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オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(21)ホッブズの幼稚な二元論

人は誰でもあらゆる状況において、「自分自身の本性の保全」を求める権利を持っている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 319)  が、このようなことを言っても、<権利>を保障してくれる「存在」がなければ意味がない。例えば、「国家」という存在があって初めて<権利>は保証され得るのである。また、「自分自身の本性の保全」というのも、曖昧模糊(あいまいもこ)としてよく分からない。要は、ホッブズは空想の中を浮遊しているのである。 そしていかなる状況においても、人間はそれ以上のことを求めて努力する(たとえば無用の残酷行為にふけったり首位に立とうと欲したりすることによって)権利など持っていない。(同)  人は「自分自身の本性の保全」を求める権利しか持っていないなどという話もホッブズの勝手な空想である。例えば、「言論・表現の自由」という「自由権」はどうなるのか。そもそも「言論・表現の自由」がないのであれば、ホッブズの主張も越権行為になってしまうだろう。 もし彼が「自分自身の本性の保全」にとって余計なことを求めるならば、彼の努力は自分自身の破滅を求めるものだから、不合理で、非難さるべきで、不正である。(同)  「言論・表現の自由」は、<「自分自身の本性の保全」にとって余計なこと>であろうが、これが<不合理>であったり、<不正>であったりするはずがない。「自分自身の本性の保全」以上のことは、<自分自身の破滅を求めるもの>などというのは、余りにも浅見、浅慮と言わざるを得ない。 しかし自分自身の本性を保全する努力は、すでに見たように、厳密には平和を求めて努力することである。またそれ以上のことを求めることは戦争と自己破壊を求めることである。(同)  「平和」とは、個人的なものではなく社会的なものであろう。一方、<自分自身の本性を保全>とは、個人的なものであろう。ホッブズはこの辺りの位相の違いを混同してしまっている。 ゆえに人は平和を求めるとき正しく、戦争を求めるとき不正である。(同)  これも<人>ではなく社会と言うべきであるが、社会が戦うことを選択することは、必ずしも<不正>ではない、詰まり、この問題は優れて「状況依存」的であるということは押さえておかねばならない。例えば、侵略戦争であれば、確かに<不正>の誹(そし)りを

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(20)道徳的努力の対象は平和

Now, as Hobbes understood it, the object of moral endeavour is peace; what we already know to be a rational endeavour is now declared to be the object of just endeavour. Or, to amplify this definition a little, just conduct is the unfeigned and constant endeavour to acknowledge all other men as one's equal, and when considering their actions in relation to oneself to discount one's own passion and self-love. (さて、ホッブズが理解したように、道徳的努力の対象は平和である。我々がすでに合理的努力であると知っていることが、今度は公正な努力の対象であると宣言されたのである。あるいは、少しこの定義を敷衍(ふえん)すると、公正な行為とは、他のすべての人を自分と同等の人と認め、自分との関係で彼等の行動を考えるとき、自分自身の情熱と自己愛を割り引く、偽りのない不断の努力なのである) 「偽りのない」ということばは、私の考えるところでは、この努力はそれ自身のためになされるものであって、たとえば刑罰を避けたり自分のための利益を得たりするためになされるものではないときに限って、その努力は道徳的努力である、ということを示す趣旨なのだろう。そして「努力」ということばは、単にいつも平和を意図していることだけでなく、我々の行為の帰結として平和が生じそうな仕方でいつも行為することを意味しているのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 317-318 )  為(ため)にするものでない、詰まり、下心がないということが「偽りのない」( unfeigned )という言葉の意味なのであろう。だから「偽りのない努力」は、「道徳的努力」ということになるわけである。また、ホッブズが用いる endeavour には、単なる「意図」( inte

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(19)ホッブズの曖昧な言葉の基準

「正義」ということばは道徳的含みを持っている。そしてそれはホップズが規範的な用語で書いているときに一番よく使うことばである。たとえば、道徳的に振舞うとは正しい行為をすることであり、有徳な人であるとは正しい性向を持つことである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 317)  <正しい>とは何かが客観的に定義されていなければ意味がない。これではただホッブズの都合の良い恣意的な正しさでしかない。 しかしながら、正しい振舞いはある行為の遂行や他の行為の抑制と同視されるとはいえ、この同視のためには微妙な注意が必要である。人の義務は正しい振舞いへの「偽りなき恒常的努力」をすることである。第1番目に重要なのは努力であって外的行為ではない。 実際、人は表面上正しい行為をするかもしれないが、それが偶然に、あるいは不正な努力をしているうちに、行われるなら、行為者は正しいことをしているのではなく、単に有罪ではないだけだ、と考えられなければならない。その逆に、人は不正な行為をするかもしれないが、彼の努力が正義をめざしているならば、彼は技術的には有罪だが、不正に行為したわけではない。(同)  正しいように見えるものが正しくなかったり、正しくないように見えるものが正しかったりすることは、現実問題として確かにあるだろう。が、ここでも正不正の基準が必要となる。神なき世界において合理主義はいかに正不正の基準を打ち立てることが出来るのか、そのことが問われるのである。ホッブズの言う正不正が一般的、常識的な意味合いなのか、それともホッブズ特有のものなのか、その辺りが判然としないで議論が展開されているところに、私は少なからず不満がある。 しかし次のことを理解しておかなければならない。第1に、ホッブズにとって「努力( endeavour )」は「意図( intention )」と同じものではなく、「努力」するとは行為を遂行すること、特定しうる運動をすることである。だからある人の意図について確信しがたい場合でも、他者はその人の「努力」について判断することができるのである。(同)  この辺りの特殊性が、ホッブズの著作を解読するのに難渋(なんじゅう)する所以(ゆえん)なのであろう。 そして第2に、ホップズは正しい人であるべき義務があると考えていたか、私は

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(18)ホッブズの独善的用語法

「理性は平和が善であると宣言する」とホップズが言うとき、彼が意味していることは、人はみな平和を推進すべきだということではなく、物のわかった人ならみなそうするだろうということにすぎない。そして彼が「人は誰でも自らの善を欲する。そして自らの善とは平和である」と言うとき、彼が結論として言えるのは、人はみな平和を求めて努力すべきだということではなくて、そうしない人は「自分と矛盾している」ということにすぎない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 316)  平和が善であるのは「弱者の論理」である。強者は、戦争に勝利し、優越感に浸り、至福を得ることこそが<善>なのではなかったのか。弱者が平和を望まないとすればおかしいと言えようが、強者はむしろ戦争することによって利得を得るのであるから、そこには自家撞着はない。 確かにホップズが「理性の指針( precept )」とか、さらには「理性の規則」あるいは「理性の法」あるいは「理性の指示( dictate )」とさえ呼ぶものはある。だからそれによると、理性的なものは何らかの仕方で義務を課するかのように見える。しかし彼のあげている例のすべてから明らかなことだが、「理性の指針」は仮言的指針にすぎず、義務と同じ意味を持っていない。(同) There be some that proceed further; and will not have the Law of Nature, to be those Rules which conduce to the preservation of man’s life on earth; but to the attaining of an eternall felicity after death; to which they think the breach of Covenant may conduce; and consequently be just and reasonable; (such are they that think it a work of merit to kill, or depose, or rebell against, the Soveraigne Power constituted over them by thei

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(17)曖昧な言葉の定義

おそらく彼は   賢い者には、愚行の下にひざまずくような甘い快は世界中に存在しない ということに、ぼんやりと気づきさえするかもしれない。いずれにせよ(だが我々が後に見るように、ホッブズはこれらの考慮を無視しているとして不当にも非難されているが)、我々はおそらく次のように疑ってみることができよう。――ホッブズがここで平和の追求と栄光の排除とを「合理的」行動として勧めているように見える際に、彼はいくつかの別の個所においてと同様、「理性は(事実ではなく)帰結についての真理を納得させる役に立つにすぎない」という自分の見解を忘れて、「理性」ということばの古い意味――そこでは理性は主人、あるいは少なくとも権威ある指導者という性格を持つと認められる――を自分に都合のよいように不当に利用しているのではないだろうか?(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 314-315 )  ここには「理性」という言葉が都合の良いように持ち出されてはいないかという疑念がある。少なくとも、「理性」という言葉の定義が曖昧であることだけは間違いないだろう。 最初平和の条件は、恥ずかしい死を避ける行動に関する理性的定理として(つまり、賢慮の知恵として)我々に提出されたのだが、今や道徳的義務として現われる。(ホップズの前提によれば)明らかに、そういう状況では、平和が達成できるにもかかわらず正にその仕方で平和を宣言し達成しないということは愚かなはずである。ところがどういうわけか、そうしないことは義務違反にもなっている。またこの表現法の変更は不注意によるものでもない。というのも、ホップズが道徳的行動の性格や、道徳的行為と単に賢慮による行為、あるいは必然的な行為との間の相違を適切に理解していたことを我々は疑わないからである。(同、 p. 316 )  当初<平和>は、恥ずかしい死を避けるべく<理性>が要請するものであった。それがいつの間にか、道徳の要請によるものへと変化してしまっている。そもそも<平和>を不要な衝突を避ける政治的契約としてのみ語ろうとすることに無理があったのは事実であろうが、それでうまく行かないとなると、宗教的価値や社会的規範の力を借りようとするのでは余りにも節操がなさ過ぎやしないか。 ホップズの用語法においては「善」と「悪」ということばが(

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(16)ホッブズの言う「理性」

ホッブズが状況を解釈するところによると、誇りと恐れは自らの間の緊張関係を解決する試みを何ら行わずにそこにとどまっていることを許されない。それはなぜなのかを我々は調べてみることもできよう。疑いもなく、理性が語るとき、それは聞かれるべきであると正当に主張するだろう。理性は情念に劣らず「自然」に属するからである。 しかしもし(ホッブズが理解するように)理性の役割が召使のものであって、出来事の原因だったであろうことや、行動の帰結になるであろうことや、欲求された目標を達成する手段になるであろうことの指摘にあるならば、それが人間の行動の選択を決定する権威はどこから来るのか? そしてもしそのような権威を理性に与えることができないとしたら、我々は理性の見解に耳を傾け、そして(危険を承知の上で)自分のすることを選ぶ以上のことをするように拘束されるのだろうか? しっかりと生存の方に肩入れした慎重な者は、慎重さを捨てるようにたやすくは説き伏せられないだろう。また彼は、自分は「合理的」に行動しているという見解によって自分を支えることを好むかもしれない。しかし彼は(栄光の危険な冒険の方を選んだ)他者の中に、自分が見捨てた「喜び」を見るとき、自分の慎重さが突然価値を失うのを見いだすかもしれない。彼は愚行というものがあることを思い出すだろう。そして彼の折り紙付きの安全は少し色あせてしまい、少し人間性に合わないように思われるかもしれない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、  ホッブズは<理性>というものをどのように考えているのだろうか。 In the state of nature, where every man is his own judge, and differeth from other concerning the names and appellations of things, and from those differences arise quarrels, and breach of peace; it was necessary there should be a common measure of all things that might fall in controversy; as for example: of wh

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(15)ホッブズの論理破綻

Continual Successe in obtaining those things which a man from time to time desireth, that is to say, continual prospering, is that men call FELICITY; I mean the Felicity of this life. For there is no such thing as perpetual Tranquillity of mind, while we live here; because Life itself is but Motion, and can never be without Desire, nor without Feare, no more than without Sense. What kind of Felicity God hath ordained to them that devoutly honour him, a man shall no sooner know, than enjoy -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN : PART 1: CHAPTER VI. (折に触れ望むものを手に入れることに成功し続けること、即ち繁栄し続けることは、至福と呼ばれるもの、詰まり、現世の至福である。というのは、私達がここで生きている間、永久的な心の平穏というようなものはないからである。生そのものは運動に過ぎず、欲望や恐怖がないことが有り得ないのは、感覚がないことが有り得ないのと同じである。敬虔(けいけん)に神を崇拝する人々に神がどのような種類の至福を按手(あんしゅ)されたのかが分かるや否や、人はそれを享受するのである)-- ホッブズ『リヴァイアサン』 次の2つのうちのいずれかなのである。 (1) これは平凡な資質の者にとってふさわしい解決であり、その者は「人がその時々に欲求するものを獲得するのに成功すること」だけを欲し、つつましい仕方で、仲間からできる限り邪魔されず、助力を得て成功することを望み、この状況で生き続ける方を至福よりも重視する。あるいは、 (2) ホッブズは人間の至福の定義の仕方において間違っていた。彼の定義によると、彼の理解したような人間がそれを達成

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(14)ホッブズ説の難点

《もしも他の人々が彼のようにみずからの権利を放棄することを欲しないならば、だれもその権利を放棄すべき理由はない。なぜなら、そのときには自分を平和に向かわせるより、むしろ餌食にさらす〔そうする義務はだれにもない〕ことになるからである。それこそが「福音書」中のあの法である。「すべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ」。また、万人の法もそうである。(みずからの求めざるところを、他に行なうなかれ)》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著23』(中央公論社):第1部 第14章 第1、第2の自然法と契約について: p. 161)  単に「理性」が要請するからということで、万人が自らの権利を放棄するわけではない。ホッブズも言うように、「すべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ」なる宗教的要請も必要となってくる。他にも政治的要請もあれば、文化的要請もある。費用対効果を考えた経済的要請もあるだろう。あれやこれやそんなことを考えれば、個々人の「理性」の要請などちっぽけなものに見えては来まいか。 人間の生は、理性が解決策を見いだす、誇り(卓越性と名誉への情念)と恐れ(不名誉の懸念)との緊張関係として解釈される。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 313 ) などというのは単なるホッブズの思い込みである。 だがそこには難点が存在するのである。  第1に、この提案された解決は一面的である。恐れは和らげられるが、それは至福を犠牲にしてである。そしてこれは、不名誉への恐れが名誉への欲求をしのぐ者だけが欲するであろう状況である。このような者ならば、名誉も不名誉も両方とも除去された世界に生き残ることに満足するだろう。これは正確にはホッブズが我々に述べて聞かせてきた人間性ではない。結局のところ、理性が我々に教えることは、我々が恐怖を避けられる方法に尽きるように思われる。しかし誇りに満ちた人間は、この低級な(折り紙つきではあっても)安全を自分の要求に対する答えとして受け入れる気にはならないだろう――たとえそれを拒めばほとんど確かに不名誉を招くことを信じていても。(同、 p. 313 )  当たり前であるが、敵を片付けて名誉が得られる人間はごく一部に限られる。その他多くの人々

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(13)御伽噺の世界の法則

《人間の自然状態は…各人の各人にたいする戦争状態であり、このばあい人が統治されるのはみずからの理性によるのであって、自己の生命をその敵から守り維持するためには、それに役だつもので用いてならないものはない》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著23』(中央公論社):第1部 第14章 第1、第2の自然法と契約について: p. 160)  神になり代わってホッブズはこのように言うが、謂わばこれは「合理的空想」に過ぎない。そもそも人間の<自然状態>は、各人の各人にたいする<戦争状態>ではない。否、そもそも<自然状態>って何だ。非合理的なものを省いて行って、最後に残るものということか。だとすれば、それは決して<戦争>ではないだろう。 《このような状態においては、人はだれでもあらゆるものにたいして、おたがいに相手の身体にたいしてまで権利を持つ。したがって各人の万物にたいするこの自然の権利が存続するかぎり、自然がふつう人間に与えている生きる期間を生き抜くための安全は、いかなる人間にも、〔いかに力強く賢明であろうとも〕まったく保証されてはいない》(同) it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.” -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN (これは理性の教訓または原則である。「あらゆる

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(12)国家(civitas)

The consequence of natural appetite is pride and fear; the 'suggestion' and promise of reason is peace. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes (自然な欲求の帰結は矜持(きょうじ)と恐怖であり、理性の「提案」と約束は平和である)  「人は<優越>を求め、敵を片付け<名誉>を得る。が、次々と現れる敵によって殺されて<不名誉>を被(こうむ)る<恐怖>に苛(さいな)まれ続ける。が、<理性>がこの悪循環を断ち、<合意>によって<平和>へと導く」のだ。  が、私には、このようなホッブズの見立ては、幼稚な「知的遊戯」にしか思えない。複雑な社会を合理化し、単純な演算式に掛け解を導く。詐術的と言うのは言い過ぎであるとすれば、恣意(しい)的と言う他ない。 そして共通の敵(死)を相互に承認した結果もたらされた平和を達成しうるのは、人工的に作り出された権威ある主権者に共同して服従した状態、すなわち国家( civitas )においてのみである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 pp. 312-313 )  国家と個人の間には、地域共同体、教会といった「中間組織」が介在する。こういった「中間組織」が捨象され、いきなり「国家」が要請されるというのは、余りにも「非合理」である。 そこでは共通の権力が権限によって制定し実行する市民法の下で、契約はその不安定性を失い、「恒常的で永続的」になり、万人の万人に対する戦争は終焉に至る。平和への努力は、人間的理性が人間的恐怖に生ませたものだから自然なものである。(同、 p. 313 )  ここには「地域共同体」の社会性もなければ、「教会」の宗教性もない。顧みられるのは、「国家」という政治性だけである。こんな幼稚な論理を受け容れられるわけがない。<平和への努力は、人間的理性が人間的恐怖に生ませたものだから自然>だとホッブズは言う。が、<人間的理性>にせよ<人間的恐怖>にせよ、これらはホッブズの「空想」の産物なのであるから、「自然」なわけがないのである。 だが平和の条件は考え出されたもの

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(11)幼稚な平和論

 人間の最初の反応は、優越を求めるレースにおいて自分のすぐ前にいる直接の敵を片づけることによって、勝ち誇ることである。しかし「理性」は、これを短見に基づく勝利であるとして退ける――片づけなければならない他者はなくなることがないだろうし、彼らを片づけることができるかどうかについての不安もなくなることはないだろう。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 312)  どうして人間は本源的に「優越」を求めるなどと言えるのだろうか。「優越」を得ることは、権力を得るとともに責任を負うことにもなる。権力を得ることだけにしか目が行かないから、人間は「優越」を求めようとする生き物だなどと短絡してしまうのだ。  また、ホッブズが持ち出す「理性」も可成り安っぽい代物(しろもの)である。幾ら片付けても敵はいなくならないから「優越」を求めることに待ったを掛けると言う。が、敵がいなくなる程度に勢力範囲を限定すれば良いだけの話ではないか。「小さな社会」であれば、「お山の大将」でいることは可能である。 さらに、敵を片づけることは、自分自身の優位の承認を、従って至福を捨てることである。達成すべきことは、不名誉な死の恐れからの永遠の解放である。そして恐れから発生した理性は、いかなる欲望の満足のためにも死の恐怖を避けることが必要だと述べ、優越を求めるレースの合意による制限、すなわち平和の条件に賛成を唱える。(同)  支離滅裂だ。敵を片付けてしまっては<優位>を承認する人間がいなくなってしまう、それでは<至福>は得られない、とホッブズは考える。が、敵を片付ければ、敵からの承認を得られなくとも、周囲の人々から<優位>が承認され、<至福>は得られるだろう。  他人を殺せば「名誉」、他人に殺されれば「不名誉」って、何か違わないか。もしそうなら、むしろ殺し合いが頻発化してもおかしくない。どうして「名誉」を得る以上に「不名誉」を怖れて戦わないのか。まして<不名誉な死の恐れからの永遠の解放>など「絵に描いた餅」でしかなく、只の空想ではないか。  互いに「合意」して、優越を求める競争を制限すれば、<平和>が手に入ると考えるのは、余りにも幼稚な平和論のように思われる。例えば、1928年にパリ不戦条約が締結されている。が、この条約は有名無実でしかない。何せ、「侵略」とは

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(10)理性的被造物

 「理性(reason)」、「合理的(rational)」、「推論(reasoning)」は、ホッブズの用語法では、相互に関係してはいるが同一ではない、人間の持っている様々の能力や資質や傾向を表している。一般にこれらのことばは、人々を相互にではなく全体として動物から区別する能力を指している。少なくとも理性を持っていることをうかがわせるような2つの能力を持っている点で、人間は獣と異なる。 第1に、人間は次のような仕方で「思考の連続」を規則することができる。つまり、想像したことの原因を知るだけでなく、「何かを想像するとき、それが生み出しうるあらゆる結果を探し求めること、すなわち、それを持つとそれによって何ができるかを想像すること」ができる。換言すれば、人間においては感覚を推論が補っているので、人間の思考過程は動物が持てないような広がりと規則性を持っている。これは生来の資質のように思われる。 第2に、人間は言語( Speech )の能力を持っている。そして言語は「われわれの思考の連続をことばの連続に移すこと」である。この能力は、神がアダムの目の前に示した被造物を何と名づけるべきかを教えた時に、神(「言語の最初の作者」)からアダムに特別に与えられたものである。そしてそれは、ことばを意味ある仕方でつなげて議論を構成するという、人間だけが持っている「推論」の能力の条件である。しかしながら、言語能力は世代ごとに新たに学ばれねばならず、子供は「言語の使用に到達した」ときに、初めて「理性的被造物」になる。  ことばの第1の用法は、「回想の符号( Markes )あるいは記号( Notes )として、我々の思考の連続を記録することである。」しかしそれは他の人々とコミュニケートするためにも使うことができる。コミュニケーションの内容は情報と欲求である。確かに獣もその欲求を相互にコミュニケートするいくらかの手段は持っている。しかしことばを使えない獣は、その想像力の狭さのゆえに獲得していないもの、すなわち、人間においては「意志と目的」と呼ばれるにふさわしい、長期にわたる熟考された企てをコミュニケートすることができない。彼らのコミュニケーション能力は、そして従って互いに結ぶ合意は、「自然」な、あるいは本能的なものである。 他方人間にあっては、コミュニケーションは文字という人工物に

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(9)違和感だらけのホッブズ説

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人間の生は、誇りと恐れとの緊張関係である。この2つの1次的情念のいずれもが他方の性質を説明する。そして両者の結び付きが、人間が相互にとり結ぶ両義的な関係の特徴となっている。人間は相互を必要とする。もし他者がいなかったら、卓越性も、優位の承認も、名誉も、賞賛も、言うに足るほどの至福も存在しない。しかしながら万人は万人の敵であり、優位を求めて競争していて、この競争に失敗することを危惧しないではいられないのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 309) 政治的社会の成立していない「自然状態」では、個人が自分の利益だけを追求するため、無秩序な「戦争状態」に陥るとホッブズは考えた。が、「万人の万人に対する戦い」( bellum omnium contra omnes )などというのはホッブズの「妄想」である。否、そもそも「自然状態」などというもの自体が、ホッブズの頭の中の作り事に過ぎないのである。 《すべての人間を畏怖させうる権力のないところでは、人間は仲間をつくることになんの喜びも感じない〔どころか、逆にひじょうな悲哀を覚える〕》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著 23 』(中央公論社):第 1 部 第13章 人間の自然状態、その至福と悲惨について: p. 156 )  むしろ、政治が未発達であれば、仲間を集(つど)って協力し合わなければ生きていけないのではないかと私などは思ってしまうのであるが、どうも西欧の人達は違うようである。 《人間の本性には、争いについての主要な原因が3つある。第1は競争、第2は不信、第3は自負である。  第1の競争は、人々が獲物を得るために、第2の不信は安全を、第3の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる。第1は、他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となるために、第2は自分を防衛するために、いずれも暴力を用いさせる。第3は一語、一笑、意見の相違、その他過小評価のしるしになる瑣末事にかんして、それらが直接自己の人格に向けられたか、間接に自己の親戚、友人、国民、職業あるいは名称に向けられたかを問わず、やはり暴力を用いさせる》(同)  狩猟民族と農耕民族の違いなのであろうか。日本人なら、競争よりも協働、不信よりも信頼、自負よりも謙遜を美徳と考えるに違いない。日

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(8)欲望の原動力

人間の生来の欲望の原動力は、現在の世界が彼に提供するものではなく、優越への彼の欲求、つまり、第一人者になりたい、名誉が欲しい、ほかの人々から優れた者として認められ尊敬されたい、という熱望である。人間の至上の、特徴的な情念は誇りである。彼は何よりも自分自身の優越性を確信したがっている。しかもこの欲求は極めて強いので、彼はもし現実の状況ではできなくても(たいていできないのだが)、できるつもりになって優越感を満足させようと試みがちである。かくして誇りは自惚れ(vain glory)(「その結果を喜ぶために」栄光を単に想定すること)に堕落しうる。そして自惚れの幻想にふけるために、彼は優越をめざすレースにおいて敗れるのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 308)  自分のことしか考えない身勝手な人間が社会の中で成功するわけがない。社会において成功を勝ち取るためには、社会を味方につけなければならない。詰まり、どれだけ社会に貢献したのかが問われるということである。自惚(うぬぼ)れの幻想に耽(ふけ)るから敗れるのではない。社会を味方に付けられていないから敗れるのである。 誇りという情念はパートナーを持っている。それはすなわち恐れである。動物にあっては、恐れは単純に恐怖に襲われることとして解されよう。しかし人間にあっては、恐れは何かもっと重大なものである。想像力を持ち、そして自分の種に属する者に対して優位を維持することに携わっている動物なら、必ず優位を維持できなくなることを危惧するに違いない。恐れはここでは、単に次の快を取り逃がすのではないかと不安に思うことではなくて、レースに脱落し、そうして至福を拒まれることの恐怖なのである。そしてすべてそのような恐怖は、死の恐怖という究極の恐怖の反映である。(同)  そもそも<優位>を得られる人間はごく限られている。この極少数の者だけを見て、人間社会全体を語ることにどれだけの意味があるのだろうか。先頭を走る者が追われる恐怖など取るに足らぬ特殊な話でしかない。 それから動物にあっては究極の恐怖の対象は死であるが、それがいかなる死に方であるかを問わないのに対して、人間は他人の手にかかった暴力的な死(あるいは若死に)を最も恐れる。というのは、それは不名誉であり、あらゆる人間的失敗の象徴だからであ

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(7)人間は未来を想像する

人間の欲求は発明されて自覚的に追求される。それは想像された目標の達成のための意志的運動を引き起こしうるものであって、単にたまたま人間にとっての環境を構成するものに対する反射作用だけを引き起こすのではない。欲求と愛情、嫌悪と憎悪、喜びと悲しみといった単純な情念に加えて、希望と絶望、勇気と怒り、野心、後悔、貪欲、妬みと復讐心がある。人間は単にその生命的運動にその時都合のよい環境を欲するだけではなく、未来においてもそれが友好的であるように環境を支配することを望むのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 307)  人間は他の動物と違って未来を想像することが出来る。だから、自らが望む未来に向けて現実を制御しようとするのである。 彼らが求める目標である至福( Felicity )とは、厳密に言うと目標ではなくて、単に「人がその時々に欲求するものを獲得するのに成功し続けること」にすぎない。だが人間は決して落ち着いたり溝足したりすることはない。それは単に世界が人間を新たな反応へと駆り立て続けているからだけではなく、想像力を持った動物の欲望は本質上満足を知らないからである。人間は「死において初めてやむ、次から次に権力を求める休みなき欲求」を持っている。それは彼らがいつも「一層強烈な喜び」を求めるように追い立てられているからではなく、さらに大きな力を獲得しなければ、今持っているだけのよく生きる能力についても安心できないからである。(同)  成程、人間は飽くなき<至福>を追い求める存在なのであろう。が、だからといって、現実を忘れ、<至福>だけに固執してしまっては、空転するだけである。現実と理想は、平衡されなければ、確かな実を結ぶことはないということである。 ホッブズの理解するところでは、人間も動物も自己中心的なところでは同じだが、人間の欲望と情念は競争的性格を持っているという点で、両者の性質は異なる。「人間の喜びは自分と他人を比較するところにあり、自分が優れていることしか楽しめない。」従って人間の生は、「一番になること以外には、何の目標も栄冠もないレースである。」至福とは「前にいる者を抜き続けることである。」実際何にもまして心臓の生命的運動を刺激する、人間にとっての最大の喜びは、自分自身の力の意識である。(同、 pp. 307-30

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(6)記憶と想像

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 一般的に、ホッブズにとっては、生きていることについてのこの説明は人間にも動物にもあてはまり、その説明の一部はおそらく他の有機体にもあてはまった。すなわち生きているということは、環境との接触によって助長され、あるいは妨げられる生命的運動が始めから備わっていて、原始的に死を嫌悪するということなのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 306-307) この点でホッブズは人間と他の有機体とを区別する。たとえば動物は快苦を感ずるかもしれないが、その生命的運動は、それが直接に接触する環境によってしか影響されず、その欲望と嫌悪は、そこに現存するものとの関係においてのみの好悪の運動であり、その空腹は一時的な空腹である。しかし人間はその欲望と嫌悪の範囲を拡大する、他の資質を持っている。そのうちの主たるものは、記憶と想像力である。人間はその快苦の経験をたくわえ、あとになってそれを思い出すことができる。そして物体から成り立っている、避けることのできない環境に加えて、人間は想像した経験の世界で自らを取り囲む。(同、 p. 307 )  スコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームは、記憶と想像について次のように書く。 《一たい、經驗の敎えるところによれば、如何なる印象もひとたび心に顯(あらわ)れる時は、觀念として再び心に出現するものである。しかもその現れ方には2通りあることができるのである。  卽(すなわ)ち、新しく出現するに當(あた)って初めの活氣を多分に保留して印象と觀念との中間の趣を示す場合と、最初の活氣を全く失って完全な觀念である場合と、この2通りである。初めのように印象を反復する機能を『記憶』と呼び、次のを『想像』と呼ぶ。一見して明白なように、記憶觀念は想像觀念より遙かかに生氣に富んで强く、想像機能が如何に對象を判明に畫(えが)けばとて、記憶機能の判明さには及ばないのである。 例えば、過去の或る出來事を憶い出すとき、この出來事の觀念は心に勢よく雪崩(なだ)れ込む。然(しか)るに、想像では知覺が淡く萎(な)えていて、これを心が相當長く不動且(か)つ一樣に保存しようとすることはなかなか困難なのである。然らばここに、〔記憶といふ〕觀念の小類と〔想像といふ〕他の小類とを分つ目立った相違が存するのである》(『人性論(1)』(岩波文庫

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(5)個性の合理化

if it is the enterprise of every philosopher to translate current sentiments into the idiom of general ideas and to universalize a local version of human character by finding for it some rational ground, this enterprise was fortified in Hobbes by his notion of philosophy as the science of deducing the general causes of observed occurrences. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes (現在の感情を一般的な思想のイディオムへと翻訳し、局所的類(たぐい)の人間の人格を、何らかの合理的根拠を見出すことによって普遍化することが、あらゆる哲学者の仕事だとすれば、この仕事は、科学とは観察された出来事の一般的原因を推論することだとするホッブズの哲学観によって強化されたのである) unlike Spinoza, who presents us with a universe composed of metaphysical individualities (man being only a special case of a universal condition), Hobbes's starting-point as a moralist was with unique human individuality; and, as he understood it, his first business was to rationalize this individuality by displaying its 'cause', its components and its structure. (スピノザが形而上学的な個性(人間はある普遍的条件の特例にすぎない)からなる宇宙を提示したのとは異なり、ホッブズの道徳

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(4)個人に切り込んだホッブズ

 共通善の道徳は人間性の異なった解釈、あるいは(同じことだが)人間性の異なったイディオムの発生に源を持っている。人間は活動の独立した中心として認められる。しかしこの個性が他者の個性とではなく、そのような人間から成るものと解された「社会」の利益と衝突するときは、いつでもその個性を抑圧する行動が是認される。全員がただ1つの、共通の事業にたずさわっているのである。 ここではライオンと牡牛はそれぞれ区別される。しかし両者にはただ1つの法しかないだけではなく、両者にはただ1つの承認された状況の条件しかないのである。ライオンは牡牛と同様に藁(わら)を食べるだろう。人間の状況のこの承認された条件は「社会的善」、「万人の善」と呼ばれる。そして道徳はこの条件が達成され維持される技術である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 303-304)  社会が成熟するにつれて、人は「個人」として尊重される。が、個人の自由が拡大するにつれて、社会との軋轢(あつれき)も増す。この場合、道徳は、個人と社会の衝突を未然に防ぐための規範である。 一人のモラリストの著作を考察するにあたって最初に確かめるべきことは、彼が人間性についてどのように理解しているかである。そして我々はホッブズの中に、私が個性の道徳と呼んだ道徳的生のイディオムの探究にたずさわった著作家を見いだす。このことはまったく驚くまでもない。自分一人で諸価値や1つの人間観を発明するのは極めて無能なモラリストだけである。教訓も人間観も、彼は自分を取り巻く世界から取ってこなければならない。 そして17世紀の西欧に現われた人間性は、個性に対する感覚が抜きん出ているものだったから――自らの知的な、あるいは物質的な成功を目指す、独立した、進取の気性に富んだ人間と、自分自身の運命の責任を引き受ける個人としての人間の魂――、これはホッブズの同時代人にとってと同様、彼にとって道徳的反省の主題とならざるをえなかった。もしホッブズが(あるいは17、18世紀の他のいかなるモラリストにしても)共同体の絆の道徳か、共通善の道徳の探究を企てたとしたら、それは時代錯誤だったろう。(同、 pp. 304-305 )  ホッブズは、個人に切り込んだ。道徳を個人の次元で考察したのである。 ホッブズをその同時代人から分かつものは何

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(3)道徳的活動のイディオム

オークショットは、 (道徳的活動の)イディオムは3つある(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、 p. 302 ) と言う。 第1に共同体の絆の道徳。第2に個性の道徳。第3に共通善の遺徳。  共同体の絆の道徳にあっては、人間は単に共同体のメンバーとしてしか認められず、あらゆる活動は共同体の活動として理解される。ここでは、自分で選択をすることができ、そうする傾向を持っている個々別々の個人なるものは知られていない。その理由は、彼らが抑圧されているからではなくて、そもそも彼らが現われてこられるような環境が存在しないからである。(同、 pp. 302-303 )  これは、「原始共同体」と呼ばれるような初期の共同体に関するものであろう。初期の共同体は、生産性が低く、一致協力し活動することでやっと生存することが出来た。「個人」などというものが出現する余力はなかった。 ここでは、よい行動は共同体の変わることのない活動に適切な仕方で参与することとして理解される。あたかもあらゆる選択はすでになされてしまったかのようであって、なされるべきことは、一般的な行動のルールの形ではなく、詳細な儀式の形で現われ、そこからの逸脱は極めて困難なのでそれに対する選択肢が見えないかのようである。なされるべきことはなされたことと区別できない。技芸は自然として現われる。それでもこれは道徳的行動のイディオムである。なぜならこの共同体の活動の仕方は、実際には技芸であって自然ではないのだから。だがそれは(むろん)計画の産物ではなく、無数の、忘れられて久しい選択の産物なのである。(同、 p. 303 )  生きるためには、成員が一致団結し活動しなければならない。共同体の掟には逆らえない。それは生存するための絶対的な活動の選択なのである。 個性の道徳においては、人間は(自分たち自身をこの性格の中に認めるに至ったために)個々別々の主権者たる個人として認められる。彼らは相互に結びつくが、それはただ一つの共通の事業に従うからではなく、ギブ・アンド・テイクの事業の中においてであり、できる限り互い同士に順応しようとする。それは自己と他の自己との道徳である。ここでは個人の選択が肝要であり、幸福の大きな部分はその行使と結びつけられる。道徳的行動はこれらの個人の間の確定した関

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(2)美徳などというものは存在しない

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《道義の體系(たいけい)を說いた人々はこうした〔理由を準(なぞら)えるという〕用心をしないのが普通である。それゆえ、私は讀者(どくしゃ)がこれをするように敢(あ)えて勸めよう。そして私は堅く信ずるが、この僅かな注意は道德性に關(かん)する一切の卑俗な體系を覆(くつがえ)すであろう。換言すれば、德と惡德との區別(くべつ)は事物の關係だけを根柢(こんてい)とするものでなく、理知によって看取されるものでないこと、この點(てん)を我々に判(わか)らせるであろう》(デイヴィド・ヒューム『人性論(4)』(岩波文庫)大槻晴彦訳、p. 34)  詰まり、道徳的判断は理性的推論によっては導かれないという主張である。 It was the acute Vauvenargues who detected that it was only by the subterfuge of inventing a “ virtu incompatible avec la natur de l’homme ” that La Rochefoucauld was able to announce coldly that “ il n’y avait aucun virtu .” Indeed, the idioms of moral conduct which our civilization has displayed are distinguished, in the first place, not in respect of their doctrines about how we ought to behave, but in respect of their interpretations of what in fact we are. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes (ラ・ロシュフコーが「美徳などというものは存在しない」と冷徹に言い放つことが出来たのは、「人間の本性と相容れない美徳」を発明するという欺瞞によるものでしかないと見抜いたのは、鋭いヴォーヴナルグであった。実際、我々の文明が示してきた道徳的行動のイディオムは、第1に、我々がどのように振る舞うべきかについての教義で

オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(1)道徳的生とは何か

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オークショットは、 The moral life is a life inter homines . – Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes (道徳的生は、人と人との間の生である) という。 Even if we are disposed to look for a remote ground (such, for example, as the will of God) for our moral obligations, moral conduct concerns the relations of human beings to one another and the power they are capable of exerting over one another. – Ibid. (たとえ、道徳的義務に(例えば、神の意志のような)遠隔根拠をさがす傾向があるとしても、道徳的行為は、人間同士の関係や、人間同士が互いに及ぼすことのできる力に関係しているのである) 道徳的生が発生するのは、人間の振舞いが自然の力の必然性から免れているとき、すなわち人間行動に選択肢があるときに限られる。それだからといって、特定の選択が個々の機会になされることは必要ではない。道徳的行動は習慣になっているかもしれないからである。また個々の場合に人がある仕方で振舞うような性向を持っていても構わない。そしていかなる場合にも選択の幅が無限である必要もない。 しかし道徳的生は選択の可能性を要求する。そしておそらく我々は、何らかの種類の特定の選択(必ずしもこの行為の選択でなくてもよいが)が、ある時点になされた――たとえそれらの選択が確定した性向の中に埋もれて見えなくなってしまったとしても ―― と想定することができよう。換言すれば、道徳的行動は技芸(アート)であって自然ではない。それは身についた技量の行使である。 しかしここでいう技量とは、いかにして最小のエネルギーの支出によって欲しいものを手に入れるかを知るという技量ではなくて、いかにして我々が振舞うべきように振舞うかを知る技量である。すなわち欲求の技量でなく、是認と是認されたことの実行との技量なのである。(オーク

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(28)【最終】友人関係は功利的なものではない

友人や恋人たちは、互いからどんな利益を引き出そうかと考えるわけではなく、ただ相互の享受を心がけるにすぎない。友人とは、ある仕方で行動するに違いないと信頼される人であるわけではないし、一定の有益な特性を有し、妥当な意見をもっていると信頼されている人であるわけでもない。友人とは、興味や歓びや、理由のない信頼を喚起するような人なのであり、(ほとんど)観想的想像に与(あずか)らせる人なのである。 友人たちの関係は劇的なものであって、功利的なものではない。そしてまた、愛するということは、「何か善をなす」ということとは違う。それは何も義務ではないし、是認や否認せねばならないということから、一切自由である。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 pp. 291-292 )  友人関係は、本来、功利的なものではない。一切功利的なものを排除できるわけではないにしても、功利的なものが表へ出てしまっては、友人関係は長続きしないだろう。 愛情や友情におけるイメージ(愛情や友情の想像様式の中で創り出されるもの)は、実践的想像作用への他のいかなる関わりにおけるよりも、「何であれ成り行きまかせ」という性質をもっている。たとえ、これらを観想的活動と呼ぶのが適当とは言えないとしても、それらは少なくとも観想を模倣するものであり、詩と実践の言語の間を架橋し、共通の理解への道すじをつけるという意味で、実践的性格のあいまいな活動であるといえよう。そしておそらく、文学作品の中で恋におちる作中人物たちが、すべての詩的イメージの中で最も一般的なものであるのも、このためである。(同、 p. 292 )  友人関係においては、その時々を楽しんでいるだけであって、そこから何か利益を得ようとしているわけでもなければ、何かを探求しようというのでもない。 (「有徳な行動」とか、「すばらしい性格」とか、「よい仕事」への関与などとは区別されるような)「道徳的善」の中には、行動の生気のなさや完遂の可能性からの自由があり、それが詩の模放となっているのだ。なぜならここにあるのは、個人的で自己充足的な活動であり、世界への適応から解放され立場や状態から自由であり、過ぎ来しゆく末から独立に、各人がそれにあずかることができる。(同、 pp. 292-293 )  「道徳的善」における<個人的で自己

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(27)詩的想像を逃避と蔑む勿れ

 こ(=社交)の会話の中では、各言語はそれぞれの観点から、他のすべての言語の用語法を規定している条件からのある解放を表現している。学知は、実践の力のための知識からの「逃避」であり、実践的活動は科学的「事実」からの「逃避」である。したがって、もし我々が詩的想像を一種の「逃避」として語るなら、(そのさい観想は、欲求や是認や追求や探究などからの「逃避」と認められるであろうが)それは、他のいかなる想像作用の言説空間とも異なって構成された言説空間にあるもの、という以上の何ものでもない。実践と科学の両方について本来言われること以上、何も言っていないに等しい。そして、詩的想像が一種の「逃避」であると言われる時、割り込んでくる非難がましい調子は、会話についての不完全な理解を表すものであるにすぎない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 289)  詩的想像は住む世界が違うのであって、これを「逃避」と決め付けるのは適切ではない。詩的想像が「逃避」と見えるのは、実践的活動と科学的探究に携わる人達が自らの活動を中心に物事を見ているからに過ぎない。 もちろんある観点からすれば、詩は一種の「逃避」ではある。しかしそれは、(しばしば考えられているように)詩人の、大方は不如意で不自由な実際生活からの逃避ではなく、実践的活動の諸々の要点からの逃避である。しかし、実践的企てや、倫理的努力や科学的探究には、そこから逃避することを嘆かねはならぬような神聖なものなど、何もない。(同)  詩的想像は、実生活からの「逃避」なのではなく、実践的活動と異なった種類の活動に携わっているに過ぎない。実践的活動を比較優位において、詩的想像を「逃避」であると蔑視するとすれば、それは独善的に過ぎよう。 実際これらは、我々ができればのがれたいと思っているもともとわずらわしい活動であるし、これらの言葉しか話されないような会話はまことに味気ないものであろう。ところが詩においては、欲求したり苦しんだり、知ったり工夫したりする自己は、観想する自己によって押しのけられる。背影に目を向けることは、どんな場合でも観想を裏切ることとなり、排除することが困難であるばかりか、致命的な結果をまねくものとなってしまう。にもかかわらず、会話へ参加するために、言語は自分自身の用語法で語らねばならないばかりか、

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(26)詩に恣意的役割を宛がう人達

(シラーの)もう少し深遠な見解においては、芸術の「社会的価値」は、実践的いとなみにばかり専念している生活の一様性や堅苦しさから自由にさせてくれることに存在するのだ、と認められている。そして悪名高き誇張的な言い方で詩人はこれまで「言葉の意識されざる立法者」と呼ばれてきたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 288)  実生活の一様性や堅苦しさからの解放、それが芸術の社会的価値だとドイツ思想家のシラーは言うのである。 世界と我々自身について探究することが、人間のとりわけ本質的な仕事であると考える著作家は、当然詩の役割をも学知( scientia )との関係で解釈することに関心を向けがちである。(同)  探究という活動に慣れ親しんだ著作家は、詩もまた探究という色眼鏡を通して見てしまいがちである。当然、詩の役割を考えるにあたっても<学知>が持ち出される。 詩的想像の中に、学知という足かせからの気晴ししか見ないような著作家たちがいる。彼らは詩の非記号的言語の中に、科学的コミュニケーションにとっては役に立たない道具しか見出さないのである。これらは一種の差別廃止論者である。彼らは注目すべき系譜をもっていて、17世紀以降ずっと我々の社会で羽ぶりがいい。しかし彼らと仲間を組む著作家たちは、詩的想像に、「事実をありのままに見る」力を要求し、詩を世界についての知識の記録や貯蔵と見なし、世界の本質についての明断で公平な意識を与えてくれる力と役割を帰属させるべきもの、というように詩を理解するのである。そしてまた、科学的探究や発見の過程そのものの中に、彼らが詩的想像と見なすような要素を識別する人々さえいるのである。(同)  詩は、記号的言語の世界に属するものではない。だから科学的コミュニケーションは成り立たない。詩的想像に<学知>が見出せないからといって、それを<気晴らし>としてしか見ないのは偏見である。が、この偏見が大手を振って社会を闊歩(かっぽ)しているのである。詩に<事実>を要求し、詩を記号化し、画一的に解釈しようとする。そして詩に対し、探究活動に都合の良い恣意的な役割を宛(あて)がうのである。 唯一考慮に価する詩の弁護論は、詩の言語の位置と特質を、人間の会話ということの中に識別しようとするものである。即ち各言語が、それぞれの

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(25)詩的想像の分からぬ人達

特定の活動様式が卓越していると考える人は誰でも、その様式に関して詩がはたす仕事を見出そうと務めるに違いない。それゆえ実践的企てや道徳的努力が人間のもっぱら主要関心事であるからには、詩を弁護する最も一般的な形が、この関心に詩が答え得ることをうけあうことであるとしても、何ら不思議はない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 287)  我々は、詩が有する曖昧さの裏に、何か深い意味合いが潜んでいるのではないかとつい考え勝ちである。実践的企てや道徳的努力に四苦八苦している人達には、そこに何か足掛かりがあるのではないかと見てしまう。 芸術と社会との関係を探究することは、実践活動に従事する人々の社会との関係を探究することである。つまり「社会秩序における詩の『機能』は何か」を問うことである。このような筋道をたどる著者のある者は、詩的想像についてこれといった考えがないので、それをまともな生活のなりわいからの、悼(いた)むべき逸脱であると考えてしまう。あるいはせいぜいのところ、それは休日のハイキングのようなもので、我々は休養をとり、またおそらくは新たな活力を得て再び仕事へもどることができるのだと思われているのである。(同)  詩は社会にどのような影響を与えるのかということであるが、これこそ詩を実践的活動の一部と捉えてしまう誤りである。 詩を実践的努力のための有益な僕(しもべ)であるかのように見なし、いろいろな有用な仕事をするものだと考える人もいる。詩の職務とは、このような人々によれば、我々にいかに生きるべきかを言ってくれたり、我々の行動に関するある種の批判を提供してくれるものである。それは、道徳的諸価値の尺度を記録したり、流布するものである、また特殊な道徳教育を与え、よき感情を単に記述したり推賞したりするのみならず、実際に我々の中に鼓舞するものである。あるいはまた、感情生活の健康を増進させ、腐敗した良心をいやし、「我々を存在にあわせて調整し」それが現われる「社会」の構造や機能を反省するものである。そして、みじめな人々を慰め、罪人たちのどぎもをぬき、あるいはただ単に、「仕事の時に音楽を」提供するものだったりするのである。(同、 pp. 287-288 )  詩を「神の啓示」のように感じ、そこに何か大切なものが隠されていると考える。そのこと

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(24)具体的状況が忘れ去られた活動

彫塑(ちょうそ)での発明について言えば、かかる変化をもたらした、おそらく最も重要な情況は、芸術作品と認められる資格をそなえた作品が単にありあまるほど豊富に存在するようになったということであろう。王侯・貴族、教会、商人、市当局、組合などの宝庫にため込まれ、保管されたこれらは、その実践的な由来や製作の機会が知られなくなったり、忘れ去られてしまい、それがかつてもっていたかもしれない実用や意味合いすべてから切り離され、こうして、新しい文脈へと移し置かれることによって、観想的注視を喚起し得るものになったのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 286)  それが作られた具体的状況が忘れ去られてしまい、抽象的意味や価値だけが残された。皮肉にも、その忘却が観想的活動を可能にしたということである。 それはちょうど、古い時代に征服したローマ人たちがギリシアの寺院や彫刻によって、観想的歓びを喚起されることになったようなものである。というのは、彼らにとって、それらは何ら宗教的・記号的な意味合いはもたなかったからである。イコンや絨緞(じゅうたん)や偶像や建造物や日常用品が、それらをもともと使用するはずではない人の目で見られたり、あるいはそれらのはじめの文脈から移し替えられたりして、我々自身の時代での認知を受けることになるのは、これとまったく同様の情況である。(同)  それが作られた具体的状況を与(あずか)り知らぬ者たちだからこそ、観想的歓びを享受することが出来たのである。 詩や絵画の「主題」への注目とか、詩の中に行動への手引きを求めがちな我々の傾向とか、詩を知恵や娯楽ととり違えたり、詩の「心理学」に興味を示したり、虚構をそれ自体で受け入れにくく、それを記号的なもの、見せかけのもの、あるいは幻想などと解釈する憤向などであるが――それらは何であれ、詩が現われ認知されるはるか以前の時代から生き残っているものとして、あるいは、我々にとって歴史的に比較的新しく、今なお不完全にしか消化されていない経験に対する反動として、理解することができるのである。(同、 pp. 286-287 )  ともすれば我々は、詩や絵画の中に隠された「テーマ」を見出そうとしたり、詩の中に行動への手引きの暗示を読み取ろうとしがちである。詰まり、詩それ自体を楽しむのではなく、

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(23)忘却の果たす役割

ヨーロッパでは、それほど古くない時代にも我々が「芸術作品」と認め得るものを実践的活動のはしため(端女=召使いの女)とみなしていた。もっぱらその仕事は、装飾的で説明的なもの、王侯の威厳や、宗教的しきたりや大商人の生活などのかざりと考えられていた。それは、敬虔(けいけん)とか、家名の誉(ほまれ)とか、正義への尊敬や権威の擁護などを表現したり喚起するものとして賞賛されていた。また特筆さるべき人物や出来事の記念を残すため、あるいは見知らぬ人々が互いの顔を知り合うため、また、正しい信念を表したり、よい行動を教えるための手段として賞賛された。 しかし、こういったものからの解放、即ちこれらの対象を観想的注意にふさわしく工夫されたイメージと認めることは、実践的想像力の権威から逃れようとする、何か真新しい、説明のつかぬあこがれから生み出されたのではなかったし、まったく異なった種の作品の生産の中に、忽然(こつぜん)と始まったわけでももちろんない。それが生じたのは、様々の情況の変化からでありその変化が(すでにそこに存在していたものに、新しい文脈を与えることによって)それを変形し、さらにこの文脈にふさわしく物事をあんばいする性向を引き出しさえすることによってである。実際、時間の経過と人の忘れっぽさということが、この解放で大きな役割を演じていたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 285 )  「忘却」というものが大きな役割を果たした。具体的な意味が、時が過ぎることで忘れ去られてしまい、後に<イメージ>だけが残されたということである。 つまり、もともとそれが言わんとするところが失われてしまった物語や、その「意味するところ」が忘れ去られてしまったイメージが生き残るとか、どこかからやってきて、その記号体系がもはや知られないような(言語的および彫塑的)イメージと遭遇するとか、ということである。 例えば『真夏の夜の夢』と『テンペスト』の中では、イメージの全体は、それらのもつ宗教的および実践的意味合いから自由になり、詩へと変形されてしまっている。もはや呪縛しない呪文があり、自らの情動的力を失ったイメージがあり、歴史と神話の双方における自分の場を失い、詩的な性格を獲得している人物たちがいるのである。(同、pp. 285-286)  <呪縛しない

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(22)比喩

詩の言語においては、比喩はそれ自身詩的イメージとなっており、したがって、それらは虚構である。詩人は、自然的・習慣的対応関係を認知したり記録するのではない。またそれを「実在を探究するために」使うのではない。詩人は同等性を喚起するのではなく、イメージを作り出すのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 282-283)  詩人は、言葉を用いて何か具体的なものを喚起するのではない。抽象的イメージを想起させるのである。 詩人の比喩は、何ら定まった価値をもってはいない。それがもっている価値とは、詩人がそれに与えることに成功したものだけである。もちろん、言語的表現であるかぎり、それらも記号性ということから完全にまぬがれてはいない。それらのいずれも(そしてとりわけ、いわゆる「神聖な」または「原型的な」イメージは)固定的価値をもつ貨幣へと堕落することがあるが、こんなことになる時には、それらはもはや詩的イメージであることを、単にやめてしまっているのである。そして、記号的比喩をもてあそび、それで様々のパターンを組み立てることは、コールリッジが詩的想像と対比して「空想」と呼んだ活動に他ならない。(同、 pp. 282-283 )  比喩は、言語を用いた表現法である限り、記号性を免れ得ない。が、だからといって、記号の世界にどっぷり浸かってしまっては、もはや<詩的想像>とは成り得ない。コールリッジ言うところの「空想」ということになってしまうだろう。が、詩的比喩は<イメージ>を作り出すものであり、本来的に<虚構>の世界に属するものなのである。 科学においてはあいまい性の余地がないように、詩においては陳腐なイメージの余地はない。それゆえ、詩が現われる前に「解消」されねばならないものは、「原的な」様式をもたない想像作用のイメージなのではなく、実践的活動の記号言語と、科学のより厳密に記号化された言語の権威なのである。音楽や舞踏における詩的想像作用の敵は、記号的な音と動きである。造形芸術は、形態の記号性が忘れられた時にだけ立ち現われ、実践的活動の記号言語は、詩の出現に対して、強く執拗な障害となる。(同、 p. 283 )  言葉の記号化とは、言葉の画一化である。が、記号化された言葉では詩的想像は行えない。言葉の画一化が解かれた時、イメージが浮かび上

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(21)<美>と<真>

「美」とは(私が今それが属するのがふさわしいと考える美学理論の語りの中では)「真理」のような言葉ではない。それはまた異なったふるまいをもっているのである。「美」という言葉は、その使用がある詩的イメージを記述することであるような言葉、即ち、立派な行動を(是認しつつ)称賛したり、うまくいったこと(数学の証明などのような)を称賛したりする場合と違って、観想的傍観者の中に喚起する卓越した歓びのゆえに称賛せざるを得ないような詩的イメージを、記述することをその役割としている、そういう言葉なのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 281)  <美>は<真>とは異なる。よって、<美>という言葉を<真理>だと受け取るとすれば、それは誤りである。<美>には、美醜の区別はあれども、真偽の判断はない。<美>には、それに触れることによって<歓び>と変わる<詩的イメージ>があるだけである。 詩は言語にはじまり言語に終る。だが詩の言語の中では、単語、形姿、音声、動きなどは、あらかじめ定めおかれた意味作用をもつ記号なのではない。それらは、チェスの駒のように、知られた規則に従ってふるまうわけでもなければ、貨幣のように、流通する一定の価値をもつと認められたものでもない。それらは特定の適合性や使用法をもつ道具ではないし、伝達されるものが既に思考や情念の中に存在しているとされる場合の伝達手段でもない。それのみか詩の言語は、およそ同じ意味を伝えているなら、他の語に置き替えができるようなあるいは他の種類の記号(例えば単語のかわりに身ぶり)でしばしば同じようにまにあうような、同義語を多く含む言語ではない。手短に言えば、それは記号的言語ではないのだ。詩においては、語自身がイメージであり、他のイメージのための記号なのではない。(同、 pp. 281-282 )  詩は、<記号的言語>ではない。Aという記号が必然的にBを意味するというようなものではない。詩の言語は、イメージでしかない。また、ある詩的言語が特定のイメージを喚起するわけでもない。詩的言語は、人が<歓び>を得る源と成り得る<イメージ>でしかない。 想像することは、それ自体発話であり、発話がなければいかなるイメージもないのである。それは、語彙というものをもたない言語であり、従って、模倣によっては学習できない

オークショット「人類の会話における詩の言葉」(20)詩的想像における活動

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 「リリーとの恋愛関係を描写したところには、」と私はいった、「あなたの青春の息吹きがひしひしと感じられます。むしろ、ああいう場面にあの当時の呼吸づきがそっくりそのまま出ていますね。」  「それというのも、」とゲーテはいった、「あのような場面は詩的だからさ。そして私が詩の力をかりて、すでに今は失われてしまった青春時代の恋愛感情を補おうとしたからだよ。」(エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』(岩波文庫)1831年3月28日付、 p. 289 )  <場面が詩的>とは、ある特定の具体的な場面ではなく、<当時の呼吸づき>がそっくりそのまま出ている場面。そして<今は失われてしまった青春時代の恋愛感情>を補うために詩の持つ想像力をゲーテは借りたのである。 詩的想像における活動は、何かを「表現」したり「伝達」したり、「模倣」「模写」「再生」「呈示」したりする活動ではない。「原的想像」なるものがあってその活動に素材を提供するのではないし、それが利用できるような何かを想像する、他の想像モデルがあるわけでもない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、 p. 281 )  <原的想像>とは何か。 コールリッジは(カントにならって)すべての経験が「想像作用」であると考える傾向があった。しかし、彼が「原的想像」と呼ぶものが、実際「原的」であるのは、それが我々が最もしばしばかかわりをもつ想像様態、つまり実践的想像であるという意味でのみである。(同、 p. 299 )  <詩的想像>と<実践的想像>は、同じ<想像>という言葉が使われていても、その意味合いは異なる。<詩的想像>とは、何かを具体的に意図した活動ではない。何かを「表現」したり「伝達」したりしようとするものではない。 それは、自分自身の観想的イメージの享受で歓びを得る活動力に他ならない。これらのイメージが互いに合わさっていかなるパターンを作り上げるのか、より複合的なイメージの構成要素となる資格は何かは、あらかじめ決定されていない。連鎖パターン、呼応といったものが我々に歓びを与え得るのは、それらが期待に答えるものである場合、しかしそれもそれが詩的な期待である場合のみである。そしてそれらは、予期を大きくはずれて与えられることから我々を驚かせるが、それも詩的な驚きである場合にのみ、歓びを与える