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オークショット「バベルの塔」(5)【最終】西洋道徳の苦境

I am not contending that our morality is wholly enclosed in the form of the selfconscious pursuit of moral ideals. Indeed, my view is that this is an ideal extreme in moral form and not, by itself, a possible form of morality at all. I am suggesting that the form of our moral life is dominated by this extreme, and that our moral life consequently suffers the internal tension inherent in this form. Certainly we possess habits of moral behaviour, but too often our selfconscious pursuit of ideals hinders us from enjoying them. Self-consciousness is asked to be creative, and habit is given the role of critic; what should be subordinate has come to rule, and its rule is a misrule. Sometimes the tension appears on the surface, and on these occasions we are aware that something is wrong. –- Michael Oakeshott, The Tower of Babel (私は、私達の道徳が自意識過剰に道徳的理想を追求する行為に完全に封じ込められていると主張しているのではない。実際、私の考えでは、これは道徳的形態における仮想上の極端であり、それだけでは、道徳の形態として全く有り得ない。私が言いたいことは、私達の道徳的生の形態がこの極端に支配されており、私達の道徳的生は、結果として、この形態に特...

オークショット「バベルの塔」(4) 人間活動の詩的性格

この形態の根本的な欠陥は、その優越している方の極の根本的な欠陥――あらゆる人間活動の詩的性格の否定――である。思考の散文的伝統のおかげで、我々は次のような想定に慣らされてきた。それはすなわち、道徳的活動は、分析してしまえば、存在すべき理念を現実の実践に翻訳すること、理想を具体的に存在させることであるとわかるだろう、という想定である。そして我々は他ならぬ詩をこれらの用語で考えるのにさえ慣らされてきた。まず「心の欲求」(理想)があり、そしてその表現として、言葉への翻訳があるというのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 82)  オークショットは、人間の活動には詩的性格があると言うわけである。 しかしながら、私はこの見方は間違いだと思う。それは不適切にも、教訓という形式を芸術と道徳的活動一般に押しつけているのである。詩は心の状態を言葉に翻訳したものではない。詩人の言うことと言いたいことは2つのもので前者は後者のあとに従って後者を化体(かたい)している、というわけではない。両者は同一のものである。詩人は言ってしまうまでは、自分が何を言いたいのかを知らない。そして彼は自分の最初の試みに「訂正」を加えるかもしれないが、それはすでに定式化された理念やすでに心の中で十分に形成されたイメージに一層ぴったりと言葉が対応するようにするための努力なのではなく、理念を定式化しイメージをつかむための努力の更新なのである。詩それ自体より先には何も存在しない――おそらく詩的情熱を別としては。そして詩について真であることは、思うに人間のあらゆる道徳的活動についても真である。(同)  詩人は、心に浮かぶ「想い」を言葉にしているのであって、頭に刻み込まれた「理想」を言葉にしているのではないということだ。 道徳的諸理想は反省的思考の産物、現実化されざる理念の言語的表現であってそれが(正確さは様々だが)人の振舞いに翻訳される、というわけではない。それらは人の振舞い、人の実践活動の産物であって、反省的思考は後からそれらに部分的で抽象的な表現を与えるのである。よいことや正しいこと、あるいは合理的振舞いと考えられることは、状況に先立って存在するかもしれない。しかしそれは、生まれつきによってではなく技芸によって決定されるさまざまの振舞いの可能性の一般化された形態としてにすぎない。...

オークショット「バベルの塔」(3) 慣習的道徳と反省的道徳

The intellectual distinction between customary and reflective morality is clearly marked. "The former places the standard and rules of conduct in ancestral habit; the latter appeals to conscience, reason, or to some principle which includes thought. The distinction is as important as it is definite, for it shifts the centre of gravity in morality. Nevertheless the distinction is relative rather than absolute. Some degree of reflective thought must have entered occasionally into systems which in the main were founded on social wont and use, while in contemporary morals, even when the need of critical judgment is most recognized, there is an immense amount of conduct that is merely accommodated to social usage. – John Dewey, The Later Works of John Dewey, Volume 7, 1925 - 1953: 1932, Ethics : Chapter 10 (慣習的道徳と反省的道徳は、明確に、知的に区別される。前者は行動の基準や規範を先祖代々の習慣の中に位置づけ、後者は良心や理性に、あるいは思考を含む何らかの原理に訴える。この区別は明確であると同時に重要である。というのは、道徳の重心が移動するからである。とはいえ、この区別は絶対的というよりもむしろ相対的なものである。ある程度の反省的思考が、時折、主として社会慣...

オークショット「バベルの塔」(2) 中庸の用

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我々は正義を実現しようと熱心になるあまりに思いやりを忘れるし、廉潔(れんけつ)への情熱は多くの人々をかたくなで無慈悲にもしたのである。実際、幻滅に至らないような理想の追求は存在しない。この道を辿る人すべてにとって、最後には憂鬱(chagrin)が待っている。いかなる賞賛すべき理想にも反対物があり、こちらも同様に賞賛に値する。自由か秩序か、正義か思いやりか、自発性か慎重さか、原理か状況か、自己か他者か――これらは道徳的生のこの形態がいつも我々に直面させるディレンマであって、それは完全に望ましいというわけではない両極端にいつも我々の注意を引きつけることによって、我々に物を二重に見させるのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 79)  例えば、自由が過剰になり、勝手が横行すれば、社会秩序は乱れる。逆に、秩序に囚(とら)われ過ぎれば、自由に振る舞うことは出来なくなる。必要なのは、自由と秩序を平衡させることである。が、その平衡点は大いに状況に依存されるものであって、自由と秩序を何対何で混ぜ合わせればよいというような話にはならない。だから道徳の実践的課題は、技術的道徳論では答えが出せないのである。 《子程子(していし)曰く偏(かたよ)らざる之を中(ちゅう)と謂ひ、易(か)はらざる之を庸と謂ふ。中者(は)天下の正道にして、庸者天下の定理なり》(宇野哲人『中庸』(大同館版)、 p. 53 )  詰まり、求められるのは「中庸」だということである。 《仲尼(ちゅうじ)曰く、君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり》( p. 70 ) (仲尼曰く、君子は中庸卽(すなわ)ち偏らず倚(よ)らず過不足なく、平常にして且(か)つ恆久不易(こうきゅうふえき)の德を己の身に體得(たいとく)して居るが、小人は中庸に反す。君子の中庸を能(よ)くする故(ゆえ)は、見ざるに戒愼(かいしん)し聞かざるに恐懼(きょうく)して、未發の中を失はず、一念動く處(ところ)よく獨(ひとり)を愼しむの工夫を凝らして中節の和を得、君子の德あるが故に、時に隨(したが)ひ變(へん)に處(しょ)してその宜(よろ)しきに叶(かな)ふのである。小人の中庸に反する故は、小人の心ありて、欲を肆(ほしいまま)にし妄(みだ)りに行ひて、少しも忌(...

オークショット「バベルの塔」(1) 社会は賭けに出られない

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The pursuit of perfection as the crow flies is an activity both impious and unavoidable in human life. It involves the penalties of impiety (the anger of the gods and social isolation), and its reward is not that of achievement but that of having made the attempt. It is an activity, therefore, suitable for individuals, but not for societies. For an individual who is impelled to engage in it, the reward may exceed both the penalty and the inevitable defeat. The penitent may hope, or even expect, to fall back, a wounded hero, into the arms of an understanding and forgiving society. And even the impenitent can be reconciled with himself in the powerful necessity of his impulse, though, like Prometheus, he must suffer for it. For a society, on the other hand, the penalty is a chaos of conflicting ideals, the disruption of a common life, and the reward is the renown which attaches to monumental folly. Or, to interpret the myth in a more light-hearted fashion: human life is a gamble; but whi...