オークショット「人類の会話における詩の言葉」(22)比喩
詩の言語においては、比喩はそれ自身詩的イメージとなっており、したがって、それらは虚構である。詩人は、自然的・習慣的対応関係を認知したり記録するのではない。またそれを「実在を探究するために」使うのではない。詩人は同等性を喚起するのではなく、イメージを作り出すのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 282-283)
詩人は、言葉を用いて何か具体的なものを喚起するのではない。抽象的イメージを想起させるのである。
詩人の比喩は、何ら定まった価値をもってはいない。それがもっている価値とは、詩人がそれに与えることに成功したものだけである。もちろん、言語的表現であるかぎり、それらも記号性ということから完全にまぬがれてはいない。それらのいずれも(そしてとりわけ、いわゆる「神聖な」または「原型的な」イメージは)固定的価値をもつ貨幣へと堕落することがあるが、こんなことになる時には、それらはもはや詩的イメージであることを、単にやめてしまっているのである。そして、記号的比喩をもてあそび、それで様々のパターンを組み立てることは、コールリッジが詩的想像と対比して「空想」と呼んだ活動に他ならない。(同、pp. 282-283)
比喩は、言語を用いた表現法である限り、記号性を免れ得ない。が、だからといって、記号の世界にどっぷり浸かってしまっては、もはや<詩的想像>とは成り得ない。コールリッジ言うところの「空想」ということになってしまうだろう。が、詩的比喩は<イメージ>を作り出すものであり、本来的に<虚構>の世界に属するものなのである。
科学においてはあいまい性の余地がないように、詩においては陳腐なイメージの余地はない。それゆえ、詩が現われる前に「解消」されねばならないものは、「原的な」様式をもたない想像作用のイメージなのではなく、実践的活動の記号言語と、科学のより厳密に記号化された言語の権威なのである。音楽や舞踏における詩的想像作用の敵は、記号的な音と動きである。造形芸術は、形態の記号性が忘れられた時にだけ立ち現われ、実践的活動の記号言語は、詩の出現に対して、強く執拗な障害となる。(同、p. 283)
言葉の記号化とは、言葉の画一化である。が、記号化された言葉では詩的想像は行えない。言葉の画一化が解かれた時、イメージが浮かび上がり、詩的想像が可能となるのである。このことは言葉を用いぬ音楽や舞踏においても同じである。音や動きの記号的画一が雲散霧消してはじめて詩的想像の世界が立ち現れるのである。
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