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オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達

賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを胆に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑(あんかん)としていられる理由がある。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 98)  <賢者>は、他者のみならず自己にも疑いの目を向ける。人間は神でない以上、誰にでも間違いを犯す可能性があるからである。が、<愚者>は、他者を疑いなしに否定するが、自らを疑うことはしない。自らが間違っていることなど思いも寄らない。そもそも自らを疑う習慣がないのである。自らを疑わぬ人には、発見もなければ成長もない。ただ与えられたものを大事にしまっておいて、それをそのまま吐き出すだけである。 わたしは大衆人がばかだといっているのではない。それどころか、今日の大衆人は、過去のいかなる時代の大衆人よりも利口であり、多くの知的能力をもっている。(同、 p. 99 )  <大衆>は、知識が豊富であり、その意味で知的水準は決して低くはない。が、問題は、<大衆>は知識獲得の必要は感じても、その知識の歴史来歴にはほとんどといって興味がない。だから<大衆>が持っている知識は、表層的で薄っぺらなのである。「実用」には興味があっても「教養」には関心はない。それが<大衆>というものである。 大衆人は、偶然が彼の中に堆積したきまり文句や偏見や思想の切れ端もしくはまったく内容のない言葉などの在庫品をそっくりそのまま永遠に神聖化してしまい、単純素朴だからとでも考えないかぎり理解しえない大胆さで、あらゆるところで人にそれらを押しつけることであろう。(同)  <大衆>は疑うことを知らない。だから正しいことも間違ったことも好悪の篩(ふるい)に掛けられて蓄積される。だから<大衆>の知識は自らのお気に入りに知識であり、正しいか正しくないかは与(あずか)り知らぬことである。したがって、仮に<大衆>の意見の間違いを指摘したとしても、<大衆>にとっては自分のお気に入りが否定されたとしか思われないだろう。<大衆>にあるのは好きか

オルテガ『大衆の反逆』(9) ノブレス・オブリージュ

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選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 88)  <選ばれたる人>は、足らざるところを補い満たすための努力を惜しまない。一方、<凡俗なる人>は、現状に満足し、努力する必要を認めない。 なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。(同、 p. 95 )  <大衆>は、井の中の蛙であり、自分のことしか見えていない。一方、<高貴なる人>は、自分の外にあるより高貴なるものに目を向け、それを目標に日々研鑽(けんさん)練磨を怠らぬ人のことである。 一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生―高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある( Noblesse Oblige )のであり、「悪意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ〔「庶出の娘」、「続篇のための構想」〕)のである。(同)  一般に、日本語の<エリート>という言葉からは、優秀な高級官僚といったものを連想するに違いない。が、本当の意味の<エリート>とは、知的な優劣や職業における勝ち負けで定義されるようなものではない。<エリート>としての義務感や責任意識が有るかどうかが問題なのである。最近の官僚には、そういう意味での<エリート>らしさがうかがわれない。  が、小室直樹氏は次のように警告する。 《チャーチルも偉大な歴

オルテガ『大衆の反逆』(8) 虚無の時代

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われわれの生きている時代は、信じがたいような実現への能力が自分にあることを感じながらも、何を実現すべきかを知らない。われわれの時代はいっさいの事象を征服しながらも、自分を完全に掌握していない時代、自分自身のあまりの豊かさの中に自分の姿を見失ってしまったように感じている時代なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 60)  佐伯啓思(さえき・けいし)京大名誉教授はこれを「近代主義が陥ったアポリア」だと言う。 《伝統的価値や規範から解放され、それを打破して「近代」が出現するという「進歩主義」の…図式を現実に当てはめてしまいますと、自由、平等、権利、法治、市場競争といった抽象的で一般的な形式だけが絶対化されてしまって、その内実を確定することができなくなってしまう…  結果として内容空疎な自由、形式だけの平等、人格の陶冶(とうや)をもたない個人主義、無制限に拡張する市場競争といったものが出現してしまうでしょう。これは近代主義の弊害といわねばなりません。あるいは、近代主義が陥(おちい)ったアポリアといわねばなりません。「近代」の価値が別に間違っているわけではありません。その「近代」を普遍化し、それを伝統的社会と対立させて理解する「近代主義」が間違っているのです》(佐伯啓思『人間は進歩してきたのか』( PHP 新書)、 p. 236 ) ※アポリア:解決の糸口が見出せない難問・難題 われわれの生は、可能性のレパートリーとしては豪華であり、多すぎるくらい多く、歴史的に知られているいっさいの時代に優っている。しかし、その形状があまりにも大きいために、伝統によって残されてきたいっさいの河床(かしょう)、原則、規範、理想をはみ出してしまったのである。それは、他の時代のすべての生よりもいっそう生であり、それだからこそいっそう多くの問題を含んでいる。今日の生は、過去の中に自分の方向を見出すことができない。自己固有の使命を自分で発明せねばならないのである。(オルテガ、同、p. 64)  過去を切り離せば柵(しがらみ)を断ち切ることは出来る。が、同時に自分がよって立つ「根拠」を失ってしまう。自分は一体何者であるのかを自ら証明せねばならない。自分は何をすべきなのかを自ら設定せねばならない。それに失敗すれば「空虚」が残るだけとなる。そして虚

オルテガ『大衆の反逆』(7) 進歩主義は自己否定

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自分が過去のどの生よりもいっそう生であると感ずるあまり、過去に対するいっさいの敬意と配慮を失ってしまったのである。かくして、われわれは今日にいたって初めて、いっさいの古典主義を排除してしまった時代、過去のいかなるものにも、模範や模範たりうる可能性を認めない時代、伺世紀にもわたる不断の発展の末に突如として現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃(ようらん)期であるかのように見える時代を見出すのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、同、pp. 47-48)  <進歩>とは未来の肯定と同時に過去の否定でもある。過去よりも現在が、そして現在よりも未来が進んでいなければ<進歩>と呼べないからである。が、進歩主義は只の抽象的な1つの理論でしかなく、現実を踏まえたものでは決してない。成程、技術だけに限って言えば<進歩>と言えなくもない。が、社会も同時に<進歩>したのかと言えば、そうとは言えないだろう。まして人間は<進歩>したのかと問われ<進歩>したと答える人はほとんどいないだろう。  それどころか現在が過去よりも進歩したのだとすれば、それは過去のお陰であって、過去はむしろ肯定されるべきものである。仮に過去を否定することで未来がより良きものとなるのなら、現在は否定されなければならない。現在が否定されることによって未来は明るいものになる。だとすれば、今を生きる我々は否定されるべき存在だということになる。 《「過去の死」について悟淡(てんたん)としているのが進歩主義者の通弊であるが、この死は実は進歩の観念にとって致命的なのである。進歩は…時間的な観念である。過去との比較によって進歩の質量がはかられるのみならず、進歩の方向すらもその比較によって指示される。進歩の観念の中心にある「倫理的改善」を確認するためにはたえず過去との対話が必要なのである。だとすれば現代は相当に奇怪な時代ではある。つまり、進歩主義者は政治的翼の左右をとわずあふれんばかりであるのに、進歩の観念そのものが底抜けになりつつあるのである》(西部邁『幻像の保守へ』(文藝春秋)、 p. 44 )  進歩主義は「自己否定」である。現代人は過去を否定することによって優越感に浸っているのかもしれないが、現代人は未来人によって否定され捨て去られることが確定してし

オルテガ『大衆の反逆』(6) 生の充実

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申し分なく充溢(じゅういつ)した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づくのである。真の生の充実は、満足や達成や到着にあるのではない…自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は涸(か)れ果ててしまっている。要するに、かのすばらしき頂点というものは、実は終末に他ならない(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 42)  1つの満足は新たな欠乏を生む。その欠乏が満たされればまた新たな足らざるものが頭をもたげる。つまり、いつまで経っても本当の満足は得られないということだ。もし本当に満足したのなら、生を終了したということである。生の充実は「結果」にあるのではない。 近代文化への信仰は悲しく淋しい信仰であった。それは、明日もその全本質において今日と同じであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けることにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである。(同、 p. 43 )  <進歩>とは出口のない一本道を永遠に歩き続けることである。他の道を選ぶことは許されない。過去を振り返らず、ひたすら前を向いて歩き続けるのである。が、こんな非人間的な行為はない。 《進步という觀念には2つの面がある。一つは事實(じじつ)としての面であり、もう一つは道德的な面、すなわち我々がそれを是認するかしないかの基準をなす面である。事實としての面では、それは、近世の開幕に呼應(こおう)して始まる地理的發見の初期の步みは、人間の環境を制御する新技術の發明と發見の永遠の時代に續(つづ)けられるべきものであると主張する。進步を信ずる人にいわせれば、これは、人間の考えの及ばないほど遠くはない未來まで何ら目に見えるほどの途切れなく續行されるのである。道德的原理として進步ということを支持する人たちは、この無限であたかも自然發生的な變化(へんか)過程を、よいことであり、未來の時代に地上の天國を約束する基礎であると見なしている。道德的原理として進步を考えず、ただ事實として進步を信ずることも可能である。しかし一般アメリカ人の考え方の枠の中では、兩者が互に結びついている。  我々の大多數(だい

オルテガ『大衆の反逆』(5) 平均化の時代

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われわれは今日、平均化の時代に生きている。財産は均等化され、相異なった社会層間の文化程度も平均化され、男女両性も接近しつつある。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 33)  ニーチェも<平均化>という現象に言及している。 《ルネサンスになって、古典的理想の、あらゆる事物の貴族的評価法の、絢爛(けんらん)たる無気味なばかりの復興が起こった。おのが頭上に築かれた新しい、ユダヤ化されたローマの圧迫の下で、世界的ユダヤ教会堂といったさまをして(教会)と呼ばれていたそのローマの圧迫の下で、古いローマそのものが、まるで生き返った仮死者のように動きだした。がすぐさままたユダヤが、ひと呼んで宗教改革というあの根本的に賎民的な(ドイツとイギリスの)ルサンチマン運動のおかげで、ふたたび勝利を占めるにいたった。この点については、宗教改革の必然的な結果である教会の復興―また古典的ローマの古い墓場の静寂の再現ということも、勘定に入れてみなければならない。この時の事態よりもさらにいっそう決定的な深い意味において、もう一度ユダヤはフランス革命をもって古典的理想にうち勝つにいたった。これによって、ヨーロッパに存在した最後の政治的貴族主義、17・8世紀のフランスの政治的貴族主義は、民衆のルサンチマン本能の下に崩壊した。―かつて地上でこの時よりも大きな歓呼(かんこ)、騒然たる熱狂の声が聞かれたためしはなかった! ところがその最中に、奇怪きわまること、まことに意想外なことが起こった。すなわち、古代的理想そのものが、肉体をそなえて、しかも未曾有(みぞう)の偉容(いよう)をもって、人類の眼と良心の前に立ち現われたのである。―そして、多数者の特権というルサンチマンの古い虚偽の合い言葉に対して、人間の低下への・卑賎(ひせん)への・平均化への・衰頽(すいたい)と凋落(ちょうらく)への意志に対して、いま一度、少数者の特権という怖るべき魅惑的な反対の合い言葉が、かつてよりもより強烈に、より純直に、より痛烈に鳴りひびいた! 別な道への最後の指標たるかのごとくに、ナポレオンが、かつて存在したもっとも独特な、もっとも遅生まれのあの人間が、出現したのである。そしてこの人物のうちに、高貴な理想そのもの自体が、受肉の問題となってあらわれたのだ。―それがいかなる問題であるか、とくと熟考されるがよい。

オルテガ『大衆の反逆』(4) 権利の平等

今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 21-22)  平等主義が蔓延するにしたがって、非凡であろうと凡俗であろうと、誰もが平等に権利を主張することが出来るという考えが広まった。本来、権利と義務は表裏一体のものである。が、凡俗な人間は一方的に権利を主張するばかりで、その権利と裏腹の義務に関しては知らんぷりを決め込んでいる。結果、権利と義務の平衡を保てなくなってしまった。権利を得るだけで義務を果たさない人達が増えれば、権利が過剰となって社会が回らなくなってしまう。 大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされているのである。(同、 p. 22 )  かつてのようなエリート主導の社会ならば、大衆と接点がなくとも<エリート>は社会に居られた。が、大衆主導社会では、大衆に従順でなければ、<エリート>といえども社会から締め出されてしまう。 大衆は今日、かつては少数者のためにのみ保留されていたと思われる生活分野の大部分と一致する活動範囲をもっている…大衆はそれと同時に、少数者に対して不従順となり、少数者に服従もしなければ、追従(ついしょう)も尊敬もしなくなったばかりか、その逆に少数者を押しのけ、彼らにとって代わりつつある…今日の大衆が楽しみを享受するとともに、選ばれた少数者の集団によって発明され、かつてはその選ばれた者のみが利用していた利器を使用している…彼らは、以前には少数者の生得権であるがゆえに上級とみなされていた欲望や必要性を感じるにいたった(同、 p. 27 )  平等主義社会においては、権利は平等でなければならない。かつては社会の担い手としての義務を果たす<エリート>だけに与えられた権利が、今や義務を果たそうが果たすまいがすべての人に与えられねばならなくなった。<大衆>にとって権利の平等は空気の存在のごとく当たり前のものでしかない。 18世紀に、ある少数者たちが、すべての人間は生まれたというだけの事実によって、ある種の基本

オルテガ『大衆の反逆』(3) 「超デモクラシー」の勝利

現代とは、 大衆が社会の前景に進み出ることを決意し、かつては少数者のみのものであった施設を占領し、文明の利器を用い、楽しみを享受しようと決断した(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 19 ) そういう時代である。今や社会の至る所が人で溢(あふ)れかえっている。 近年の政治的変革は大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。かつてのデモクラシーは、かなり強度の自由主義と法に対する情熱とによって緩和されたものであった。これらの原則を遵奉(じゅんぽう)することにより、個人は自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら義務づけていた。自由主義の原則と法の規範との庇護によって、少数者は活動し生きることができた(同、 p. 20 )  20世紀における社会主義の勃興(ぼっこう)は、自由から平等へと軸足が移ったことを象徴している。が、社会主義国家建設は失敗に終わり、平等主義は社会主義から福祉主義へと看板を掛け替えた。法について言えば、現代は英米法よりも大陸法優位の状態にある。議会で制定される「制定法」が万能であるかのような考え方が広まり、議会や制定法より上位の「法の支配」が忘れ去られてしまった、あるいは、顧(かえり)みられなくなってしまった。つまり、人間およびその行為を制限するものが何もないと思うようになってしまったということである。 今日われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているのである。今や、大衆が法を持つことなく直接的に行動し、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制しているのである。(同)  「法の支配」の下、政治を行うのが<デモクラシー>というものである。が、今や<大衆>が、自らほしいまま、自らの欲求・欲望を強要する<超デモクラシー>とでも呼ぶべき時代が到来した。 今日の著述家は、自分が長年にわたって研究してきたテーマについて論文を書こうとしてペンをとる時には、そうした問題に一度も関心を持ったことのない凡庸な読者がもしその論文を読むとすれば、それは論文から何かを学ぼうという目的からではなく、実はまったくその逆に、自分がもっている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪せんがために読むのだということを銘記すべきである。(同、 p.21 )  自分の発言に責任をとるつもりのない人達が、責任を問われな

オルテガ『大衆の反逆』(2) 両面感情の存在

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オルテガは<エリート>と<大衆>を対比する。 人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越(せんえつ)な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の2つのタイプに分けることができる。第1は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第2は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが、自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標(ふひょう)のような人々である。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 pp. 17-18 )  世の中には、自ら進んで自らに困難な課題を課し、その結果に責任を負う覚悟と気概のある<エリート>と、そういった課題など与(あずか)り知らぬことと無責任を決め込む<大衆>との 2 種類の人間が存在する。 一方、哲学者カール・ヤスパースは、<民族>と<大衆>を対置する。 《民族はさまざまの秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は何か実体的質的なものであり、共通した雰囲気をもち、この民族出身の個人は、彼を支える民族の力によっても1つの個性をもっている。  これに反し大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承をももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている》(「歴史の起原と目標」:『世界の大思想 40 』(河出書房新社)重田英世訳、 p. 123 )  が、忘れてはならないのは、人は状況次第で民族的にも大衆的にも成り得る両面感情( ambivalent )の存在だということである。 《個人は、民族であると同時に大衆である。個人は彼が民族である場合と、大衆である場合とで全く別々な感情を懐くのである。状況は大衆たることを強い、人間は民族たることを固執する。例をあげて具体的に説明すると、私は大衆としては、普遍的なもの、流行、映画、単なる今日の現象を追い廻し、民族としては、具体的に生きている現実、掛け替えのな

オルテガ『大衆の反逆』(1) 「平均人」としての<大衆>

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今回は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットの主著『大衆の反逆』を取り上げる。  私がオルテガの名を知ったのは、深夜のテレビ討論番組「朝まで生テレビ」で弁舌を振るわれていた評論家の西部邁(にしべ・すすむ)氏がオルテガに倣(なら)った大衆論を展開されていたことによる。オルテガには浩瀚(こうかん)な著作があり、これらを有機的に検討できれば喜ばしいのだが、山のような著作を一向に切り崩すことが出来ていないのでそれは叶わない。よって、今回の内容が無機的なものと成らざるを得ないことをご了承頂きたく思う。 ★ ★ ★ 冒頭、オルテガは次のように言う。  そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な1つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。したがってこの事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味しているわけである。こうした危機は、歴史上すでに幾度か襲来しており、その様相も、それがもたらす結果も、またその名称も周知のところである。つまり、大衆の反逆がそれである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、 p. 11 )  <大衆>が社会的権力の座に就いた。このことをオルテガは<大衆の反逆>と呼んだ。 社会は、つねに2つのファクター(因子)、つまり、少数者と大衆のダイナミックな統一体である。少数者とは、特別の資質をそなえた個人もしくは個人の集団であり、大衆とは、特別の資質をもっていない人々の総体である。したがって、大衆といった場合、「労働大衆」のみを、あるいは主として「労働大衆」を指すものと考えられては困る。大衆とは「平均人」のことなのである。こう考えることによって、先にはまったく数量的であったもの、つまり群衆が、質的なものにかわるのである。大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者をもたぬものであり、他の人々と違わないというよりも、自己のうちに1つの普遍的な類型を繰り返すというかぎりにおいて人間なのである。(同、 p. 15 )  たくさんの人の集合体が<大衆>なので

ル・ボン『群衆心理』(20) ~漸進的自由の拘束~

昨日積み残した<個人の自由の漸進的な拘束>について検討しよう。  拘束的な法規をたえずもうけて、生活上のごく些細(ささい)な行為にも、非常に煩(わずら)わしい手続を伴わせれば、必然の結果として、人民が自由に活動できる範囲を次第に狭めることになる。法律を増加すれば、それだけよく平等と自由とが保障される、という錯覚にとらわれている諸民族は、日ましに重くなる束縛に甘んじている。  諸民族が束縛に甘んずれば、悪い結果を生ぜずにはいない。諸民族は、あらゆる束縛に堪えることに慣れて、やがては自ら束縛を求め、自発性や気力をことごとく失うにいたる。それは、もはや空虚な影法師、意志も抵抗力も力強さもない、受動的な自動人形にすぎなくなる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 pp. 264-265 )  フランス革命が「自由・平等・博愛」を旗印にしたものだから、<自由>と<平等>が両立すると誤解している人が多いのだろう。が、<自由>と<平等>は本来的に衝突するものである。<自由>を追求すれば「格差」が生じる。一方、<平等>を追求するためには<自由>は制限されねばならない。民主主義は1人1票の<平等>を旨とするものであるから、必然的に<自由>は縮退されることになる。 人民の無関心と無力とがますます募(つの)るにつれて、政府の役割は、さらに増大せずにはいなくなる。是が非でも、政府は、個人が失った創意と計画と指導との精神を持たねばならないのだ。政府が、一切を計画し、指導し、保護しなければならない。そのとき、国家は、全能の神となるのだ。しかし、このような神々の力が非常に永続きして強大であったことのないのは、経験が教えている。(同、 p. 265 )  「すべての権力は崩壊するし、絶対的権力は絶対的に崩壊する」(アクトン『自由の歴史』)のである。  ある民族にあっては、放縦(ほうじゅう)さが、あらゆる自由を所有しているかのような錯覚をひき起こすにもかかわらず、その自由は、次第に拘束されて行くのである。これは、何らかの制度から起こることであるが、またその民族の老朽さからも起こるらしく思われる。このような自由の漸進(ぜんしん)的な拘束は、これまでどんな文明もまぬかれ得なかったあの衰頽(すいたい)期を示す前兆の一つとなる(同)  平等主義の一形態たる民主主義

ル・ボン『群衆心理』(19) ~議会~

議会制度は、近代のあらゆる文明国民の理想を綜合しているのであって、それは、多数者が集合すれば、少数者の場合よりもはるかに、ある問題に関して賢明で自主的な決議ができるという、心理学的には誤っているが一般には認められている、あの思想を現わしている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 244)  多数決原理は、国民一人ひとりは同じ能力であるという嘘を前提にしたものである。が、実際は国民一人ひとりの能力は同じではない。したがって、多数者の判断が少数者の判断よりも優れているとは必ずしも言うことは出来ない。それどころか、社会の新機軸は多数者の側からではなく少数の人間の側が打ち出してきたことは明らかなことである。が、そんなことはお構いなし。多数決は絶対なのである。  意見の単純さは、議会の群衆の、非常にきわだった特徴の一つである。主としてラテン民族のあらゆる党派には、最も複雑な社会問題をも、はなはだ単純な抽象的原則や、あらゆる場合にあてはまる一般法則によって解決しようとする一定した傾向が見られる。もちろん、原則は、各党派に応じて異なるが、個々の人は、単に群衆中にあるという事実だけで、ややもすればその原則の価値を過大視して、重大な結果をもひき起こしかねないまでに、その原則を押しとおすのが常である。(同、 pp. 244-245 )  <群衆>の意見が単純であるということは、<群衆>は物事をその表層だけで判断する傾向があるということである。これは当然のことであって、深く物事を考えれば様々な見立てが生じ、<群衆>の意見が拡散してしまう。これでは<群衆>の求心力が失われてしまう。深く考えることは、<群衆>に対する「反逆」なのである。  議会の集会は、その運営にはさまざまな困難が伴うにもかかわらず、各国民が今までに発見したもののうちでは最上の政治方式であり、特に一個人の圧制の絆をできるだけまぬかれるための最上の方法となる。確かに、議会の集会は、少なくとも哲学者や思想家や文筆家や芸術家や学者、つまり、文明の頂点をなすあらゆる者にとっては、政治の理想であるにちがいない。  それに、議会の集会が呈する重大な危険といえば、2つあるだけである。すなわち、それに必然的に伴う財力の浪費と、個人の自由の漸進的な拘束とである。  第1の危険は、選挙上の群衆の要求

ル・ボン『群衆心理』(18) ~民主主義が抱える問題~

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昨日に続き民主主義が抱える問題について見ておこう。少し長文ではあるが、哲学者田中美知太郎氏の説明を引く。 《市民の徳としてすぐれたよき市民に要求されるものには、体制の如何によっていろいろな差異が出て来ると言わなければならないだろう。市民の誰でもが治者にも被治者にもなるというような民主制国家においては、市民のすべてに対してかなり高度の徳が要求されるわけであり、この要求を厳格に守るとすれば、多数の市民失格者が出て来ることにもなるだろう。不徳の市民からは市民権を剥奪して、これを奴隷か居留外人の地位に落とさなければならないだろう。この点を曖昧にしておけば、治者としては不適格な市民が治者となり、さきのアリストテレスの指摘にも見られたような腐敗が起るだろう。プラトンは民主制を理想的なものとは考えなかったから、その国家体制においては一般市民には多くを求めず、治者たる者だけに限って高度の徳を要求したのである。治者としての適格者はそう多くはないから、体制は少数精鋭者の支配ということにならねばならないのである。アリストクラシー(最優秀者の支配)がつまりそれである。アリストテレスは、さきにも引用した『政治学』第3巻4章において、 ただ一つ智の徳だけは治者に固有の徳である。すなわちこれ以外の徳は被治者にも治者にも共有されていなければならないと見られるけれども、被治者には徳としての智は属さず、異なる思いなしがあればいいということである。つまり被治者は笛をつくる者のようなものであり、治者はその笛を使って曲を奏でる者のようなものだということである( 1277b25 - 30 )。 と言っている。智(фρóvησιs)の徳は治者だけに要求されるものであって被治者には必要ではないとして、治者と被治者を区別し、それはちょうど上手に笛を吹く芸というようなものは、笛をつくる者には要求されることがないよぅなものだとしている。つまり治者の智も音楽家の芸も独自のものであって、他の人に共有されることをむしろ不要とするものなのである。いま治者たるの条件がこのようにきびしいものであり、すぐれたよき市民たる者もこの治者の能力と知識をもっていなければならないのだとすると、両親がアテナイ人であるという資格だけで市民とされるすべての市民が、そのまますぐれたよき市民となりうるものではないことは明らかである。すぐれた

ル・ボン『群衆心理』(17) ~有権者の資質が握る民主主義の成否~

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 いわゆる犯罪的群衆の一般性質は、あらゆる群衆に認められたそれと、まさしく同じものである。すなわち、暗示を受けやすいこと、物事を軽々しく信ずること、動揺しやすいこと、善悪の感情が誇張されること、ある型の徳性が現われることなどである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 210)  人々は群衆化すれば「理性」を失う。理性を失った<群衆>に犯罪者と変わらぬ特性が見られるのは当然である。  陪審員たちの感情に働きかけること、そして、あらゆる群衆に対すると同様に、議論をさしひかえるか、もしくは幼稚な推論形式のみを用いること、これが、艮き弁護人の心がけねばならないことである。陪審裁判でたびたび成功を博したので有名になったイギリスのさる弁護士が、この方法を巧みに分析した。 「その弁護人は、弁論中に陪審員を注意深く観察するのであった。好機会(チャンス)が到来するや、弁護人は、勘と習慣の力とを働かせて、陪審員の表情に、一言一句の反応を読みとり、そこから結論をひき出す。まず第一に、陪審員中の誰がすでにこちらの立場に好意をよせているかを見わけることである。弁護人は、たちまち、その陪審員を確実に味方にしてしまう。そうしてから、今度は逆に好意を持っていないと思われる人々のほうへ立ちむかって、彼等が被告に反対する理由を見ぬこうと努める。これは、この仕事中でもデリケートな箇所である。なぜならば、一人の人間の処罰を望む気持には、正義感以外にも、無数の理由が存在するかも知れないからである」(同、 pp. 220-221 )  日本もフランスを模範として「裁判員制度」を設けているが、事程左様に裁判員が敏腕弁護士によって手玉に取られているのではないかと心配される。裁判員は訓練された判事ではない。自らの良心だけにしたがって判断が下せるわけではない。周りの状況に流されてしまうのも致し方ないことである。  選挙上の群衆、すなわち、ある職務の有資格者を選ぶべき集団は、異質の群衆を構成する…とりわけ、この群衆に現われる性質は、微弱な推理力と、批判精神の欠如と、昂奮(こうふん)しやすいことと、物事を軽々しく信ずる単純さとである。またこの群衆が行う断定のうちには、指導者の影響と、さきに列挙した諸要因、すなわち、断言、反覆、威厳、感染の作用も見出される。(同、 pp. 228-

ル・ボン『群衆心理』(16) ~種族の精神とエートス~

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種族の精神が、完全に群衆の精神を支配する。種族の精神は、群衆の動揺を制限する強力な基盤である。種族の精神が強ければ強いほど、群衆の劣等な性質は、弱くなる。これが、根本法則である。群衆の状態と群衆の支配とは、野蛮状態、または野蛮状態への復帰を意味する。強固に確立された精神を獲得することによって、種族は、次第に群衆の無反省な力をまぬかれ、野蛮状態からぬけ出ることができるのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 206)  <種族の精神>とは、差し詰め古代ギリシャ語において「習慣」を意味した「エートス」という言葉と近接するもののように思われる。ドイツの社会経済学者マックス・ウェーバーは主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』の中で、キュルンベルガー『アメリカ文明の実相』の一節を引いて次のように述べている。 《この文章を通じて、われわれに教えをたれているのはベンジャミン・フランクリンである。そしてかれの口を通じて、はなはだ独創的なことばで語られているものが「資本主義の精神」であることは、たとえ、この「資本主義の精神」という語の一般的な用法にみられるすべてのものをふくんでいないにしても、だれもそれを疑うひとはいないだろう…キュルンベルガーの「アメリカ嫌い」は、この処世訓を総括して「牛からは脂肪をつくり、人からは金銭をつくる」とののしっているが、この「吝嗇(りんしょく)の哲学」に接したとき、そのいちじるしい特徴としてうけとられるのは、信用のできる誠実な人という理想であり、なかんずく、自分の資本を増大させることを自己目的と考えることが各人の義務であるという思想である。まことに、ここで教訓されている内容は、たんなる世渡りの技術などではなく、独特の「倫理」であり、これを犯すものは愚か者であるのみか、義務を怠る者と断じられており、このことがこの教訓の本質をなしている。そこでは「業務上の才智」だけが教えられているのではない。―そうしたことだけならば、ほかにもたくさんの実例があるが―ここでは一つのエ-トス〔職業倫理〕が表明されているのであり、このエートスの性格こそが、われわれの興味をそそるのである》(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」:『世界の大思想 29』(河出書房新社)、 pp. 135-136 )  ウェーバーの言う

ル・ボン『群衆心理』(15) ~模倣~

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群衆の思想、感情、感動、信念などは、細菌のそれにもひとしい激烈な感染力を具(そな)えている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 162)  <群衆>の思想や感情に強い<感染力>があるというのは明察だと思われる。<群衆>の思想や感情が世間に広まるのは、人々がそれに共感するからではない。感染するのである。 群衆を導くのは、模範(モデル)によるのであって、議論によるのではない。いずれの時代にも、少数の個人が行動を起こすと、無意識な多数者が模倣する。(同、 p. 163 )  他の論者も<模倣>という行為に注目する。歴史学者アーノルド・トインビーは、模倣を意味するギリシャ語「ミメシス」という語を用いてこれを説明している。 《文明と、われわれの知っている形での未開社会…とのあいだの一つの本質的な差異は、ミメシスの向かう方向である。ミメシスは、あらゆる社会生活に見られる、社会という類全体の特徴である。その作用は、未開社会と文明社会の別を問わず、映画ファンのスターのスタイル模倣をはじめとして、あらゆる社会活動において看取(かんしゅ)することができる。しかしながら、社会の二つの種においてミメシスは異なった方向に作用する。  われわれの知っている形での未開社会ではミメシスは年長者と、目には見えないけれども、生きている年長者の背後に立っていると感じられ、生きている年長者の威厳を強めている死せる先祖たちに向けられる。このようにミメシスが後ろ向きに過去に向けられている社会では、習慣が支配し、社会は静的状態にとどまる。これに反し、文明の過程にある社会では、ミメシスは、開拓者であるからおのずと追随者が集まってくる、創造的人物に向けられる。そのような社会では、「慣習の殻」はうち破られ、社会は変化と成長の道にそって、ダイナミックに動いてゆく》(「歴史の研究」長谷川松治訳:『世界の名著 61』(中央公論社)、p. 128) 宗教的信念が約束する幸福の理想は、来世でなければ実現されるはずはないのであるから、誰も、その実現に異議をとなえることはできない。ところが、社会主義者の幸福の理想は、現世において実現されなければならないのであるから、実現に着手されるやいなや、約束のあてにはならぬことが暴露し、そして同時に、この新たな信念は、威厳を全く失ってしまうであろう

ル・ボン『群衆心理』(14) ~指導者~

群衆の心を動かす術を心得ている弁士は、その感情に訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのである。合理的な論理の法則は、群衆には何の作用をも及ぼさない。群衆を説得するのに必要なのは、まず、群衆を活気づけている感情の何であるかを理解して、自分もその感情を共にしているふうを装い、ついで、幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかき立てて、その感情に変更を加えようと試みること、必要に応じてはあともどりもし、特に、新たに生れる感情をたえず見ぬくことである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 144)  <群衆>の扇動指南のような話である。<群衆>の活力源となっている感情を見抜き、その感情に訴えることが必要だということだ。 人間の統治に道理が参加することをあまり要求してはならない。名誉心、自己犠牲、宗教的信仰、功名心、祖国愛のような感情は、道理によらず、むしろしばしば道理に反して生れたのであって、これらの感情こそ、これまであらゆる文明の大原動力であったのである。(同、 p. 147 )  <群衆>を鼓吹(こすい)するためには、道理を説くのではなく、感情に訴えねばならないということである。  指導者は、多くの場合、思想家ではなくて、実行家であり、あまり明噺な頭脳を具(そな)えていないし、またそれを具えることはできないであろう。なぜならば、明噺な頭脳は、概して人を懐疑と非行動へ導くからである。指導者は、特に狂気とすれすれのところにいる興奮した人や、半狂人のなかから輩出する。(同、 p. 151 )  欧州であれば矢張りヒトラーということになろうが、私には小泉純一郎が真っ先に思い浮かぶ。 彼等の擁護する思想や、その追求する目的が、どんなに不条理であろうとも、その確信に対しては、どんな議論の鋭鋒(えいほう)もくじけてしまう。軽蔑も迫害も、かえって指導者をいっそう奮起させるだけである。一身の利益も家庭も、一切が犠牲にされている。指導者にあっては、保存本能すら消えうせて、遂には、殉教ということが、しばしば彼等の求める唯一の報酬となるのだ。強烈な信仰が、大きな暗示力を彼等の言葉に与える。常に大衆は、強固な意志を具えた人間の言葉に傾聴するものである。群衆中の個人は、全く意志を失って、それを具えている者のほうへ本能的に向うのである。(同、

ル・ボン『群衆心理』(13) ~幻想~

恐らく幻想は、はかない影にすぎないではあろう。しかし、われわれの夢の所産であるこの幻想が、諸民族にかつて壮麗な芸術と偉大な文明とをもたらすあらゆるものを創造せしめたのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 139)  <幻想>とは、「現実にはないことをあるかのように心に思い描くこと」である。が、「有り得ない」と思われることを<幻想>することなしに社会の進歩がなかったこともまた事実であろう。その時点で区切れば「有り得ない」と思われることは<幻想>と呼ばれて致し方ないけれども、時代が下ってその<幻想>が「現実」となればこそ文化が振興されるのである。  前世紀の哲学者たちは、幾世紀ものあいだわれわれの父祖たちが生存のよりどころとしてきた宗教上、政治上、社会上の幻想を打破することに、熱心に身をささげた。哲学者たちは、それらを打破することによって、希望と忍従との源泉をも涸渇(こかつ)させてしまったのである。そして、抹殺されたまぼろしの背後に、人間の弱さに対して峻厳(しゅんげん)で、憐憫(れんびん)を知らぬ盲目的な自然力を発見したのである。(同、 p. 140 )  <幻想>は、それ自体が「悪」なのではない。<幻想>を振り回そうとするから「悪」が生まれるのである。<幻想>をどのように扱うのかが重要なのである。  <幻想>の中には「時」と「処」を変えれば立派に芽が出るものも含まれているだろう。夢が現実となればこそ社会は豊かになってきた。にもかかわらず、今現在で切って、<幻想>と考えられるものをすべて悪しきものとして排除しようとするのは社会発展の芽を摘むことになってしまうに違いない。  否、それよりも、非現実的<幻想>は、人間が厳しい現実に晒(さら)されることから保護してくれているということも忘れてはならないだろう。<幻想>を排除すれば、人は現実に直面することになる。それに耐えられないからこそ<幻想>が存在してきたのである。 これまで、民族進化の大きな原動力は、真実ではなくて、誤謬(ごびゅう)であった。今日、社会主義が、その勢力を加えつつあるのは、それが、今なお活気のある唯一の幻想にほかならぬからである。(同、 pp. 140-141 )  ガリレオ・ガリレイが唱えた「地動説」は当時<誤謬>であった。その後、「地動説」の正しさが証明

ル・ボン『群衆心理』(12) ~言葉~

言葉というものは、時代により民族によって変化する、移動しやすい一時的な意味を持つにすぎないのである。言葉によって群衆に働きかけようとするときには、その言葉が、ある時期の群衆に対して、どんな意味を持っているかを知らねばならないのであって、その言葉のかつての意味や、群衆とは異なる精神構造を持つ個人に通用する意味などは、知る必要がないのである。言葉というものは、思想と同様に、生きているものなのだ。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 134-135)  たくさん言葉を並べても心を打たなければ人は動かない。つまり、「時処位」(TPO)に適(かな)った言葉選びが何よりも大切だということだ。つまりは、共鳴・共感を呼ぶ言葉を見付けられるか否かが人を動かす鍵となるということである。 政治上の大動乱や、信念の変化の結果、群衆が、ある言葉によって呼び起こされる心象に対して、ついに非常な反感を示すようになるときには、真の政治家たる者の第一の義務は、もちろん事物そのものには修正を加えずに、その言葉を変更することである。この事物そのものは、過去伝来の組織と密接に結びついているから、それを改めることはできない。あの明敏なトックヴィルが指摘していることであるが、統領政治や帝政の事業は、とりわけ過去の制度の大部分を新たな言葉で装うこと、従って、人の想像に不快な心象を呼び起こす言葉のかわりに、斬新さのためにそういう心象を呼び起こすことのない他の言葉を用いることであった。(同、 p. 135 )  歴史で言えば、「史実」は変えられないけれども、「名称」は変えられるということだ。例えば、戦前は「支那事変」と呼んでいたものが今では「日中戦争」などと呼ばれている。また、見る距離や角度が変われば「史実」の印象も変わってくる。さらに「歴史解釈」に至っては、人それぞれ千差万別である。要は、立ち位置がどこにあるかで、話ががらっと変わってしまうということだ。 政治家の最も肝要な職責の一つは、古い名称のままでは群衆に嫌悪される事物を、気うけのよい言葉、いや少なくとも偏頗(へんぱ)のない言葉で呼ぶことにある。言葉の力は、実に偉大であるから、用語を巧みに選択しさえすれば、最もいまわしいものでも受けいれさせることができるほどである。ジャコバン派が、「ダオメーにも劣らない専制政治をしき、宗

ル・ボン『群衆心理』(11) ~教育論~

 現代の有力な思想のうちで第一位を占めるのは…教育は、人間を改良し、かつ人間を平等化するにも、確実な効果をあげることができる、というのである。この主張は、単にくりかえし唱道されたという事実だけで、遂に、民主主義の最もゆるぎない教義の一つとなってしまった…しかし、多くの他の点におけると同様に、この点についても、民主主義思想は、心理学や経験の教える事実とは、大いにくいちがっている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 113-114)  <教育>は偏頗(へんぱ)な思想を刷り込む場と成り下がってしまった。「啓蒙(けいもう)」と称して合理主義へと傾き、平等を旨(むね)として自由に制限を掛ける。社会は合理と平等で成り立っているのではない。経験と合理、自由と平等の間で平衡をとりつつ秩序を保っているのである。が、教育は現実に非を鳴らし、自分勝手な理想を押し付けることに躍起である。現実が変わらないことに苛(いら)立ち、ますます理想の刷り込みを先鋭化させる、それが教育現場に見られる光景なのである。 教育が人間をいっそう道徳的にもいっそう幸福にもせず、人間の遺伝的な情欲や本能を改めず、しかも指導を誤れば、教育が有益となるよりもむしろ大いに有害となりかねない(同、 p. 114 )  地に足の着かぬ理想教育、すなわち、現実と理想の平衡感覚を喪失した偏向教育が有害無益に陥るであろうことは想像に難くない。 わが国現在の教育法が、それを受けた多数の人間を社会の敵に変じ、最悪な形態の社会主義のために多くの追随者を募っていることを示した。  この教育法…の第一の危険は、心理学上の根本的な誤謬(ごびゅう)にもとづいていることなのである。すなわち、それは、教科書の暗唱が知力を発達させると信じこんでいることである。そこで、人々は、できるかぎり教科書をおぼえようと努める。そして、青年は、小学校から博士の学位や教授資格を得るまで、ただ教科書の内容を鵜呑みにするだけで、決して自分の判断力や創意を働かせないのである。青年にとって、教育とは、暗唱と服従とを意味する。(同、 p. 115 )  戦後日本の教育がこのフランスの過誤の後追いになってしまっていないか検証が必要であろう。教師側で言えば、教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのだということを再確認すべき

ル・ボン『群衆心理』(10) ~法は創るのではなく発見するもの~

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ル・ボンは、  制度が社会の欠陥を正し得るとか、民族の進歩が憲法や政体の改良に起因するとか、また、社会上の変化がたびたびの法令によって行われるという考え(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 p. 107 ) は<妄想>だと言う。 制度が、思想や感情や習慣から生れた結果であって、法規を改めることによって、思想や感情や習慣を改められない(同、 p. 108 ) ことは言うまでもない。<思想や感情や習慣>が先にあり、後から<制度>は出来る。逆はない。憲法もまた同じである。 憲法をつくりあげることに時間を浪費するのは、児戯(じぎ)に類する業(ごう)で、修辞家の役にも立たぬ演習にひとしい。必要と時、この二つの要因を自由に働かせるときに、それらが、憲法をしあげる役目を引き受ける。(同、 p. 109 )  良い憲法を作れば明るい未来が開けるなどと考えるのは<児戯に類する業>であり只の<妄想>である。哲人ハイエクは言う。 there can be no doubt that law existed for ages before it occurred to man that he could make or alter it. The belief that he could do so appeared hardly earlier than in classical Greece and even then only to be submerged again and to reappear and gradually gain wider acceptance in the later Middle Ages. In the form in which it is now widely held, however, namely that all law is, can be, and ought to be, the product of the free invention of a legislator, it is factually false, an erroneous product of that constructivist rationalism ― F. A. Hayek, LAW, LEGISLATION

ル・ボン『群衆心理』(9) ~時~

民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 103)  今ある<制度>を破壊すれば、自動的に新たな<制度>が生まれるわけではない。一から努力して新たな<制度>を作らなければならないのである。が、たとえ新たな<制度>が出来たとしても、その<制度>が前の<制度>よりも優れている保証はどこにもない。  さらに、今ある<制度>が破壊されれば、新たな<制度>が出来るまでの間、社会の秩序は失われ混乱を来(きた)す。それを避けようとすれば、今ある<制度>を徐々に変えていくしかない。だから、今ある<制度>を保持するにあたって、何をどう改めるのかを考え続けることが重要となるのである。 われわれの魂のなかに君臨する眼に見えぬ支配者である伝統は、どんな人為の力からもまぬかれて、ただ、幾世紀にもわたる緩慢な消耗作用に屈するだけである。(同、 p. 104 )  実に保守的な考え方である。  時は、群衆の意見や信念を準備し、つまり、それらが発生する地盤を用意する。その結果、ある時代には実現できる思想が、他の時代にはもはや実現できないということになる。時は、信念や意見の厖大な残片をたくわえ、その上に時代の思想が生れるのである。この思想は、行き当りばったりに、でたらめに発生するのではない。その根元は、永い過去のうちにひそんでいる。この思想が開花するときには、時が、その出現をすでに用意していたのである。従って、思想の発生を理解するには、常に過去へさかのぼらねばならない。ある時代の思想は、過去の娘であり、未来の母であって、常に時の奴隷である。(同、 p. 106 )  「過去があるから今がある」。この時間感覚を持つか否かで考え方が大きく異なってくる。革命は過去を顧(かえり)みない。だから出たとこ勝負にしかならない。  今を破壊しても新たな今が生まれるだけである。今を生み出す過去は変えられないし変わらない。革命家はそれに気付かない。  今をよく生きるためには清濁(せいだく)併せ持つ過去をしっかり理解することが必要である。歴史に刻まれた民族の記憶に学ぶことである。 時こそは、われわれの真の支配者である。そして、あらゆる事象の変化を見るには、時の力を自由に働かせればよい。今

ル・ボン『群衆心理』(8) ~伝統~

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 民族を真に導くものは、伝統である。そして、私が幾度もくりかえし述べたとおり、民族が容易に変化させるのは、伝統の外形のみである。伝統がなければ、つまり、国民精神がなければ、どんな文明もあり得ない(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 102)  少し訳文が気になったので、原文をフランス語→英語→日本語の順で翻訳ソフトにかけてみた(フランス語→日本語では対応関係がよく分からないので、英語で橋渡しした)。 【フランス語】Ce qui conduit les hommes, surtout lorsqu'ils sont en foule, ce sont les traditions ; et, comme je l'ai répété bien des fois, ils n'en changent facilement que les noms, les formes extérieures. Il n'est pas à regretter qu'il en soit ainsi. Sans traditions, il n'y a ni âme nationale, ni civilisation possibles. Aussi les deux grandes occupations de l'homme depuis qu'il existe ont-elles été de se créer un réseau de traditions, puis de tâcher de les détruire lorsque leurs effets bienfaisants se sont usés. Sans les traditions, pas de civilisation; sans la lente élimination de ces traditions, pas de progrès. La difficulté est de trouver un juste équilibre entre la stabilité et la variabilité ; et cette difficulté est immense. 【英語】What dri

ル・ボン『群衆心理』(7) ~独裁者の心得~

 思想が群衆の精神に固定されるのに長い期間を要するにしても、その思想がそこから脱するにも、やはり相当の時日が必要である。従って、群衆は、思想の点からいえば、常に学者や哲学者より数代もおくれている。今日、為政者たちはすべて、今あげたような、根本的思想に含まれる誤謬(ごびゅう)を知りながらも、その思想の勢力が今なおすこぶる強いために、彼等自身では真理とは信じなくなっている原則に従って、政治を行わざるを得ないのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 79)  私はこのような考え方に与(くみ)しない。学者や哲学者が示す思想は決して無謬(むびゅう)ではない。それどころか、おかしな思想は幾らでもある。したがって、思想の真偽を見極め、見定めるために時間が掛かり、慎重になるのは当たり前のことである。また、為政者だけが先んじて、<群衆>が気付いていない根本的思想の誤りを理解しているかのように言うのも間違いであろう。それは余りにも軽率であるし、傲慢な考え方と言わざるを得ない。 民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現われ方なのである。それらの事実が―こういっていいならば―いわば凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺戟する術(すべ)を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである。(同、 p. 86 )  これはまさに<群衆>を支配するための心得(こころえ)である。民衆の想像力を動かすのは<事実>ではなく<事実の現われ方>だという指摘は悪魔的である。 群衆は、推理せず、思想を大雑把に受けいれるか斥(しりぞ)けるかして、論議も反駁(はんばく)もゆるさず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変る傾向を有する(同、 p. 88 ) 適度の暗示を受けた群衆は、彼等に暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にする(同、 p. 88 ) 群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感は生れるやいなや憎悪に変る。(同、 p. 88 ) 優越者と目される人物に対する崇拝心、その人物が有すると思われる権力に対する畏敬の念、彼の命令に対する盲目的服従、彼の説く教義を論議することの不可能なこと、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒

ル・ボン『群衆心理』(6) ~不易流行~

 群衆は、殺人、放火をはじめ、あらゆる種類の犯罪を演じかねないが、また、単独の個人がなし得るよりもはるかに高度の、犠牲的な、無私無欲な行為をも行い得るのである。光栄とか名誉とか宗教とか祖国とかに対する感情にうったえれば、とりわけ群衆中の個人は動かされる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 69)  これは独裁者から見て「<群衆>は使いよう」とも受け取れるやや怪しげな指摘である。事実、『群衆心理』はヒトラーの愛読書であったともされている。 低級な本能にしばしば身を任せる群衆は、ときには、高尚な道徳行為の模範を示すこともある。無私無欲、諦め、架空のまたは現実的な理想への絶対的な献身などが、道徳上の美点であるならば、群衆は、最も聡明な哲人でもめったに到達できなかった程度に、これらの美徳を往々所有するものであるといえる。(同、 p. 71 )  成程、一見<無私無欲>、<諦め>、<献身>といったものは<道徳上の美点>にも見える。が、<群衆>が恬淡(てんたん)とし、諦念的、献身的であるとすれば、独裁者にとってはこれほど都合の良い事はない。そこに民主主義がともすれば独裁者を生み出してしまう弱さ・怖さがある。  この(群衆に受けいれられやすい)思想は、2つの部類にわけることができる。第1の部類には、そのときどきの影響を受けて発生する偶発的な、一時的な思想を入れよう。これは、例えば、ある個人、またはある主義に対する心酔のごときものである。もう1つの部類には、環境、遺伝、世論などによって非常に強固なものとなる根本的思想を入れよう。これは、かつての宗教思想、今日の民主主義社会思想のごときものである。  根本的思想とは、おもむろに流れつづける河の水全体にもたとえられようし、一時的思想とは、たえず変化して、河面をかき乱すさざ波、実際には重要なものではないが、河自体の進行よりも人の眼につきやすいさざ波にもたとえられよう。(同、pp. 74-75)  これには「蕉風(しょうふう)俳諧理念」が一つの参考となろう。 《俳諧には不易(永遠に変わらぬ本質的な感動)と流行(ときどき新味を求めて移り変わるもの)とがあるが、不易の中に流行を取り入れていくことが不易の本質であり、また、そのようにして流行が永遠性を獲得したものが不易であるから、不易と流行は同一で

ル・ボン『群衆心理』(5) ~徳性~

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 徳性という語に、ある種の社会的因襲をたえず尊重するという意味と、利己的な衝動を常に抑制するという意味とを結びつけるならば、群衆は、あまりにも衝動的で、動揺しやすいから、徳性を持ち得ないのは、いうまでもない。しかし、この言葉のうちに、自己放棄、献身、無私無欲、自己犠牲、公正さへの要求などのような、ある性質の一時的な発現をも包含させるならば、かえって往々群衆は、非常に高度の徳性を発揮し得るということができる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 68)  <徳性>を有していないところもあれば有しているところもあるという<群衆>に見られる二面性の指摘は興味深い。が、ここで先に考えるべきは、そもそも<徳性>とは何かということであろう。参考になるのがプラトン『メノン』におけるソクラテスとメノンの対話である。 メノン 人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることのできるものであるか。それとも、それは教えられることはできずに、訓練によって身につけられるものであるか。それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなくて、人間に徳がそなわるのは、生まれつきの素質、ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか……。(「メノン」:『プラトン全集 9』(岩波書店)藤沢令夫訳: 70 ) とメノンが問うたのに対し、ソクラテスは「君がこの土地の誰かをつかまえて、いまのような問をかけるつもりになってみれば…誰でもわらって、こう答えるだろう」と言う。 ソクラテス 「客人、どうやら君には、ぼくが何か特別恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか、それともどんな仕方でそなわるものなのか、そんなことを知っていると思ってくれるとは! だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ」。  かく言うぼく自身にしても、メノン、同じことだ。この問題に関するぼくの知恵は、同市民たちの御多分にもれず貧困であって、徳についてぜんぜん何も知らないことを、自分自身に対して非難している状態なのだ。(同、 71-71B )  そしてソクラテスが知っているのなら教えて欲しいと言うので、メノンは、 メノン まず、男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力