オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(7)人間は未来を想像する
人間の欲求は発明されて自覚的に追求される。それは想像された目標の達成のための意志的運動を引き起こしうるものであって、単にたまたま人間にとっての環境を構成するものに対する反射作用だけを引き起こすのではない。欲求と愛情、嫌悪と憎悪、喜びと悲しみといった単純な情念に加えて、希望と絶望、勇気と怒り、野心、後悔、貪欲、妬みと復讐心がある。人間は単にその生命的運動にその時都合のよい環境を欲するだけではなく、未来においてもそれが友好的であるように環境を支配することを望むのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 307)
人間は他の動物と違って未来を想像することが出来る。だから、自らが望む未来に向けて現実を制御しようとするのである。
彼らが求める目標である至福(Felicity)とは、厳密に言うと目標ではなくて、単に「人がその時々に欲求するものを獲得するのに成功し続けること」にすぎない。だが人間は決して落ち着いたり溝足したりすることはない。それは単に世界が人間を新たな反応へと駆り立て続けているからだけではなく、想像力を持った動物の欲望は本質上満足を知らないからである。人間は「死において初めてやむ、次から次に権力を求める休みなき欲求」を持っている。それは彼らがいつも「一層強烈な喜び」を求めるように追い立てられているからではなく、さらに大きな力を獲得しなければ、今持っているだけのよく生きる能力についても安心できないからである。(同)
成程、人間は飽くなき<至福>を追い求める存在なのであろう。が、だからといって、現実を忘れ、<至福>だけに固執してしまっては、空転するだけである。現実と理想は、平衡されなければ、確かな実を結ぶことはないということである。
ホッブズの理解するところでは、人間も動物も自己中心的なところでは同じだが、人間の欲望と情念は競争的性格を持っているという点で、両者の性質は異なる。「人間の喜びは自分と他人を比較するところにあり、自分が優れていることしか楽しめない。」従って人間の生は、「一番になること以外には、何の目標も栄冠もないレースである。」至福とは「前にいる者を抜き続けることである。」実際何にもまして心臓の生命的運動を刺激する、人間にとっての最大の喜びは、自分自身の力の意識である。(同、pp. 307-308)
が、人間には普通、利己的な面だけでなく、利他的な面もある。でなければ社会で共同生活を営むことは出来ない。<前にいる者を抜き続けること>など偏頗(へんぱ)な<至福>でしかない。
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