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オークショット『政治における合理主義』(21)【最終】 合理主義者の道徳

合理主義者の道徳は、道徳的理想を自覚的に追求する道徳であり、適切な形態の道徳教育とは、教戒つまり道徳諸原理の呈示と説明によるものである。これは、習慣の道徳、つまり道徳行動の伝統に無意識に従うことよりも高い道徳(自由人の道徳――人気取りのはったり言葉にはきりがない)であるとみなされるが、実際にはそれは、技術におとしめられた道徳であり、行動の教育ではなくむしろイデオロギーの訓練により獲得されるものなのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 35-36)  道徳を合理的に学ぶなどということなど出来るはずがない。求められる道徳とは優れて実践的なものであり、大いに状況に依存するものであるから定型化は出来ない。合理主義的道徳は、状況を無視し、手引書に従うことを要請する。が、例えば、「戦争は悪だ」と言ったところで戦争は無くならない。確かに、戦争は悪である。が、実際に戦争がなくならないのは、抽象的世界の善悪で現実世界は動かないからである。 他のすべてのものでと同じく、合理主義者は道徳において、相続した無知を捨て去ることから始め、この空の精神の何もない空白を、自分の個人的経験から彼が抽象し人類共通の「理性」によって是認されると彼が信じるあれこれの確実な知によって埋めることをめざす。彼はこれらの原理を議論によって擁護し、それらは(道徳的に貧弱ではあるが)整合的な信条を構成するだろう。(同、 p. 36 )  善悪が峻別しきれていない従来の「灰色塗(まみ)れの道徳」を捨て、空白となったところに善悪が明瞭となった偏頗(へんぱ)な「信条」( ideology )を注ぎ込む。そうやって実践的対応を欠く、頭でっかちな人間が生み出される。 合理主義者の道徳…は、自作の人間の道徳、自作の社会の道徳であり、それは、他の諸民族が「偶像崇拝」と考えたものなのである。そして、今日彼を鼓舞する(そしてもし彼が政治家なら、彼が説く)道徳イデオロギーが、実際はかつてある貴族階級の無自覚の道徳的伝統であったものの干乾びた名残だということは、重要性をもたない。(同)  合理主義者の道徳とは、実際には役に立たぬ、死した「綺麗事」に過ぎない。 合理主義者にとって唯一問題なのは、彼がついに行動習慣という不純物から理想という鉱石を分離した、ということである。そして...

オークショット『政治における合理主義』(20) 合理主義的傾向に染まった社会

すでに大幅に合理主義的傾向に染まった社会においては、この種の訓練に対する積極的な需要があろう。(それが技術の側の半分であるかぎり)半知は経済的価値をもつことになろう。最新の趣向を思うままに操れる「訓練された」精神のための市場ができるだろう。そして、この需要が満足させられるだろうという予想も、当然にすぎない。それにふさわしい本が書かれて大量に販売され、この種の(一般的なまたは特定の活動についての)訓練を提供する様々の機関が、出現するだろう。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 34)  今の日本における教育改革は、まさにこの状態にある。<教養>を蔑(ないがし)ろにし、<技術>習得に舵を切る。その典型が英語教育である。日本で中高 6 年掛けて英語を習っても話せないのはおかしいということで、英語が話せるようになるための改革が進行中である。が、良く考えて欲しい。果たして日本社会に英会話は必要なのか。  今のみならず恐らく今後も日本において英語を話す必要はないだろう。英会話は1つの<技術>である。一方、これまでの英語教育は英語を読み書くことを中心に据えた<教養>学習であった。英語教養教育を破壊してしまったことの付けは決して小さくはない。 重大なのは、合理主義のインスビレーションが、今や我々の社会の本来の教育設備や制度を侵し、それを堕落させ始めた、ということである。これまで(単なる技術知と区別される)本物の知を伝えてきた方法と手段のいくつかはすでに消え失せ、他のものもやはり、内側からの堕落の途中にある。我々の時代の環境からの圧力はすべて、この方向に向かうものである。(同)  <技術>を習得すれば格好は付く。が、それだけである。そこには「感受性」( sensitivity )もなければ「創造性」( creativity )もない。詰まり、「発展性」がない。それは「機械労働」と同じである。 徒弟制度、つまり技術を教えながら、教えることのできない種類の知をも伝える師匠の傍(そば)で仕事に励む弟子たちもまだ消え失せてはいないが、それは時代遅れであり、様々の技術の学校に取って替わられつつある。後者での訓練は、(技術のみの訓練でしかありえないから)実践という酸に浸けるまでは溶解しないままなのだが。ここでもやはり専門職の教育は、ますますある技...

オークショット『政治における合理主義』(19) 政治における合理主義とは精神の腐敗

Rationalism in politics … involves an identifiable error, a misconception with regard to the nature of human knowledge, which amounts to a corruption of the mind. And consequently it is without the power to correct its own short-comings; it has no homeopathic quality; you cannot escape its errors by becoming more sincerely or more profoundly rationalistic. – Michael Oakeshott, Rationalism in politics (政治における合理主義とは…精神の腐敗に等しい、特定可能な錯誤、人間の知の本質に対する誤解を伴っている。そしてそれ故に、自らの欠点を修正する力がない。ホメオパシーの性質を持たない。さらに心から深く合理主義的になっても、その誤りから逃れることは出来ないのである)  合理主義の誤りとは、合理主義に内在するものであって、いくら合理主義を追求しても、誤りから逃れることは出来ないということである。 これは、本によって生きることの罰の1つだと見うるかも知れない。それは様々な個々の誤りへと導くだけでなく、精神そのものを干乾びさせもする。教条によって生きることは、遂には知的不正直を生じさせるからである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 32 )  どうしても誤りから逃れることが出来なければ、誤りが誤りでないと自己を欺(あざむ)くしか術(すべ)はない。 そしてさらに合理主義者は、彼の誤りを正すことのできる唯一の外的インスピレーションを、まえもって拒否してしまった。彼は、自分を救ってくれる種類の知を無視するだけでなく、それをまず破壊することから始めるのである。まず電灯を消してから、見えないじゃないか、つまり「1人で闇の中を歩む人のよう」だと文句を言う。要するに、合理主義者は本質的に教育不能なのであり、できるとすれば、彼が人類の大敵だとみな...

オークショット『政治における合理主義』(18) 白黒思考

デカルトの 《いくたりもの棟梁(とうりょう)の手でいろいろと寄せ集められた仕事には、多くはただひとりで苦労したものに見られるほどの出来ばえは無い》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 p. 22 ) という心像は、百年余りの時を経て、米国建国の父の一人と称されるジョン・ジェイによってなぞられることとなった。 The Americans are the first people whom Heaven has favoured with an opportunity of deliberating upon, and choosing the forms of government under which they should live. All other constitutions have derived their existence from violence or accidental circumstances, and are therefore probably more distant from their perfection, which, though beyond our reach, may nevertheless be approached under the guidance of reason and experience. -- John Jay,  Charge to the Grand Jury of Ulster County (1777) (米国人は、自分たちが暮らすべき政治形態を熟慮し、選択する機会を天が初めて与えてくれた人民である。他の全ての憲法は、暴力や偶発的な状況から生まれたものであり、したがって、手の届かぬものなれど、理性と経験の導きの下、近付くやもしれぬ完成の域に達したものからは懸け離れたものだ)――アルスター郡大陪審への告発 独立宣言は、合理主義の世紀( saeculum rationalisticum )の特徴的な産物である。それは、イデオロギーの助けを借りて解釈された知覚されるニーズの政治を表現している。そしてそれが、合理主義の政治の聖典の1つとなり、類似のフランス革命の文書と共に、その後の多くの社会の合理主義的再構成の冒険へのインスビレーションと範型となったの...

オークショット『政治における合理主義』(17) 合衆国建国

革命のずっと以前から、アメリカ入植者たちの精神傾向、つまり支配的な知的性格と政治習慣は、合理主義的であった。そしてこのことは、憲法関係の諸文書と個々の植民地の歴史に、明確に反映されている。また、これら各植民地が「それらを相互に結び付けていた政治的靭帯を解」いて、各々の独立を宣言するに至った時、この政治習慣が外部から受け取った唯一の新鮮なインスピレーションは、その土着の性格をあらゆる点で再確認するものであった。なぜなら、ジェファーソンや他のアメリカ独立を基礎づけた人たちのインスビレーションは、ロックがイギリスの政治的伝統から蒸留したイデオロギーだったからである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 28) Sect. 4. To understand political power right, and derive it from its original, we must consider, what state all men are naturally in, and that is, a state of perfect freedom to order their actions, and dispose of their possessions and persons, as they think fit, within the bounds of the law of nature, without asking leave, or depending upon the will of any other man. A state also of equality, wherein all the power and jurisdiction is reciprocal, no one having more than another – John Locke, Second Treatise of Government (政治権力を正しく理解し、その原点から導き出すためには、すべての人間が本来どのような状態にあるのか、すなわち、自然の法則の範囲内で、他の人間の許可を求めたり、その意思に依存したりすることなく、自らの行動を命じ、自分の所有物や人物を自分の思うままに処分する完全に自由な状態を考えねばならない。また、す...

オークショット『政治における合理主義』(16) 共産主義と米国

権威に関する限り、この分野でマルクスとエンゲルスの作品に比肩(ひけん)するものはない。この2人の著述家がいなくとも、ヨーロッパ政治はやはり合理主義に深く関わっていたであろうが、疑いもなく彼らは、我々の政治的合理主義のうち最も驚嘆すべきものの著者である。さもありなん。というのも、それは、政治権力をふるうという幻想をもつに至った他のどんな階級よりも政治的教養に乏しい階級の教化のために書かれたのだから。だから、この全ての政治的クリップの中の最大のものが、そのために書かれた者たちによって学ばれ使われる際の機械的やり方に、けちをつけることはできないのである。他のどんな技術もこれほど、それが具体的な知であるかのようにして世に登場しなかったし、誰もこれほど広範に、その技術以外失うもののない知的プロレタリアートを生み出しはしなかった。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 27)  マルクスやエンゲルスが著(あらわ)したことは、安直な政治の「虎の巻」( crib )だったということである。世の中をマルクス・エンゲルスの教義に従って技術的に管理すれば、共産主義の「バラ色の世界」が開かれる、などということなど普通に考えれば有り得ない。そんな有り得ないことに、正義感が強いが政治経験のない素人がコロッと騙(だま)されてしまった。が、ソ連邦が崩壊したことによって、それが幻想であったことが明らかとなったのであった。  次は、米国である。  アメリカ合衆国の初期の歴史は、合理主義の政治の教訓に満ちた1章である。(同)  米国は、英国の伝統を嫌って新大陸へ入植した人達の国であるから、初めから<合理主義>的傾向が強かった。 アメリカ独立の基礎を築いた人々は、頼るべきものとして、ヨーロッパの思想伝統と土着の習慣や経験との双方をもっていた。しかし実際のところは、(哲学と宗教の双方につき)ヨーロッパからアメリカへの知的贈物は、初めから圧倒的に合理主義的であったし、土着の政治習慣は、植民地化の環境の下で生み出されたものであって、自然で素朴な合理主義とでもいうべきものであった。 自分たちが実際に受け継いだ種々の行動習慣について反省する能力もあまりなく、フロンティアのコミュニティーで相互の合意により自分たちで法と秩序を設立する経験を常にしていた単純で控え目な人々に...

オークショット『政治における合理主義』(15) 合理主義の政治は政治経験未熟者の政治

 全て今日の政治は合理主義に深く感染している、ということを否定できるのは、この感染に別の名を与えるのを選ぶ者たちのみである。我々の政治的悪徳が合理主義的であるだけでなく、我々の政治的徳もまた、そうなのである。様々な我々のプロジェクトは主に、目的も性格も合理主義的であるが、もっと重要なことに、政治における我々の精神的態度全体も、同様にして決定されるのである。 特にイギリスにおいて、合理主義の圧力に対して何らかの抵抗を続けると期待されるかも知れない伝統的諸要素は、今やほとんど完全に支配的な知的趨勢に順応し、この順応をそれらの活力、時代と共に動いてゆくそれらの能力の印だとみなしさえしているのである。 合理主義は、政治のスタイルの1つであることを止め、全ての尊敬に値する政治にとってのスタイル上の特徴となったのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 20-21)  現代政治のすべてが合理主義に深く染まっている。政治の悪徳のみならず美徳さえも合理主義が生み出したものである。合理主義が蔓延した現代政治において、伝統などの非合理的なものは存在する場すらない。かつては1つの流儀流派に過ぎなかった合理主義が、合理主義的でない政治は政治でないというところにまで上り詰めてしまっているのである。 The well-established hereditary ruler, educated in a tradition and heir to a long family experience, seemed to be well enough equipped for the position he occupied; his politics might be improved by a correspondence course in technique, but in general he knew how to behave. But with the new ruler, who brought to his task only the qualities which had enabled him to gain political power and who learnt nothing easily but the vices o...

オークショット『政治における合理主義』(14) パスカルのデカルト批判

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パスカルはデカルトに対する明敏な批判者であり、全ての点でそうしたわけではないが、基本的な論点でデカルトに反対した。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 20 ) 76 必要以上に深い知識を求めようとする人々に反対して書くこと。デカルト。 77 わたしは、デカルトをゆるすことができない。かれは、その哲学全体の中で、できれば神なんかはなしですまお(→し)たいと、思ったことであろう。しかし、世界に動きを与えるためには、神に指でひとはじきしてもらわずにはいられなかった。そのあとでは、もう神なんかに用はなかったのだ。 ――パスカル『パンセ』(角川書店)田辺保訳、 p.72-73  このように神をご都合主義で扱う「理神論者」デカルトがパスカルには許せない。 彼はまず、確実な知に対するデカルト的願望は、確実性についての誤った基準に基づいていること、を認めた。デカルトは、疑い得ないほどに確かなことから出発せねばならず、その結果、全ての真正な知は技術知であると信じるようになった。パスカルは、蓋然(がいぜん)性についての彼の信条によって、この結論を回避した。唯一確実な知は、その部分性のために確実なのである。ここには、蓋然的な知の方が確実な知よりも真理全体の内の多くを含むというパラドックスがある。(オークショット、同)  <確実な知>とは、疑わしいという理由で削ぎ落された結果残った「氷山の一角」であり、全体からみれば<真理>の極一部に過ぎず、大半の<真理>が捨てられてしまっているということである。 第2にパスカルは、どんな具体的活動においてもデカルト的推論がそこに含まれる知の源泉の全部では決してない、ことを認めた。彼が言うところでは、人間精神は、成功裡に機能するために、定式化された自覚的技術に全面的に依存することはできないのであって、技術が関係する場合でさえ、精神はその技術に「暗黙に、自然に、わざとでなく」従うのである。(同) 78 無用で、不確実なデカルト。 79 〔デカルト――概略的に話をすべきなのだ。「これは、かたちと運動からでき上がっている」というふうに。そう言えば、正しいのだ。しかし、かたちや運動がどんなだかまで言い、機械の仕組みを述べるのは、それこそこっけいである。そういうことは、役にも立たず、不確実で、厄介...

オークショット『政治における合理主義』(13) 棒大なる針小

合理主義的性格は、ベーコンの希望の誇張とデカルトの懐疑の無視とから生じていると見てよいかも知れない。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 18 )  合理主義が、たとえ意に反した形で独り歩きすることになったのだとしても、ベーコンとデカルトがその先鞭を付けたのは間違いない。 現代合理主義は、凡庸な精神が洞察力と非凡の才に恵まれた者達のインスピレーションから作り出したものなのである。偉人達は、弱い人々に反省して考えることを教えたために、彼らを誤りの道に引き込んだ。しかし合理主義の歴史は、この新しい知的性格の漸進(ぜんしん)的な出現と確定の歴史であるだけでなく、それはまた、技術至上の信条が知的活動のあらゆる分野を席巻して行く歴史でもある。デカルトは決してデカルト主義にはならなかった。(同)  技術至上主義が世の中を席巻する時代、我々はそういった時代を生きている。が、それは技術では割り切れないものが捨て置かれる時代でもある。 17世紀には「思考術( L'art de penser )」であったものが、今や、あなたの頭脳とその使い方、通常の費用のほんの一部しかかからぬ世界的に有名な専門家達が立てた思考訓練プラン、になったのである。生活の仕方であったものが、成功のテクニックになり、教育に対する初期のもっと穏やかな技術至上の侵入は、ベルマン式記憶法になったのである。(同、 p. 19 )  このような技術至上主義の行き着く先は「人間疎外」であろう。 この知的ファッションの起源が、自分で発見したものの方が受け継いだものよりも重要だと考える社会または世代、自分の成し遂げたことに過度に印象づけられて、ルネッサンス後のヨーロッパの特徴的愚かさであるあの知的壮大さの幻想を抱き易い時代、自分の過去と決して折り合うことをしないために決して精神的に自分自身と平和な状態にない時代、にあることも確かである。(同)  我々は、先人から受け継いできた社会の中で暮らしている。自分が発見したものなど「大海の一滴」でしかない。にもかかわらず、「自意識」が肥大化した現代のガリヴァーたちは、社会が小人の国リリパットにしか見えない。 Satan was the most celebrated of Alpine guides, when he ...

オークショット『政治における合理主義』(12) 技術至上は夢

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《合理とは、何らかの前提に立って推論をなし、その推論のなかから何らかの結論を導く、という思考のプロセスのことにほかならない。だが、いかなる前提を置くべきかということについて合理主義は明確な解答を持ち合わせていない。人々が納得しうる妥当な前提がどこから出てくるか、それが問題である。  歴史に蓄えられた良識や一般庶民がひそかに担う歴史感覚としての常識に深くつながるのでなければ、妥当な前提とはいえない。単に前提のことにかぎらず、合理的推論のプロセスとて歴史的考察によってその妥当性が決まる。なぜなら、推論は多方向に分散しうる以上、どの方向に推論を推し進めていくべきか、そして人間の実生活にたいしていかに意味ある結論を導くか、ということについてもまた良識と常識に問うてみなければならないのである。そうでない合理主義は、とりわけ人間・社会の問題にかかわる場合、きわめて人工的な科学主義に陥ってしまう》(西部邁『歴史の復権』(東洋経済新報社)、 pp. 175-176 )  零から合理的作業を始める訳にはいかない。何らかの元となる<前提>が必要である。が、合理主義はそのあたりを有耶無耶(うやむや)にしてしまっている。 デカルトは、懐疑を自分に向けるについてべーコンよりも徹底していて、最終的には、この方法が探究の唯一の手段であり得ると考えるのは誤りだということを、認識するのである。技術至上は夢に帰し、現実とはならないのである。それにもかかわらず、後継者達がデカルトから学んだと信じた教訓は、誤り得ない方法の可能性に対する彼の疑いではなく、技術の至上性だった(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 p. 18 )  <技術>は、それが通用する極々小さな特別な世界において<至上>なだけであって、これが絶対的なものだと思って、外の一般世界でこれを振り回しても、只の空振りに終わってしまうだけである。 《科学主義は、ある事実を説明するにあたって、様々に異なった相矛盾する仮説や理論(諸仮説の体系化されたもの)が併存している場合、そのうちのどれを有効な仮説、理論として採択すべきかということについて経験的には明確にしえないという袋小路にはまってしまっている。誇張を恐れずにいえば、人間・社会にかんする学問の方面で、様々な学派が対立し合ったまま併存しえている(近代経済...

オークショット『政治における合理主義』(11) 知的粛清

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確実な知は、空っぽの精神にのみ生じることができるのであって、研究の技術は、知的粛清から始まる(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 17)  <空っぽの精神>に<確実な知>を注ぎ込む。まるで「全体主義国家」のようである。 デカルトの第1原理は、「いかなる事柄も、私がそれを明証的にそうであると認識しない限り、決して真とは受け取らないこと、すなわち、慎重に速断と先入見とを避けること」、「全てが私のものである基礎の上に建設すること」であり、探究者は「あたかも、たった1人で暗黒の闇を歩む人のよう」だと言われるのである。(同)  「偏見」や「固定観念」は排除すべきだろう。が、だからといってすべての<先入見>を捨て去ることは出来ない。なぜなら、<先入見>という「前提」があるからこそ、我々は物事を考えることが出来るからである。すべての<先入見>を捨ててしまうことは、「考える」術(すべ)を失ってしまうことと同じである。 《「合理のための大前提は合理からはやってこない」、そして「事実なるものは(無前提に存在するのではなく)現象にかんする(包括的という意味で納得のいく)合理的説明の結果にすぎない」…「大前提」が何であるかを探究すれば、合理的には説明し切れないという意味で非合理とみなすしかないものを含む「感情」や「慣習」の大切さに気づくに違いない。そしてそのような感情・慣習の重みを知るには、レイショ(均衡)のとれたストーリー(物語)がなければならず、その物語がどこからやってくるかというとヒストリー(歴史)へのコムプリへンション(「理解」つまり「様々なことを一緒に、予め、把握すること」)からだ、ということになる。それをアンダースタンディング(理解)と言い換えても同じことで、それは「下方にある幅広い基礎、その上に立つ」ことだ。その意味で人間性の本質は(J・オルテガのいった)「物語的理性」にある》(西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)、 p. 188 ) 第2に、探究の技術は1組のルールに定式化され、そのルールは、理想としては、機械的普遍的に適用できる誤りえない方法を構成する、のである。第3に、知には等級がなく、確実でないものは単なる無知に過ぎない。(オークショット、同)  <機械的普遍的に適用できる誤りえない方法>を実践するということは、「感情」...

オークショット『政治における合理主義』(10) ベーコンが推す研究法

The art of research which Bacon recommends has three main characteristics. First, it is a set of rules; it is a true technique in that it can be formulated as a precise set of directions which can be learned by heart. Secondly, it is a set of rules whose application is purely mechanical; it is a true technique because it does not require for its use any knowledge or intelligence not given in the technique itself. Bacon is explicit on this point. The business of interpreting nature is 'to be done as if by machinery', 'the strength and excellence of the wit (of the inquirer) has little to do with the matter', the new method 'places all wits and understandings nearly on a level'. Thirdly, it is a set of rules of universal application; it is a true technique in that it is an instrument of inquiry indifferent to the subject-matter of the inquiry. -- Michael Oakeshott, Rationalism in politics (ベーコンが推奨する研究法には、大きく分けて3つの特徴がある。第1が、規則集である。暗記できるぴったりの指示集として定式化できるという点で、まさに技...

オークショット『政治における合理主義』(9) ベーコンの登場

「知の現状は、隆盛でもなければ大いに前進しつつある訳でもない」とべーコンは書いた。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 15) That the state of knowledge is not prosperous nor greatly advancing; and that a way must be opened for the human understanding entirely different from any hitherto known, and other helps provided, in order that the mind may exercise over the nature of things the authority which properly belongs to it. -- Francis Bacon, Preface to the Instauratio Magna (知の状態は順調でも大いに進歩してもいないということ。そして、これまで知られていたものとは全く異なる道が人間の理解のために開かれ、精神が物事の本質に正しく属する権威をその本質に行使できるよう、他の助けを提供しなければならないということ) IT SEEMS to me that men do not rightly understand either their store or their strength, but overrate the one and underrate the other. Hence it follows, that either from an extravagant estimate of the value of the arts which they possess, they seek no further; or else from too mean an estimate of their own powers, they spend their strength in small matters and never put it fairly to the trial in those which go to the main. -- Ibid. (人は自分...

オークショット『政治における合理主義』(8) 非合理に支えられない合理はない

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デカルトは、あらゆるものを疑い斥(しりぞ)け、最後に残ったのが有名な「コギト」(cogito)であった。 《いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥(しりぞ)けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺(あざむ)くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。 また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬(ごびゅう)を犯(おか)さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。 最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。 けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私は有る」(※)というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束(たば)ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第1原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 pp. 44-45 ) ※「我思う、故に我あり」( Cogito ergo sum 【ラテン語】) 他の全ての種類の知の学習と同じく、技術の学習は、純粋な無知を脱することにあるのではなく、すでにそこにある知を修正してゆくことにある。何事も、自足的技術に最も近いもの(1つのゲームのルール)でさえ、実際には空っぽの精神に対してそれを伝えることはできない。そして伝えられるものは、すでにそこにあるものによって育まれるのである。その点、1つのゲームのルール...

オークショット『政治における合理主義』(7) 狂人

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合理主義とは、私が実践知と呼んだものはまったく知ではないのだ、という言明のことであり、正しく言うなら技術知以外の知などはないのだ、という言明のことである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 12)  <合理主義>は、定式化できる知識のみ扱うものであるから、定式化できない知識は排除されることになる。 合理主義者の立場からは、あらゆる人間活動に含まれる知の唯一の構成要素は技術知であり、私が実践知と呼んだものは、実際にはある種の無知であって、たとえ積極的に有害でないとしても無視できるものだ、とされる。合理主義者にとって「理性の至上」とは技術の至上を意味するのである。(同)  合理主義者は、<実践知>を取るに足りないものとして排除し、<技術知>だけで事足れりとし、<技術知>を弄(もてあそ)ぶのである。 思想伝統に対するイデ(オ)ロギーの優位は、それが自己完結的であるように見えることによっている。イデオロギーは、精神が空っぽの人々に対して最もうまく教え込むことができるのであり、すでに何かを信じている者に教える場合には、教師が取るべき最初の一歩は、粛清を敢行すること、つまり絶対的無知という揺るぎない岩盤を彼の土台とするために、全ての先入見と先入観念が取り除かれたことを確認すること、である。要するに技術知は、合理主義者が選択した確実性の基準を充たす唯一の知であるように見える、というわけである。(同)  精神を空っぽにした上でイデオロギーを注入すれば、そのイデオロギーは、他の何とも干渉することなく絶対的な存在となれる。同様に、<理性>以外の一切を排除すれば、<理性>は絶対化し、しばしば歯止めが利かなくなって暴走する。  英国の作家であり批評家の G ・ K ・チェスタトンは「狂人」というものを次のように風刺する。 If you argue with a madman, it is extremely probable that you will get the worst of it; for in many ways his mind moves all the quicker for not being delayed by the things that go with good judgment. He is no...

オークショット『政治における合理主義』(6) 「習う」と「倣う」

技術知は、ルール、原理、指示、格言の内、つまり命題の内に残らず定式化することが可能である。技術知を本の中に書き留めることが可能である。 (中略) 他方、この種の定式化ができないのが、実践知の特徴である。それの普通の表現は、物事を行なう慣習的、伝統的やり方の中、つまり実践の中にある。そしてこのことは実践知に、不明確、その結果不確実、見解の問題、真理ではなく蓋然(がいぜん)性、という外観を与えるのである。確かにそれは、趣味または鑑識眼の内に表現される、厳密性に欠け、学ぶ者の精神の刻印を受け易いような知なのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、 pp. 10-11 )  オークショットは、定式化できる知(技術知)と定式化できない知(実践知)という二分法を用いて考察を深めていく。  技術知は、本から学ぶことができるのであり、通信コースで学ぶこともできる。さらにそれの多くは、暗記し、そらで繰り返し、機械的に適用することができる。三段論法のロジックは〔それ自体が〕この種の技術である。要するに技術知は、その語の最も単純な意味において、教える( teach )ことも学ぶ( learn )こともできるのである。他方実践知は、教えることも学ぶこともできず、伝え( impart )、習得する( acquire )ことができるだけである。それは、実践の内にのみ存在し、それを習得する唯一の方法は、名人への弟子入りによる方法である。弟子になればそれが習得できるのは、師匠にそれが教えられるからではなく(彼はそれができない)、それを絶え間なく実践している者との継続的接触によってのみ、それを習得することができるからである。(同)  「ならう」とは2つの意味合いがあり、それぞれ「習う」と「倣う」の漢字が当てられる。「習う」とは「教えてもらって学ぶ」ということであり、「倣う」とは「実際にやってもらって真似る」ということである。オークショット流に言えば、「習う」のが<技術知>であり、「倣う」のが<実践知>ということになろう。 芸術と科学において普通起こるのは、弟子が師匠から技術を教えられそれを学んでいる内に、はっきりとそれを伝えられたわけでもなく、しばしばそれが何かをはっきりと言えるわけでもないにもかかわらず、単なる技術知とは別の種類の知をも習得して...

オークショット『政治における合理主義』(5) 技術知と実践知

もちろん合理主義者が常に、個々の場合にその精神が包括的ユートピアによって支配されているというような、一般的な場面での完全主義者だとは限らない。しかし彼は、細部においては例外なく完全主義者なのである。そしてこの完全性の政治から、画一性の政治が出て来る。つまり、状況というものを認めない組立には、多様性のための場所もありえないのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 6-7)  すべての政治課題を合理的処理するというのならまだしも、合理主義者が扱う政治課題は、合理的処理が出来るものに限られる。それ以外は非合理的なものとして端(はな)から排斥される。実に合理的なのである。  全ての科学、全ての芸術、何らかの技術を必要とする全ての実践活動、実際、人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく2つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている。思うに、それらを2種の知と呼ぶのは行き過ぎなのではない。(実際にはそれらは別々に存在するわけではないが)それらの間には一定の重要な違いがあるからである。 初めの種類の知を、技術知または技術の知識と呼ぶことにする。全ての芸術と科学、全ての実践活動には、ある技術が含まれる。多くの活動においてこの技術知は、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移される、またはそうされるはずの、諸ルールへと定式化される。しかしそれが精確に定式化されている、またはされた、ものであると否(いな)とに拘(かか)わらず、また、精確な定式を与えるには特別の技と洞察が必要かも知れぬとは言え、それの主要な特徴は、それがそのような定式化を許すものであるというところにある。イギリスの道路で自動車を運転する技術(またはその一部)は道路法( Highway Code )の内に見出し得るし、料理の技術は料理の本の中に書かれている。また、自然科学や歴史学における発見の技術は、それ等の研究のルール、観察と証明のルールの内にある。 第2の種類の知は、使用の内にのみあることから実践知と呼ぶことにするが、これは反省的なものではなく、(技術とは異なり)ルールに定式化することができない。しかしだからといって、これが深遠な種類の知だというわけではない。ただ、これが共有され人々の共通の知になるための方法は、教条...

オークショット『政治における合理主義』(4) 合理という小さな世界

 合理主義者にとって物事の処理は問題解決であり、その仕事においては、理性が、習慣への降伏によって硬直化したり伝統のもやによって曇らされているような者には、成功は望めないのである。この活動において合理主義者が自分のものだとする性格は、技術者のそれである。この場合、技術者の心は適切な技術によって全面的に制御され(ていると想定され)、彼の第一歩は、彼の特殊化された意図と直接関連性のないものを全て自分の注意から追い出すことである。政治を工学に準(なぞら)えるこのやり方は、まさに合理主義の政治の神話とも呼ぶべきものである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 5)  技術を用いることが出来る範囲はごく限られる。同様に、合理的判断が出来る範囲は、本来政治が扱うべき範囲のごく一部に留まるに違いない。合理主義者は、合理的に処理できない部分は非合理的なものなので政治課題から排除すべきだとするのかもしれない。が、この非合理的なものの中に重要な部分が含まれていないとは限らない。否、含まれているに違いないのである。  例えば、日本には皇室の伝統がある。が、どうしてこのような伝統があるのかは非合理そのものである。が、だからといって皇室をなくしてしまえばよいということにはならないであろう。もし皇室をなくしてしまえば、日本は日本でなくなってしまう。皇室は文化的統合の象徴的存在なのであって、皇室がなくなれば日本文化は雲散霧消してしまうであろうことは想像に難くない。  合理主義の政治の一般的な特徴として、これ以外に2つのものを認め得る。それは、完全性の政治、そして画一性の政治である。これらの特徴の各々は、もう一方と切り離されれば、それぞれまた違った政治のスタイルを指示するのだが、合理主義のエッセンスは、両者の結合にある。(同、 p. 6 )  合理主義的政治は、不完全なものの排除し、画一化を図る。 不完全性の消失は、合理主義者の信条の第1項目だ、と言えるかも知れない。彼に謙虚さがないわけではない。彼は、自分の理性の猛攻をはねつけるような問題を想像することができる。彼に想像できないのは、問題解決からなるのではない政治、または「合理的」な解が何もないような政治問題、である。そんな問題は、にせものなのである。そしてどんな問題についてであれ「合理的」解とは、...

オークショット『政治における合理主義』(3) デカルト合理論の屁理屈

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デカルトは『方法序説』の冒頭で、 《良識( bon sens )はこの世のものでもっとも公平に配分されている》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 p. 12 ) と言う。が、良識が公平に分配されている、詰まり、全ての人に同じ良識が備わっているなどと信じる人など皆無だろう。にもかかわらず、デカルトは屁理屈を捏(こ)ねる。 《なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ大人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わぬのが一般である。このことで大人がみなまちがっているというのはほんとうらしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性( raison )とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等であることを証明する》(同)  良識あるいは理性と呼ばれる、真実と虚偽を見わけ、正しく判断する力は、生まれながらに平等であることなど絶対に有り得ない。そもそも人は生まれながらにして良識や理性など持ち合わせてなどいない。様々な経験と学習によって培われていくものである。 《そこでまたこのことが、私どもの意見の多様なのはある者が他の者よりよけいに理性を具えたところからくるのではなく、私どもが思想を色色とちがった道でみちびくところから、同じような事を考えるわけでもないところからくるのである》(同)  意見が多種多様であるのは、理性に差があるからではなく、理性の使い方に差があるからだとでも言いたいらしい。「物も言い様(よう)」としか言い様がない。 《そもそも良き精神を持つだけではまだ不完全であって、良き精神を正しく働かせることが大切である。きわめて偉大な人人には最大の不徳をも最大の徳と全く同様に行いうる力がある。また、ごくゆっくりでなければ歩かぬ人でも、つねに正しい道をたどるならば、駆けあるく人や正しい道から遠ざかる人よりも、はるかによく前進しうるのである》(同)  <つねに正しい道をたどる>人などいない。更に言えば、世の中、何が<正しい道>なのか分からないことだらけである。だから議会を開いて意見を交換し、よりよい道を模索するのである。 当然のことながら…伝統を保持することも改善することも問題にはならない。なぜなら、両者はいずれも〔そ...

オークショット『政治における合理主義』(2) 政治は合理主義的処理は馴染まない

すべての世界の中で政治の世界は、合理主義的処理にもっとも馴染まない世界かも知れない――政治、そこには常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っているのだから。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 4)  白黒はっきりさせるのには<合理主義>的処理は有効かもしれないが、政治的決断の多くは簡単に白黒付けられない灰色の領域の問題に関するものであるから、<合理主義>的処理は馴染まないということである。 彼(=合理主義者)は、開かれた精神、つまり先入見、過去の遣物、習慣から自由な精神を信奉する。彼は、何物にも妨げられない人間「理性」が(活動させられさえすれば)、政治活動における誤りなき指針だ、と信じている。さらに彼は、「理性」のテクニックと作用としての論議を信奉し、意見の真理性と制度の「合理的」基礎のみが、彼の関心事である。その結果、彼の政治活動の多くは、彼の社会の社会、政治、法、制度に関する遺産を彼の知性の法廷の前に立たせることにあり、その余は、「理性」が事件の様々な環境の上に何の制約も受けずに管轄権をふるう、合理的管理である。(同、 pp. 4-5 )  合理的でないものを非合理だとして排除してしまえば、「合理的社会」が築ける。が、それは極小さな社会でしかないだろう。例えば、合理的審判を受けて来なかった文化や伝統というものは非合理的なものの塊(かたまり)である。したがって、合理主義を貫けば、過去のほとんどを捨て去ることになりかねない。 合理主義者にとって存在しているというだけでは(そして明らかに何世代にもわたってそれが存在してきたということからは)何物も価値を有しない。親しみに価値はなく、何事も、精査を受けずに存続すべきではないのである。こうしてその性向のため、彼にとっては受容と改革よりも破壊と創造の方が理解し易く携わり易いものとなる。繕うこと、修理すること(つまり、素材についての忍耐強い知識を必要とすることを行なうこと)を彼は、時間の無駄とみなす。そして彼は常に、そこにあるよく試された便法を利用することよりも、新たな趣向を発明することの方をよしとする。彼は、それが自覚的に引き起こされた変化でないかぎり変化を認識せず、その結果容易に、慣習的なもの、伝統的なものを変化なきものとする誤りに陥る。(同、 p. 5...