまりに教条主義的ならば、次のように言い換えうるだろう。つまり、学校教育とも「職業」教育とも明らかに異なる教育があり、それはこれまで何百年もの間大学と呼ばれる機関の関心事であったということである。簡単に言うならば、大学教育が学校教育や「職業」教育と異なるのは、

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(3)職業を学ぶとは

もしこの専門化を「職業教育」の方向へ向かわせることになれば、職業教育は最初からきちんと行なわれるべきであり、芝居のまねごとのようなものからはじめられるべきではないという英国の誇るべき伝統と矛盾することになる。職業を学ぶとはあることをどう行うかを学ぶことであり、その職業を演じる仕方を学ぶのは、その準備として良いこととはいえない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 368-369)  日本の板前修業でも、いきなり包丁を持たせてもらえはしない。昔は「下積み 3 年」などと言われていたようだ。どんな仕事でも華やかな部分だけで成り立っているわけではない。目に見えない部分によって支えられていることを理解することが大切である。オークショット流に言えば、「技術知」( technical knowledge )を支える「実践知」( practical knowledge )が大事だということである。昨今、大学教育が、就職に有利になるようにと、安易に職業訓練へと流されつつあることに、私は少なからず危機感を覚えている。 文明は現在の生活様式を規定し可能にしている技術の集まりである。これらの技術を学ぶこと、――法律家や医者、会計士や電気技師、農業技術者や自動車工や外交セールスマンなどの技術を学ぶことは、文明の全資本のうちの適当な部分を借りてきて、それを学び、利殖を生み出すことであり、そうした利殖はあるいは現在の消費に費やされ、あるいは技術の改良のため再投資される。 これらの技術はそれぞれ知識であり、多くはある程度の物理的器用さを伴っている。ただし、純粋に物理的な器用さ(コペント・ガーデン市場で荷車を器用に操作することなどはこれに近い)は技術とはいえない。なぜならそれは文明という資本をほとんど必要としないし、その器用さが生む利益(最小限の利益)はすべて現在の消費に使われてしまうからである。 これに対して、多くの知識を要する技術は、〔文明という〕資本を大いに必要とし(技術の習得に長い時間がかかることはその象徴である)、更に多くの消資されない利潤を生み出す。(同、 p. 369 )  1つのことをなすためには、全体を知らなければならない。が、全体を知るためには、部分部分を1つずつ身に付けていかねばらならない。こうやって部分と全体の往復運動を繰り

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(2)学校教育は事を為すための下準備

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学校教育は単に初期教育あるいは単純教育ではなく、固有の性格を有している。それは、重要なことを話す以前に話すことを学ぶのであり、そこで教えられるのは、必ずしも内容の理解を伴わずに学ばれるものであるが、こうした学習は有害でもナンセンスなものでもない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 368)  学校教育の主目的は、将来、事を為(な)すための「下準備」( front-end )である。例えば、意思疎通を図るためには、必要十分に話せなければならない。詰まり、話せるようになることが不可欠である。この前段階の準備こそが、学校教育に求められるのである。 what is taught must be capable of being learned without any previous recognition of ignorance -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university : ONE (教えられるものは、事前に知らないということに気付かぬうちに、学ぶことが出来なければならない) 我々は、 8×9 が幾つか判らないとハッと気がついて掛け算表を学び始めるのではないし、あるいは、エドワード一世の戴冠(たいかん)がいつか判らないといって英国国王の系譜を学び始めるのでもない。我々は学ぶように言われてこれらの事柄を学校で学ぶのである。(オークショット、同)  社会の構成員として、知っておかねばならないことを事前に学ぶのが学校教育という場なのである。 学校教育では特定の方向づけはなされない。それはいまだ個人の才能や素質と関係するものではなく、そうした才能や素質が認められたとしても(それはありうることだが)学校教育の方針はそれらを伸すことではない。学校では自分の気の向くままにすることは許されないのである。(同)  知っておくべきことは、個人差があるだろうが、学校教育は集団教育なので、最大公約数として、みんなが共通して知っておかねばならないことを学習することにならざるを得ない。 現在の学校教育期間は以前に比べて長くなっている。10年間以下ということはないし、14~5年間の場合もある。そしてその期間が終る前に「専門化」とよばれる事柄が教育に現われはじ

オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(1)対話としての文明

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 教育とは、指導と節制によって、自分自身について認識し自己を形成するための学習の過程である。必然的にそれは2つのものの折り重なった過程であり、その中で我々は「文明」と呼ばれるものに向かいつつ、その過程で文明にふさわしい自らの才能や素質を発明し、それを開発し用いるのである。何の文脈もなく自己を形成しようとすることは不可能である。その場合、文脈とは、学ばれる事柄だけでなくその教育のための指導と節制を含んでいる。(マイケル・オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」:『政治における合理主義』(勁草書房)桂木隆夫訳、p. 365)  これは、英国における教育である。世界には、「文明」と呼ばれ得るものを持っている国もあれば、持っていない国もある。したがって、普遍的な教育というよりも、英国の教育事情として考察すべき問題であろうと思われる。  文明はしばしば書物や絵画、楽器と作品、建物、都市、風景、発明、工夫、機械等々すなわち、人類が自然に刻印した成果と考えられている。しかしこれは、我々の行動の枠組である〔文明という〕第2の自然(とヘーゲルは呼んでいる)についての余りにも狭い(極めて素朴な)理解であろう。我々の生きている世界は、むしろ、上述の「物事」を生ぜしめる様々な感情や信念、イメージや観念、思考方法、言語、技術、慣行や作法から構成されている。したがって、世界を財としてではなく資本として、用いることによってのみ知ることができかつ享受しうるものとして、解するのが適当である。 なぜならば、上述したものはいずれも固定的で完成したものでなく、成果であると同時に将来への展望でもあるからである。この資本は、何百年にわたって蓄積され、使用によって利殖を生み、その一部は現在の生活に消費され、一部は再投資される。(同、 pp. 365-366 )  英国文明は、1つの生命体のごとく、新陳代謝を繰り返す。時に文明の成果を消費し、時に文明の新たな成果を生産する。  しかしながら、別の観点からすれば、文明(特に我々の文明)は対話として考えることができる。すなわち、遺徳的実践的行為、宗教上の信仰、哲学的思索、芸術的瞑想、歴史的または科学的探究や説明などのそれ自身の言葉を持った様々な人間活動の間でくりひろげられる対話なのである。私がこれらの様々な思考と言論の多様性を対

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(62)右往左往は前提の誤り【最終回】

普通の相互信頼の契約では決して最初の履行者になるな、と自然的な理性は我々に警告する。それはまた平和を求めることが我々の利益になると我々に語り、平和が発生しうる条件を示唆する。平和に必要な条件は、権威と権力とを兼ね備えた主権者の存在である。この主権者の権威は、すべての人がすべての人と結ぶ相互信頼の契約からしか生じない。その契約において、彼らは自分自身を治める自然権を主権者に譲渡し、また共通の平和と安全に関することについては、主権者のすべての命令をあたかも自分自身の命令であるかのように承認する。だがこの主権者がその命令を実現する権力は、このように服従を約した人々が現実に服従することからしか生じない。どこかで始まりがなければならない。そしてそれは理にかなった始まりだと示されなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 355)  「万人の万人に対する戦い」が自然状態だと前提するから、こんな不自然な理路を辿(たど)らねばならなくなるのだ。この前提を取り下げれば、感情や理性のある人々は平和を求めるのが普通であるから、<最初の履行者になるな>というような話は出て来ようがない。 約束を結んだほどの分別を持っている人々なら、それを守るほどの分別がある(つまり、自分の利益のありかを見て取ることができるほど、貪欲や野心やその種のものから解放されている)人々がどんな時でも十分に存在するだろうと期待するのは理にかなっているのではないか? そしてもしそうならば、最初の履行者になることは誰にとっても法外な危険ではなくなる。そしてこの契約の当事者は誰でも最初の履行著になるかもしれない。「これがかの偉大なリヴァイアサンの誕生である。……我々は不死の神の下で、我々の平和と防衛とをリヴァイアサンに負うているのである。(同、 p. 355 )  リヴァイアサンとは、旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる、地上最強の怪獣の名である。ホッブズは、この最強なるものを、人々が命を守るために契約を結んで設立したコモンウェルスだとした。 この説明は、主権を設立するこの契約の最初の履行者になるのが合理的であることは否定できないと証明しているのではなくて、単にそれに伴う危険は普通の相互信頼の契約に伴う危険よりもはるかに合理的である(あるいは法外な程度がはるかに小さい)と

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(61)「万人の万人に対する戦い」は不自然状態

分別ある人がすべて求めていること、この契約の最初の履行者があてにしていることは、持続的な平和の状態だから、この状況は次のような状況として理解する方がもっとよい。そこでは他の当事者のうち十分なだけの人々が、十分なだけの時間、自発的に履行するため、いつでも特定の機会に服従する気にならない人々に強制を加える主権者の十分なだけの権力を発生させることを期待してもおかしくないので、最初の履行者になって履行し続けることは不合理ではない。というのも、最初の履行者になることが合理的か否かは、常に自分の信頼に応えてくれる特定の人々の不変の集団があると合理的に期待できるか否かにはかかっていないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 354)  <分別ある人がすべて求めていること…は、持続的な平和の状態だ>と言い切る根拠は何か。これは、<万人の万人に対する戦い>が自然状態という前提とは真逆である。 The Passions that encline men to Peace, are Feare of Death; Desire of such things as are necessary to commodious living; and a Hope by their Industry to obtain them. And Reason suggesteth convenient Articles of Peace, upon which men may be drawn to agreement. These Articles, are they, which otherwise are called the Lawes of Nature -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIII. (人を平和に向かわせる感情は、死の恐怖、広い生活に必要なものの欲望、そしてそれらを手に入れるための、努力による希望である。そして理性が、人が合意するのに便利な平和の条文を提案する。これらの条文は他に、自然法とも呼ばれている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第13章  人間には感情もあれば理性もある。だから、平和を求めるのである。が、もし仮に人間から感情や理性が失われてしまえば、闘

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(60)道理の通らぬホッブズの論理

当事者間の普通の相互信頼の契約にあっては、最初の履行者は相手方がその時になっても約束を守らなかったら報いられない。そしてこのことは、参加者がたくさんいる普通の相互信頼の契約(品物や役務に関するもの)でも変わらない。全参加者が履行しなければ、最初の履行者は、そしてそれぞれ他の履行者も、重要なものを奪われる。 しかし多数者が主権に服従することを約するこの契約にあっては、全参加者ではなしに一部の人だけが履行しても、最初の履行著は、そしてそれぞれ他の自発的な履行者も、何も失わない! 履行する人たちの数が十分に多くて、履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限りは。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 354 )  <一部の人だけが履行しても、最初の履行著は…何も失わない!>というのは、<履行する気にならない人々を強制するために必要な権力を発生させられる限り>という条件付きの話である。問題は、この条件の期待値である。私は、<最初の履行者は…何も失わない!>と言えるほど期待値は高くないと思う。  そもそも、当初の自然状態において、弱者が平和を求めることは当然としても、強者までもが自らの権利を放棄して平和を求めるというのは余りにも不自然である。このことは、契約の履行においても同じである。弱者は進んで契約を履行しようとするだろうが、強者はその必要はない。そこでホッブズは<不名誉な死>を怖れるがために強者も平和を希求せざるを得ないとするわけであるが、私にはただの屁理屈にしか聞こえない。 この契約を結んでおきながら野心と貪欲のためにそれを守らない人がいない、と期待することはできないだろうが、十分に多数の人々はこの迷妄を免れていると期待することは許される。このようにして、この契約にはそれを他のあらゆる契約から分かち、最初の契約者になることを不合理ではなくするような特徴があり、その当事者は誰でも最初の履行者になる可能性がある。(同)  戦争と平和の問題は、「多数決の論理」が通用しない。平和を求める人々が圧倒的多数であっても、戦争を求める極少数の強者がこれを一蹴(いっしゅう)してしまうことは容易であろう。  人間の性向が平和を求めるものであるのなら、平和な社会を築くために人が動くのは分かる。が、「万人の万人に

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(59)不合理なホッブズ解釈

第1に、ほかの契約者もその約束を守るだろうとは合理的に期待できなくてさえも、この契約の最初の履行著になることは理にかなっている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 353)  他の契約者もその約束を守るだろうと合理的に期待できないのであれば、普通、この契約の最初の履行著になることは理に適っていないということではないのか。 さらに、契約者たちのかなりの部分が約束を守るだろうと実際合理的に期待できるのであり、この契約の場合は(普通の契約と違って)、それだけでも最初の履行者になることを不合理ではなくしてしまうのである。(同)  果たしてそうか。契約者全員が約束を守らなければ「平和」は得られない。契約者の中に約束を反故(ほご)にして、戦う権利を行使しようとするものが現れれば、独り勝ちになって、他はこの独裁者に平伏(ひれふ)さなければならなくなってしまう。これが果たして合理的な判断と言えるのだろうか。  第1に、確かにこの契約の当事者はいくらかの危険を冒している――もし彼の服従する、権威ある主権者が、他の当事者たちの服従を強制できず、彼らも服従することを合理的には期待できないならば。それにもかかわらず、それは法外な危険ではない。なぜなら彼が失うかもしれないものは、得られるかもしれないものに比べれば取るに足りないものだからであり、また、事実誰かがこの契約を最初に履行しない限り、平和のために不可欠の「共通権力」は発生しえないからである(同)  成程、この理屈では、誰かが最初に履行の危険を冒さねばならない。が、だからといってこの履行は決して合理的ではない。 主権者の権威の行使を授権する契約と他の相互信頼の契約との重要な相違点を見て取り、その帰結として、この契約では最初の履行者になることが合理的である(同)  成程、主権者に権限の行使を授権する契約と、抜け駆けをしないという相互信頼の契約とは中身が異なる。が、そのことが契約の最初の履行者になることを合理化しない。  主権者の権威を承認して彼に権力を与える契約とそれ以外の相互信頼の契約すべてとの間には重要な相違点があるが、その1つは、前者は当事者のすべてが振舞うと約束した通りに振舞わないとしても、効果的に実行されるかもしれない、ということである。(同、pp. 353-35

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(58)叩き台を提示したホッブズ

主権者が必要とする権力を生む手段としても経験的に不可欠だとも認められるかもしれない。なぜなら多くの人々が、服従の行為と性向――それが主権者の権力を構成する――を求める主権者の権威を実際に承認するということは、彼らがそのように契約しなければほとんど想像しがたいからである。それにもかかわらず、契約はそれ自体では国家の十分原因ではない。それは権威を与えはするが、権力の方は約束するだけである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p.352 )   authority を「権威」と訳しているが、ここは「権限」とすべきではないか。契約によって承認するのは、主権者の「権威」ではなく「権限」だろうということである。言い換えれば、「権威」は契約したぐらいで与えられるようなものではないということである。 「平和」の状態を創設するために必要な権威と権力とを持った主権者の必要十分原因は、この種の契約に加えて、その契約を守ろうとする十分に広汎な性向(公然たる行為に現われた)である。というのも、主権者の権力とはその臣民の服従の性向を裏から言ったものにすぎないからである。 だから従って、この契約は自然状態で結ばれる他の契約とは違って守られるだろうと期待するのが合理的だ、ということを我々に納得させるような何らかの議論を我々はホッブズの説明の中に見つけたくなる。というのは、おそらく少々逆説的に聞こえるかもしれないが、平和を創設し契約遵守を強制するために必要な権力は、今や契約を結ぶことによってではなく、契約を守る過程において、つまり、服従の性向と行為において発生するように思われるからである。 要するに、自然状態で普通の相互信頼の契約の最初の履行者となることは常に不合理に違いないと我々は確信しているから、ホッブズが今やわれわれに対して証明しなければならないことは、この相互信頼の契約の最初の履行著になることは誰にとっても不合理ではないということである。 そして同時に述べておいてよかろうが、約束を2番目に履行すべき人々が約束を守るように強制する権力が存在するということからこの状態を発生させることはできないのである。なぜならば我々が求めているものは、いかにしてそのような権力が「設立」されるかについての、理解しうる説明だからである。(同、 pp. 352-353

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(57)個性の道徳の哲学者

ホッブズはカントや他の哲学者と同様、典型的に個性の道徳の哲学者である…第1に、ホッブズは主として国法に従う動機に関心を持っていた。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 349) he is less concerned with what a man might otherwise do with his life than with the minimum conditions in which the endeavour for peace could be the pattern of conduct for even the least well-disposed man. These minimum conditions are that there shall be one law for the lion and the ox and that both should have known and adequate motives for obeying it. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes : SIX (彼は、平和のための努力が、最も非協力的な人でさえ行動規範となり得る最小限の条件ほど、人が自分の命をどうするかということには関心がない。これらの最低条件は、ライオンや牛には1つの「掟」があり、両者とも分かっているはずであり、それに従うに十分な動機があるということだ)  「ライオンや牛にさえ周知された掟が(神の意思として)ある( shall be )」というのは、言うまでもなく、ホッブズが考えた勝手な理屈である。「ライオンや牛にさえ周知された掟があるのなら、最も非協力的な人間でも国法に従う動機はある」などという話は、まったく非論理的である。 第2に、ホッブズはこの別の気分も持っていて、そこでは誇りと自尊心とは平和を求める努力の十分な動機を与えられると認められていた。そしてこの気分のとき、彼は誤解の余地なく個性の道徳( the morality of individuality )の哲学者である。この道徳のイディオムは「貴族的」である。そしてそれがホッブズの著作の中に反映しているのを見つけることは不

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(56)ブルジョア道徳

恥ずかしい死の恐怖は理性を呼び起こし、平和の好都合な条項や、その条項が人間の生のパターンになるかもしれない仕方を示唆し、従順な人の道徳を生み出す。この人は平和の方に左祖(さたん=見方)していて、正しく行動するために高貴さとか寛大さとか度量の広さとか栄光への努力とかを必要としない人である。 そしてこれがホッブズの見解である限りにおいて、彼はいわゆる「ブルジョア」道徳の哲学者として認められてきた。だがこれは、ホッブズの個人主義的人間観にもかかわらず、「共通善」の観念をほのめかし、それに向かっているように見える道徳的生のイディオムである。それが示唆しているように思われるものは、あらゆる状態の人々にあてはまる唯一の公認の人間環境の状態と、この状態を達成し維持する技芸としての道徳である。しかしこれには限定を加えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 348-349 )  <ブルジョア道徳>というのが良く分からない。おそらく社会主義、共産主義が幅を利かせていた時代の名残なのではないかと思われるが、ここでこの時代背景を探ることは避ける。例えばで言えば、マルキスト戸坂潤は、1936(昭和11)年に『思想と風俗』という文章を書いている。 《道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。  こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧(むし)ろ道徳のかかる観念自身が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至(ないし)文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる》  ルサンチマン(怨恨)よろしく既存の社会体制に難癖を付け、共産主義の理想社会を夢見る。当然、社会秩序を支える道徳も気に入らない。だから<ブルジョア道徳>などと勝手な用語を宛(あ)て、人々に悪印象を植え付けて、これを叩くのである。 《ホッブズ倫理学は、イギリス・ブルジョアジーの発展初期に於けるこの云わば変則な必然性を表現した処の、やや変

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(55)誇りの効用を認めぬホッブズ

オークショットは問う。 「なぜ彼(=ホッブズ)はこの議論の線をさらに追求しなかったのか? なぜ彼は誇りに効用を認めず、結局のところ『考慮されるべき情念は恐怖である』と結論したのか?」(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 348 )  ホッブズは、 誇りは平和を求める努力の成功のために十分な動機を与えないからだというものではなく、高貴な性格の持ち主が少なすぎるからだ(同) と言うのである。 The force of Words, being (as I have formerly noted) too weak to hold men to the performance of their Covenants; there are in mans nature, but two imaginable helps to strengthen it. And those are either a Feare of the consequence of breaking their word; or a Glory, or Pride in appearing not to need to breake it. This later is a Generosity too rarely found to be presumed on, especially in the pursuers of Wealth, Command, or sensuall Pleasure; which are the greatest part of Mankind. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIV. (言葉の力は、(以前指摘したように)人に契約を履行させるには弱過ぎる。人間の本性には、それを強化するのに役立つと思われるものが2つだけある。それは、約束を破った結果の恐怖、あるいは約束を破る必要がないように見える栄光や誇りである。この後者は、特に富や命令や官能的な喜びを追い求める人々、つまり人類の大部分の、付け込もうにも滅多にお目に掛かれぬ寛大さである)ホッブズ『リヴァイアサン』第 1 部 第14章 ホッブズは要するに、人間は理性よりも情念を欠いている、それも特にこの

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(54)スピノザとヒューム

スピノザは、主著『エチカ』で、アリストテレスの中庸論と似た発言をしている。 Prop. XLVIII. The emotions of over-esteem and disparagement are always bad. Proof.- These emotions are repugnant to reason; and are therefore bad. 定理48 過大評価や軽視の感情は、常に悪である。 証明 これらの感情は理性と矛盾するため、悪である。 Prop. XLIX. Over-esteem is apt to render its object proud. Proof.- If we see that any one rates us too highly, for love's sake, we are apt to become elated, or to be pleasurably affected; the good which we hear of ourselves we readily believe; and therefore, for love's sake, rate ourselves too highly; in other words, we are apt to become proud. 定理49 過大評価はその対象を高慢にしがちである。 証明 愛のために、誰か自分を高評価し過ぎる人がいるのが分かると、私達は調子に乗って、心うきうきになりがちである。自分のことについて聞いた良いことはすぐに信じてしまい、愛のために、自分自身を高評価し過ぎる、別言すれば、高慢になりがちである。 スピノザは、競争に向かう人間性から平和に向かう2つの道筋の選択肢を示した。その一方は、恐怖と将来への賢慮から発生して国家の法と秩序に至るものであり、他方は、人間の生の環境に対する精神の力が提供する逃げ道である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 347)  哲学者レオ・シュトラウスは言う。 True, both philosophers see self-preservation as the essence of man, but they