オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(30)法は個人の自由の制限
When a Common-wealth is once settled, then are they actually Lawes, and not before; as being then the commands of the Common-wealth; and therefore also Civill Lawes: for it is the Soveraign Power that obliges men to obey them. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 2: CHAPTER XXVI. OF CIVILL LAWES
(一度(ひとたび)コモンウェルスが設立されると、それらは実際に法となるが、それまでは法ではない。そのときコモンウェルスの命令となり、したがって、市民法ともなるのである。というのは、人々を法に従わせるのは主権だからである)――ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第26章 市民法について
For in the differences of private men, to declare, what is Equity, what is Justice, and what is morall Vertue, and to make them binding, there is need of the Ordinances of Soveraign Power, and Punishments to be ordained for such as shall break them; which Ordinances are therefore part of the Civill Law. The Law of Nature therefore is a part of the Civill Law in all Common-wealths of the world. Reciprocally also, the Civill Law is a part of the Dictates of Nature. – Ibid.
(というのは、私人の相違で、公平とは何か、正義とは何か、道徳的善とは何かを表し、それに拘束力を持たせるには、主権の命令と、その違反者への罰則を定める必要があるからである。これらの命令は、したがって、市民法の一部なのである。自然法は、したがって、世界のすべてのコモンウェルスにおいて市民法の一部である。対して、市民法もまた自然の命令の一部である)
For Justice, that is to say, Performance of Covenant, and giving to every man his own, is a Dictate of the Law of Nature. But every subject in a Common-wealth, hath covenanted to obey the Civill Law, (either one with another, as when they assemble to make a common Representative, or with the Representative it selfe one by one, when subdued by the Sword they promise obedience, that they may receive life;) And therefore Obedience to the Civill Law is part also of the Law of Nature. Civill, and Naturall Law are not different kinds, but different parts of Law; whereof one part being written, is called Civill, the other unwritten, Naturall. – Ibid.
(というのは、正義、すなわち、契約の履行および各人に自分のものを与えることは、自然法の命令だからである。しかし、コモンウェルスのあらゆる臣民は、市民法に従う契約をしている〔契約が集まって共通の代表となるときのように相互的なものであろうと、剣によって制圧され、命を得るために服従を約するときのように、一人ひとり代表自体とであろうと〕。したがって、市民法への服従は、自然法の一部でもあり、市民法と自然法は別種の法なのではなく、別部分の法なのである。そのうちの一方は成文法で「市民的」、もう一方は不文法で「自然的」と呼ばれている)
But the Right of Nature, that is, the naturall Liberty of man, may by the Civill Law be abridged, and restrained: nay, the end of making Lawes, is no other, but such Restraint; without the which there cannot possibly be any Peace. And Law was brought into the world for nothing else, but to limit the naturall liberty of particular men, in such manner, as they might not hurt, but assist one another, and joyn together against a common Enemy. – Ibid.
(しかし、自然の権利、すなわち、人間の自然的自由は、市民法によって削減され、制限されるかもしれない。否、法を作る目的はそうした制限に他ならない。それなしには、いかなる平和も到底有り得ない。そして法がこの世にもたらされたのは、互いを傷付けることなく助け合い、共通の敵に対して団結するようなやり方で、個々人の自然的自由を制限することに他ならなかったのである)
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この解釈には、3つの重要な反論がある。その反論の第1は次の通りである。この解釈によると、国家の中での臣民の唯一の義務は、自分が(契約か承認によって)授権した立法者の課する義務を履行することにあり、そしてそれは、国法は疑いもなく本当の意味での法であり国家の臣民に適用されるから立法者の課する義務は真正の義務である、という事実だけに基づいている。だがもしそうであれば、立法者に立法の権限を与えた承認や契約を守り続けるよう臣民を拘束するものは、もしあるとすれば何か? この承認を順法義務から区別することができるとしたら、臣民は承認を続けるべき義務を持っているのか? もし持っていなかったら、道徳的義務に関するホッブズの説明は、その説明に関係のある質問に答えられないために宙に浮かんでしまうのではないだろうか? そしてもし臣民がそのような義務を持っているならば、その義務を謀するものとして、国法以外にも本当の意味での法律があるはずではないか?(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 325)
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