オークショット『政治における合理主義』(5) 技術知と実践知

もちろん合理主義者が常に、個々の場合にその精神が包括的ユートピアによって支配されているというような、一般的な場面での完全主義者だとは限らない。しかし彼は、細部においては例外なく完全主義者なのである。そしてこの完全性の政治から、画一性の政治が出て来る。つまり、状況というものを認めない組立には、多様性のための場所もありえないのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 6-7)

 すべての政治課題を合理的処理するというのならまだしも、合理主義者が扱う政治課題は、合理的処理が出来るものに限られる。それ以外は非合理的なものとして端(はな)から排斥される。実に合理的なのである。

 全ての科学、全ての芸術、何らかの技術を必要とする全ての実践活動、実際、人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく2つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている。思うに、それらを2種の知と呼ぶのは行き過ぎなのではない。(実際にはそれらは別々に存在するわけではないが)それらの間には一定の重要な違いがあるからである。

初めの種類の知を、技術知または技術の知識と呼ぶことにする。全ての芸術と科学、全ての実践活動には、ある技術が含まれる。多くの活動においてこの技術知は、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移される、またはそうされるはずの、諸ルールへと定式化される。しかしそれが精確に定式化されている、またはされた、ものであると否(いな)とに拘(かか)わらず、また、精確な定式を与えるには特別の技と洞察が必要かも知れぬとは言え、それの主要な特徴は、それがそのような定式化を許すものであるというところにある。イギリスの道路で自動車を運転する技術(またはその一部)は道路法(Highway Code)の内に見出し得るし、料理の技術は料理の本の中に書かれている。また、自然科学や歴史学における発見の技術は、それ等の研究のルール、観察と証明のルールの内にある。

第2の種類の知は、使用の内にのみあることから実践知と呼ぶことにするが、これは反省的なものではなく、(技術とは異なり)ルールに定式化することができない。しかしだからといって、これが深遠な種類の知だというわけではない。ただ、これが共有され人々の共通の知になるための方法は、教条の定式化による方法ではないというだけである。そしてこの観点からそれを考察するなら、それを伝統知と言うことも誤りではない.であろう。あらゆる活動には、この種の知もまた含まれているのであって、どんな技の習得やどんな具体的活動の遂行も、それなしには不可能なのである。(同、pp. 8-9

 知を「技術知」(technical knowledge)と「実践知」(practical knowledge)に分けて考えるオークショットの手法は有効であろう。

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