オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(6)記憶と想像
一般的に、ホッブズにとっては、生きていることについてのこの説明は人間にも動物にもあてはまり、その説明の一部はおそらく他の有機体にもあてはまった。すなわち生きているということは、環境との接触によって助長され、あるいは妨げられる生命的運動が始めから備わっていて、原始的に死を嫌悪するということなのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 306-307)
この点でホッブズは人間と他の有機体とを区別する。たとえば動物は快苦を感ずるかもしれないが、その生命的運動は、それが直接に接触する環境によってしか影響されず、その欲望と嫌悪は、そこに現存するものとの関係においてのみの好悪の運動であり、その空腹は一時的な空腹である。しかし人間はその欲望と嫌悪の範囲を拡大する、他の資質を持っている。そのうちの主たるものは、記憶と想像力である。人間はその快苦の経験をたくわえ、あとになってそれを思い出すことができる。そして物体から成り立っている、避けることのできない環境に加えて、人間は想像した経験の世界で自らを取り囲む。(同、p. 307)
スコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームは、記憶と想像について次のように書く。
《一たい、經驗の敎えるところによれば、如何なる印象もひとたび心に顯(あらわ)れる時は、觀念として再び心に出現するものである。しかもその現れ方には2通りあることができるのである。
卽(すなわ)ち、新しく出現するに當(あた)って初めの活氣を多分に保留して印象と觀念との中間の趣を示す場合と、最初の活氣を全く失って完全な觀念である場合と、この2通りである。初めのように印象を反復する機能を『記憶』と呼び、次のを『想像』と呼ぶ。一見して明白なように、記憶觀念は想像觀念より遙かかに生氣に富んで强く、想像機能が如何に對象を判明に畫(えが)けばとて、記憶機能の判明さには及ばないのである。
例えば、過去の或る出來事を憶い出すとき、この出來事の觀念は心に勢よく雪崩(なだ)れ込む。然(しか)るに、想像では知覺が淡く萎(な)えていて、これを心が相當長く不動且(か)つ一樣に保存しようとすることはなかなか困難なのである。然らばここに、〔記憶といふ〕觀念の小類と〔想像といふ〕他の小類とを分つ目立った相違が存するのである》(『人性論(1)』(岩波文庫)大槻晴彦訳、pp. 36-37)
《記憶觀念も想像觀念も、生氣ある觀念も淡い觀念も、對應(たいおう)印象が先に進んで途(みち)を用意しない限り心に出現することはできないが、しかも想像は原印象と同じ順序・形式に拘束されない。然(しか)るに、記憶はこの鮎(てん)で多少束縛されていて、模樣替えする力能を少しも持たない》(同、p. 37)
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