オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(19)ホッブズの曖昧な言葉の基準

「正義」ということばは道徳的含みを持っている。そしてそれはホップズが規範的な用語で書いているときに一番よく使うことばである。たとえば、道徳的に振舞うとは正しい行為をすることであり、有徳な人であるとは正しい性向を持つことである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 317)

 <正しい>とは何かが客観的に定義されていなければ意味がない。これではただホッブズの都合の良い恣意的な正しさでしかない。

しかしながら、正しい振舞いはある行為の遂行や他の行為の抑制と同視されるとはいえ、この同視のためには微妙な注意が必要である。人の義務は正しい振舞いへの「偽りなき恒常的努力」をすることである。第1番目に重要なのは努力であって外的行為ではない。

実際、人は表面上正しい行為をするかもしれないが、それが偶然に、あるいは不正な努力をしているうちに、行われるなら、行為者は正しいことをしているのではなく、単に有罪ではないだけだ、と考えられなければならない。その逆に、人は不正な行為をするかもしれないが、彼の努力が正義をめざしているならば、彼は技術的には有罪だが、不正に行為したわけではない。(同)

 正しいように見えるものが正しくなかったり、正しくないように見えるものが正しかったりすることは、現実問題として確かにあるだろう。が、ここでも正不正の基準が必要となる。神なき世界において合理主義はいかに正不正の基準を打ち立てることが出来るのか、そのことが問われるのである。ホッブズの言う正不正が一般的、常識的な意味合いなのか、それともホッブズ特有のものなのか、その辺りが判然としないで議論が展開されているところに、私は少なからず不満がある。

しかし次のことを理解しておかなければならない。第1に、ホッブズにとって「努力(endeavour)」は「意図(intention)」と同じものではなく、「努力」するとは行為を遂行すること、特定しうる運動をすることである。だからある人の意図について確信しがたい場合でも、他者はその人の「努力」について判断することができるのである。(同)

 この辺りの特殊性が、ホッブズの著作を解読するのに難渋(なんじゅう)する所以(ゆえん)なのであろう。

そして第2に、ホップズは正しい人であるべき義務があると考えていたか、私は疑わしく思うが、人が正しく行為し(すなわち、「正義への努力」を構成する運動をする)、また有罪でなしに行為する(すなわち、不正をなすことを避ける)ときにのみ、義務は果たされるのである。(同)

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