オークショット「バベルの塔」(5)【最終】西洋道徳の苦境
I am not contending that our morality is wholly enclosed in the form of the selfconscious pursuit of moral ideals. Indeed, my view is that this is an ideal extreme in moral form and not, by itself, a possible form of morality at all. I am suggesting that the form of our moral life is dominated by this extreme, and that our moral life consequently suffers the internal tension inherent in this form. Certainly we possess habits of moral behaviour, but too often our selfconscious pursuit of ideals hinders us from enjoying them. Self-consciousness is asked to be creative, and habit is given the role of critic; what should be subordinate has come to rule, and its rule is a misrule. Sometimes the tension appears on the surface, and on these occasions we are aware that something is wrong. –- Michael Oakeshott, The Tower of Babel
(私は、私達の道徳が自意識過剰に道徳的理想を追求する行為に完全に封じ込められていると主張しているのではない。実際、私の考えでは、これは道徳的形態における仮想上の極端であり、それだけでは、道徳の形態として全く有り得ない。私が言いたいことは、私達の道徳的生の形態がこの極端に支配されており、私達の道徳的生は、結果として、この形態に特有の内的緊張に苦しんでいるということである。確かに私達は道徳的行為の習慣を持っているが、あまりにも頻繁に、自意識過剰に理想を追い求めるがあまり、それを享受することが出来ない。自意識は創造的であることを求められ、習慣は批判者の役割を与えられている。従属すべきものが支配するようになったその支配は無政府状態である。時として緊張が表面に現れることもあるが、このような場合、何かが間違っていることに気付くのである)
A man who fails to practise what he preaches does not greatly disturb us; we know that preaching is in terms of moral ideals and that no man can practise them perfectly. This is merely the minor tension between ideal and achievement. But when a man preaches 'social justice' (or indeed any other ideal whatsoever) and at the same time is obviously without a habit of ordinary decent behaviour (a habit that belongs to our morality but has fortunately never been idealized), the tension I speak of makes its appearance. And the fact that we are still able to recognize it is evidence that we are not wholly at the mercy of a morality of abstract ideals. –- Ibid.
(自分が説いていることを実践できない人を見ても、私達は大して不安にならない。説教は道徳的理想に関するもので、誰も完璧に実践することなど出来ないということが分かっているからである。これは単なる理想と達成の些細な緊張に過ぎない。しかし、ある人が「社会正義」(や、他のどんな理想であってもそれ)を説きながら、同時に明らかに普通のまともな行動の習慣(私達の道徳に属するが幸いにも理想化されたことのない習慣)がなければ、私の言う緊張が姿を現すのである。そして、私達がまだそれを認識できるということは、私達が抽象的理想の道徳に全面的に翻弄されているわけではない証拠である)
道徳的振舞いの習慣は、定式化された道徳的理想の自己意識的追求へと転換した――この転換は、一人の人物への信仰が、抽象的命題の集合である信経(creed)への信念に変わるのと並行している。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 87)
「合理主義」(rationalism)が幅を利かし、地に足の着かぬ抽象論が飛び交う世の中になってしまった。が、果たして人間は、そして社会は、「進歩主義」(progressivism)よろしく「完成」に向けて進んでいるのであろうか。
ひとたび軽率にも道徳的諸理想の抽象的用語の中に自らを定式化してしまったからには、その批判者たち(彼らは決して長い間黙ってはいなかった)がこれらの理想を標的にすることも、またこれらを攻撃から守る際に理想が硬直して誇張されたものになることも、たやすく予想できたことだった。(同、p. 88)
Every significant
attack upon Christian morality (that of Nietzsche, for example) has been
mistaken for an attack upon the particular moral ideals of Christian life,
whereas whatever force it possessed derived from the fact that the object of attack
was a morality of ideals which had never succeeded in becoming a morality of
habit of behaviour.
The history of European morals, then, is in part the history of the maintenance and extension of a morality whose form has, from the beginning, been dominated by the pursuit of moral ideals.–- Ibid.
(キリスト教道徳に対するあらゆる重要な攻撃(例えば、ニーチェの攻撃)は、キリスト教的生の特定の道徳的理想に対する攻撃と誤解されてきたが、それが持っていた如何なる力も、攻撃の対象が行動の習慣の道徳になるのに成功したことがない理想の道徳であったという事実に由来したのである。
だとすれば、ヨーロッパ道徳の歴史は、一つには、最初から形態が道徳的理想の追求によって支配された道徳の維持と拡張の歴史だということである)
「西洋道徳の苦境は、私の見るところ次の通りである。第1に、我々の道徳的生は理想の追求によって支配されるに至っているが、この支配は確立した振舞いの習慣を破滅させるものである。第2に、我々はこの支配を、感謝すべき恩恵あるいは誇るべき業績と考えるに至っている。そして我々の苦境についてのこの検討がめざす唯一の目標は、この腐敗した意識、つまり我々を自分の不運に甘んじさせる自己欺瞞(ぎまん)を暴露することである。(同、pp. 89-90)【了】
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