ル・ボン『群衆心理』(16) ~種族の精神とエートス~

種族の精神が、完全に群衆の精神を支配する。種族の精神は、群衆の動揺を制限する強力な基盤である。種族の精神が強ければ強いほど、群衆の劣等な性質は、弱くなる。これが、根本法則である。群衆の状態と群衆の支配とは、野蛮状態、または野蛮状態への復帰を意味する。強固に確立された精神を獲得することによって、種族は、次第に群衆の無反省な力をまぬかれ、野蛮状態からぬけ出ることができるのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 206)

 <種族の精神>とは、差し詰め古代ギリシャ語において「習慣」を意味した「エートス」という言葉と近接するもののように思われる。ドイツの社会経済学者マックス・ウェーバーは主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』の中で、キュルンベルガー『アメリカ文明の実相』の一節を引いて次のように述べている。

《この文章を通じて、われわれに教えをたれているのはベンジャミン・フランクリンである。そしてかれの口を通じて、はなはだ独創的なことばで語られているものが「資本主義の精神」であることは、たとえ、この「資本主義の精神」という語の一般的な用法にみられるすべてのものをふくんでいないにしても、だれもそれを疑うひとはいないだろう…キュルンベルガーの「アメリカ嫌い」は、この処世訓を総括して「牛からは脂肪をつくり、人からは金銭をつくる」とののしっているが、この「吝嗇(りんしょく)の哲学」に接したとき、そのいちじるしい特徴としてうけとられるのは、信用のできる誠実な人という理想であり、なかんずく、自分の資本を増大させることを自己目的と考えることが各人の義務であるという思想である。まことに、ここで教訓されている内容は、たんなる世渡りの技術などではなく、独特の「倫理」であり、これを犯すものは愚か者であるのみか、義務を怠る者と断じられており、このことがこの教訓の本質をなしている。そこでは「業務上の才智」だけが教えられているのではない。―そうしたことだけならば、ほかにもたくさんの実例があるが―ここでは一つのエ-トス〔職業倫理〕が表明されているのであり、このエートスの性格こそが、われわれの興味をそそるのである》(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」:『世界の大思想 29』(河出書房新社)、pp. 135-136


 ウェーバーの言う<エートス>が具体的に何を意味するのかは今日の主題ではない。よってこの件はいずれ機会を改めて考えることとしようと思う。

 ところで、<種族の精神>も<エートス>も時間の積み重ねによって出来たものであろう。「民族性」と言ってもよいだろう。いずれにせよ、ル・ボンが出来事の底流に時間軸を置いていることが分かる。時間軸を見ない「革命」は河面(かおも)の「小波(さざなみ)」に過ぎない。熱狂が覚めれば人々は自然な姿に戻る。そして<種族の精神>を取り戻すのである。

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