オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(55)誇りの効用を認めぬホッブズ

オークショットは問う。

「なぜ彼(=ホッブズ)はこの議論の線をさらに追求しなかったのか? なぜ彼は誇りに効用を認めず、結局のところ『考慮されるべき情念は恐怖である』と結論したのか?」(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 348

 ホッブズは、

誇りは平和を求める努力の成功のために十分な動機を与えないからだというものではなく、高貴な性格の持ち主が少なすぎるからだ(同)

と言うのである。

The force of Words, being (as I have formerly noted) too weak to hold men to the performance of their Covenants; there are in mans nature, but two imaginable helps to strengthen it. And those are either a Feare of the consequence of breaking their word; or a Glory, or Pride in appearing not to need to breake it. This later is a Generosity too rarely found to be presumed on, especially in the pursuers of Wealth, Command, or sensuall Pleasure; which are the greatest part of Mankind. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 1. CHAPTER XIV.

(言葉の力は、(以前指摘したように)人に契約を履行させるには弱過ぎる。人間の本性には、それを強化するのに役立つと思われるものが2つだけある。それは、約束を破った結果の恐怖、あるいは約束を破る必要がないように見える栄光や誇りである。この後者は、特に富や命令や官能的な喜びを追い求める人々、つまり人類の大部分の、付け込もうにも滅多にお目に掛かれぬ寛大さである)ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第14章

ホッブズは要するに、人間は理性よりも情念を欠いている、それも特にこの情念を欠いている、と理解していたのである。しかしそれが存在するところでは、それは他の何にも増してしっかりとした基盤を持った平和への努力を生み出すことができると認めなければならない。だからそれは(正しい人も安全でいられる国家の中でさえ)正しい行動の最も確実な動機である。

それどころか、この性格の人々は国家の不可欠の原因であるというのが、ほとんどホッブズの見解だったように見える。そして紛争が主権者から権力を奪うとき、国家防衛への十分な動機を持っているのでそれについて頼りになるのは、確かに彼らだけである。

彼はシドニー・ゴドルフィンの中に、この性格の鏡を見た。しかしながら、ホッブズはここでさえも、我々が平和を求めて努力すべき義務を持つと信ずべき理由よりも、正しい行為の原因あるいは動機の方に関心を持つ傾向を示している。「誇り」は理由を与えはしない。それは単に、可能な選択的原因の1つにすぎない。(オークショット、同)

So also Reason, and Eloquence, (though not perhaps in the Naturall Sciences, yet in the Morall) may stand very well together. For wheresoever there is place for adorning and preferring of Errour, there is much more place for adorning and preferring of Truth, if they have it to adorn. Nor is there any repugnancy between fearing the Laws, and not fearing a publique Enemy; nor between abstaining from Injury, and pardoning it in others. There is therefore no such Inconsistence of Humane Nature, with Civill Duties, as some think. – Hobbs, Ibid., A REVIEW, and CONCLUSION

(だから、理性と雄弁もまた、(自然科学においてはそうではないかもしれないが、道徳においては)とてもうまく両立するのかもしれない。というのは、誤謬(ごびゅう)を飾り、好むところでは、それ以上にずっと真理を飾り、好むからである。また、法を恐れることと公然の敵を恐れないこととの間に矛盾はないし、傷害を避けることと他人の傷害を赦(ゆる)すこととの間にも矛盾はない。したがって、一部の人が考えるような、人道的性質と市民的義務との矛盾といったものは存在しないのである)―ホッブズ、同、総括と結論

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