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オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(61)「万人の万人に対する戦い」は不自然状態

分別ある人がすべて求めていること、この契約の最初の履行者があてにしていることは、持続的な平和の状態だから、この状況は次のような状況として理解する方がもっとよい。そこでは他の当事者のうち十分なだけの人々が、十分なだけの時間、自発的に履行するため、いつでも特定の機会に服従する気にならない人々に強制を加える主権者の十分なだけの権力を発生させることを期待してもおかしくないので、最初の履行者になって履行し続けることは不合理ではない。というのも、最初の履行者になることが合理的か否かは、常に自分の信頼に応えてくれる特定の人々の不変の集団があると合理的に期待できるか否かにはかかっていないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 354)  <分別ある人がすべて求めていること…は、持続的な平和の状態だ>と言い切る根拠は何か。これは、<万人の万人に対する戦い>が自然状態という前提とは真逆である。 The Passions that encline men to Peace, are Feare of Death; Desire of such things as are necessary to commodious living; and a Hope by their Industry to obtain them. And Reason suggesteth convenient Articles of Peace, upon which men may be drawn to agreement. These Articles, are they, which otherwise are called the Lawes of Nature -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIII. (人を平和に向かわせる感情は、死の恐怖、広い生活に必要なものの欲望、そしてそれらを手に入れるための、努力による希望である。そして理性が、人が合意するのに便利な平和の条文を提案する。これらの条文は他に、自然法とも呼ばれている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第13章  人間には感情もあれば理性もある。だから、平和を求めるのである。が、もし仮に人間から感情や理性が失われてしまえば、闘...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(55)誇りの効用を認めぬホッブズ

オークショットは問う。 「なぜ彼(=ホッブズ)はこの議論の線をさらに追求しなかったのか? なぜ彼は誇りに効用を認めず、結局のところ『考慮されるべき情念は恐怖である』と結論したのか?」(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 348 )  ホッブズは、 誇りは平和を求める努力の成功のために十分な動機を与えないからだというものではなく、高貴な性格の持ち主が少なすぎるからだ(同) と言うのである。 The force of Words, being (as I have formerly noted) too weak to hold men to the performance of their Covenants; there are in mans nature, but two imaginable helps to strengthen it. And those are either a Feare of the consequence of breaking their word; or a Glory, or Pride in appearing not to need to breake it. This later is a Generosity too rarely found to be presumed on, especially in the pursuers of Wealth, Command, or sensuall Pleasure; which are the greatest part of Mankind. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XIV. (言葉の力は、(以前指摘したように)人に契約を履行させるには弱過ぎる。人間の本性には、それを強化するのに役立つと思われるものが2つだけある。それは、約束を破った結果の恐怖、あるいは約束を破る必要がないように見える栄光や誇りである。この後者は、特に富や命令や官能的な喜びを追い求める人々、つまり人類の大部分の、付け込もうにも滅多にお目に掛かれぬ寛大さである)ホッブズ『リヴァイアサン』第 1 部 第14章 ホッブズは要するに、人間は理性よりも情念を欠いている、それも特にこの...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(52)誇りの二面性

ホップズは争いを引き起こす3つの重要な情念の1つを表わすために、時々「誇り」という言葉を悪い意味で使った。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 346) Pride, subjecteth a man to Anger, the excesse whereof, is the Madnesse called RAGE, and FURY. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER VIII. (誇りは、人を怒りの支配下に置き、度を超すと、激怒や憤慨と呼ばれる狂気となる)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第8章 the Lawes of Nature (as Justice, Equity, Modesty, Mercy, and (in summe) Doing To Others, As Wee Would Be Done To,) if themselves, without the terrour of some Power, to cause them to be observed, are contrary to our naturall Passions, that carry us to Partiality, Pride, Revenge, and the like. And Covenants, without the Sword, are but Words, and of no strength to secure a man at all. – Ibid ., Part 2, CHAPTER XVII. (自然法(正義、公平、謙虚、慈悲、(要するに)自分達がされたいように、他人にもすること)は、もしそれらを守らせる何らかの力の脅威がなければ、私たちを偏愛、誇り、復讐などに駆り立てる自然の衝動に反する。また、剣のない契約は、言葉に過ぎず、人を守る力はまったくない)―第2部 第17章 Hitherto I have set forth the nature of Man, (whose Pride and other Passions have compelled him to submit himselfe to Government – I...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(51)神の拡張

God himselfe, by supernaturall Revelation, planted Religion; there he also made to himselfe a peculiar Kingdome; and gave Lawes, not only of behaviour towards himselfe; but also towards one another; and thereby in the Kingdome of God, the Policy, and lawes Civill, are a part of Religion; and therefore the distinction of Temporall, and Spirituall Domination, hath there no place. - Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1. CHAPTER XII. OF RELIGION (神自ら、超自然的啓示によって、宗教を植え付けた。そこに神は、自分に特別な王国を作りもし、自分に対する行動だけでなく、互いに対する法も与えた。その結果、神の王国では、政策と市民法は宗教の一部であり、したがって、時間的支配と精神的支配の区別はそこには存在しない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第12章 宗教について It is true, that God is King of all the Earth: Yet may he be King of a peculiar, and chosen Nation. For there is no more incongruity therein, than that he that hath the generall command of the whole Army, should have withall a peculiar Regiment, or Company of his own. God is King of all the Earth by his Power: but of his chosen people, he is King by Covenant. – Ibid. (神が全地上の王であることは事実だ。しかし...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(50)神の王国

Whether men will or not, they must be subject alwayes to the Divine Power. By denying the Existence, or Providence of God, men may shake off their Ease, but not their Yoke. But to call this Power of God, which extendeth it selfe not onely to Man, but also to Beasts, and Plants, and Bodies inanimate, by the name of Kingdome, is but a metaphoricall use of the word. For he onely is properly said to Raigne, that governs his Subjects, by his Word, and by promise of Rewards to those that obey it, and by threatning them with Punishment that obey it not.–- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 2. CHAPTER XXXI. OF THE KINGDOME OF GOD BY NATURE (望むと望まざるとにかかわらず、人は常に神の力に従わねばならない。神の存在や摂理を否定することによって、安楽は振り払えても、その軛(くびき)からは逃れられない。しかし、人間だけでなく、獣や植物や無生物体にも及ぶこの神の力を王国の名で呼ぶのは、この言葉を比喩的に使っているに過ぎない。というのは、自らの言葉によって、即ち、その言葉に従う者には報酬を約束し、従わない者には罰で脅すことによって、臣民を統治する者だけが、君臨すると呼ぶに相応しいからである)―ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について Subjects therefore in the Kingdome of God, are not Bodies Inanimate, nor creatures Irrationall; ...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(49)ホッブズ vs. オークショット

The OFFICE of the Soveraign, (be it a Monarch, or an Assembly,) consisteth in the end, for which he was trusted with the Soveraign Power, namely the procuration of the Safety of The People; to which he is obliged by the Law of Nature, and to render an account thereof to God, the Author of that Law, and to none but him. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 2. CHAPTER XXX. OF THE OFFICE OF THE SOVERAIGN REPRESENTATIVE ((君主であれ議会であれ)主権者の職務は、主権を信託された目的、すなわち人民の安全を獲得することにある。主権者は自然法によってその義務を負い、その法の創造者の神に、そして神だけに、それについて説明する義務が課せられている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第 2 部 第30章 主権を有(も)つ代表者の職務  が、オークショットは、このホッブズの考え方に異議を唱える。 しかし彼の言うところでは(そして他の数多い難点を別にしても)、それはせいぜい人間の行動についての摂理を信じている人のクラスに属する主権者にしかあてはまらない。このクラスは(ホッブズの著作の中では)キリスト教徒のクラスと区別することは極めて難しい。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 340 )  が、ホッブズは次のように言っている。 《神は、自らの法を3つの方法で示す。自然理性の指示、啓示、そして奇跡の作用によって他者との信用を得たある人の声によって。ここから3つの神の言葉が生まれる。理性的な言葉、感覚的な言葉、預言的な言葉である。これには、 3 つの聞き方が対応する。正しい理性、超自然的な感覚、信仰である》(ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第31章 自然による神の王国について  詰まり、この問題は、<信仰>の次元だけで考えるべきで...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(47)矛盾するホッブズの主張

Reason serves only to convince the truth (not of fact, but) of consequence. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN , PART III. CHAPTER XXXIII. OF THE NUMBER, ANTIQUITY, SCOPE, AUTHORITY, AND INTERPRETERS OF THE BOOKS OF HOLY SCRIPTURE (理性は、(事実ではなく)帰結の真理を確信させることにしか役立たない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第3部 第33章 聖書諸篇の数、古さ、範囲、権威、解釈者について それ(=理性)は原因と結果についての仮定的命題だけを扱う。人間の行動におけるその仕事は、欲求された目的達成のためにふさわしい手段を示唆することである。何物も合理的だという理由によって義務になることはない…自然法は、法律として、そして単に人間の保全についての結論としてではなしに、「自然の理性の指示」の中で我々に知られている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 339 ) God declareth his Lawes three wayes; by the Dictates of Naturall Reason, By Revelation, and by the Voyce of some Man, to whom by the operation of Miracles, he procureth credit with the rest. From hence there ariseth a triple Word of God, Rational, Sensible, and Prophetique: to which Correspondeth a triple Hearing; Right Reason, Sense Supernaturall, and Faith. As for Sense Supernaturall, which consisteth in Revelation, or Inspiration, there have not been any Universall Lawes so g...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(43)自然法の解釈

確かに私人の「自然の理性」あるいは「良心」は自然法の解釈者として描くこともできる。だがそれらは、法律としての自然法の「権威ある」解釈を与えるものと考えることはできない。各人が自分自身の解釈者ならば、情念の偏見を排除することはできない(そして良心は結局、自分がしたことやしそうな傾向のあることを是認するものにすぎない)だけでなく、このようにして解釈された法の義務は、平和を求めて努力すべき普遍的な義務であることをやめ、せいぜいのところ、各人が誠実に法だと考えているものに従うべき義務になってしまう。 だがそれでは十分でない。「それ」の下にある人ごとに違うかもしれない法律は、全然法律ではなくて、立法者(この場合は神)が我々にいかに振舞うよう望んでいるかに関する多様な意見にすぎない。実際、法を公布し解釈する共通の権威のないところには法は存在しない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 335-336) The Interpretation of the Lawes of Nature, in a Common-wealth, dependeth not on the books of Morall Philosophy. The Authority of writers, without the Authority of the Common-wealth, maketh not their opinions Law, be they never so true. That which I have written in this Treatise, concerning the Morall Vertues, and of their necessity, for the procuring, and maintaining peace, though it bee evident Truth, is not therefore presently Law; but because in all Common-wealths in the world, it is part of the Civill Law: For though it be naturally reasonable; yet it is by the Soveraig...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(42)自然法には権威ある解釈が必要だ

実際に知られているのは平和を求めて努力する義務だが、それは神がこの義務を課する権限を持つことを間接の契約によって認めた人々に対して、神の実定法が課するものとして認められた場合に限られる。それは神の「預言」の言葉の中で、あるいは国家の実定法の中で、彼らに公布されたから、彼らに知られている。そして国家の中では、「預言」と主権者の命令とは区別できない。というのも国家の主権者は「神の預言者」だからである。   本当の意味での法の第3の特徴は、その意味の「権威ある解釈」が存在するということである。そして神から教示を受け、臣従者たちから承認された国家の主権者や「預言者」のような、何らかの承認された実定的な権威が解釈を供給しないならば、自然法は権威ある解釈を明らかに欠いている。神自らは聖書の「言葉」の解釈者になれないのと全く同じように、神は自然法の解釈者にはなれない。要するにホッブズにとっては、「自然的な」あるいは「契約によらない」ものであると同時に「権威ある」ような、自然法の解釈者や解釈はありえないのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 335-336 ) if it be a Law that obliges all the Subjects without exception, and is not written, nor otherwise published in such places as they may take notice thereof, it is a Law of Nature. For whatsoever men are to take knowledge of for Law, not upon other mens words, but every one from his own reason, must be such as is agreeable to the reason of all men; which no Law can be, but the Law of Nature. The Lawes of Nature therefore need not any publishing, nor Proclamation; as being contained in this o...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(40)政治的神

神が本当の意味での法の創造者として知られるに至るのは、彼らが神を自分たちの統治者として承認するからである。この承認は、そこからあらゆる義務が「発生」する不可欠の「行為」である。なぜならこの行為がなければ統治者は知られないままなのだから。すると神の万能ではなしに、契約あるいは承認こそが、神が本当の意味での法律を作る権限の源なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 333-334)  「宗教的神」は、畏怖する対象としての神である。他方、「政治的神」は、契約によって、自分たちの統治者として承認された神である。平和を得るために、<神>と契約するか否かは、政治的な問題である。そして、<神>と契約することによって、<神>が創造した<法>を守る義務が生じるのである。 既知の創造者を持つ以外にも、自然法は2つの他の特徴を持っていなければならない。すなわち、それはそれに従うように強いられる人々によって知られているか、知ることができるものでならなければならない(つまりそれは何らかの仕方で「公表」あるいは「公布」されていなければならない)。またその法の「権威ある解釈」がなければならない。ホッブズは自然法がこれらの特徴を持つと考えていただろうか?(同、 p. 334 )  2つの特徴のうちの前者は、これまでも指摘されてきたことである。が、ここで重要だと思われるのは、その法の「権威ある解釈」が必要であるとする後者の指摘である。法はただ存在しているだけでは十分に用を足さない。人々が法を遵守(じゅんしゅ)せねばならないと思うに足る権威付けが先ず必要である。さらに、その法が具体的にどのような意味をもつものであるのかについて、公(おおやけ)の、定まった解釈がなければならないのである。  第1の点に関しては、我々が今考察しているホッブズ解釈は全然難点がないように見える。それはホッブズの次のような言明に依拠している。――自然法は神からその自然的臣民に対して、「自然の理性」あるいは「正しい理性」の中で公布されている。それはこのようにして「神の他の言葉なしに」知られている。推論能力が大したことのない人々でも自然法の十分な知識は得られる。――(同) But they say again, that though the Principles be ...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(35)自然法の創始者「神」

ホッブズによると、法律の課する義務は法律それ自体ではなくその創造者のおかげであり、彼はその創造者であるというだけでなく、命令する権限を持っているとも知られていなければならないのだから、我々の第1の問いは「ホッブズは自然法が全人類にその創造者として知られるような創造者を持つと考えていたのか?」というものでなければならない。そしてもしそうだとすれば、ホッブズは誰がその創造者であると考えていたのか、また彼はこの創造者がいかにしてこの法律の創造者であると知られると考えていたのか?そしてこれとともに、我々はホッブズの著作がこの創造者がこの法律を作る権利についていかなる考えを表わしているのかを考察することが適切だろう。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 329-330)  では<自然法>は誰が創ったのか。ここでホッブズは「神」を持ち出す。 我々が今考察している解釈からすると取らざるをえない答は、ホッブズは自然法にはその創造者として万人に知られている創造者があり、この創造者は神自身であり、神の立法権は、その命令に従うべき人々を創造したことにではなく、その万能に由来すると明白に信じていた、というものである。自然法は本当の意味での法であると主張される。それは万能の神の命令であると知られているから、あらゆる状況のあらゆる人間に拘束力を持つというのである。(同、 p. 330 )  ホッブズは、「神」について次のように述べている。 This perpetuall feare, alwayes accompanying mankind in the ignorance of causes, as it were in the Dark, must needs have for object something. And therefore when there is nothing to be seen, there is nothing to accuse, either of their good, or evill fortune, but some Power, or Agent Invisible: In which sense perhaps it was, that some of the old Poets said, t...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(34)自然法適用の二面性

ホッブズにとって道徳的義務はすべて何らかの法律に起因していたことを認める。この説によると、真正の法のあるところには義務があり、法のないところには義務もないのである。従って、平和を求めて努力することが万人の義務であると示しうるのは、それを命ずる、有効で普遍的に適用される法律があるときだけである。 ここまではホッブズの考えたことについて深刻な意見の相違はありえないと私は考える。ところが今度は、ホッブズの見解によると自然法は単にそれが自然法であるというだけの理由で、この義務を万人に課する有効で普遍的で永久に効力のある法律である、と唱えられるのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 328-329 ) ホッブズが自然法と呼んだものと彼が「平和の好都合な条項」と呼んだものとは内容上同一であり、それらは人間の生の保全についての理性の「示唆」あるいは結論である。このことはホッブズの解釈者なら誰でも認めている。だが今主張されているのは、ホッブズはそれらが本当の意味での法律であるとも信じていた、ということである。すなわちその創造者は知られており、彼は命令を下す先行する権利を獲得しており、法律は公布されて知られており、それらの法律の権威ある解釈があり、順法義務を負う人々はそうすべき十分な動機をもっている、というのである。そしてここから示唆される結論は、ホッブズにとって、平和を求めて努力することは自然法が万人に課した義務であって、それ以外に国家の法律や契約によって成立した命令に従うべき義務もあるかもしれないが、それはこの自然的な普遍的義務から派生したものだ、ということである。(同、 p. 329 )  ホッブズは、自然法を適用するにあたり、その二面性について次のように述べている。 The Lawes of Nature oblige In Foro Interno ; that is to say, they bind to a desire they should take place: but In Foro Externo ; that is, to the putting them in act, not alwayes. For he that should be modest, and tractable, and p...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(32)<義務>という言葉に相応しい用法

むろんホップズにとっては、自分自身の利益に反する行為(つまり、万人の万人に対する戦いを求める努力)の義務などありえなかったということは事実である。しかしそれだからといって、平和を求めるその努力が常に義務でなければならないわけではない。要するに、かりにホップズが「国法に従うべき義務が存在する。なぜなら国家の臣民にとってそれは本当の意味での法だからだ。しかし国の主権者を設定する契約あるいは承認を行い保持すべき独立の義務は存在しない」と述べたのだと理解するとしても、ホップズが何か本質的にばかげたことを言ったと理解することにはならない。 彼は単に、「『義務』という言葉にはふさわしい用法がある。しかし国家をまとめるのは『義務』ではなくて(ただしたとえば反逆罪を禁ずる法律が課する義務を除く)、理性の教えを受けた自己利益か、高貴さである。高貴さはあまりにも誇りが高いので、自分の命令を実現する力を欠いた『主権者』に従うことによっていかなる損失を受けるかもしれないかを計算しない」と言ったと認められているのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 326-327 )  ホッブズは『リヴァイアサン』の結論部分で次のように述べている。 To the Laws of Nature, declared in the 15. Chapter, I would have this added, “That every man is bound by Nature, as much as in him lieth, to protect in Warre, the Authority, by which he is himself protected in time of Peace.” For he that pretendeth a Right of Nature to preserve his owne body, cannot pretend a Right of Nature to destroy him, by whose strength he is preserved: It is a manifest contradiction of himselfe. And though this Law may bee drawn by c...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(31)社会契約に道徳的義務の有るや無しや

ホッブズの中には…社会契約締結が(思慮ある行為である以外に)道徳的義務でもあると示唆しているところはほとんどない。そして「契約を守る」ということと「法に従う」ということは、区別できない活動である。またもし法に従うべき義務があるとすれば(実際あるのだが)、そこには契約を守り保護すべき推定上の義務が存在するのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 325-326)  オークショットは、次の部分を例外と指摘する。 From that law of Nature, by which we are obliged to transferre to another, such Rights, as being retained, hinder the peace of Mankind, there followeth a Third; which is this, That Men Performe Their Covenants Made: without which, Covenants are in vain, and but Empty words; and the Right of all men to all things remaining, wee are still in the condition of Warre. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1: CHAPTER XV. OF OTHER LAWES OF NATURE: The Third Law Of Nature, Justice (留保されていると人類の平和の妨げとなる権利は、他者に譲渡する義務を負う自然法から、もう一つのものが生まれる。それは、「結ばれた契約は実行すること」、これである。これがなければ、契約は無駄となり、空言に過ぎなくなる。すると万物に対する万人の権利は残り、私達は未だ戦争状態にあることになってしまう)――ホッブズ『リヴァイアサン』第 1 部 第15章 他の自然法について:第3の自然法、正義 しかし第2に、かりに一歩譲って、「契約を守る」義務が存在するためにはこの義務を課する法律があるはずであり、そしてこれは国法それ自体ではありえないとしても、この解釈によれば、そのような本当の意味で...

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(30)法は個人の自由の制限

When a Common-wealth is once settled, then are they actually Lawes, and not before; as being then the commands of the Common-wealth; and therefore also Civill Lawes: for it is the Soveraign Power that obliges men to obey them. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 2: CHAPTER XXVI. OF CIVILL LAWES (一度(ひとたび)コモンウェルスが設立されると、それらは実際に法となるが、それまでは法ではない。そのときコモンウェルスの命令となり、したがって、市民法ともなるのである。というのは、人々を法に従わせるのは主権だからである)――ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第26章 市民法について For in the differences of private men, to declare, what is Equity, what is Justice, and what is morall Vertue, and to make them binding, there is need of the Ordinances of Soveraign Power, and Punishments to be ordained for such as shall break them; which Ordinances are therefore part of the Civill Law. The Law of Nature therefore is a part of the Civill Law in all Common-wealths of the world. Reciprocally also, the Civill Law is a part of the Dictates of Nature. – Ibid. (というのは、私人の相違で、公平とは何か、正義とは何か、道徳的善とは何かを表し、それに拘束力を持たせるには、主権の命令と、その違反者への罰則を定める必要があるから...

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(7)両次元の認識を持つわけではない実践的活動は抽象的

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これら両次元の認識を欠いた実践的活動は、なお抽象的なものにとどまっている。実際、他人の活動の中にこれらの倫理的カテゴリーの働きを知覚することはできても、それらを自分の欲求の充足のためにこれらの自己たちから期待できる手助けや妨害への手引きとしか見なさないような人を想定できよう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 252)  詰まり、具体的な実践的活動には、「欲求―反発」のイメージだけではなく、「是認―否認」のイメージも必要であるということである。 それ(=両次元の認識を欠いた実践的活動)はあくまで単なるイメージにとどまり「事実」としての資格は欠いている。時には、是認は欲求の活動と合致するように見える。例えば、オーウェン瀑布(ばくふ=滝)の観察者は(何もそれについて言ってはいないが)明らかに、彼の欲求のイメージの性質についていかなる疑問もいだいてはいない。他のいろいろな場合でも、是認と否認は、欲求や反発の批判者として現われる場合が多く、第2の現実の中で( in an actus secundus )働く。(同、 pp. 252-253 ) ※ 現実態は、「形相」としての第1現実態( actus primus )と「働き」としての第2現実態( actus secundus )に区分される。 しかし、たとえどう現われようとも是認または否認された欲求や反発というイメージは、ただ是認したり否認する活動の中でのみ知られるのに変りない。そして、是認と否認という次元が認められるなら実践的想像という活動とは、欲求されかつ是認されたイメージでもって我々の世界を満たすことを目標にするものと言えよう。(同、 p. 253 )  ホッブズは、 《他の人々の行為と自分自身のそれとを比較考量し、もしも前者があまりに重いように思えたならば、前者を秤(はかり)の反対側にかけ直し、自分自身の行為を前者の代わりにかける。そして、自分自身の情念や自己愛がまったく秤にかからないようにする》(ホッブズ「リヴァイアサン」第15章:『世界の名著 23 』(中央公論社)永井道夫・宗片邦義共訳、 p. 184 ) と言う。これをオークショットは、次のように言い換えている。 倫理的行動における自己は、諸々の自己が構成する共同体の平等な構成員なのであり、是認と否...